◆◇ 23 絶望に堕ちる
とある総合病院の一室に、滝の家族が集まっていた。ぽつんと電灯が灯ったその部屋は、思いのほか薄暗く、それぞれの顔に影を落としている。
今ここにいるのは滝の両親と三女の撫子だ。長女の桜子は現在妊娠中で、こんな深夜に無理をさせてはならないとの配慮からここにはいない。そして、次女の緑子は現在ここに向かっている。
廊下をバタバタと走ってくる音が聞こえてきた。華道を教えている者とは思えない足音だった。扉が激しく開かれた。
「萩!萩之介ッ!!」
緑子は額にびっしょりと汗を掻き、いつもまとめられている長い髪が張り付いていた。きっちりとされている化粧が崩れかかっており、まだ彼女は仕事着のままだった。線香の中に花の香りが混ざる。真っ白な菊の花。
目の前にある弟が眠っているはずの寝台にかけられた白い布は、人の形をしていなかった。
一瞬だけ緑子の荒い呼吸と動きが止まる。だが、勢いのままに震える手を伸ばした。
「緑子姉様!止めて!」
とっさに撫子が腕を伸ばして制止させようとする。それにも関わらず、突然の知らせに混乱した緑子はバサっとその布を取り去ってしまう。
「?!」
その瞬間、緑子の人とは思えない絶叫が病院内に響き渡った。
滝が電車に轢かれた駅は酷い様子だった。
駅全体に血の臭いが暗く周囲に漂っていた。沢山の警察関係者が、血のついたレールや電車の車輪を調べたりしている。現場を見ていた人々はそれぞれ事情聴取を受けるために、駅員に渡された毛布に包まって列になった。特にと同じく最前列で電車を待っていた人々は、青白い顔をして血の気を無くしていた。
この事はすぐに臨時ニュースとして伝えられ、ほどなくして滝と同じ氷帝学園の在校生徒たちは知ることになる。そのとき跡部は、丁度シャワーを浴びてガウンを羽織ってテレビをつけていた。
いつもこの時間は、跡部が良く観ているクラシックコンサートの生放送がやっているはずだった。けれども、この日は女性のニュースキャスターが険しい顔をして臨時ニュースを話している。字幕には【有名私立学園の生徒が電車に轢かれる】と出ている。跡部はミネラルウォーターを飲むのを止め、クラシックなテーブルの上に置いた。そして、青みのかかった目でじっとそれを見つめる。
『詳しいことはわかっておりませんが、どうやら私立の氷帝学園の生徒のようです』
このとき、跡部はまだ本題を喋っていないのに、なぜだか胸騒ぎがした。すると、女性キャスターの元へスタッフらしき男が原稿のような数枚の紙を手渡した。彼女は目をすっと通すと、神妙な顔で再び画面向こうの跡部に話しかける。
『ここで新たな情報が入りました。人身事故にあったその生徒の身元がわかりました。生徒は、現在華道界で活躍している滝家流派家元で師範代の滝緑子さんの弟で、名前は滝萩之介さんです』
ガタン、と跡部は椅子から立ち上がった。椅子はそのまま分厚い絨毯に横倒しとなる。
「滝……?滝、が?アイツが……死んだ、だと……ッ?!」
信じられなかった。いや、跡部は信じたくなかった。風呂上りの汗とはまた違ったものが額に垂れるのを感じた。
女性キャスターは尚も話を続ける。
『萩之介さんは、線路に落ちそうになった少女を助け、代わりに線路へ転落した模様です。そして、滝さんが身を挺して助けた少女ですが、数年前に起きた【東京都内一家殺人事件】の生存者であることが判明しました。繰り返しお伝えします―――』
数年前に起きた事件の唯一の生き残りである少女。
葬儀の日の10月29日。それは皮肉にも滝の誕生日だった。華道滝流家元の息子ということもあり、報道陣がフラッシュをたいて忙しく様子を中継した。学園の生徒たちは暗い顔をして彼の葬儀に出席し、空っぽの棺へ顕花を手向けた。華道界らしい萩の見事な花が飾られた。6月に咲く萩は季節外れだというのに。そして、その花たちの真ん中に飾られた写真の中にいる滝。その中で、優しくいつもの笑顔を浮かべてこちらを微笑んでいる。
滝の親族たちは、滝の両親や姉妹たちを先頭に涙を滲ませていた。
線香を上げ終わった岳人は、ぼんやりと自分の母親の葬儀と重ねていた。事件後、棺の中にいた母親は火葬する前から白い骨となっており、まだそれが自分の母親だという意識は無かった。しかし、目の前に置かれた滝の棺には、骨すら入っていない。いったい誰の葬儀なのかわからない。
2年生代表として呼ばれた長太郎は、震えながら顕花を棺に納めた。彼は、滝と別れて直ぐこの人身事故が起きた事に恐怖を抱いていた。頭がまだ混乱している。
席に戻る途中で、ちらっと滝の母親に目を向けた。
黒無地の染め抜き五つ紋を紋織黒繻子地の丸帯で留めている。滝は母親似だった。長太郎の視線に気が付いて、母親は青白い顔をふっと歪ませ、精一杯に笑顔を浮かべる。その姿に長太郎は胸が痛んだ。
