何日かの間、鶴丸はよりも先に起きて食事の支度や掃除、洗濯などをやってくれた。それに対しては居心地の悪さを感じていた。
バイトが終わって帰ってくると、鶴丸が掃除をしているところだった。
「鶴丸さん、私にも何かやらせてください」
「ん?何をだ?」
「家事です。深くは知りませんが、鶴丸さんにも仕事があるでしょう?仕事もして家事もしてだと、いつか倒れてしまいますよ。私にもやらせてください」
「だがな、子供が生活しやすいようにするのもパパの仕事だろ?いや、君から言わせるなら保護者か」
鶴丸は譲る気は無いらしい。しかし、も困っている。少し迷ったがはおずおずと言った。
「一緒に暮らしているのが……家族、なんですから、協力して家事を分担しましょう。それなら良いですよね?」
「……あ、ああ!そうだな!家族なら家事は分担してやるべきだよな。それは名案だ」
「……」
鶴丸はパッと表情を明るくして家事分担を快諾した。一方では恥ずかしさと照れで、より一層居心地が悪そうにしている。しかし、内心では鶴丸の事を家族と呼べるのを嬉しく思っている。これから先の未来はずっと独りだと思っていたから。
照れを隠す為、はエプロンを着て鶴丸にこう言った。
「掃除は私がしますから、鶴丸さんは休んでいてください」
「いや、もう掃除は終わる。、夕食の準備を一緒にやろう」
「わかりました」
鶴丸もエプロンを着ると、2人でキッチンに立つ。それでも広々としたスペースがあり、ついボロアパートの狭い台所と比べてしまう。
「今日は何を作りますか?」
「ポトフだ。野菜をゴロっと入れてスープで煮込む。簡単で美味いからな。一時期はまって作っていた」
「じゃあ、野菜を洗いますね」
は手早く野菜を洗い始める。どの野菜も瑞々しく輝いている。
(この前鶴丸さんが言っていた【運命】って、いったいどういう意味だろう?)
鶴丸は、を養子にする理由を、『【運命】を感じたからかもしれないな』と言った。てっきりその場をごまかす為の嘘かと思ったが、あの時の鶴丸は嘘を付いているようには見えなかった。
では、いったい何に運命を感じていたというのだろうか?聞いてみたい。
そう考えながらニンジンを切っていると、視線を感じて隣を見る。鶴丸が少し照れた表情で言った。
「いやぁ、こういうのは良いな」
「何ですか?」
「うら若き女性がエプロンをつけて料理を自分のマンションで作ってくれる」
「はぁ?そうですね」
「まるで嫁さんが出来たみたいだと思ってな」
「?!」
は思わず噴き出しそうになり、口元に手を当てて防いだ。あまりの不意打ちに頬が熱を帯びるのを感じる。
「何を言っているんですか?あなたは。びっくりするじゃないですか」
「いや〜、嫁さんがいたらこうやって一緒に料理するのも良い」
「私にそんなつもりはありません!恥ずかしい事を言わないでください」
「おっ、照れてるな。はそういう顔も可愛いと思うぞ」
「もう!鶴丸さん!」
鶴丸の言う運命が何なのかを聞きたかったのだが、すっかり気持ちが萎えてしまった。恐らくこのまま鶴丸に尋ねても上手くかわされてしまうだろう。鶴丸ほどの会話術が無い自分が口惜しい。
この日はポトフを食べて終わった。
鶴丸とポトフを作った日から少し経った。この日は曇っていてぐずついた天気になった。今日はカフェの定休日なのでバイトは無い。真っ直ぐ帰る事が出来る日だ。
