◆◇ 03 ベヒシュタインの血
あれから白梅香の香りは感じられなかった。
忍足さんは私のクラスから離れていたし、特に用事も無かったのでそれ以降は接触も無い。女子寮も男子寮とは学校が間にある形で距離を取っている。やっぱりあの物理室には後から行っても何も感じなかったので、ひとまず安心した。
昨日から始まった授業もなかなか面白い。氷帝学園独自のものが多いからだ。
だけど……、私は一生、この能力を隠し続けなくてはならない。
「」
「あ、はい」
音楽の授業の後、私は榊先生に廊下で呼び止められた。
「お前はピアノの個室を予約しているそうだな」
「この前予約の用紙を書いて提出しました……」
この学校は音楽の設備が充実していて、個室を用意してもらえるようになってる。ピアノは暫く弾いていなかったけれど、今は触りたい気分だったから用紙に記入したのだ。
私は榊先生がちょっと苦手だ。隣の席の彼女によれば、厳しいテニス部の顧問の先生だと聞いていたせいでもある。
もじもじしながら榊先生と向き合った。背の高い人っていうのも苦手で、本当に自分は人見知りなんだなって、改めて実感してしまった。
すっと榊先生がスーツのポケットから綺麗に折りたたまれた紙を手渡された。開くとそこには私が先週書いた予約の用紙。そこには朱の印が押されている。
「許可されたってことですか……!?」
「おまえの希望していたのはべヒシュタインだったな」
「はい……。でも、これってすごく人気があるピアノだったんじゃないですか?」
どうせ弾くならと思って1番人気のあるべヒシュタインの個室を借りることにしたわけだったが……。
(まさかこんなに早く弾けるなんて……)
嬉しくなった。
それとは別に、榊先生は少し神妙な顔をしているように見えた。
「その日予約していた生徒が急に来られなくなったそうだ。これが鍵だ。放課後の4時から6時まで使える」
シルバーの番号がついた鍵を受け取る。
「ありがとうございます……!」
「失くさないように」
「はい」
「うむ。行って良し!」
「は、はい……?」
榊先生はビシッとポーズを決めていたので、私は首を傾げながらも何も聞かなかった。周りの人たちも何も言わないから、日常的な光景なのかもしれない。氷帝には変わった先生がいるみたい……。
萩之介くんと会う時間は6時過ぎ。これだったらピアノを弾いてからでも十分間に合う。こんなにも良いピアノに触れる機会があるとは思いもしなかった。それだけに放課後がとても楽しみで仕方がない。廊下を歩く足取りが自然と軽くなる。
教室に戻ってお隣の彼女にその事を話したら、『ピアノ弾けるの?聴いてみたい!』と言ってくれて、ちょっと照れ臭かった。だけど曖昧にしか返事は出来なくて……。そこまで上手なわけじゃないからだ。誰も聴いていない放課後、下手な私のピアノでも思いっきり弾いてみたいと思った。
放課後、さっそく予約した個室へと急いだ。
(もっとピアノ習っておくなんだったな……)
そう残念に思いながら、鍵に刻まれた番号を探して廊下を歩いた。
「あった……」
シンプルな防音の施されいているベージュの扉のノブに鍵を差し込む。クッと鍵はスムーズに回った。楽譜をカバンからさっそく手に取る。譜面が読めれば、後は弾いている内に何とかなるだろう。
美しい曲線の漆黒色のべヒシュタイン。いつか弾いてみたいと思っていたべヒシュタイン。ブランドメーカーの名前がきっちりと刻まれいる。
フタを開けて鍵盤を見る。白と黒の並んだ鍵盤は綺麗に磨かれていた。見た感じからも美しい音色を奏でてくれそうだった。
嬉しさでそっとその音を確かめようと指を載せようと手を伸ばす。
予想を超えた美しい音色が響いた。透き通っている、心の奥にまで響くような音。
だが、私は背筋に氷でも押しつけられたみたいにビクッと震える。一瞬何が起きたのかわからなかった。
ピアノを前に興奮していたのか、私は気がついていなかったのだ。
私の指は空中で鍵盤に触れる前で静止している。
だけど、音は響いた。
鍵盤に落ちたのはラの音。
ラに落ちたのは
血の赤。
噎せ返るようなお線香の匂い。ドクリという重たい心臓の鼓動が身体に響いて、嫌な感じに身体が支配される。
上から降ってくる血は鍵盤を真っ赤に染めていく。まるで血の雨が降るかのように。
胃液が出そうだった。恐怖で私は無意識に手を払ってしまい、その手に当たった楽譜が床に落ちた。背中に感じる凍るような存在。私は後ろに飛び退いた反動で振り返ってしまった。
「ひっ……?!」
血だらけの首を吊る女が、天井からぶら下がっていた。青白く、そして恨みを込めた目で私に訴える。
気持ちが悪い。
むせかえる。
胃液が出る。
息ができないほどの……。
「はぁ……っ…うぅ……」
その場から一刻も離れたいと思った。
(私を見ないで……!私は何もあなたにしてあげられないの!!)
しかし、身体は言うことを聞かずに床にずるりと崩れた。黒ブチのメガネがガシャッと床に転がったのが視界の端に見える。
助けて欲しい。息が苦しくて悲鳴も上げられない。だけどここは防音設備がされていて、例え声が出ていたとしても誰も呼ぶ事は叶わないだろう。
女が私を見ている。何を言うでもなく、ただじっと私を見ている。見つめ続けている。怨念がピリピリと肌に伝わってきた。何度味わっても酷い……。冷たくて、苦しくて、激しい感情。怒りと不快感が全て織り交ざったみたいな感じがする。気持ち悪い……。
ここで思いもしないことが起きた。防音された重いドアが開かれたのである。
「うわ?!大丈夫ですか?!」
「……ぁ………・…っ」
足元しか見えないその人に助けを求めようとした。喉が締め付けられるみたいに声は出ないけれど、必死に空気を吸おうと頑張る。
「あ……ふっ……う…………!」
やっぱり声は出せず、僅かな空気だけが空しく吐き出された。部屋に入ってきた人が、私の肩に触れた。氷ではなく、ちゃんと熱の感じられる手をしている。
(だ、れ……なの?)
少し気が抜けて、私は周りの様子を窺う。不思議な事に、あの女は姿を消していたようでお線香の匂いはもうしなくなっていた。
(どうして……?…………えッ!?)
だがそこで力尽き、顔を上げることもできず私はそのまま意識を手放した。
最後に見たのは赤い血だった。
恐ろしく赤い、血、だった。
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