◆◇ 17 優しい幻


忍足の家は医者の一家で、親戚も医学に関係する人ばかりだ。
忍足家の長男として生まれた時点で、忍足も医者になることが決まっていた。そう、生まれる前から、それは決まっていたのだ。
子供にも厳しく指導熱心な両親。彼らは息子に外出の制限までしていた。
そんな忍足の遊び相手はいつも祖母である志乃だった。志乃は忍足に優しく、暖かさをくれた。
花火は、そんな忍足と志乃の思い出の1つだった。

「花火は嫌いや。すぐに消えて、おもろない」

志乃は忍足の頭を撫でて、語るように言った。

花火のどこが嫌いなん?花火は一瞬しか輝けん。せやけど、それが花火やろ?一瞬でも、ええ。目が眩むほど輝ける人間におまえはなるんやで。わかったな、侑……」

志乃の凛とした横顔。それから忍足は花火が好きになった。そして良く2人は夏に花火をするようになった。
ところがある日、いつものように花火をしていると、志乃が突然苦しみ出した。

「ごほっ!ごほ……っ」
「ばあちゃん!?」

祖母は呼吸器官が生まれつき弱かった。それなのに、孫と花火をするために黙っていたのだ。花火の煙は志乃の肺を痛めつけた。
志乃はその日を境に定期的に寝込むようになった。

「だから花火は嫌いや……」

忍足は電車に揺られながらそう呟いた。
大きな河にかかる橋の上を電車は渡っていく。地方の花火大会なのだろうか。その河の上で花火が打ち上げられていた。ドーン!という大きな音がビリビリと耳に響く。大輪の菊が夜空を明るく照らし、咲き乱れた。パラパラと音を立てて消えていく。
電車の中の人々はそれを見て笑顔になった。だが、忍足だけは花火を見ることは無かった。手の中にある大阪行きの切符が、花火の光りを受けて赤く染まった。















その頃、謙也は大学病院で苛立っていた。奥歯をギリッと噛み締めて、この状況に地団太を踏む。

「ええい!もう待てへん!いくら黙ってろって言われても、オレは侑士の事引きずって来るでッ!!」

薄暗い大学病院の廊下で、謙也の切羽詰まった大きな声が響いた。正面の病室にいるのは、命の炎を燃やし尽くしてしまう寸前の志乃だ。もう時間が残されていない事を、この場に集まった親族たちは知っていた。

「謙也、こんなことろで大声出したらアカン……!」
「せやけど、アイツがここにおらへんのやから……!」

母親に謙也がそう言い返したときだった。廊下に走ってくる足音が響く。やがて駆け寄ってきた1つの影が、足を止めた。必死の形相、肩で息をしているメガネの男―――忍足侑士だった。信じられないという顔をした親戚たちが、次々に『まぁ!』とか『まさか!』と声を漏らしながら立ち上がった。

「はッ、はッ!は……ッ!」
「侑士!?おま……ッ何で……?!いや、そんな事はどうでもええ!今、丁度自分を連れてこようとしてたところ―――」
「志乃ばあちゃんは……!?具合どうなん?!」

忍足が謙也の言葉を遮り、飛びつくように彼の肩を掴んだ。

「何で自分、その事知ってるん?ばあちゃん、ずっと自分には黙ってろって言ってたはず……」

謙也が驚いていると病室の扉が開いて、中年の細身の医者が出てきた。その表情はとても険しい。忍足を始めとして、この場にいる全員の顔が凍りついた。

「侑士……」

中年の医者―――忍足の父は、息子の名前を力なく呼んだ。忍足の汗がポタっとつるつるとした床に落ちる。忍足は病室の入り口を見て、それから父親を見た。
父は、首を横に振った。
息を飲み、唇を噛んで忍足は病室へ飛び込むように入った。緑のカーテンを開けると、忍足の母親が泣きながら親戚たちのように俯いていた。





