綾部のかーちゃん・つー


忍術学園のいつもの朝の風景。
食堂でカツオ節の出汁が良く出ている味噌汁をすする生徒たちの姿がある。4人掛けの席に向かい合わせで座るのは、一際目立つ4年生の4人組だった。
タカ丸は向かいで香ばしい鮭の切り身を頬張っている綾部を見て、『あれ?』と首を傾げた。

「綾部くん、なんか今日いつもと違うね」
「ん?そういえばそうですね。いつもは寝癖ボサボサの頭で、すごく眠そうにしてるはずだ」

三木ヱ門も綾部の変化にはたと箸が止まる。
普段の綾部ならば、朝の食堂では鳥の巣のような寝癖の髪を適当に括り、猫のような目も半分しか開いていない状態である。そして朝食を食べる頃に完全覚醒するため、そのまま部屋に一度戻って支度をするのだ。その度に意外と面倒見の良い滝夜叉丸が綾部の身支度を手伝っている。
滝夜叉丸がゴホン!とわざとらしく咳払いをして見せた。

「その真相は私が知っている!それはだな―――」
「わかった!さんが来るんでしょ?」

タカ丸がポンと両掌を合わせて嬉しそうに言うと、滝夜叉丸は人差し指を天井に向けたポーズのまま椅子から転げ落ちた。その際の振動で味噌汁が零れたりしないように、三木ヱ門は素早くお椀を持ち上げた。

「タカ丸さん!それ私の台詞ですよ?!」
「え?ああ、それじゃ僕の予想は当たり?」

綾部はタカ丸の問いかけに頷いた。

「文を実家に出しました」
「へぇ、珍しいな」
「え?綾部くんは実家に手紙あまり出さないの?」
「文を書いているところなんて同室の私も見た事がありませんでしたよ。でも、この前コイツ文を実家に出してたんです」

入学してから綾部と一緒に生活してきた2人が言うのだから、これは大変珍しい事のようだ。それ以前に、頻繁に文を実家に送っている綾部の姿は想像出来なかったが。

「学園長先生が将棋の相手を探していて……」
「学園長先生の将棋の相手って……。お前まさかそんな事のためにさんを呼んだのか?」

学園長はいつもヘムヘムと囲碁や将棋をしている事は知っている。しかし、そのためだけに学園から山1つ離れた場所に住んでいるを呼ぶのは流石に三木ヱ門もぎょっとした。

「でも、さんは『良いよ』って返事をくれたんでしょ?」
「はい」
「だったら良いんじゃないかな。綾部くんのお母さんなんだし」

今話題に出ているは綾部の母親だ。正確には、綾部の父と2年前に結婚した後妻にあたる人物である。
まだ年若く、綾部と血の繋がりが無く似ていなかったため、以前綾部の恋人や許嫁と勘違いされた事がある。

「母上は将棋が趣味だと前聞きました。学園長先生のお相手にはぴったりだと思ったんです」
(……まぁそういう事にしておこうかな)
「タカ丸さん?」
「何でもないよ。それより、早くご飯食べちゃおう?さんが来るまで部屋のお掃除しないとね」
「はい」
「とか言って、掃除は私にやらせるつもりだろ?!」
「……」
「沈黙は肯定と一緒だぞ、喜八郎」
「掃除宜しく」
「「「……」」」















正午を少し過ぎた頃、忍術学園の門の前で掃除していた小松田が綾部を手招きした。

「おーい、綾部くん!お姉さん来たよ!」
「姉じゃありませんけどね」

笠を被った20歳そこそこの女性が、綾部の姿を見つけて駆けて来た。美しい黒髪が背中で踊っている。

「小松田さんこんにちは。それに喜八郎くん!ここでずっと待っててくれたの?」
「はい。(皆が掃除してくれたから)何もする事無かったので」
「そうだったの。ごめんね、もっと今度からは早く来るようにするわ」
「お姉さん、ここにサインをお願いしま〜す」
「あ、はい、わかりました」

は小松田に差し出された入門表にスラスラとサインをしていった。
白いはずのの頬が赤く、多少の汗が滲んでいる。綾部がぎゅっと唐突にの手を握ると、は驚いて振り向いた。

「母上、手が熱いですよ」
「走って来たからね。直ぐに冷めるよ」
「わざわざ走って来なくても良いです。学園は逃げませんから」
「それもそうね」

はくすりと笑って笠を取った。以前ここへ来たときは不安でいっぱいの表情だったのに、今では綾部にも柔らかい笑みを見せるようになった。
綾部は学園長の待つ庵に案内するため、の前に立って先導した。
の姿は人目を引き、が通る度に生徒たちの視線が集まる。自身の容姿も大変素晴らしいのだが、あの綾部が女性を連れて歩いている事がそれを上回っているようである。

