◆◇ 09 ありがとう


今日という日の午前中が終わって、昼休みになった。
カフェで私はこっそりと食事をする跡部さんの様子を窺う。跡部さんはこの氷帝で1番目立つ存在だから、どこにいるのか直ぐにわかる。……今は首から上が見えないので、どんな顔をしているのかわからないけれど、女の子の間ではすごく格好良いらしい。
跡部さんの周りで特に何か起きたわけではないと確認して安堵する。跡部さんの危機を察してしまった以上、私はどうにかして防ぎたい。
Aランチを食べていた跡部さんの手が止まった。

「跡部、どしたん?」
「また視線を感じる……」

え……?!

「自意識カジョーなんじゃねぇの?」
「……」
「痛っ!?殴ることねぇだろ!」

向日さんが痛そうに殴られた頭を両手で押さえた。目にはやや涙が滲んでいる。忍足さんは面白そうに見ていたけれど、やがて私に視線を投げかけてきた。忍足さんと視線が合ってしまい、私は小動物のようにビクッと震えてしまった。

「あそこにおるんはちゃんやないの。こそこそしてて、まるで小動物やんな」
「おーホントだ。おーいー、お前もこっち来いよ!」

流石の私も大声で呼ばれてしまえば無視できない。緊張と羞恥心で顔に熱が集まるのを感じる。

「跡部、おまえの隣空いとるやろ。ちゃん、座りや」
「で、でも」

首から上の無い人間の隣に座れと言われて、私は戸惑った。奇妙なこの光景に多少慣れたとしても、こんなに近くで見せつけられればどうしようかと迷ってしまう。

「いいから座れって」

向日さんに言われてようやく私は跡部さんの隣に座った。跡部さんは特に何も言わなかった。むしろ私にとってそれは声を掛けられることよりも苦痛だった。何か気に入らない事でもしてしまったのかもしれない……。
これを良い機会として跡部さんに忠告する事も出来た。でも、これから彼の身に何かが起きると、どう説明したら良いのかわからない。
気まずい時間が流れ、私は特に跡部さんと会話する事も無く、結局周りの声に耳を傾け続けるだけに終わった。
















帰り道、跡部は珍しく徒歩だった。普段はベンツやロールスロイスで帰るのだが、運転手の妻が病気で寝込んでしまって、その看病に行っているのである。跡部が『今日は来なくて良い』と言うと、運転手は泣いて喜んだ。

(オレをいったい何だと思ってるんだ)

歩いて帰るには確かにやや遠いわけだが、特に問題は無い。
少し離れたところから工事の音が聞こえてくる。確か新しいビルができるというチラシを見た。特徴ある緑のシートがかけられ、進むにつれて音は大きくなっていった。

(さて……どうするか)

徒歩で来たのは良いものの、背後からまた気配を感じる。自分をさっきからずっとつけている存在。それは食堂で感じたものと同じだった。しかし捕まえるにはやや距離があるようだ。

(めんどくせぇな)

跡部は突然走って裏路地へ入った。つけているやつも慌てて走り出すが、見失ってしまう。すかさず跡部がそれの背後へ回った。
相手は気がついていない。

(コイツ……)

跡部はきょろきょろと自分を探しているやつに声をかけた。勝ち誇ったように。

「おい」
「ひ?!むぐぅっ!!」

おどろいた追跡者―――の口を後ろから塞ぐ。また叫ばれたら面倒なことになる。
だが、からしてみれば首無し人間をこんなに近くで見せられたわけだから、悲鳴の1つも出したくなるだろう。涙目で震える。
跡部はそのまま路地裏へ連れて行くと、を見下ろす。

「いいか、大声で騒ぐなよ」

は『んぐ』と返事をする。ようやくここで跡部の手が口元から外された。新しく入ってきた酸素を肺へ思い切り吸い込む。跡部の首の辺りをなるべく見ないようにした。

「手間かけさせやがって」

前にも自分のファンがつけてきたことがあり、それからずっと車で通うことにしている。
しかし、自分のファンにしては様子がおかしい。好意的どころか、むしろ怯えている。

「お前、オレをずっとつけていたな。学校でもオレを見ていただろ」
「ち、違いま―――」
「黙れ。嘘はつくもんじゃねぇ」
「…………はい」

は人ならぬこの能力を恐れている。自分の能力に。
だが、人が死ぬのを何もせずただ見ているのもできない。だから彼を近くで見ていることにしたのだ。
だがあっさりとバレてしまった上に相手を怒らせてしまった。強い恐怖を感じて押し黙ってしまう。

(どうしよう……?!)

