雨が止んだ頃、光忠は五条邸を後にした。それを玄関で見送り、出したお茶の後片付けをする為に使用人の女性――知枝は国永の部屋へ戻った。
国永は前かがみになって胸元を握り絞め、小刻みに肩を震わせていた。発作だ。
「坊ちゃま!」
「悪いが、薬を取ってくれ……っ」
「只今!」
知恵はチェストの引き出しを勢い良く開けた。いくつかの薬の袋が入っているが、そこから迷う事無く知枝は薬の1つを取り出した。精巧な細工がされた水差しから水をグラスに注いで、直ぐに国永に差し出した。鶴丸はグラスを受け取って薬を口に放り込むと、一気に水を飲み干した。即効性の薬の効果が出て、鶴丸は静かに横になる事が出来た。
「坊ちゃま、ご気分はいかがですか?」
「大丈夫だ、知枝さん。それより、どうして邸に人を入れたんだい?誰にも会わせるなと、父から言われていただろう?」
国永の父は、五条の跡取りが病気である事を周囲に知られるのは良くないと思っていた。名家である五条の名が廃ると考えているからだ。そして、知枝は忠実な使用人頭だ。当主の意に背くような事をするとは予想出来なかった。
知枝は目を細めて微笑む。
「旦那様がどうあれ、坊ちゃまはご学友に会いたがっているものと存じました。違いますか?」
「……いいや、そうだな。ありがとう、知枝さん」
知枝は確かに忠実な使用人頭だ。だが、時にこうして国永の想いを汲み取ってくれる。そこが国永は好きだった。
心臓の弱い自分を『出来損ない』と罵り、同じ家に居ながら近づこうとしない母。その母の代わりに傍にいたのは知枝だった。知枝にだけは、苦しい気持ちも寂しい気持ちも打ち明ける事が出来た。まるで本当の母のように。
「知枝さん、いつもありがとう。知枝さんがいたから、俺は生きる気力を失わずに済んでいる」
「何ですか、改まって」
「別に改まった事じゃない。ただお礼が言いたかっただけだ」
「お気になさらないでください。坊ちゃまのお世話係として当然です」
「もし何か困った事があったら、俺を頼って欲しい。こんな俺でも、何か出来るはずだ」
心臓が弱くて、この部屋から殆ど出ない自分にも、五条の跡取りとして何か出来る事があるはずだ。
知枝の事だ。断られるかもしれない。そう思っていたが、意外にも知枝は頷いてくれた。
「そうですね。もし、何か困った事があったら、坊ちゃまを頼らせて頂きますね」
それは知枝の優しさだったのかもしれない。国永にはそれが嬉しかった。
「目が覚めたか」
鶴丸が目覚めた時、目の前に広がっていたのは白い天井だった。独特な匂いと雰囲気で、直ぐにここが病院だとわかった。忌み嫌っていたあの病室に今いる。
何故?
腹部に鋭い痛みが走り、思わず鶴丸は唸ってしまった。同時にこれまでの経緯と、泣きながら自分の事を呼ぶの顔が思い浮かんだ。痛みも忘れてガバッと勢い良く起き上がった。
「――そうだ、は……?!は無事か?!」
「落ち着け。なら大丈夫だ。アンタが庇ったお陰でな」
「!……そうか……」
身体から力が抜けて、鶴丸は起こした身体を再びベッドに沈めた。
「状況は?」
「アンタが倒れた後、救急車を呼んで、警察に通報した。の父親はその場で逮捕された。はかなり取り乱していたが、病院に着く頃には落ち着いた。アンタはかなり出血していて輸血が必要だったんだが、輸血用の血液が不足していた。アンタと血液型が一緒だったが血を提供した」
「血を……?それで、は大丈夫なのか?」
「アンタ、7日も眠ってたんだぞ。もうも回復してる」
「良かった……」
「……アイツが本当に大事なんだな」
「当たり前だろ。俺の娘なんだからな」
「それは本当に父親としての感情か?」
「……何が言いたい?」
「……あまりアイツを振り回してやるな。何も教えてやらなければ、これ以上踏み込めないだろう?だから、今回だってはお前を頼る事が出来なかった。……俺の時のようになるぞ」
大倶利伽羅は鶴丸の養子になった子供だった。大倶利伽羅もまたと同じく保護者を失っていた。養護施設にやって来た鶴丸が養子にと名乗り出た。だが、あまりの怪しさに大倶利伽羅との信頼関係を上手く築く事が出来なかった。その為、高校入学と共に親子関係を解消していた。
「君の時も手を焼いたからなぁ」
「アレは全部お前が悪い」
父親らしく手作り弁当を渡した事もあったが、妙なキャラ弁だったので、大倶利伽羅は誰にも見られないように食べなければならなかった。遠足には鶴丸が変装してついてくるなどして、大倶利伽羅を大いに呆れさせた。今思えば、鶴丸も初めての子育てで必死だったのだ。
「俺の時で失敗している癖に、アンタは懲りないな」
「伽羅坊との事を失敗だと思いたくないがな。……そうだな、俺の母のような人と約束をしたんだ。何か困った事があったら、俺を頼って欲しいと」
「そうか。だが、その話の続きは俺じゃなくてにしてやるんだな」
大倶利伽羅がくいっと顎でドアの方を示す。そこには、目に涙を溜めてこちらを見ているがいた。は直ぐに鶴丸の元へ駆け寄った。
「鶴丸さん!良かった……!目が覚めたんですね。大丈夫ですか?あ、看護師さんを呼ばないと――」
「いや、後で呼ぶ。、君に話したい事がある」
「話ですか……?」
気が付くと大倶利伽羅は席を外していた。
は背もたれの無い椅子を引き寄せて鶴丸のベッドの隣に座った。
鶴丸は慈しむ様に手を胸に当て、泣きそうな笑みを浮かべながらひなこを見た。
「君、俺に血を提供してくれたんだってな」
「あ、はい。鶴丸さんを助けたくて、必死で……。鶴丸さんが回復してくれて、本当に良かったです」
「君は――君達3人は、本当に俺を助けてばかりだな」
「私達3人……?」
1人ならわかる。何故3人なのだろうか?後の2人は誰なのだろうか?
