◆◇ 28 影は歌う


医療機械の故障であった欲しい。何かの間違いであって欲しい。だけれども、この電子音はどこまでも鳴り響いて、の心肺が停止した事を嫌と言うほどを知らせてくる。医者や看護師たちが懸命に何か作業しているが、電子音は再び音をリズム良く刻まない。
岳人が顔を引きつらせて後ろへ下がる。フラフラになった肩を忍足が支えた。

「アホ!泣くなや!!」

忍足の家は医者家業だった。そのせいか、こういった現場を見た事がある。そして自分自身、祖母が亡くなっていたこともあって、頭の中は意外と冷静になれた。しかし、岳人は母親を亡くした事、知人が母親を殺したときの事が鮮明に浮かび上がってしまう。泣きたいわけでは無いのに、大きく見開かれた両目からは情けない事に涙が零れ落ちた。
宍戸は、傍に置いてあった毛布で岳人を覆い隠すようにすっぽりと被せた。

「お前は別室で休め」

跡部に言われたが、岳人は首を横に振った。
ここにいたい。
それが岳人の今の望みであり、にしてやれる唯一の事だったから。
長太郎も半泣き状態だったが、病室の廊下で彼らとなんとか待機している。そして、ぎゅっと手を硬く握り締めていた。感情を押し殺すように。
撫子はそんな長太郎を見て、それからまた病室の中をそっと覗いた。黒い霧はもう溢れんばかりにを覆っているのが見える。どうして自分にしか見えないのだろうか。医者や看護師たちにもこの光景を見せてやりたいと思ってしまう。

「別に病室覗かなくても、ここからだって十分でしょ?」

そんな声を耳にして撫子は驚いて振り向いた。背後に立っているのは、自分と同じ目線のジローだった。ジローの物言いは、まるで自分と同じように黒い霧が影となってを覆うところが見えているかのようだ。

「あなた……アレが見えて……?」
「アレ……?あー、多分」

昔からジローは本能的に【悪いもの】を敏感に感じ取る事が出来た。
病室で目覚めて、と会ってからは益々感じるようになった。影響があったとは思っていないけれど、確実にジローは何かを今感じ取っている。

「いったい、どういうことなんですか?」

長太郎が涙声になるのを堪えて問う。

「結局、滝先輩に付き纏っていた影の男は……何者なんですか?」
「…………」

小さくて幼い弟の事を思い出す。
真っ青な顔をして、ぽつんぽつんと一生懸命声を出そうとして、震えていた、あの子。





撫子姉さん、どうしよう?





どうしたらいいの?





どうしたら、もう1度……





は笑ってくれるの?





わからない……、わからないよ……。





全然わからないんだ……!






滝は自分のしてしまった事を後悔していた。だから今度会ったときには、絶対に彼女を守ると誓っていた。そんなことをしても、滝の罪は一生消えないし、一生許されることは無いだろう。それを承知の上で、のためなら命を投げ出す覚悟だった。
別に滝にとって、それは怖いとも辛いとも思っていなかった。自分の義務だとさえ考えていた。

「わからないわ……」

撫子は実際にその男を見たことも無いし、会話をした事も無い。それは自分には見えない存在だったから。ただ、1つ確信している事がある。

「あの男が誰なのかはわからない。けれど、あの影は―――」





人の心に、必ず存在しているように思えた。















は、差し出された滝の手を取ろうとはしなかった。白く伸びるその手だけが、虚しく空を掴んでいる。
滝は動揺した。瞳がふらつく。

……?どうしたの?何を、躊躇っているんだい?」
「私は……あなたのところへは行けない」
「どうしてだ……?なぜッ?!」

は何度も首を横に振るだけで、縦には決して首を振ることは無かった。





「例え萩之介くんがそう言ったとしても、私はそっちへ行きたくない」





滝は、その言葉に目を一瞬だけ見開いたが、やがて降参したように苦笑した。その表情は滝のものとは全く別。

「……どうしてオレが萩之介じゃないってわかったんだ?完璧だったのによぉ」

『くっくっく』と、皮肉めいたいやらしい笑みを浮かべた影の男が、自ら正体を打ち明かす。また闇が濃くなった気がした。
は警戒した。ずっと感じていた嫌な気分の原因が、ようやく姿を現したことで、さらに緊張が高まった。しかし、一歩も引かない。正面に立つ幼馴染の顔をした男を、反らすこと無く見つめた。