正直に言ったところで、誰も信じてはくれないのはわかっている。
おどおどするに跡部はイライラした。には顔は見えないが、眉間に皺が寄っている。

「お前わけわかんねぇんだよ。オレをつけていたわりには、ファンでもなく、ただ怯えているなんてな。もういい、失せろ」
「でも!私はっ」

はそこまで言って黙ってしまった。これ以上言ってしまうのは躊躇われる。

(私は…………)

どうしてこんなことをしているのかがわからなくなった。

(また同じことを……)

「とにかく、少なくても俺にはお前に用事は無い。お前もさっさと帰るんだな」

もはやには跡部を止める術を失っていた。
元々には人の死を予期できても、それがいつどこでどう起きるのかまではわからない。ましてそれを防ぐことなど……。
立ち去る跡部の背中を追いかけようとして路地裏から飛び出してみたものの、跡部の背中を追いかけることはできなかった。
突然ガガガガッ!と重くて大きな振動音が聞こえてきた。

「!」

跡部を追いかけることで頭がいっぱいだったので、は工事をしていることに気がつかなかった。跡部は、その工事中のビルの隣をスタスタと歩いて行く。

(私は本当に何も出来ない……)

跡部の背中をしばし見つめていたが、やがて自分も帰ろうと考えたとき、風が吹いた。突風である。
そしてバキン!という金属音が響く。周りで歩いていた人たちが振り返ったり悲鳴を上げた。
クレーンで運んでいた茶色く錆びた鉄骨が、ぶらんと空中に投げ出されていた。繋いである麻の太い綱が、ズルズルと地上へと下りてくる。
そして、次の突風が吹き荒れると、振り子のように大きく振れた。





その先には、





跡部が驚いた顔があった。





大きく振れた鉄筋が、跡部の顔に向かっている。

「?!」

はすでに跡部の首が見えていないが、間違いなく顔へそれが向かっているのはわかる。
どうなる?
人間が鉄骨に顔面にぶつけてしまったら?
どうなるかなんて、わかってる。





お前はあのとき死ぬべきだった!





うるさい……。





お前はあのとき死ぬべきだった!





うるさいっ!!!





はガバッと顔を上げて走った。これまでにないすごい速さで人々の悲鳴を掻き分け、跡部の元へ急いだ。
跡部の背中を横へ両手で突き飛ばす。跡部は力が入っていなかったのか、の思うように横へよろけて膝をつかせた。彼のカバンが音をたてて落ちる。
跡部の位置にが入れ換わって立った。

「―――!」

跡部がに何か叫んだが、にはもはや聞こえない。
鉄骨はもう目の前。





終 わ る 。





「……!!」





しかし、最悪な事態は起きなかった。
すごい轟音がして、鉄骨はの目の前にするりと綱が外れて落ちた。アスファルトにめり込み、大きな穴が地面に開けられていた。鉄骨は少々曲がってしまっている。
硬く瞑っていた目をそっと開ける。周りの人々が信じられないという顔でこの光景を見ている。

「いったい何がどうなってるんだ?」
「今真っ白に光らなかった?」
「オレもそう見えたぜ」
「わからないわ!何がどうなったの?!」

この状況を議論する中、は周りとは対照的に声が出なかった。今更になって足が震え、立っていられなくなり座り込んだ。汗がぶわっと出て、心臓がうるさく鳴り続ける。耳にまで脈が聞こえてきた。今更になって全身がガタガタと震える。どうしようもなく、今になって恐怖を感じた。
跡部は目を見開いたまま固まっていた。
視線を感じる。
ふと目をやると、ざわざわと騒ぐ人々のさらに先に存在がそこに視えた。横断歩道の向こう側。エプロンでスリッパを履いているという、なんとも風変わりな赤髪の女性がこちらをじっと見ている。それは、とても穏やかな顔だった。


とその女性だけが世界に取り残されたような、そんな気がした。





「向日さんの……、お母さん……」





エプロンの女性はに笑いかけると、丁寧にその場にお辞儀をした。
そして、唇が確かに―――






『ありがとう』と、告げていた。





瞬きをした次の瞬間、は元に戻っていた。女性は影も形も無くなっている。

「おい!しっかりしろ!」

我に返った跡部が、の肩を揺さぶった。





目の下の泣きぼくろに、薄い色素の髪の端正な顔立ち。





跡部景吾を視界に捉え、は静かに一筋の涙を零した。




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