帰ろうとして昇降口に来ると、ポツポツと雨が降り始め、あっという間に本降りになってしまった。他の生徒達は口々に『雨だ』と呟く。それぞれが持っている傘を広げて帰って行く。も折りたたみの傘を取り出そうとして鞄に手をやると、どこにも無い事に気づいた。
(傘忘れちゃた……)
鶴丸が今朝折り畳み傘を出してくれていたにも関わらず、つい持って行くのを忘れてしまったらしい。
「どうしよう……」
雨は容赦なく降り続いている。このまま帰れば濡れネズミだ。
「、何をしている?」
「あっ、大倶利伽羅君」
が困っていると、後ろから大倶利伽羅がやって来た。手には男性用の黒い傘があった。
「傘を忘れてどうしようか考えていたの」
「傘か。だったら俺のを使え」
「え?大倶利伽羅君が濡れちゃうよ。大倶利伽羅君は気にしないで帰って」
「……だったら家まで送って行く」
「ええ?!」
思っていたよりも大きな声が出てしまい、は口を覆った。
(不味い……。大倶利伽羅君は私の家がボロアパートだって知ってる。タワーマンションに今住んでいるなんて知られたら、鶴丸さんの事も話さないといけなくなるし……)
鶴丸と2人で暮らしている事はなるべく誰にも知られたくない。時間の問題かもしれないが。
「送ってもらうなんて悪いよ。気持ちは有難いけれど、私は走って帰るから……」
「風邪を引くぞ。大人しく送られていけ」
「でも……」
大倶利伽羅がに手を伸ばし、肩に触れようとした時だ。大倶利伽羅の手首を掴み、阻む者が現れた。
「、傘をお探しかい?ほらよ」
「つ、鶴丸さん?!」
「アンタ……」
鶴丸は大倶利伽羅を気に留めず、の忘れた青空色の傘を差し出した。は勢いのままそれを受け取った。大倶利伽羅は普段表情の変化が乏しいが、鶴丸を見て分かり易く顔を顰めている。鶴丸が話す前に大倶利伽羅がバッと手を引っ込めた。
『大倶利伽羅君、ごめんなさい』と言ってから、は鶴丸に向き直った。
「鶴丸さん、どうしてここに?」
「、君が傘を忘れていったと気付いてな。仕事の帰りに寄ってみたわけだ。間に合って良かった」
「それは有難いですけれど、目立ち過ぎます」
「そうか?」
生徒達がヒソヒソと話をしている。特に女子は鶴丸の繊細で儚げな美青年振りに釘付けだ。『新しい先生?』『カッコ良すぎ!』『あの一緒にいる子、羨ましい』などが聞こえてきた。生徒達はまさか鶴丸がの父になろうとしているなんて思わないだろう。
「俺はもう行く。俺の傘は必要無くなったからな」
「あっ、ごめんね。大倶利伽羅君、ありがとう」
大倶利伽羅は一瞬に薄く笑い掛けると、鶴丸を睨みつけて去って行った。
(何も鶴丸さんの事を説明しなかったけれど、良かったのかな……?)
大倶利伽羅は聡い人間だ。が鶴丸を紹介しなかったのを察したのかもしれない。
(大倶利伽羅君は周りに言い触らしたりしない。後でバイトの時にでも話をした方が良いかもしれない)
「、帰るぞ」
「はい、鶴丸さん。傘、ありがとうございます……」
「なぁに、気にするな。娘を迎えに行けるのもパパの特権だからな」
「ちょっと!今そういう事言わないでください。面倒な事になりますから!」
鶴丸から傘を受け取る時、その大きな手に触れた。
(あれ?)