「『父親が本性を見せた』って、あなたは言った」





キミの父親は、キミに影を移した事で本性を見せた。





「けれど、私はその事件の事は一言も萩之介くんには言わなかったから」

精神的に大きなショックを受けたは、事件後の半年間は声が出せなくなっていた。事件の目撃者であるにも関わらず、何1つ話せる状態じゃなかったため、この事件は一般的に謎とされたままになっていた。

「私以外にそのことを知ってるのは、ずっと私を見ていた……あなただけだもの」

は血まみれになって事切れた兄を抱きしめながら、部屋の隅に得体の知れない存在を感じ取っていた。それはほんの少しの間しか感じれなかったが、今目の前にいる男と同じ臭いがしている。
影の男は相変わらず笑っている。そして、禍々しい真っ黒な腕を伸ばし、の腕を掴んだ。ギリギリと締め上げるような痛みにが顔をしかめる。握る力は強くなる一方だった。

「くッ!いったい何を……?!」
「オレはお前をずっと待っていた。お前のような、闇に染まりそうな女を」

もう片方の真っ黒な手がの頬を捉えた。

「楽しかったぜ?萩之介の野郎も、簡単にお前にオレを引き渡してくれてよぉ。バカな野郎だ。自分でやったくせに、楽になりたくてそうしたくせに、結局お前のことを庇って死んじまうんだからな。あははははは!!!」

頭に血が昇り、は声を出そうとしたがうまく出てこない。全身の力がどんどん抜けてしまう。滝の姿がドロッっと溶け出して、全身に霧状の影が纏わりつく。息苦しくて、何度も口をパクパクと酸素を求めて開閉するしかなかった。

「何か言いたそうだな?えぇ?」
「!」
「しかし、萩之介のヤツもついてねぇぜ。結局お前さえいなければ、アイツもこんな目に遭わなかったんだからよ。ひひひひひゃはははははは!!!」

意識が遠くなっていく。だんだん頭の中がぼーっとしてきて、何も考えられなくなる。

(嗚呼……)





これが、死。





には影の高らかな笑い声が、まるで歌声のように響くのを聞いた。
そして、だんだんとそれは小さく遠ざかっていく。















医者たちが白いゴム手袋を外して頭を下げる。それに倣って、看護師たちも同じように頭を垂れた。
愕然とした絶望がその場の全員を包む。
すごい剣幕で医者の胸倉を掴もうとする宍戸を必死で取り押さえる忍足と長太郎。跡部は黙って項垂れ、岳人は放心状態のようになる。ジローにもたれかかっていた。ジローだけは、ただじっと、目の前の白い布を顔に被されたを見ていた。

「いい加減にせぇや跡部!宍戸!」
「何が手を尽くしただ!オレはこんな終わり方認めねぇ!!ぜったいに認めねぇからな!!」

叫んだ宍戸に長太郎が涙を流しながら言葉を紡ぎ出す。

「宍戸さん……!全部オレのせいで……オレの……ッ!」

高まっていた怒りが跡部と宍戸の中で静かに静まっていった。こんなところで騒いだとしても、事実は変えられない。





は、死んだ。





力なく宍戸は床に膝を付き、跡部は備え付けの椅子に座る。
死んだ人間に何ができるだろう?
墓参り?
盛大な葬儀?
豪華な卒塔婆?
白く、どんどん冷たくなっていくの身体。血が巡らない身体。熱の伝わらない身体。

「どうしたの、ジローくん……?」

撫子の声でジローに視線が集まった。真っ黒な霧がを覆い尽くして、撫子にはが殆ど見えなかった。しかし、ジローはじっと見つめ続けている。

「手が、見える」

ハッとなってジローの見ているところを見つめる。

「手……ですって?まさか!?」

それは白い、透明な手だった。霧に覆われているとばかり思っていたその手は、を護るかのように上から頬へと優しく触れている。
撫子は思わず涙を流した。口元を両手で押さえ、その名を呼んだ。





「萩之介……!」





弟の優しい笑顔が、声が、姉には見えるようだった。
頬を伝う涙を、もう止めることは出来ない。




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