05 これが現実
祖母が遺してくれた家は1階が事務所になっており、2階が居住スペースになっている。イギリスの田舎を思い出すような、赤い屋根に白い壁。小さな庭にはウッドデッキがあり、白くて丸いテーブルセットがある。祖母は紅茶を飲むのが好きだった。『紅茶を飲む雰囲気も大切だ』と良く言っていたのを思い出す。庭はバラやコスモスなどが栽培され、季節ごとに違う植物をここで楽しむ事が出来る。
(私は、ここに1度も来たことが無い……)
日本にいた頃、は両親の仕事の都合で祖母と暮らしていた。場所は都心の魔法局の管理しているマンションだった。そこは、公務員の幹部魔法遣いたちが暮らす専用の場所で、祖母はその局長を務めていた。広々としていたが、温かみの感じられない白い部屋だった。
祖母は仕事に追われており、ゆっくりと会話をした記憶が殆ど無い。祖母の周りには常に知らない大人がいて、幼いは近づけなかった。
だが、どんなに忙しいときでも、祖母は午後の僅かなティータイムにはとの時間を確保してくれた。祖母との思い出には、常に紅茶の香りがする。
祖母が事務所として使っていた1階や、祖母の寝室には一切手を出していない。は2階の使っていない空き部屋を寝室として使っている。
祖母が遺した物に、軽々しく触れることなど出来ない。もうこの家の主がいないとしても、にとって躊躇う行動だった。
(イライラする……)
この前、跡部に病院で言ったときの事を思い出す。
(跡部景吾……。驚いた顔をしていたけど、あんな事言われたら当然だよね。言うつもりは無かったのに、気づいたら口が開いて……)
カリスマ的存在。溢れる才能。それらを兼ね備えた跡部は、にとって視界に入れたくない存在だった。感情が高ぶり、醜く嫉妬する様を露見させてしまいそうになるからだ。そして実際に跡部を目の前にして、は感情を爆発させた。
何とも情けない話であるが、は自分の感情をコントロール出来るほど大人ではない。常に心が揺れ動く思春期真っ盛りな少女なのだ。
青い掛け布団のベッドに背中からダイブする。ベッドのスプリングがきしんで、背中が少しだけバウンドした。
(これから先、跡部くんと関わらなければ良いのよ。あの人は人気者で才能があって、私とは全然違う人。病院での事は偶然だから、もう接点なんかあるわけないし)
骨折した右腕を上げてみる。もうほぼテーピングだけでの状態を三角巾で固定している。明日は完全にその包帯が取れるのだ。チラリと部屋の隅に立てかけてある箒を見た。昔はどの家庭にもあった、今の掃除機を担う箒だ。殆ど汚れていない。
この箒は掃除するための箒では無い。が魔法を使うときに必要になる物だ。の魔法は、この箒に跨って空を飛ぶ事。ただ1つの魔法である。
「明日、久しぶりに飛べるんだ……」
その呟きを最後に、は深い眠りに落ちていった。
(関わりたく無かったのに……!)
跡部との関わりなど無かった。学年は同じだったが、クラスは違うし随分と教室は離れている。だが、こんな2人でも奇跡的な共通点ができてしまった。そう、それは昼休みに起きた。
「彼の代わりに、さんが修学旅行実行委員の副委員長に決定しました」
「よ……宜しくお願いします」
氷帝学園は毎年行きたい場所をアンケートして、海外へ修学旅行へ行っている。修学旅行の実行委員が各クラスで1人選ばれ、その選ばれた実行委員が放課後に集まり、修学旅行についての話し合いをする。
実行委員はでは無かったが、のクラスの実行委員が風邪を拗らせて入院してしまったのである。その代理に、海外生活が豊富だとうという事で帰国子女のが選ばれてしまった。しかも、副委員長である。当然委員長は彼、だ。
「じゃあ、跡部くんはさんに色々教えてあげてくださいね」
中年女性教師がにこにこと温和な微笑みを浮かべて言った。だが、全くと言って良いほどにとって温和な状況では無い。
跡部は愛想笑いのような微笑を浮かべている。だが、それに教師は気がつかない。
「それでは今日の委員会はここまでにしましょう。皆お疲れ様でした」
「「「お疲れ様でした」」」
生徒たちは席を立ち上がり、次々に多目的教室から出て行く。女子は跡部に黄色い悲鳴を残して去っていく。だが、は動けない。真正面に座っている男が、それを許さない視線で見つめているからだ。
「オレ様の言いたい事は、もうわかっているよな?」