眠っていないかどうか確認するため、宍戸は隣のジローを見る。この日ばかりはジローもずっと起きていた。じっと正面だけを見つめている。冷たい写真になってしまった彼を、じっと見つめている。宍戸はジローのその態度に目を閉じた。そして、しっかりと萩の花の中で微笑む滝の遺影を見つめた。
生徒代表で滝に最後の挨拶を読み上げたのは跡部だった。それは、中身の無い空虚な文字の列。跡部が別れだとか、そんな風に一切考えていない事など、忍足にはわかっていた。
(いったいどこにいるんや……あのお嬢さんは)
親族の列の中を彼は探していた。滝の従姉妹であるならば、彼女はこの中にいるはずだ。しかし、はこの日姿を現すことは無かった。
顕花で敷き詰められた滝のいない棺が、音も無く閉じられた。
人身事故に生徒が巻き込まれるということが今までに無かったこともあり、氷帝学園中がその話題で持ちきりとなった。報道陣たちもこぞって情報を得ようと学園にやって来る。しかし、時間とともにその話は少しずつ小さくなっていった。しかし、それでも滝の机の上に花は絶えることが無かった。それを見てジローは嬉しく、また辛かった。
「それにしたって……問題はここからだよな」
屋上でチーズサンドを食べ終えた宍戸が隣の跡部を見た。跡部も同じことを考えていたらしく、宍戸と視線を合わせる。
「はどうやら葬式にも出なかっただけじゃなく、寮から1度も外へ出ていないらしい」
「マジかよ?!」
寮の担当者に話を聞いてみたところ、最近1度もを見かけていないという。は今まで学校を欠席することなく通い続けていた。
滝の葬儀があってから、既に2週間以上が経過している。長太郎は屋上の手すりに手をかけて広い校庭を見下ろした。脳裏に滝と楽しそうに話していたの笑顔が浮かんでくる。
「先輩にとって滝先輩は、特別だったんだと思います。人見知りで、オレたちと会った頃の先輩は怯えてばかりでしたけど……」
「せやな。ちゃん、滝には心を開いていたようやったし」
「やっぱ、このままにしておけないだろ!」
キリッとした表情で岳人は言った。ジローも起き上がって振り返る。
「会いに行こう」
「ジロー起きたのか」
「別に寝てたわけじゃないC〜」
「とにかく行ってみようぜ!オレたちのダチなんだからよ、こういうときに何かしなかったら激ダサだぜ」
に会うため、彼らは放課後に寮までやって来た。彼女の部屋は薄暗くて噂が多い部屋だった。なぜこんな暗いところを選んだのかは良くわからないが、今はどうでも良い。
辿り着いたの部屋。しかし、静まり返っている。人が中にいることが感じられないほどに静まり返っているのだ。
「もしかして、いないんでしょうか……?」
「あいつが学校サボってどこかへ行くようなやつには思えないが」
ジローは思い切ってチャイムを鳴らしてみた。1回……2回……。しかし、は姿を見せなかった。しん……と静まり返っているだけである。もしかすると、と思った宍戸はドアノブを掴んで回してみた。するとアッサリそれは宍戸の意思に従って回ったではないか。全員が驚きを隠せない。
「鍵、開いてるじゃないか」
宍戸はそのままドアを引く。そっと中に入って短い廊下を進んでみると、そこにはさらに驚愕の光景が広がっていた。続いて入った長太郎たちも訝しげな表情になる。
「いったいどうなってるんだよ……ッ」
岳人は一歩前に出た。しかし、それ以上は進むことができなかった。目の前に目的の人物がいるというのに。
ここで人間が生活していたとは思えない。いや、つい最近まではそうだったのだろう。
床におびただしい量の割れた元食器類が散乱し、足の踏み場も無く引きちぎられた服や本がその辺に落ちている。
窓を見れば、ガラスは全て粉々に割られ、カーテンが穴だらけで糸を引いている。
カーテンレールはかろうじて窓枠にしがみついている状態。
風でバタバタとそれは揺れている。
そんな地獄のような空間に、シーツがボロボロのベッドに足を抱いて、彼女は座っていた。
やって来た彼らなど、彼女には見えていない。
その目は死んでいた。
の腕や足は無数の傷ができている。手当てすることもな放置していたのか、かさぶたになって血が肌にこびりついている。部屋の破壊された家具やガラス。これは全て、がやった事だった。
「しっかりしろよ!」
宍戸が駆け寄り肩を掴んだ。続いて岳人や長太郎もの傍へ近づく。跡部と忍足とジローは部屋の惨状を見て顔をしかめる。
一方は一言も喋ることなく、ただ宍戸にされるがままになっていた。焦点が合っていない。完全な放心状態だ。いつもは結んであるくせっ毛もダラリと肩に垂れている。無反応なに長太郎も懸命に呼びかける。
「先輩!滝先輩は先輩のせいで亡くなったわけじゃありませんよ!」
「そうだぜ!!」
その瞬間、宍戸の腕は音を立てて振りほどかれた。の細い腕から信じられない力で。突然のことに全員の動きが固まった。
「ちゃん……?どないしたんや?」
「―――た」
「、ちゃん?」
もう1度、今度はハッキリとは言った。
「
私が殺した」
誰が?