「前もこんな風だったけれど、慣れないわ……」
「母上が綺麗だからです」
「き……ッ」
「き?」
「……喜八郎くんって、そういう事言う子だったっけ?」

恥ずかしそうに俯いて歩くは、人妻である事を忘れるくらい少女のようだった。

「実家はどうですか?」
「お父さんもお姉さんもお兄さんも、皆元気だよ。今度の休暇に喜八郎くんが帰ってくるって言ったら、すごく喜んでいたし」
「そうですか」





学園長先生の将棋の相手って……。お前まさかそんな事のためにさんを呼んだのか?





「あの……」
「どうしたの?」

綾部は足を止めて背中を向けたまま言った。先ほどよりも声のトーンが低い。

「ここまで来るのは大変じゃありませんでしたか?」
「え?全然そんな事無いよ。最近運動不足だったし、学園まで歩いたら良い運動になったわ。それに、喜八郎くんが文をくれるなんて思わなかったから嬉しかったよ。喜八郎くんの義母としては負けられないわ。学園長先生との将棋対決、頑張るね!」

はぐっと拳を握って強きな笑みを見せた。
だが、笑顔のとは逆に綾部の胸はズキンと痛んだ。もやもやとしたものが渦巻き、綾部は口をへの字にしてしまう。

「母上」
「はい?」
「今日、本当は―――」
「おお、待っておりましたぞ、綾部の母上殿」

丁度そこへ現れた学園長によって会話は途切れてしまった。
学園長は手に食堂のおばちゃんが作ったと思われる、ふっくらとした白いまんじゅうを盆に乗せていた。餡子の良い香りが2人を包む。
はぺこりとその場で頭を下げた。

「こんにちは、学園長先生」
「今日は良く来てくださいましたな。ささ、茶菓子もありますからわしの部屋でさっそく将棋を指しましょう」
「はい!」

元気に返事をしているの隣で、綾部だけが取り残されている気がした。口を開いたままの状態で突っ立っている。

「そうそう綾部」
「はい」
「さっきおばちゃんにお茶を頼むのを忘れてしまったんじゃよ。すまんが、おばちゃんからお茶を貰ってきてくれんかのう?」
「あ……。わかりました」

綾部は学園長に頼まれ、すごすごとその場から下がる。振り返ると視線がと視線がぶつかり、にこりと微笑みを返された。
綾部の胸の中で、また靄が発生していくと、自然に足が速まった。

(早く母上に話さなければ……)

食堂で皿洗いをしていたおばちゃんにお茶を2つ頼んだのだが、茶筒を開けて見ると茶葉が無くなっている。その後茶葉を仕舞った場所がわからず、綾部はおばちゃんと一緒に茶葉を探した。

「いったいどこへやっちゃったのかしらね〜」

おばちゃんは味噌の入った壺の裏に手を伸ばした。すると、指先に円筒のような形の物にぶつかる。パッと顔を輝かせて、おばちゃんは後ろで茶葉を探していた綾部に聞こえるように叫んだ。

「あったわー!ここよ、ここにあったのよ」
「見つかって何よりです。お茶を淹れていただけますか?」
「任せておきなさいって」

おばちゃんは上機嫌になり、鼻歌を歌いながらさっそくお湯を沸かしてお茶を淹れた。緑茶の青い匂いが食堂に広がっていく。

「気をつけて持って行ってね」
「わかりました」

思ったよりも時間がかかってしまい、綾部は内心焦っていた。盆に乗った熱いお茶を零さないようにしながら学園長の庵へ向かう。戸の前に来ると、パチリパチリと将棋を指す音と共に学園長の悩む声が聞こえてきた。
綾部はすっと戸を開けて中へ入る。

「お茶をお持ちしました。どうぞ」
「ありがとう、喜八郎くん。遅かったのね」
「茶葉を探していました」
「そうだったの。大変だったわね」
「いえ」

綾部からお茶をのんびりと受け取るの反対側で、学園長は眉間に更に深い皺を寄せて唸っていた。目の前の将棋盤を見ると、学園長の駒がすっかり丸裸にされ、王が完全にの駒で追い詰められているではないか。ここまでくると可哀想になってくる。