意地悪い声だった。その意味をは理解している。だけど、は何も言う事が出来ない。というより、どう切り出したら良いのかがわからなかった。
黙っていると、跡部がまた言葉を吐いた。
「なぁ、オレがお前に何かしたか?」
「え?」
驚いた。驚いては思わず言葉を漏らす。てっきり先日の事を責められてると思っていたからだ。
「お前に言われてから暫く考えたが、オレはお前と接点があったのはあのときだけだった。それなのに、なぜお前はオレを嫌う?お互いを完全に認識し合ったばかりだと思ったが?」
跡部の言うとおりだった。は跡部と接触したのはあの病院が初めてだった。
それよりも、跡部が自分に嫌われていることを少なからず気にしていたことに驚いた。の中の跡部のイメージとは大分違っていた。
けれど、だからといってが心を許したかというとそうでも無い。
むすっとした様子では言った。
「跡部くんは、自分が誰からも好かれると思っているの?もしかして、誰からも好かれないと気が済まないとか?」
イライラする。
の言葉に目を丸くする跡部。
けれど、本当にイライラしたのは、発言した自分。
「お前……それ、どういう意味だ?」
「わからないの?」
ユナが聞く跡部の噂。200人のテニス部をまとめあげてきた元部長で、全国レベルのプレイヤー。しかも、前生徒会長。カリスマ的存在で、女子生徒からの視線も熱い。人の前に常に立っている。苦手科目も無い。もちろん成績だってトップクラスだ。おまけに美形で資産家の息子。
非の打ち所が見当たらない男だ。
白い机に爪を立てる。
「言ったでしょう?大嫌いだって。私、あなたみたいな勘違いしてる人って嫌いなの」
噂を聞いて、実際にテニス部の指導をしている跡部をは放課後に見に行ったことがある。
大勢の部員に囲まれながら、観客席で指示を出している跡部の横顔。それは、美しいものだった。美しくて、目を背けたくなった。
止まらない、黒く渦巻いた感情。
自分は、どうしてこんなにも醜いのか?
「誰からも、好かれているなんて思わないでよ」
カリスマ的存在。
女子にモテる。
成績も良い。
美形。
資産家の息子。
「私には嫌われている」
完璧を、壊したい。
「―――ということがさんとあったんだって。ね、跡部」
「うるせぇ……」
それから放課後、今日は珍しく部活オフの日で―――とは言っても、3年生は引退したため下級生を少し指導する程度だが―――ファミレスに滝と跡部と岳人、そしてジローがいた。
ジローはパフェのイチゴを口にする。甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、思わず『おいC〜!』の一言。だが、今はそんな事をするためここに来たわけでは無い。
跡部は頬杖をついた。正面に座っている滝にイライラしている様子だった。
「まぁ、そう怒らないで。跡部がオレたちにそんな相談するなんて珍しかったから」
「別に相談なんかしてねぇ。そもそも、オレに悩みなんか無い」
「じゃあ、何でオレたちに話なんかするんだよ」
岳人が食って掛かる。だが、跡部は余裕だった。
「それはただ、思いついたから話しただけだ」
堂々とした言いようだったが、傍から見れば『思いついた』のは『気にしているから』で、立派な相談としか思えない。けれど、跡部本人は気がついていない。滝は苦笑いを浮かべた。
パフェに夢中だったジローが顔を上げる。
「けどさー、それって珍しくね?跡部ってそういうの堂々と、しかも女の子に言われたこと無いよなぁ?」
跡部のことを良く思っていない人間も多少はいる。だが、それを本人を前にして口にするなど、殆ど無い。跡部は学園内で高い評価と名声を得ている。その立場よりも上の生徒などいない。
岳人がストローでコーラをぐいぐい飲んでいく。そしてコップの中身を氷だけにすると、こう推測する。
「嫉妬してんじゃねーの?」
そう、の発言は全て嫉妬が原因だった。ただの逆恨みである。誰がどう聞いたとしても、そう思えるユナの行動。
だが、跡部にはそれが引っかかっていた。
「オレには……良くわからねぇけど、あの女、何か相当やっかいなモンを背負ってるみたいだったぜ」
「『やっかいなモン』?それって何だよー」
「オレが知るか。だが、そう思える」
滝もそれには頷いた。このメンバーの中では、1番との接触が多かった彼は、が跡部に暴言めいた事をハッキリと言うような少女には見えなかった。