鶴丸は懐かしそうに金色の目を細めた。
「ああ。のお祖母さんは、五条家で使用人頭をしていたんだ」
「えっ?そうだったんですか?知りませんでした。祖母はあまり昔の事を話さない人だったので」
「光坊から聞いているだろうが、俺は心臓が弱くて病気がちで、両親からは見放されていた。君のお祖母さんは、俺の母親のように接してくれていた。もし知枝さんがいなかったら、俺の心は救われなかっただろう。本当に感謝している。だから知枝さんに言ったんだ。『もし何か困った事があったら、俺を頼って欲しい』と」
「あの、もしかして、それが私を養子にしたい理由ですか?私の祖母に頼られて……?」
「いや、最初知枝さんは俺を最初は頼ってくれなかった。そもそも、知枝さんは使用人頭を俺が高校卒業する頃には辞めていて、最近まで足取りが掴めなかったんだ。だが、ある事がきっかけで知枝さんと再会したんだ」
「きっかけ……?」
「君の母親は、交通事故で亡くなったんだろう?」
「え?はい。私が小さい頃に交通事故に遭って亡くなりました」
鶴丸は徐に着ている手術着の前をはだけさせた。鶴丸の胸元には、掌くらいの大きさの傷跡があった。何かの手術跡だとわかるものだった。そして、が何かを言う前に自分の傷跡のある胸に、の手を触れさせた。
「俺は、君の母親の心臓を貰った。ドナーから臓器提供を受けた、レシピエントだ」
レシピエント。
もそこまで詳しくは知らなかったが、臓器提供者――ドナーから臓器を受け取った側の事だというのは知識として知っている。
「お母さんの心臓を貰った……?それじゃあ、病気だった鶴丸さんがこうして元気になったのは……」
「ドナー登録をしていた君のお母さんのお陰だ。本当に今こうして自由に過ごせて、希望の持てる人生を歩めているのは、君のお母さんが心臓を提供してくれたからだ」
鶴丸の身体の中で脈打つ心臓。は触れている部分がより熱くなるように感じた。
は鶴丸が元気に暮らせるようになったのは、病院で治療を受けたからだろうと思っていた。もちろんそれはそうだったのだが、まさか心臓の提供を受けていたとは思わなかった。しかも自分の母親の心臓を。
「俺は心臓を提供してくれたドナーの事が知りたくて、三条家の力添えを受けてドナーが誰なのかを調べた。せめてドナーの墓参りくらいしたいという気持ちだった。だが、ドナーを調べて驚いたよ。まさか知枝さんの娘だったとは……。知枝さんの方も驚いていた」
鶴丸は知枝と対面した時の事を思い出していた。知枝は鶴丸が娘の心臓のレシピエントだと知ると、抑えきれず涙を零していた。
「俺は直ぐに知枝さんに言った。『何か困っている事があれば、教えて欲しい。手助けがしたい』と。でも、知枝さんは最初首を縦には振ってくれなかった。『病気を克服して元気になった俺と再会出来て、それだけで十分です』。そう言われてしまった」
「お祖母ちゃんらしいです」
「それから暫くの間、知枝さんと連絡を取り合っていた。知枝さんが入院する前、知枝さんは俺に初めて頼み事をした。『孫の行く末が心配だから、自分にもしもの事があったら養子にして欲しい。孫を孤独にしないで欲しい』と。俺は二つ返事で了承したんだ」
「そうだったんですね……」
知枝が自分の事をそこまで案じていてくれたと知り、は嬉しさや切なさといった複雑な感情が入り混じった。
「最初は君に事の経緯を説明するはずだった。だが、そうなると、俺が君のお母さんから心臓を貰った話をしなければならない。知枝さんから聞いたんだが、君は母を亡くした直後から、言葉を話さなくなった時期があったらしい。その症状がまた出てしまったらと、知枝さんは心配していた。母の心臓を持つ俺の事を、君がどう感じるのかが怖かった。俺は病気で苦しんでいて、心臓移植が決まった時に心底喜んだ。でも、心臓を移植して貰えるという事は、誰かの死で成り立っている。結局俺は自分の事しか考えていなかったのだと、絶望した事もある」
