◆◇ 29 君にしか聞こえない


優しい温もりが、私に触れる。
硬直してしまった身体が束縛から解放された。膝を崩してその場に座り込むと、影が私から苦しそうに離れていくのが見えた。
そして、私の背を向けた1人の人物。

「あ……あぁ……ああ……!」

口元を押さえて、私は声を漏した。
サラッと切りそろえられた髪揺れながらこちらに振り向く。いつもの優しい笑顔が、そこにはあった。





「大丈夫、?」





闇の中にくっきりと浮かんできたのは、間違いなく彼で……。

「萩之介くん……っ!」

私の心は喜びでいっぱいになった。直ぐに立ち上がって、彼に駆け寄る。萩之介くんは私の手を取った。そこには確かに人の温もりが存在していて、私はもう涙ばかり流した。
萩之介くんは、闇に溶けたあの男に向かって声を張り上げた。

は返してもらうよ。お前のところへは行かせやしない」

苦しそうだった影は体勢を建て直したのか、また元の声色に戻っていた。
空間全体に響く、悔しそうに絞り出される声。

「なぜだ?お前といい、といい、なぜ孤独を選ばないんだよ?孤独ほど自由なものは無いぞ?」

突如影が集まってきて、孤独になろうとしていた小さなあの頃の私が姿を現した。昔、事件に巻き込まれたときの私の姿で、影はさらに言った。

「誰からも迫害されず、誰からも裏切られない、嘘をつかれないんだぞ!?」

痛々しい姿の私。
食べ物がほとんど喉を通らず、目の下には墨のように黒いクマ。





愛した人に裏切られた。





愛した人が自分を殺そうとした。





愛した人が自分のせいで傷ついた。





愛した人が自分を庇って死んだ。





「オレは沢山の人の心を見てきた。色んな汚い感情があって、押し潰されたときもあった」

萩之介くんは空いている片方の手を硬く握り締めた。それを見つめて、それから再び顔を上げる。凛とした横顔だった。

「だけど、それは皆が皆を好きだからだ。好きな相手に裏切られるのは辛くて、相手を疑ってしまう。好きだから、嘘をついてでも好きになってもらいたいと願うんだ。今のオレならわかる……。あれだけ憎んでいたが、オレのしたことで傷ついたってわかったとき、心の底から後悔した。オレは、をただ憎んでいたんじゃない。が好きだったから、余計に憎かったんだ」

萩之介くんは目を細めて、優しい笑顔で私を見つめた。私は涙でぐちゃぐちゃになっていたけど、もう関係無かった。
涙を一生懸命に拭って、私も声を張り上げて言った。

「孤独は、確かに楽だよ?誰にも束縛されずに自由になれるってすごく素敵だと思う!私も、最初は1人が良いって思ってた!」





跡部さん。





忍足さん。





芥川さん。





向日さん。





宍戸さん。





鳳くん。





萩之介くん。





「だけど!」





「人は、やっぱり寂しいの!」





「あなたが思ってるよりも、ずっと寂しがりやで……」





「ずっと」





「温かいって、わかったから」





その瞬間に、4年前の私が静かに微笑んで、静かに消えていった。
私の息は緊張のせいか上がっていて、口で絶えず呼吸を吐き出す。萩之介くんが、私の頬を白い手で撫でた。

「良く頑張ったね」

私はくしゃっと顔を歪めて、萩之介くんの胸に額を押し付けた。両手をお互いに祈るように握り合った。ぎゅっと目を閉じてひたすら萩之介くんの声を聴き続けた。徐々に萩之介くんの姿が透明になっていくのがわかる。触れた指先が粒子になっていく。

「オレはここにはもういられない。わかるね?」

私はゆっくりとそのままの姿勢で頷く。

「自分でちゃんと帰るんだよ?いいね……?」
「うん……っうん!」


呼ばれて顔を上げると、今までで1番の笑顔。





「もう振り返らないで。前だけを、向いていて」





私は萩之介くんが消える前に背中を向けて走った。全力で走った。
だけどどこまでも暗闇は続いている。真っ暗で、自分が今どこを走っているのかも、方向も全然わからない。迷宮のように続く空間。
でも走った。萩之介くんに言われたように、真っ直ぐにただひたすら、自分の信じた方向へ走った。





