◆◇ 24 兄さん


父親の仕事の関係で、たち一家は東京から出ることになった。これも2度目の引越しとなるが、小さなはまた友達と別れると思うと悲しかった。
引越しの前日、近所で親戚でもある滝家に一家全員で別れの挨拶をしに来ていた。この日は珍しく仕事が入っていなかった の兄である雅巳も一緒だった。は兄の大きな手に引かれて俯いていた。この瞬間が1番嫌いだ、と。
着物を着た美しい滝の母親と2人の姉が、申し訳無さそうに言った。

「ごめんなさいね、今日は夫が仕事で来られませんの」
「雅巳さんもわざわざ来てくださったのに、父様ってば……」
「本当にごめんなさい」

母に続いて桜子、撫子が頭を下げた。
雅巳はにっこりと笑顔で返す。

「大丈夫ですよ。僕たちのほうこそ、時間をいただいてしまって申し訳ありません」

の父と母が挨拶をし終わり、いよいよ別れの時間がやって来た。

「では……そろそろ行こうか」

父がそう言ったとき、はぎゅっと兄の手を握り締め、ここで初めて言葉を発した。

「萩之介くんは?」

滝が顔を出していなかった。せっかく出来た友達の顔が見たい。は下唇を噛み、何かを押し殺すような表情になる。雅巳は小さな妹の癖のある髪を撫でた。
すると、ここで滝家の大きな玄関が静かに開いて、三女の撫子に手を引かれて滝がやって来た。2人とも正装用の着物を着ていた。
滝の姿を見て、の顔が赤みも帯びた。元気良く声を掛ける。

「萩之介くん!」

滝はの声に直ぐに反応しなかった。苦笑した滝の優しい顔が、こちらに近づいてくる。は泣きそうな笑顔で兄から離れると、滝に駆け寄った。そして、同時に滝も撫子から離れて前に出た。

……」
「萩之介くん、会えて嬉しい!わたし、お引越ししちゃうけど……ずっと萩之介くんとはお友達だよ!!」

すっと小さなの手が滝に差し出された。
ハッと目を見開いて、それからゆっくりと滝はその手を握り締めた。





、ありがとう」





帰り道、は兄の背負われて帰った。

「萩之介くんに会えて良かったですね、
「うん……」
「泣いてはいけないよ」
「うん……」
「あの子に会えて、楽しかったのでしょう?」
「うん……!」

やっとは笑顔に戻った。





しかし、異変はその帰り道からすでに始まっていた。





向かいの方から、近所のアパートに住む園児とその母親が歩いてきた。手を繋ぎ、危なっかしい歩き方の子供は見ているだけで微笑ましい気持ちになってくる。の母はくすくすと優しい笑顔を浮かべ、その2人を見つめた。

「可愛らしいわね。雅巳もも、ほんの少し前はあんな子だったのに」
「そうだな」

父も雅巳の背中にいるを見た。
はじっと黙ったままあの2人を見ていた。だが、その顔には笑顔ではなく、悲しみが浮かんでいる。黙ったままのを心配して雅巳が声をかけた。

?どうかしたのですか?」

雅巳は知っていた。両親は気が付いていないが、ときどきが誰もいない方を見つめていたり、話し掛けていることを。だからまたそんなことなのだろうと思っていた。
しかし、は意外なことを口にする。





あの子、もうすぐ死んじゃうよ















引越して1週間後だった。朝のニュースで、小さな男の子が変質者に攫われて殺されたという、痛ましい事件の報道された。その男の子こそ、たちが滝家の帰り道見かけた子供だったのだ。
雅巳は食べかけていたパンを落とすところだった。両親もハッとなってを見た。ホットミルクを美味しそうに飲む愛娘は、疑問に満ちた目で見つめられてきょとんとしているだけだった。
思い違い。
偶然。
は普通の子供なのだと、そう言い聞かせた。
言い聞かせて、自分を護る。
それが最善の方法なのだと思った。
しかし、の死に対する予言はこれで終わらなかった。
テレビを見ているとき、メジャーデビューしたばかりの男性ボーカルユニットの1人を指差して、はまたこう言った。

「この人、死んじゃう」

2日後、予告された彼は交通事故に巻き込まれて死亡する。





「お隣のおばさん」





「同じクラスの子」





「ドラマに出てる俳優さん」





両親は恐ろしくなった。自分の大切な可愛い娘は普通の子供だと思っていた。
だが、次々にの死の予言は当たっていった。残酷なほど的確に。100パーセントの確立で、予言された者は何らかの理由で死んでいった。
それから……