白梅香の懐かしい香り。





久しぶりに見るその顔には、白い布が被せられていた。





「そんな……。ばあちゃん……」

だらんと横たえられた白いその手に触れた。
まだ微かにそれは温かかった。














岳人からのメールで寮の部屋に戻っていたは、テニスコートに向かった。
丁度部室から岳人と跡部が出てきたところだった。すでに2人は制服に着替えていた。

「あの!忍足さん、今日戻ってくるんですか?」
「らしいぜ。ほら」

岳人が差し出した赤い携帯のディスプレイには忍足からのメールが表示されていた。無機質なデジタルが『今帰る』とだけ告げていた。は少し安心した。
気づくと、忍足が大阪に向かって1週間になっていた。

「アイツ、オレ様の屋敷にいながら何も言わずに出て行くとは……いい度胸してるじゃねぇの、あーん?」

だけは知っていた。彼が並大抵のことで出て行ったのでは無い事を。

「詳しいことは何も……?」
「本当にこれだけだぜ。まぁ、今日戻ることがわかっただけでもいいんじゃね?あいつ、割と周りのことに目がいかなくなるときがある」
「……、わかる気がします」
「あ、先輩来てたんですね」
「鳳くん、それに宍戸さん」
「よっ」

着替え終わった2人が部室から出てきた。2人は首にタオルを下げている。

「忍足さんが今日戻ってくるって聞いたから……」
「何時かはわからねぇけどな」
「ですね」

は皆と別れて教室へ行った。そこは忍足がいるはずの教室。何となく足が此方へと向かってしまった。
今は夕方6時というわけで誰もいない。窓を開けて外を眺めた。日が半分ほど地平線に飲まれ、世界が1番赤く見える時間。はこの瞬間が1日の中で1番好きだった。





今は別の理由で嫌いなんや。





普段が笑っている姿ばかり見せていた彼。

「忍足さん……」

ぽつんと呟いた。
その声に反応してか、甘い香りが鼻先を掠めた。





甘くて、儚い寂しさを秘めた香り。





強く、強く、感じる。





それは、今まで何度も現れたもの。





は窓枠ぐっと掴んだ。
背後に何者かの気配を感じる。





少しだけ……。





「え……っ?」





少しだけやから。





ごめんな……。






「!」

はバッと後ろを振り向いた。















忍足が氷帝にまでの道のりをぼんやり歩いて到着したのはもう夜の8時を過ぎたころだった。氷帝の校舎はすでに電灯は消えており、真っ黒な巨大な箱になっていた。寮のほうは灯りがカーテンの隙間から見えて、ほんのり明るい。忍足は寮へ行く前に両手で頬をぴしゃりと叩いて、いつもの笑みを浮かべた。いつもの軽快な足取りで、歩き出す。
寮の門前の外灯の下に誰かが立っていた。羽虫が外灯の下で騒いでいる。その人物の顔が影っていてよく見えないが、距離が5メートルほどになると、それが誰なのかがようやくわかった。
クセ毛のおさげ髪。メガネをかけた少女。

ちゃん……?」

は声をかけられると、何も言わずに伏せていた目を開けて忍足を見た。真っ直ぐに。
忍足はハッとなって笑った。

「何してるん?もしかしてオレんこと待っとったとか?いやぁ嬉しいわ」

は無言で見つめ続ける。忍足は力なく『ハハハ』と笑うと、それからため息を吐いた。

「オレな……、ばあちゃんと昔ケンカしたんや。そらもうつまらないガキの理由やった」

中学1年になった冬。父親に反抗した。生まれる前から決まっていた人生、医者でありながら苦しんでいる大好きな祖母の病気を治せない父親。
将来のことで言い争っていたあの日、忍足は唯一の味方で理解者だった祖母の元へ逃げ込んだ。

「今思えば……甘えてたんや、自分」

初めて祖母に頬を叩かれた。『逃げんで向かっていかなアカン!』と怒鳴られた。

「ばあちゃんにかんしゃく起こして、その次の日からばあちゃんと口きかず、今日まで過ごしたんや」

東京へ引っ越しをする日、背後で祖母の声を聞いた。『侑!』と名前を呼ばれても、忍足は振り返ることもせず、振り向きもせずに走って逃げた。
声から、姿から、あの白梅香から逃げた。