「……私は、鶴丸さんにお母さんの心臓を貰ってもらえて、良かったと思います。お母さんは事故で亡くなって悲しいけれど、お母さんの一部が誰かの為に――鶴丸さんの生きる希望になれたのなら、こんなに嬉しい事はありません」
「そうか……。そう言ってもらえて、俺も救われる。ありがとう、」
鶴丸は目尻に溜まった涙を指で拭った。が初めて見る鶴丸の涙は、温かい気持ちになれるものだった。
「まぁ、君が頑固者で、そう簡単には俺について来ないだろうとも知枝さんは言っていたんだが、本当だったな」
「うっ!お祖母ちゃん……」
「俺が君を養子にする理由を隠し、興味を持たせるという作戦は成功したな」
「養子には出来ていないですけれどね」
「…………なぁ、。俺の養子になるつもりは無いか?」
「!」
改まって鶴丸は言った。恐らくこれがラストチャンスだと踏んだのだろう。
「今回の事でうんざりしたかもしれない。五条の名前のせいで色々あるかもしれないが、俺は君の傍にいたい。君と過ごした日々は、俺にとって宝物で、キラキラしていて、本当に眩しいものだった。驚きに満ちた生活をさせてくれた君に、感謝している。だから、これからは本当の俺の娘として、ずっと君を護りたいんだ」
「……」
「ダメかい?」
はふいっと鶴丸に背中を向けて、立ち上がる。『?』と呼びかけると、は言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい、鶴丸さん。私は、あなたの申し出を受ける事が出来ません」
「!」
鶴丸は、その瞬間絶望感に包まれた。まさか、ここで拒絶されるとは思わなかったのだ。
「……理由を聞いても良いかい?」
は涙声になりながら、必死に言葉を吐き出していく。
「私は、お祖母ちゃんが亡くなった時、これからはずっと独りで生きていくんだと思いました。それについては何も思っていませんでした。こういうものなのだと、母が亡くなってから考えていたのだと思います。でも、鶴丸さんと出会ってから、毎日が温かくて、優しくて、とても素敵な時間を過ごす事が出来ました。私、いつの間にか鶴丸さんと一緒にいる事で、弱くなってしまいました。独りが怖い。独りでいるのが辛い」
「だったら、俺と――」
「ダメなんです!!」
「……?」
くるっとが振り向いて、鶴丸をじっと見つめた。両目に涙をいっぱい貯めて、目元を真っ赤に染めながら、絞り出すように言った。
「あなたを……1人の男性として、好きになってしまいました。だから私、娘失格です……」
『一緒にいられない』と続けようとしたところで、鶴丸に強く引き寄せられた。鶴丸の胸に倒れ込むように包まれたは、驚きのあまり声を失った。鶴丸はぎゅっとを抱き締めながら言った。
「バカだなぁ、は。いや、バカなのは俺も同じか」
「鶴丸、さん……?」
「が悪いんだぞ?俺は大人として、君と親子関係を続けようとしていたのに、君は簡単に飛び越えてくるから……」
「え……?」
が顔を上げた時、鶴丸の美しい顔が目の前に広がっていて、それが更に近づいてきた。唇に温かな感触がして、鶴丸にキスされているのだとわかった。
「えっ?ええ?!鶴丸さん……?!」
「俺も君が好きだ。を、1人の女性として好きだ。愛してる」
「嘘?!」
「本当だ」
「で、でも、今、養子にしたいって……?」
「君は俺の事を父親として慕ってくれているんだと思っていたからな。この関係を壊さずに傍にいる為には、君を養子にするしかないと思った」
「そ、そんな……!ずるいですよ、それ!」
「あはははっ!そう、大人は時々ずるいんだ」
鶴丸はぎゅっと再びを抱き締めた。は騙された悔しさから少し抵抗していたが、やがてぎゅっと抱き返した。
「君と親子になるのも楽しそうだが、やっぱり君とは恋人同士が良いな」
「私も。世界で1番、あなたが好きです、鶴丸さん。これからは、娘としてじゃなくて、恋人としてあなたの傍にいます」
鶴丸が持っていた養子縁組の用紙は、破り捨てられる事になる。そして、代わりに婚姻届けに鶴丸との名前が刻まれる事になるのだ。それは、遠い日ではないのかもしれない。
>>END
(2020.11.16~2021.02.04)