お母さんが死んじゃう





の母親は重い病に倒れた。
原因不明の病。どこの病院に行っても、その治療方法がわらない。

「たすけ……っ助けて!あなた……ごほっ!げほっ!!うぁああ、あ、苦しい……っ!!」

大量の血を吐いて、母親は身体の痛みに叫び、もがき、そして、息を引き取った。
付き添っていた父親は愛する妻の死を目の当たりにして、ゆっくりと確実に狂っていった。
娘はあどけない顔をして、家に戻ってきた父親を迎えた。

「お父さんお帰りなさい!」

にこにこと無邪気な笑みを浮かべる娘。

「今日はね、お兄ちゃん残業じゃなくて早く戻れるってさっき電話があったの!」

否。

「あれ?お母さんは……?」





コイツは、悪魔だ。





「ど……どうしたの?お父さん?」

父親の異変に気が付いたは、怯えたような顔で見つめた。思い切り軽蔑の眼差しで娘を睨みつけると、乱暴に細くてか弱い腕を掴んで部屋の中へ連れて行く。

「きゃっ?!」

は突然冷たい床に叩きつけられた。肩を打ちつけ、目に涙が浮かんだ。顔を上げれば、父親の尋常ではない怒りに満ちた目が自分を見下ろしている。自分が全く知らない父親がそこにいた。台所から包丁を持ち出すと、父親は娘に猛然と迫る。

「お前が……お前が……っ」

横に薙ぎ払われた包丁を持つ腕。それがの頬に一筋の赤を引く。ぷくっとそこから血が盛り上がって白い頬を伝った。は頬の痛みで、ようやく父がおかしくなってしまったことに気が付いた。ガチガチと歯が音を立てて震える。信じがたい恐怖が自分を取り巻いていた。

「痛い!お父さん?!お父さん……?!」
「黙れ黙れ黙れええええええーーーー!!」
「あぁっ?!」

立ち上がろうとしたは突き飛ばされて、その際ぶつかったテーブルの上の食器が全部床に落ちた。壁にぶつかった背中が燃えるように熱くなる。息が上手く出来ない。
父親は興奮して顔が真っ赤だった。
思い描くのはあの帰り道。

「お前はあのとき死ぬべきだった!」

死んだ愛しい妻。

「お前があのとき死ぬべきだった!」

わけがわからないはただ涙を流し、父親の許しを得ようとした。しかし、聞く耳を持たない父親はじりじりと迫ってくる。握られた包丁には、自分の頬を伝う赤と同じ色の液体が付いていた。

「悪魔め!!オレの平穏を返せ!!」
「お父さん……っ?!何を言ってるの?」
「殺してやる!!お前なんか殺してやるっ!!」

殺意がの全身に伝わってきて硬直した。
むちゃくちゃに叫びながら、父親は娘に血のついた刃を思い切り振り下ろした。は頭の中がぐちゃぐちゃにり、思考が停止状態だった。逃げることなど到底無理な事。は、ただ怯えて目をぎゅっと閉じるのみ。
だが、いつになってもその衝撃や痛みはやってこなかった。
その代わり、温かいものに自分がすっぽりと包まれている。
この温もりは、あの日の帰り道に感じたものと同じ温かさ。
は、ゆっくりと真っ黒なその瞳を開けた。





「……い……っじょ、ぶ……で、……か……?」





優しく微笑む優しい兄。だがその眉間には苦しそうな皺ができていた。ヒューヒューと萎んだ風船がゆっくりと空気が漏れ出すような、そんな音が彼の唇から紡ぎ出される。そしてゆっくりと血がそこから漏れ出して、自分の頬と額に落ちてきた。
真っ赤だった。
何もかもが、真っ赤だった。

「お、にい、ちゃ……」

それ以上声が震えて出てこなかった。
何かをに言おうとしているのだろう。口が何度も動くが、そこからは空しか出てこない。背中を突き刺された雅巳のその傷は肺を貫通していた。
それを目の当たりにした父親は、頭をぐしゃぐしゃと抱えて首を激しく振り、意味の無い言葉を叫んだ。
自分で大切な息子を刺してしまっという事実。それを拒むように震え上がった。そしてそのまま、父親はベランダから飛び降りた。ここはマンションの10階。父親がどうなったのかは言わずともわかることだった。





は、兄が最期に微笑んで、それから綺麗な瞳が閉じられていくのを見た。





ゆっくりと、スローモーションのように力無く閉じられていく瞳。





その口元は、その瞬間まで優しく微笑んでいた。





背中を真っ赤にワインをかけられたような姿。物言わぬ兄を、その小さな腕に掻き抱いて、は喉が潰れるほどに泣き叫んだ。
このまま死んでしまってもかまわない。
断末魔の叫び声はその日ずっと止むことは無かった。




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