鶴丸の手が熱かった。たった一瞬触れただけでもわかるくらいに。
「鶴丸さん、その手――」
「さぁ帰ろう、。今夜は鶴さん特製びっくりボルシチハンバーグだ。ボルシチとハンバーグを合わせてみたんだが、なかなか美味く出来たぞ!びっくり要素として唐辛子を練り込んでみたんだ。身体がきっと温まる」
「普通のボルシチが良かったです」
「何と!しかしそれでは驚きが何も無いだろう?」
「……」
気のせいだったのかもしれない、とは思った。目の前にいる鶴丸は元気だ。いつもの様子と変わりない。2人は昇降口を出て歩き出した。
達がマンションに着いてから直ぐに異変は起きた。鶴丸の動きが玄関に入ってきて靴を脱いだ時にふらついたのだ。
「鶴丸さん!」
咄嗟には鶴丸の身体を支えようとした。しかし、の細腕では受け止めきれず、を押し倒すように鶴丸は俯せに倒れた。の耳元で鶴丸の苦しそうな息遣いが聞こえてくる。鶴丸の身体はよりも大分熱かった。直ぐに熱があるとわかった。は倒れた時の祖母を思い出し、悲鳴のように名前を呼んだ。
「鶴丸さん!鶴丸さん、しっかりして……!」
「う……、ん……」
僅かに鶴丸が声を漏らした。
は心臓をバクバク鳴らしながら、鶴丸の下から出来るだけ静かに這い出した。
鶴丸はフラフラになりながらも上体を起こした。
「あ、ははは……つい足が縺れちまったぜ。すまんすまん。……頭は打っていないか?大丈夫か?」
「大丈夫かって、鶴丸さんの方が大変です!体調が悪いのに迎えに来てくれたんですよね?ごめんなさい」
「いや、俺は……、大丈夫だ……。何とも無い」
鶴丸は1人で立ち上がろうとして、に止められる。
「ダメです、鶴丸さん。1人で立ち上がらないで。今、病院に連絡をして――」
「病院は嫌だ」
「え?」
ハッキリとした拒絶の声だった。は驚いた。赤い顔をした鶴丸は、ゆるゆると頭を振った。
「病院は止めてくれ。大丈夫だから……、頼む」
弱々しい鶴丸の声には心配になったが、決断をする。
「……わかりました。でも、朝になっても熱が下がらなかったら病院へ連れて行きます。約束してください」
「ああ、わかった……」
は鶴丸に肩を貸して立ち上がり、何とか鶴丸の部屋へ彼を連れて行った。
初めて入る鶴丸の部屋は、様々な機材が積んであった。動物図鑑や風景画、アイドルの写真集、抽象画の画集などが、本棚に詰められるだけ詰め込まれていた。
(仕事で使うものなのかな?本はこういうのが好きなのかも)
は鶴丸をなるべくゆっくりベッドに横にすると、優しく布団を掛けた。鶴丸の額は汗で濡れていた。は持っていたハンカチで汗を拭う。そして常備している風邪薬を思い出して、鶴丸に呼び掛けた。
「鶴丸さん、何か食べましょう。胃に何か入れないと、お薬で胃が荒れてしまいます」
「いらない……」
「鶴丸さん、それでも少し食べた方が良いです。何とか食べてください」
「……あーんして食べさせてくれるなら、食べても良い」
「は?!」
驚きの提案には戸惑った。鶴丸はが恥ずかしさからこの提案を飲むとは思わなかったのだ。だからこそ提案したとも言える。
は頬を赤らめながらも頷いた。
「……わかりました」
「……こいつは驚いた。どういう風の吹き回しだ?」
「病人は放っておけないですから。……鶴丸さんに、早く元気になってもらわないと困ります」
「…………君、今のはズルいだろう」
「?鶴丸さん、もっと顔が赤くなりましたが、大丈夫ですか?やっぱり無理に食べない方が――」
「いや、食べる。君がせっかく食べさせてくれるんだからな」
「今だけですからね」
はキッチンに行ってお粥を手早く作り、上に梅干を乗せた。はレンゲを引き出しから取り出して、トレイにお粥の入ったお碗と一緒に乗せる。鶴丸の待つ部屋へ向かった。