「それであの夜ちゃんに言われるまでな、いろいろすっかり忘れてたんや。ばあちゃん……あのときからもう長くなかったのにやで?情けないやろ?」

日に日に弱る身体を起こし、孫と過ごす時間を何よりも愛していた祖母。

「連絡が来なかったのは、ばあちゃんの意思やってん。オレにだけは言ったらアカン!てな……。アホみたいやろ?」

忍足は走った。けれども、間に合わなかった。祖母が旅立ってほんの僅かな時間だった。
もう、忍足は笑えなかった。笑おうとして、顔が歪む。

「オレはばあちゃんの元へは戻らなかった。葬儀も、家に閉じ籠ったままで……。結局振り切って、ここに帰ってきた。帰ってきたんやで?」

顔を伏せた忍足の声が震えていた。

「ばあちゃんが死んでも、逃げ続けているオレは、やっぱり許されへんよなぁ……?」

ぐしゃっと髪を掻き上げる。

「ホンマにばあちゃんもアホや。死ぬ前に文句言ってしばけば良かったんや。ホンマに……アホ……、アホやオレはっ!!」

忍足はまだ知らなかった。
いつかまた会う日が来ると、そう信じていたからこそ、先延ばしにしていた。
逃げていた。
死が永遠で、永遠がどういうことなのか、わかっていなかった。
ここでようやくの薄い唇が動いた。





鼻先を掠める、白梅香。





『 侑 』






ゾクリ、と鳥肌が立った。
忍足は顔をガバッと上げて、を凝視する。
祖母と同じ呼び方。同じ声で、忍足は自分の名前を呼ばれた。
姿形はどう見ても14歳の同級生。しかし忍足は疑問を持つことも全て忘れて、常識も全て取り払って、その声が誰なのかを認知した。
言わずとも、それはわかるだろう。

「志乃……ばあちゃん……?」

の姿に、忍足は祖母の姿が重なって見えた。
は―――志乃は忍足にゆっくりと近づくと、スっと静かに忍足の頬に触れた。そして、愛しそうに何度も撫でる。温かな指先の感触に、忍足は涙を零した。

『ごめんな侑……、痛かったやろ、ここ。ホンマに、ごめんなぁ……』

その仕草が、その優しさが、その温かさが、忍足の全てを溶かしていく。

「ばあちゃん……っ!オレこそ……ごめんな!!」

忍足はその手を握り締めて、祖母に謝った。
その姿は、いつも見せる余裕などどこにもない、ただの孫の姿だった。
志乃はにこやかに、穏やかに微笑むと、それからふっと目を閉じる。
の身体が、糸が切れた操り人形のように傾いた。忍足はそれを受け止めると、の顔を覗き込んだ。その眠る表情は中学生の少女の寝顔。白梅香の香りも、もうしない。
忍足は夜空を見上げる。丁度祭りの花火が打ち上がった。キラキラと空を輝きでいっぱいにする。ドーン!と鳴り響く音が心地良い。





忍足はこの日を境に花火を好きになれた。















滝の家からでも、その花火は見ることができた。和風の屋敷にはとても似合う光景だった。まさに夏の風物詩である。

「花火か。綺麗だよなぁ。オレは好きだぜ」

同意を求めるように男は滝に話しかけた。滝は男に視線をめぐらせることも無く無視した。
その態度に男が押し殺すように笑った。

「おいおい、シカト?」
「馴れ馴れしくするな。オレはお前にかまっている暇なんか無い」

ぴくっと男が反応するのに気がついて、滝は振り返った。悪意に満ちた存在が立っている。手に汗が出た。
口が裂けるほど男は微笑んだ。





「今に死ぬほど構わせてやるからさ」





花火がまた夜空に輝いた。




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