「母上殿はお強いですな……むむむ……」
「そうですか?お褒めいただき光栄です。でも、待ったは無しですよ?学園長先生」
「これは手厳しいのう」
「母上は勝負事には人一倍拘りがあるんです」
「負けず嫌いってやつですね」

勝負事に関わると、どうやら撫子は酷く子供っぽい顔を見せるらしい。
は綾部の持ってきた湯呑みをそっと持ち上げた。それを鼻先まで持ってくると、突然変化が起きた。

「う……っ」
「母上?」
「母上殿?」

は白い掌を口元に当てて俯いてしまった。湯呑みを盆の上に戻して顔を顰めてしまうに、綾部が労わる様に肩に触れる。

「母上、どうしたんです?」
「な……、何でもないわ」

何でもないとか細い声で答えるだったが、明らかに顔色が悪かった。の飲もうとした湯呑みを持ち上げ、綾部は匂いを嗅いでみるが、特にすっぱいわけでもない。ごく普通の緑茶の香りである。

「本当に何でもないから、大丈―――」
「!?」

の身体がぐらっと揺れる。身体を支える事が出来なくなり、が綾部の方へと倒れてきたのだ。
綾部はの右半身を自分の胸に寄せると、ぎゅっと腰に腕を回す。
の瞳は虚ろで、汗ばんだ額に手を当てると非常に熱かった。呼吸も乱れ、少々苦しそうに息を吐いている。
学園長は将棋盤を見つめているときよりも顔を険しくし、『これはいかん!』と叫んだ。

「綾部、直ぐに保健室へ連れて行きなさい!」
「はい!」

綾部の鋭い声が響く庵の中で、の意識は静かに遠ざかっていった。















保健室に運ばれたぐったりとするが目覚めると、目の前にはこちらをじっと穴が開くほど見つめている綾部の姿でいっぱいだった。

「喜八郎……くん……?」
「目覚めたようですね」

安心したように息を吐いて、のまだ熱い頬に触れる。壊れ物を扱うように何度か手を往復させる綾部の手が冷たく感じ、は目を細める。

「ここはどこ?私……、倒れてしまったの?」
「そうです。ここは保健室です。校医の新野先生がじきに来ます」
「そう……。もしかして、喜八郎くんが運んできた……?」
「はい。母上、もっと食べなくてはいけませんよ。軽過ぎです」
「ごめんなさい、面倒をかけてしまったわね……」

はぎゅっと眉を眉間に寄せて綾部に詫びた。瞳には涙さえ滲んでいる。なんとか微笑んではいるものの、声は涙で震えていた。
と同様に泣きたい気持ちの人物がいる。

「―――さい」
「え?」
「ごめんなさい」

綾部はの赤い頬に触れていた手を離し、拳を握る。俯いてしまっているため、ふっさりとした波打つ彼自身の髪のせいで表情は窺えない。特に声色も変わっていないように思えるが、には彼の僅かな変化に気付いた。

「どうして……謝るの?」

自分の体調変化に気付かず、失態を晒して迷惑をかけたのは自分だというのに。
綾部は俯いたままで淡々と言葉を吐き出していく。

「嘘を、つきました」
「嘘……?」
「はい。嘘です。学園長先生が、将棋の相手を探しているなんていうのは、僕がついた嘘だったんです」

綾部の脳裏に、文を書いているときの光景がぼうっと浮かんできた。

「ただ、母上に会いたかったんです。直接そう書いても、きっとあなたは来てくれたでしょう?」
「もちろんよ」

は言う事を聞かない身体に鞭打って深く頷くと、綾部が『やっぱり』と言った。

「……照れくさかったんです。13にもなって、母親が恋しいと思うのは」

照れているとは思えないほどに綾部の声は落ち着いていたが、その考えは思春期ならではといったものである。

「そんな理由で、母上を呼びつけるなんて……やっぱりどうかしてますよね。嘘をついてまであなたに会いたかったんですから。それに、母上の体調の変化にも気付けませんでした。あなたが倒れたとき、情けなさと後悔でいっぱいになりました」