「鶴丸さん、口を開けてください」
がおずおずとお粥をレンゲに乗せて、鶴丸の口へ運ぶ。鶴丸はじっとそれを見つめているばかりで食べようとしない。
「どうしたんですか?」
「いや、こういう風に風邪を引いている時に食べさせてもらうのは初めてだと思ってな。これは風邪の時に君も食べていたのかい?」
「あ、はい。祖母や母が風邪の時に作ってくれて……。私が言うのもアレですけれど、サッパリしていて美味しいと思いますよ」
「そうか……」
そう言って鶴丸は気に炉の瞳を閉じ、口を開けた。長い睫が羨ましいとは思った。
「あーん」
はレンゲを鶴丸の口へ入れてやると、もぐもぐとが粥を食べる。
「んー、美味いな」
「でしょう?もっとありますから、食べてくださいね」
「ん」
鶴丸は結局全部粥を平らげてしまった。食べさせているがドキドキしていた事を知らないまま。
常備薬を飲んだ鶴丸の額から、また汗が流れた。それを見たが言った。
「鶴丸さん、着替えましょうか。汗で濡れて気持ちが悪いでしょう?」
「ああ、そうだな。そこのクローゼットからスウェットがあるから、出してもらえるかい?」
「はい」
はクローゼットからスウェットを取り出して鶴丸に手渡す。『あ』とが呟き、爆弾を投下した。
「私が身体の汗を拭きますから、脱いでください」
「…………はぁ?!いやいやいや、それは良い。そこまではさせられない」
「でも、汗を拭いた方がサッパリしますよ?背中辺りは鶴丸さん届かないでしょう?」
「いや君、あーんは恥ずかしくて俺の汗を拭くのは恥ずかしくないのか?」
「それこそ鶴丸さんが『パパと娘なんだから恥ずかしくないだろう?』とか言いそうですけれどね。大丈夫ですよ。さっきのあーんで慣れました。私達、今は家族ですから問題無いはずです」
逆の立場ならも嫌がるだろう。しかし、父の背中を拭くのであれば問題無い、と考えたのだ。
鶴丸は熱くなっている頭をブンブンと横に振る。
「いや、大丈夫だ。俺1人で汗も拭けるし着替えられる。君は部屋から出ていてくれ」
「?そうですか。わかりました」
は少し首を傾げたが、部屋を出て行った。鶴丸はホッと胸を撫で下ろし、Yシャツの前を開けた。
「全く、危ない所だったぜ」
鶴丸の男にしては痩せた身体、薄い筋肉のついた胸板。胸の真ん中辺りには、縦に掌くらいの古傷があった。
鶴丸はその傷に少し触れた後、タオルで汗を抜き、無言でスウェットを着た。
夜というのは風邪の時に体温が上がるものである。そして、その日の夜中。鶴丸の熱も上がってきていた。灯りの消えた部屋の中で鶴丸は寝返りを打った。
「くそ……、はぁ……」
鶴丸は熱い息を荒げていた。熱は学校から帰ってきた時に38度あった。だが、今はそれ以上あるだろう。身体がとてもだるくて重い。汗で額に髪が張り付く。
(このままだと明日は病院か……。絶対に行きたくない……)
「――るまるさん、鶴丸さん」
「!」
気づくとが直ぐ傍にいて、鶴丸は目を見開いた。心配そうに眉を寄せたが此方を見ている。美しいその顔が今にも泣いてしまいそうだった。
「大丈夫、心配無い……。君は部屋で休め。俺は大人だ……。だから、子供の君がそこまで心配する必要は無い……」
は離れるどころか、ぎゅっと鶴丸の手を両手で握った。まるで祈るように。
「大人とか子供とか、今は関係無いです。辛い時は『辛い』って言ってください」
「……」
鶴丸は思った。その言葉は、子供時代何も言えなかった自分で言って欲しかった、と。
「じゃあ、1つ」
「はい」
「俺が眠るまで、手を握っていてくれるかい?独りにしないで欲しい」
「はい、勿論です」
「そいつは嬉しいな」
鶴丸は弱々しくも嬉しそうに笑って、の手をぎゅっと握り返した。