◆◇ 10 おかえり
昼休みのカフェは混雑していて当然なのだけれど、特にこの人がいると女子生徒たちで余計に混雑する。私はチラッと向かい席で優雅にコーヒーを飲んでいる跡部さんを見た。
「お前と食事をするのはこれで2度目だな」
「そ、そうですね……」
「この間助けてもらった礼なんだから、遠慮せずに何でも食べろよ。オレ様の奢りだからな」
跡部さんは先日のお礼だと言って、私に願い事を聞いてきた。私はお礼なんて滅相も無いし、恩を着せるつもりもなかった。丁重にお断りしたつもりだったのだけれど、跡部さんも後に引かなかったので、デザートをカフェで奢ってもらう事にしたのだ。大体、正確には私が助けたわけじゃなくて、向日さんのお母さんが助けてくれたのに……。アレが視えない跡部さんにとっては、私が助けたように感じているらしい。
デザートを奢ってもらうので手を打ったつもりだったけれど、甘かった……。跡部さんの隣にいると、女の子たちの視線を思い切り浴びせられてしまう。緊張のあまり、何度かパンを落としたりしてしまった。
早くこの時間が過ぎれば良い。そんな事を考えていたら、1人の生徒がやって来た。
「あれ、跡部さんじゃないですか」
「日吉か」
ヒヨシと呼ばれた人は、切れ長の瞳を私にぶつけてくる。私の弱い心臓はドキッと跳ねた。
「珍しいですね、跡部さんが女子生徒と2人で昼食なんて」
「ああ、そうかもしれねぇな。、コイツはテニス部の後輩で日吉若だ」
「あ……初めまして。です」
「日吉若です。3年生だったんですね。1年生かと思いましたよ」
「…………」
私と比べれば随分と背が高いし、そう思われても仕方ないのかもしれないけれど……何だか複雑な気分。
日吉くんの手には本がある。本のタイトルは学園七不思議だった。
「日吉、またそんなオカルトめいた本を読んでいるのか、アーン?」
「オレの勝手でしょう?それにまた、あの練習室で倒れた生徒がいるらしいですよ」
あの練習室と言えば、この前私が借りたピアノの練習室の事だろう。
「それで何か調べているのか?、日吉はそういう怪談を調べたりするのが好きなヤツなんだよ」
「誰か倒れたって、本当ですか?」
「ええ。あの練習室でピアノを弾いていると、急に気分が悪くなったりして倒れるヤツがいるんですよ。確かこの前は、2年の根本だったか……。噂を信じていない生徒があの練習室を借りてしまったようです。まぁ、鳳も言っていたが、あのピアノはかなり良いものらしいですからね。弾きたいというヤツもいるでしょう。この噂が出るようになって5年くらいだそうです」
被害が出たんだ……。それに、日吉くんの口振りから察するに、結構前からそういう噂があるのか……。やっぱり、あの練習室にいた霊が原因なんだろうな。
「だが、あの練習室で倒れなかったヤツもいるんだろう?」
「はい、そう聞いています。実際、鳳はあの練習室でピアノを弾いた事があるらしいのですが、特に何もなかったそうです」
「!」
……今思えば、鳳くんは私を助けてくれたとき、何ともない感じだった。普通の人でさえ気分が悪くなってしまうのに……。
「他の生徒も、平気だった生徒は何人かいます」
「あの!」
「何ですか?」
「平気だった生徒たちの共通点って、何かあるんですか……?」
「はい。オレも気になって少し調べたんですけれど、かなりピアノが上手いヤツらみたいですよ」
「ピアノが上手な人?」
「平気だった生徒は賞を貰った事もあるようなヤツばかりでした」
「つまり、他の倒れた連中は全員下手だったって事だな」
という事は、私も下手?!……いいえ、自覚はありますよ。確かに私、下手の横好きです。でも、何だかそれでもショックだな……。だってあのとき私鍵盤にちょっと触っただけだったし……。
地味に凹んでいると、日吉くんは『それと』と続ける。
「具合が悪くなる時間帯みたいなものがあるみたいです」
「どういう事だ?」
「放課後に弾いた生徒が倒れていて、昼休みに弾いた生徒には被害が無いらしくて」
「それもまた妙な話だな」
「時間帯……」
「、気になるのか?」
「え?ああ……まぁ」
曖昧に返事をして、私は食べていたサラダを一気に口へ運んだ。
「跡部さん、私もう行きます。ちょっと用事があるので失礼しますね」
「?」
「日吉くんも、それじゃあ」
「あ、はい」
私は食器をカウンターに戻して足早に食堂を出た。擦れ違う女子生徒たちがざわついていたけれど、私は気にもしないでそのままあの練習室へ向かった。
昼休みはピアノを弾く生徒も少ないため、予約無しでも鍵を借りる事が出来た。
練習室の前で深呼吸をする。日吉くんの言っていた事が事実である事を信じ、私は鍵を差し込んで回す。小さな音がして鍵は開いた。中に入ると、綺麗だけれど使い込まれたベヒシュタインが堂々たる姿で私を待っていた。黒い光沢が日の光で輝いている。
しんと静まった部屋は特に変わった様子は無い。嫌な感じもしないし、体調に変化も無い。やっぱり、昼休みには出ないのだろうか?いや、ピアノを弾いたら出るという話だ。あのときいた女の人は、ピアノの音を気にしていたのか……?