「大丈夫。光りのほうへ歩いて行きなさい」





突然の声に驚いて立ち止まった。

「?!」

前方に一筋の光が差し込み、私はそこへ向かって駆け出した。














その空間は暗闇では無かった。さっきとは全く逆の真っ白で開けた世界。
前方に影が立っていた。霧みたいに、少し風が吹いてしまったら、すぐにかき消されてしまいそうだった。私は立ち止まって、じっとそれを見た。

「迷っているのですか?」

それは、頭上から降ってくるようにぼんやりと響く。

「両手をご覧なさい」

言われるままに自分の両手を見つめる。すると、ほんのりと輝きを帯び、そして人の温もりを感じた。手を繋いでいるときのような、そんな温かさだった。驚いて私は目の前の影を見つめる。

「声は、聞こえませんか?」

今度は耳を傾けてみる。すると、沢山の声が自分に響いてきた。それは、どれもこれも聞き覚えのある人の声ばかり。





しっかりしろよ





戻って来いよ、退屈だ。





先輩!目を開けてください!





ちゃん、頑張って!





色々話したいC〜。





まだデートしてへんやん、早う戻って来ぃや。





またテニスしようぜ!!






「これは……っ」

この場所にいないはずの宍戸さん、跡部さん、鳳くん、撫子さん、芥川さん、忍足さん、向日さんの声だった。何度も何度も繰り返し自分の中にその声は響いた。
自分を呼ぶ声。握られた手。伝わる温もり。
おそらく私にしか見えない輝きが、正面から道を示すように存在していた。
歩き出す私に、背後から語りかけてきた。

「キミはキミにしか聞こえない声があります。キミは、それのせいで何度も苦しんだでしょう」





「でも、それは」





「キミにしか」





「キミにしか、聞こえないのです」





「どうか、忘れないでください」





さようなら。





優しくて、小さな、





僕の妹。





叫ぼうとした瞬間、私は光に吸い込まれていった。














ぼんやりと目を開けると、そこは消毒臭い天井が徐々にはっきりと私の視界に広がっていった。

「あ、私……」

光りが差し込んでいた。窓の外は雲が無くなって、どこまでも明るい太陽が窓から見える。そして窓の外にある木々の水滴がキラキラと眩しいくらいに輝いていた。土砂降りだった雨が、いつの間にかどこかへ行ってしまったようだ。

(雨、止んだんだ)

そんなことを考えながら起き上がろうと両手を動かそうとしたら、全く動かない。手が何かに押さえつけられている。びっくりして寝た姿勢のまま首を動かして、自分の束縛された右手を見た。すると、手がその上に重ねられていた。
向日さん、忍足さん、芥川さんの手。疲れているのか、目を閉じてベッドに伏せって眠っていた。
私は続いて自分の左の手を見た。
包帯が巻いてある私の左手も、同じように手が重ねられている。鳳くん、宍戸さん、跡部さん、撫子さんの手。こちらも疲れてしまっているのか、ぐっすりと眠ってしまっていた。
私は一瞬起き上がろうとして、上半身を持ち上げようとしたが、全身に痛みが走ってベッドに戻ってしまう。

「いたた……っ!」

涙目になってしまったが、また右手と左手の状態を見て、そして改めて全体の様子を確認する。
見たことが無いような医療器具がずらっと自分の周りに並んでいる。そして、よくよく自分を見てみれば包帯ぐるぐる巻きでミイラのようになっていた。自分の枕元には、意味ありげな白い布まで置いてある。
そして、私の両手を握ったまま眠ってしまった大切な人たち。
私はくすっと笑った。





兄さん、萩之介くん。





聞こえますか?見えますか?





私、今、すごく嬉しいんです。





すごく、すごく、幸せです。





それから困った顔になってしまう。
こんなに心配をかけてしまって、皆に絶対怒られる!

「まだ寝ていようかな……」

と呟いた声が聞こえたのか、

「ん……」

私の手を握っていた彼が瞳を開けて、眩しいのか目を擦った。
私はまず微笑んで、それから目を丸くして私を凝視している彼にこう言った。





「おはよう」





それから、





「ただいま!」









>>END

2012.09.13 ~ 2013.04.30(リメイク)




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