跡部個人に対しての不満、というよりも、もっと大きな視野での意見だったようにも思える。
「だが、これはあくまでオレたちの推測だ」
「そうだよね。やっぱりオレたちは、まだ彼女の事そんなに深く知っているわけじゃないから……」
滝はミルクを落とした紅茶に口を付ける。ふわりと紅茶とミルクの混ざり合う香りがした。
ふと、窓側に座っていた岳人の視線が外へと向けられた。
視線の先にいたのは、ショートカットの髪を揺らして小走りに歩く少女、だ。普段三角巾で固定されていた右腕は、もう包帯をしていない。今日廊下で見かけたときは包帯が巻かれていた。ということは、ついさっき病院で固定を外す許可が下りたのだろう。
は基準服のままだった。そして、注目すべきはその両腕に大事そうに抱えたもの。竹箒だった。掃除に使ったことが無いような綺麗な箒だった。の身長よりも少しだけ小さいその箒の柄を下にして、左肩に立てかけるようにして持っている。
他の通行人たちもとその箒に視線を向けていたが、はお構いなしの様子で人の間を縫って歩く。そして、人の波に消えていった。
ハッとなって岳人が叫んだ。
「おい!が今そこを通ったぜ!追いかけよう!」
いきなりの提案だったが、この場にいた他3人は文句も何も言わずに立ち上がった。
一方のは、後をつけられていることも知らずに急ぎ足だ。東京の混雑した街を少し離れた住宅街をさらに抜けていく。迷いの無い足取りで、目的地まで真っ直ぐに進んでいくのがわかる。
はある場所で足を止めた。そこは廃墟になったビルだった。とは言っても、それほどボロボロで今にも崩れそうでは無い。廃墟になってしまってからまだ僅かしか経っていない場所のようだった。この黄色と黒のテープが入り口に張り巡らせられていなければ、まだビルとして会社が使用していたかもしれない。
入り口である場所を避けて、は壁の一部崩れた場所へ向かい、そこから中へ入って行った。
後を追いかけていた跡部たちも、頃合いを見計らって中へ入った。どうしてコソコソと隠れたりしなければならないのか、そんな理由は見つからなかったが、雰囲気的に跡部とユナは正面から会えるような関係では無い。というわけで見つからないようにの後を更に追いかけた。
「この辺で良いよね……」
廃ビルの駐車場だった場所で足を止めた。ひび割れたコンクリートから、少しだけ青い草が生えてしまっている。この場所の広さは十分だった。
は抱えていた箒を右手にくるっと回転させて持ち変える。久しぶりに箒ほどの重さの物を右手に持ったが、痛みはもう無い。腕は完治していた。
自宅付近で本当は魔法を試すつもりだった。だが、の住む周辺では目立つうえに人の目がある。魔法が消えてしまったこの東京、日本ではどうしても人目は避けなくてはならない。
魔法を遣うことも久しぶりで、少し心拍数が上がっているのがわかった。
行動に移そうとして箒を握る手を強くしたとき、何となく視線を感じるような気がして後ろを振り返る。すると、そこにはやはり数名の人影があった。
「誰?!」
「見つかっちゃったCー!?」
オーバーなリアクションを取ったジローに、は驚いた顔で見つめる。岳人も少しバツの悪そうな顔でそっぽを向いてしまっていた。そして、滝も『ごめんね』と苦笑している。にとっての問題は、その滝の隣に立っている無愛想な彼だ。
「あ、跡部くん……」
「p前、こんなところで何してんだよ、あーん?ここは立ち入り禁止だぜ?」
「けど跡部、オレたちも入ってねぇ?」
「岳人、余計なことは言うな」
「へいへい」
やはり彼らの予想通りで、跡部の前でのの表情は目に見えて硬い。フレンドリーな雰囲気では無いのは明らかで、冷たいものが2人の間にはあった。
「もしかして、昼休みでのこと、根に持ってるからついてきたの?」
「な……?!」
だが、跡部はそれ以上は言えなかった。その部分も確かにある。根に持つというより、気になったからだ。
は溜め息を1つ吐く。自分の言った事が、こんなにも発展してしまうとは考えていなかったのだ。
「ごめんなさい。私は見ての通りで、跡部くんとは仲良く出来ない性格なの」
もう隠す必要は無いと判断したは、素直に言葉にした。それはどこか悲しそうだった。
「私とはもう関わらない方が良いわ、跡部くん。私、キミのことまた悪く言っちゃいそうで……嫌だから」