私は重い蓋を開け、なるべく優しく鍵盤に触れてみる。ポーンというソの音はこの整えられた設備の中で伸びやかに響いた。咄嗟に身構えたが、やはり誰もいない。日吉くんが言っていたように、放課後じゃないと出てこないらしい。
安心して、私はもう1度鍵盤に触れた。
「?!」
その途端、景色にノイズが入る。頭の中に直接映像が流れるような、不思議な感覚。私の耳には女の子の声が聞こえた。見れば、ピアノに誰かが座っている。氷帝の基準服を着たポニーテールの女の子だ。活発そうで、少し肌が日に焼けている。……この女の子、どこかで見たような気が……。
聞こえてくるピアノの美しい音色。とても嬉しそうに微笑む彼女。
先生、ここはどんな風に弾けば良いですか?
先生……?
女子生徒の隣に、スーツ姿の男性が立っていた。
、ここはもっと優しく、指をもっと奥へ押し込むようにすると良い。お前には素質があるな。
30歳手前くらいの人で、女子生徒に指示を出しているところだ。
そして、優しく微笑むこの人を、私は知っている。
「榊先生」
放課後、私は楽譜を持った榊先生に声を掛けた。榊先生は足を止めて振り返る。
「か。どうかしたのか?」
「先生、今日はテニス部の方は見ていかないんですか?」
「ああ、今日は少しピアノを弾きたいと思ってな」
「……だったら、私にピアノを教えてくれませんか?私、上手に弾けないんです」
練習室の鍵を差し出して言うと、榊先生は鍵の番号を見て少し瞳を細めた。
「生徒たちの間で噂になっている部屋じゃないか。そこで良いのか?」
「はい。本当はこの部屋、他の子が借りていたんですけれど、無理を言って代わってもらいました」
「そうか」
榊先生は私から鍵を受け取って一緒にベヒシュタインが置いてある練習室へ向かった。扉の前で、榊先生は呟いた。
「ここへ来るのは久しぶりだ……」
中へ入ると、相変わらず静かだった。先生は持っていた楽譜を広げる。
「……久しぶりだとおっしゃっていましたが、何かあったんですか?」
「昔の話だ」
「教えてください。お願いします」
先生は迷っているみたいだった。だから、私はその背中を押す。
「先生は、という生徒を知っていますよね?」
「!?」
先生の目が大きく見開いたのを、私は見た。私の口から出て来た生徒の名前に酷く驚いていた。そして、閉ざしていた唇を開く。
「…………1人の生徒を亡くした」
先生が口にした生徒の名前は、私も知っている有名なピアニストの名前だった。
あのときは苦しくて気づかなかったけれど、霊の顔を私は知っていたのだ。
「もう15年も前の話だ。彼女は、この学園の生徒だった。活発で明るい普通の生徒だったが、ある日私のピアノに惹かれたと言って、放課後私にピアノを教えて欲しいと言ってきたんだ」
「もしかして、この練習室ですか?」
「ああ。彼女はそれまでピアノを弾いたことが無かったらしいが、直ぐに私は彼女に素晴らしい才能が眠っている事を見出した。運動部で期待されていたにも関わらず、私は音楽科へ進学するように薦めた。彼女も笑って了承して、親の反対を押し切って有名な音楽科のある学校へ進んだ。彼女は、私が見込んだ通り、素晴らしい才能を開花させていって、人々に感動を与えるピアニストになった」
ここから榊先生の声が低くなる。悲しみに満ちた声だった。
「ピアニストになってから、初めて母校でコンサートをする事になっていた。だが、ここへ来る途中事故に巻き込まれ……彼女は帰らぬ人になってしまった」
その事故はとても衝撃的で、私も新聞で読んだくらいだった。確か、5年くらい前の話だったと思う。
「ずっとスランプだったと聞く。完璧を目指す性格だったせいもあるだろう。いつも自分に厳しく、妥協しない性格だった。素直な子だったが、音楽に向き合っているときは意見が食い違って喧嘩をする事もあったらしい。初心を大切にしなさいと、いつも私が教えていたからかもしれないな。だから私は母校でのコンサートを提案したんだ。何かスランプを抜け出すヒントがあるかもしれないと思ってな」
……もしかして、下手な人が許せなくて邪気を当てていたの……?
「私は時折思う。もし、あのとき私が音楽科への進学を薦めなかったら……、私が母校でのコンサートを提案しなければ……と。彼女は今でも笑って過ごせていたのかもしれない。今そんな事を言っても仕方がないが……」
先生、まだ間に合いますよ。
だって、あなたの後ろに、今。
「だから、いつもピアノを最初に弾く曲はあの曲なんだ。が好きだった、一緒に練習をした曲を弾くようにしている」
「先生……」
「私は、『お帰り』と言ってやれなかった。言ってやりたかった。スランプで悩んでいても、原点はここにあると教えたかった……」
榊先生の指が動く。しっとりと優しく語りかけてくるような曲。ショパンの【別れの曲】だ。別れなのに、悲しい感じがしない。次の出会いを待っているみたい。
思わず私が先生の演奏に聴き入っていると、いつの間にか彼女はどこにもいなくなっていた。
でも、私が最後に見た彼女の姿は、満ち足りた、あの映像と同じ笑顔だった。
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