誰を殺したって?
ジローがぽつりと言葉を零す。
「まさか……滝が庇ったっていうのは……」
「私よ」
「!?……な、なんだって……?」
宍戸は全身に鳥肌が立つのを感じた。
が滝にまもられたという少女だというのか。
目の前で、滝がレールの中でひき肉になるその瞬間を見ていたというのか。
目を覆いたくなるような事実だった。
「せ……先輩は、優しくて……っ、そういうところを滝先輩も……きっと……!」
苦しそうにそう発言した長太郎が、の怒りと悲しみの枷を全て外してしまった。
「うるさい!」
目を血走らせたが、ギロっとここにいる全員を睨みつけた。全てを憎んでいるかのような、熱い憎悪が見えるようだ。
「うるさいのよ!うるさい!アンタたち、私の何を知っているって?!どうして私を慰めようとするのよ!止めてよ……っ、止めて!!私はアンタたちみたいなおせっかいが、1番嫌いなのよ!大嫌い!!」
「落ち着け!」
「放せっ!!」
落ち着かせようと掴んだ宍戸の腕を再度振り払った。息も絶え絶えでめちゃくちゃに喋るの勢いは、狂気だとさえ思った。涙がぼろぼろ溢れて止まらない。彼女は泣き叫んだ。
「なにも知らないくせに、私に関わらないでよ!もううんざり!アンタたちみたいな偽善者なんか……っ!!知ってるんだから!そんなこと言って、本当は私が死ねば良かったって思ってる!思ってるんでしょう?!ねえ?!そうすれば私みたいなヤツ、私みたいなやつは……っ。萩之介くんは、死ななかったんだから!!!」
そう言い切った瞬間、は右の頬に熱を感じた。不意をつかれて唖然とするは、反射的に右頬を押さえる。
「岳人……」
呟いた相方の名前。
そう、叩いたのは岳人だった。に手を上げたにも関わらず、岳人は表情を変えなかった。じっとに視線を向けたまま。
「の事は、確かに全部わかるわけじゃねぇ。知らないことの方が多い。……だけどな」
静かに語るこんな岳人を、今まで誰も見たことが無かった。
「滝は、お前を護った」
「例えどんなお前であっても、だ」
「滝はお前に命を賭けたんだぞ?」
は目を大きく開け、そしてくしゃっと苦しそうに睫を伏せた。喉奥から絞り出された声は、本当にか細いものだった。
「……かえって。おねがいだから……かえって……!」
岳人は立ち上がると、全員を見てそれから頷いた。ここにこれ以上いても何にもならない。
それぞれにの部屋を後にする。
最後に、岳人がドアに手をかけながら言った。
「それから……、自分のことを好きだって言ってくれるやつを否定するなよ。それってすごく、悲しいことだと思う」
寮の外に出た忍足は岳人を静止させるように、背中を向けたまま前に立つ。それに習って全員が足を止めた。
「…………なんや岳人、あんなカッコイイセリフどこで覚えてきたん?」
「なんだよそれ!別にオレは―――」
「そういやオレら、泣いとらんなぁ……」
「侑士……?」
乱れ叫ぶを見た。
滝の死を嘆き悲しんで、泣いた少女を前にして、彼らはようやく……。
「滝、もうどこにもおらんのやなぁ……っ」
ドン!と強い力が忍足の背中に加わった。岳人が体当たりのごとく、忍足の背中に飛びついたのである。拳で背中を叩く岳人の目から、大粒の涙が溢れ出ていた。
死を受け入れていなかった彼らは、感情に飲まれるのを恐れて無意識のうちに封じ込めていたのである。
の姿を見て、忍足は彼女を強いと思った。全身で受け止めようと必死でもがいたは、どこまでも純粋だった。
宍戸も、長太郎も、跡部も、ジローも……ようやくこの世界に、滝がいないことを実感した。
もう2度と、あの優しい笑顔は見られないのだ。
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