鶴丸が目を覚ますと、デジタル時計は朝の6時を示していた。朝日が遮光カーテンの隙間から射しこんで、室内はやや明るい。
昨晩熱にうなされていたが、今は熱さや怠さを感じない。どうやら熱は下がったようだ。
鶴丸が上体を起こそうとした時、自分の手に温もりを感じて目をやる。鶴丸よりも一回り小さくて華奢な手が重ねられている。そして、手の主であるは、瞳を閉じて鶴丸のベッドに寄り掛かる様に眠っていた。
(そういえば昨日の夜、に傍にいてもらったんだったな)
我ながら恥ずかしい願い事をしてしまったと思う。しかし、はそれを笑わずに引き受けてくれた。の優しさが身に染みる。
の規則正しい寝息が聞こえてくる中、鶴丸はの柔らかな頭に触れた。サラサラした緑の黒髪が心地良い。鶴丸はの重ねられた手を持ち上げると、白く柔らかい手の甲に口付けた。
「……!何やってんだ、俺は……」
口付けをしてから、ハッと我に返る。自分が思わずしてしまった事に対して羞恥心が込み上げてきた。ただの優しい手に口付けたい。そう思ったら止まらなかった。まるで自然な行為のように。
「ううん……」
手の甲に口付けられたからなのか、が目を覚ました。片手で眠そうに目元を擦っている。鶴丸は平常心を装って声を掛けた。
「おはよう、。昨日は悪かったな」
「!?鶴丸さん、熱は大丈夫ですか?気分は悪くありませんか?」
「大丈夫だ。すっかり熱も引いている。が傍にいてくれたお陰だな」
そう悪戯っぽく笑って、鶴丸は重ねられていたの手をぎゅっと握って持ち上げた。それを見たは、ワンテンポ遅れて頬を真っ赤に染めた。慌てて鶴丸の手から逃れる。
「あの時は仕方なかったんです!鶴丸さんの事を置いて部屋に戻れませんし……」
鶴丸はの反応を楽しんでいるようで、ニヤニヤしている。は話題を変えようとして色々考えを巡らせた。そして、カフェでの出来事を話し始めた。
「そ、そういえば鶴丸さんって、カフェで私の事をずっと見てましたよね?」
「何の話だ?」
「とぼけないでください。鶴丸さんと知り合う前、カフェでバイトしている時に視線を感じたんですよ?ずっと私に声を掛けるタイミングを窺っていたんですよね?まぁ、鶴丸さんは寂しがり屋みたいですから、仕方ないのかもしれないですけれど」
そうは仕返しをしたつもりで言った。だが、鶴丸は身に覚えが無いようで、首を傾げている。
「俺はそんな事していないぜ?あのカフェで君がバイトをしているとは知らなかったからな。を見に行くなんて事は出来ないぞ」
「えっ?嘘……」
「本当だ」
一緒に鶴丸と暮らす様になり、彼がこういう時に嘘を付くタイプではないとわかっている。だったら、が感じたあの絡みつくような視線は……?は背筋が冷たくなるのを感じて身震いをした。
「は綺麗で可愛いからな。カフェに来た野郎が見惚れてもおかしくないが……。気を付けた方が良い」
「あ、でも最近は全くそういう視線は感じないです。気のせいですよ、きっと……」
自分が振った話題がまさかのホラー展開になってしまい、は内心焦っていた。
(あれはてっきり鶴丸さんだと思っていたのに……。それならいったい誰が?)
「とにかく気を付けてくれ。君は自分が人並み以上の容姿である事を自覚した方が良いぞ」
「は?それは無いですよ。私、カフェでバイトをして1年くらいになりますけれど、ナンパされた事無いですよ。……自分で言ってて何か悲しいですけれど……」
(それは多分、光坊と加羅坊が睨みを利かせているからだと思うぞ)
カフェは光忠や大倶利伽羅目当ての女性客が多い。でも、1年前からはバイトに入っている目当ての男性客も増えた。光忠は可愛い妹分であるをナンパから護る為、男性客に分かりやすい殺気を放っている。そして、大倶利伽羅はさり気なくに注文以外で声を掛けられないように仕向けている。何も知らないのはだけだ。
鶴丸は伸びをしてベッドから下りた。
「起きても大丈夫ですか?今日は休日ですし、1日寝ていても良いと思いますが」
「熱はもう無いし、喉も痛くないから大丈夫だろう。それに、今日寝ているなんてつまらんからな」
「どうしてですか?」
「今日は君の誕生日だろう?」
『あ』と呟いて、は壁に掛けてあるカレンダーを見た。確かに今日はの誕生日だった。
今日、Dateは臨時休業の札が入り口のドアに掛けられた。の誕生日パーティーをする為である。
カフェには、鶴丸、光忠、大倶利伽羅の他に、腕白な中学生である太鼓鐘貞宗がいた。
「ちゃんは会うの初めてだよね?彼は貞ちゃん。太鼓鐘貞宗君。僕の家の近所に住んでいる子でね、良く僕の所へ遊びに来てくれるんだ」
「宜しく頼むぜ!それから、17歳おめでとう」
「こちらこそ。貞宗君。お祝いもしてくれて、ありがとう」
「あ、俺の事は『貞ちゃん』とか『貞』で良いからな」
「じゃあ、貞君で」
「おー、その呼び方は新鮮だな〜。ちなみに俺はみっちゃんに餌付けされてるぜ!良く美味いもん喰わせてもらってる」
「餌付けされてるって、ふふっ。店長のご飯、美味しいもんね」