の言葉は、まるで自分を責めているように感じられる。
跡部たちは、特に明確な目的があってここに来たわけでは無い。ただの事を話しているときに、偶然にもの姿を見つけた。だからここまで追いかけてきてしまった。これではまるで、をいじめるために来てしまったようで、4人もここからどうに話しかければ良いのかわからなくなった。
それを察しても箒に無言で跨る。1番に反応したのは岳人だった。
「は?!お前、何箒に跨ってんの?」
まるで絵本に出てくる魔女のような行動を取る。この箒で空でも飛ぶつもりなのだろうか。現実的に考えて、そんなことが出来ない事くらい、誰に指摘されなくてもわかることだ。だが、は箒を跨いでいる。
はごく普通の会話の会話をしているかのように言った。
「私、魔法遣いなの」
目が点になるかと思った。
「はぁ?魔法遣い?!お前バカじゃねぇの?」
『おまえ正気か?』とでも言いそうな顔で岳人は言った。ジローは逆にワクワクと希望に満ち溢れた顔をしている。
この展開についていけない跡部は眉間に皺を寄せる。魔法なんていうものが存在しない事くらいわかっている。それなのに、なぜ今そんな話をここでするのだろうか?跡部にはサッパリ理解できなかった。滝も黙ってしまう。
は正気だった。それにのいた世界では間違いなく魔法は存在していたものだったし、魔法遣いの血が流れており、コツさえつかめればごく普通に遣うことができる。免許が必要だったり、必要な処置はあったが。
この東京には存在しない魔法を遣ってみせることで、は彼らと距離を置こうというのだ。きっと関わりたいとは思わなくなるだろう。
けれど、予想外に岳人の言葉はユナの胸に突き刺さる。ざわざわと嫌な感情が広がっていくのを感じた。理解出来ないと言われるのは予想していたにも関わらず、は傷ついていた。黙っていれば、これ以上彼らが関わってくる事が無いとわかっていても、思わず反撃してしまう。
「そんなこと無い!魔法をバカにしないで!」
「箒で空でも飛んで見せてくれるつもりか?」
「ッ?!」
跡部の挑発的な発言にの怒りが募る。特に跡部の言葉には、過剰に反応してしまう。
「喧嘩は良くないよ」
滝もこの展開には驚いていたが、喧嘩になってしまうことは避けたい。だが、はもう止まらなかった。
「黙っていて!私は大真面目なの。これは、この世界で、今、私にしか出来ない事なんだから!」
恐らく、今この世界で魔法を遣えるのはだけ。それは、が望んでいた世界だ。
(『私にしか出来ない』。何て素晴らしい響きなんだろう。何も出来なかった私に、価値が生まれた)
箒に跨ったままで意識を集中する。の足元から風が吹いた。いや、起きたと言っても良い。の足元に風が集中するなど、偶然とは思えない。それに今まで風など吹いていなかった。さらに風は強くの周りを囲むようにして吹き続けている。ショートカットの髪が風に撫でられて踊っている。足元の小石が風に押されて転がっていく。
何より威圧感を感じた。何か見えない力が起きていると思わずにはいられない。
「この風は……?!」
「いったい何が起きていやがる……?!」
「すっげーすっげー!!」
「マジ?!本当に魔法なのか?!」
本当にが箒で空を飛んでしまうと、この場にいる誰もが思った。自身もそう考えているからこその行動だった。またいつものように空が飛べる。当たり前の事が出来る。
しかし……
「?!」
あれほど吹き付けていた風がピタリと止まったのだ。また凪が訪れる。転がり回っていた小石たちも黙ってしまう。しんと静まり返った駐車場。これから不思議なことが起きる予感はあった。しかし、実際に起きなかった事に跡部は胸を撫で下ろす。はまたも挑発的な態度になった。
「何も起きなかったな。お前、あれほど大口叩いておいて結局―――」
「跡部!」
滝は注意するように跡部を制した。それに不満を覚えた跡部が滝を見たが、その顔は強張っていた。そしてジローも岳人も同じような顔でを見ていた。
「……わ、たし…ど……して……ッ?」
の顔色は白く変色していった。雪のように血の気が引いていく。額には汗が滲んでいた。
昼休みに跡部に見せた強気な態度は、もうどこにも感じられなかった。
白く白く顔色を悪くしていく。唇も真っ青になっていた。
(魔法が、私の中で感じられない……)
手から箒が落ちる。俯いたままは、それ以上言葉を発することは無かった。