自己紹介が終わったところで目の前のテーブルの上を見る。シャキシャキのシーザーサラダ、チーズが濃厚なエビグラタン、厚切りハムロースト、中身がぎっしり詰まったホッとサンド、新鮮な魚で作ったアクアパッツァ。どれも光忠が腕によりをかけて作った料理だ。そして、その料理の真ん中にドーンと鎮座しているのがホールのショートケーキである。どれも見た目や味が完璧で、食べた瞬間には思わずにっこりと微笑んだ。
「店長、どれも美味しいです!ありがとうございます」
「流石は光坊だな。俺も料理はする方だが、プロには敵わん」
「……美味い」
「みっちゃんの料理はやっぱり最高だぜ!!」
「皆、ありがとう。喜んで貰えて、僕も嬉しいよ。特にそのケーキは自信作だから、ゆっくり味わって欲しいな」
光忠が優しく笑みを浮かべた。
「はははっ、が誕生日だったお陰でこんな御馳走にありつけるぜ。ありがとな、!」
ぎゅっと太鼓鐘はの手を掴んでブンブン上下に振り、感謝を表した。
「あはは、そういう感謝のされ方は初めてかも」
も明るい太鼓鐘のペースに巻き込まれていく。光忠はここに太鼓鐘を連れて来て良かったと思った。
「そういえば、ドリンクがまだだったね。皆、コーヒーで良いかい?」
「の分は俺が淹れる」
「えっ?」
大倶利伽羅がそう言って席を立った。そして、戸惑うに何も告げず、カウンターでコーヒーを淹れ始めた。
「伽羅坊なりのプレゼントなんだろう」
「全く照れ屋だよな、伽羅は」
「……そうだと嬉しいです」
「きっとそうさ」
「鶴丸さんって、大倶利伽羅君の事詳しいですよね。この前学校で会った時が初対面じゃ無いんですか?」
「ぶふっ!それは、まぁ大人の勘だ、あははははっ」
「そうですか?もうあだ名で呼んでますし、大人の勘という感じでは――」
「あーっ、、ホッとサンドを取ってくれないか?光坊の料理はいくらでも食べられるなぁ」
「?はい、どうぞ」
がホッとサンドを渡すと、鶴丸は誤魔化す様にバクバク食べる。何かあるのかもしれないとは思ったが、それ以上は追及しなかった。
ケーキを食べたりして過ごしていると、大倶利伽羅がコーヒーを持って来た。テーブルに置かれたコーヒーは、ローストされたコーヒー豆の香ばしい香りを漂わせている。が一口飲むと、コーヒーの程良い酸味と甘み、そして追いかけるように少しの苦みが口に広がった。バランスの良い味加減だ。
「ありがとう、大倶利伽羅君。このコーヒー、とても美味しい」
「そうか……」
「伽羅ちゃん、この前から熱心にコーヒーの淹れ方を聞いていたけれど、そういう事だったんだね。教えてくれても良かったのに」
「黙れ光忠」
「照れるなよ、この色男!」
「鶴丸」
「うげっ!ヘッドロックは止めてくれ……!」
「伽羅ー!俺にもコーヒー淹れてくれよ。の飲んだやつ、俺も気になるし」
「わかった。まずは、コイツを絞めてからだ」
「ぎゃー!!」
大倶利伽羅が容赦無くヘッドロックを掛け続ける。鶴丸と大倶利伽羅のじゃれ合いを見て、と光忠は思わず笑ってしまった。太鼓鐘は大倶利伽羅がコーヒーを淹れてくれて、それを楽しんだ。暫く楽しいひと時が流れる。
2時間くらいすると、料理もあらかた無くなった。
「そろそろお開きにして片付けようか」
「私、手伝います」
「主役はちゃんなんだから、ゆっくりしてても良いんだよ?」
「そうだぜ。、俺も片付け手伝うからよ」
「ううん。美味しい料理を頂いたお礼をしたいもの」
「だったら、俺と伽羅坊と貞坊は皿を運んでテーブルを拭こう」
「了解!」
「わかった」
鶴丸の号令で、大倶利伽羅と太鼓鐘は皿をカウンターまで運び、テーブルを布巾で丁寧に拭いていく。と光忠は受け取った皿を洗って仕舞う。カチャカチャと皿の擦れる音が響いた。
「貞君、すごく明るい良い子ですね」
「そうだよね。僕も彼の明るさには何度も救われたよ。貞ちゃんは、君と同じでご両親を亡くしているんだ」
「えっ……そうだったんですか」
「お兄さん達と暮らしているから忘れがちなんだけれど、寂しくないはずは無いと思うんだ。ちゃんと同じでね」
「……今日のパーティーといい、私、もしかして気を遣われてます?」
「いやいや、僕が勝手にした事だから。貞ちゃんもパーティーの話をしたら参加したいって言ってくれてね。誕生日パーティー、盛り上げてくれただろう?」
「はい、とっても。貞君も来てくれて、今日はすごく楽しかったです」
大倶利伽羅と鶴丸がまたじゃれ合い始めた。太鼓鐘はそれを面白そうに見ている。
「ふふっ、鶴さんと伽羅ちゃんは仲が良いなぁ」
「そうですね。鶴丸さん、昨日は熱を出して大変だったのに、すっかり元気になりました」
「あれ?そうだったの?」
「そうなんです。仕事も立て込んでいたみたいですし、疲れがあったのかもしれません」
「鶴さん、写真が好きで世界中を飛び回っちゃう人だもんね」
「写真?」
「知らなかった?ほら、これもこれも、全部鶴さんが撮った写真だよ」
「嘘っ?!」
光忠がカフェに飾られている写真パネルを指さすと、は驚きの声を上げる。がカフェで働く切っ掛けになった素晴らしい写真の数々。それが全部あの鶴丸が撮ったというから、まさに彼の言う『驚きだ』!
は鶴丸の部屋に入った時の事を思い出す。色々な機材は写真を撮る為のもので、画集や写真集は資料だったのだろう。
「あの人が写真家の五条さん……。えーっ?!でも、【鶴丸】が苗字なのでは……?」
「鶴さんの本名は五条国永だよ。【鶴丸】はビジネスネーム、あだ名だね」
「【五条】って、あの三条グループの分家って言われているすごく有名な名家ですよね?」
五条家は日本でも5本の指に入る財閥の家だ。あまり世の中の事を知らないでも知っている。トップクラスの財閥である三条家の分家だ。分家とは言っても、その影響力は計り知れない。
一瞬『そんな風には見えない』とは言いかけた。でも、黙って何か考え事をしている時の鶴丸は、いつになく高貴に見える。五条家の人間と言われても違和感は無いのかもしれない。
「鶴さんは、本当は五条の名前で写真を撮りたくないって言っているんだ。五条の名前の方が目立ってしまって、写真を見る人の目が変わってしまうだろうからね。でも、五条の名前を使う代わりに、写真家として歩む事を許して貰っているらしいよ。普段は【鶴丸】を名乗っているのは、相手が委縮しないようにする為なんだ」
「そんな事情があったんですね」
鶴丸の複雑な家庭事情を垣間見たは、彼の事を何も知らなかったんだと思い知る。それからはたと思い出した事があった。は鶴丸が写真家の五条だと気付かないまま、彼の作品を褒めちぎった。相手があの鶴丸だけあって、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたい気持ちになる。
「ちゃん、どうかした?」
「なっ、何でもないです……」
「でも、顔が赤いよ?もしかして、鶴さんの風邪が移っちゃったのかな?」
「違います!大丈夫です!」
鶴丸もその場で教えてくれれば良いものを。そう思わずにはいられないだった。
「あの、鶴丸さんの話、もっと聞きたいです。あの人、何も教えてくれないから」
話題を変えようと、は光忠に尋ねてみた。でも、そこまで考えたところで、と鶴丸の関係を知らない人なら勘違いしてしまいそうな言い方だと気付く。しかし、光忠は微笑ましく感じたようで、『良いよ』と返事をした。それから『そうだ』と呟く。
「鶴さんから聞いてるよ、君達の事。鶴さんがちゃんを娘に迎えようとしているんだよね?」
「店長、どうしてそれを……?」
「鶴さんから聞いてる。大丈夫、言い触らしたりしないよ」
「それはわかっています。店長はそんな事しないって」
光忠は他人の秘密を知って吹聴するような人間ではない。面と向かって言われたせいか、光忠は少し照れて『ありがとう』と言った。
「最初に鶴さんから経緯を聞いてすごく驚いたし、どうして?って思ったよ。人間を育てるって生半可な事じゃないって反対したんだ。でも、話をしている内に鶴さんが本気だってわかってね」
「私は今でも冗談だと思う時があります。鶴丸さん、親にしては若過ぎますし、そもそも私を娘にするって理由がわからないです」
五条の家の者なら、やはり金に困って遺産を目的に――という線は消えた。益々謎が深まっていく。
の辛辣な言葉に光忠は苦笑した。
「確かに型破りな人だけど、悪人じゃないから。鶴さんは信用出来る人だよ。ちゃんを娘に迎えたい理由は僕も知らないけれど、ちゃんを幸せにしたいと思っているのは間違いないはずだよ」
「どうしてですか?どうしてそこまで言い切れるんですか?」
「……少し昔話をしようか」
『鶴さんと僕の、ね』と言い、光忠は昔の事を語り出した。