甘えたい。
声が聞きたい。
名前を呼んで欲しい。

「自分のせいで、また(・・)失うかと思ったら……恐ろしかった」
「喜八郎くん」

綾部のマメだらけの手に、ふと熱く柔らかな手が重ねられた。目を見開いて顔を上げてみると、はくすりと笑って綾部の手を優しく撫でた。

「体調が悪かったのに無理をしたのは私だよ?それに……あの人から聞いたよ。喜八郎くんは、お母さんが死んでしまったのは、自分が生まれてきたせいだって思っている事」

綾部は母親の顔を知らない。名前も声も、何もかも。
それは、綾部を生んだ際にこの世を去ってしまったからだ。
これまでずっと父と兄姉たちと生活してきた綾部にとって、母親とは未知の存在であり、憧れの対象だった。

「喜八郎くん、あなたのお母さんはあなたに生まれてきて欲しいからあなたを生んだのよ。それは間違いのない事だわ」
「なぜ……そう言い切れるんですか?死んでしまったのに」

もしかすると、生んだ事を今頃天国で後悔しているかもしれないのに。
はきゅっと綾部の手を包み込む。

「あなたの名前、お母さんが今の際につけてくれたんですってね。喜八郎―――『8つ目の喜び』」
「?!」
「あなたが生まれて嬉しい。母親ってそういうものなのよ。だから、私も喜八郎くんから文を貰ってとても嬉しかった。今日、喜八郎くんに会えて嬉しい」
「母上……」

綾部の目が穏やかになっていくのを感じて、はにこりと笑う。目の端からは大粒の涙が一粒だけ零れ落ちた。

「母親を知らないあなただけじゃない。私も子供を産んだわけじゃないから、まだ母親にはなれていない。だから、わからない事も多いけれど、2人で家族になっていこう?」
「はい、母上」

綾部は小さく華奢なの手を強く握り締めた。それに応えても綾部の硬い手を握り返す。

「私もその考えに賛成ですよ」
「新野先生」

すっと戸が開いて校医の新野がやって来た。2人のやり取りを聞いていたのか、満面の笑みを浮かべている。

さん、少々問診と診察をさせていただきますね」
「はい、どうぞ」

綾部が汗ばんだの身体を後ろから支えて上半身を起こす。新野は聴診器を当て、丁寧にの身体を診察していった。その後いくつか質問をし、パッと目を輝かせる新野から次に飛び出してきた言葉は、2人に衝撃を与えるものだった。

「おめでとうございます」
「え?」
「ご懐妊ですよ、さん。元気なお子さんを生んでくださいね」
「ええええええーーー?!?!本当ですか……?!」
「ええ。なんとなく、学園長先生から様子を聞いたときからピンときました。匂いに対して妊娠中は敏感になりますし、さんはご結婚されて数年と聞いていましたので」

どうやら懐妊する全ての条件を満たしていたらしい。
は心底驚いているらしく、両手で頬を包むとさらに顔を真っ赤に染めた。恥ずかしそうに、でもとても幸せそうな表情である。綾部は無言だが、先ほどよりもずっと目を丸くしている。そしての腹部に自分の手を伸ばした。

「き、喜八郎くん?」
「ここにいるんですね……。新しい兄弟が」
「……ええ!」

は自分の腹部に当てられている綾部の手に自分の手を愛しそうに重ねた。
新野は懐から1枚の文を取り出して綾部に手渡す。

「これは学園長先生からの忍務ですよ」
「忍務ですか?」

こんな一大事に学園長は何を考えているのだろうか。綾部は内心ムッとしていると、新野先生は綾部の心境を察してか面白そうに笑った。

「『母上殿を実家まで安全に送り届ける事』。これが忍務の内容です。なるべくゆっくりとの仰せでしたから、親子水入らずの時間を大切にしてください」
「は、はい!」
「まあ、学園長先生ったら……」

学園長の粋な計らいにより、綾部親子はのんびりと実家へ向かって学園を出た。綾部はの手を握り、は自分の腹部に触れて新たな命の存在に目を細めた。

「喜八郎くんは、弟と妹、どっちが良い?」
「どちらでも構いません。弟でも妹でも楽しみです」
「そうね。私も同じ。……生まれたらね、名前に【喜】の字をつけようと思うんだ」
「それは良い考えですね」

2人はお互いを見つめて笑い合った。
実家では綾部とが持ってきた嬉しい土産話に胸を躍らせ、家族が増える喜びを盛大に祝ってくれた。
また少し綾部との関係が良い方へと深まり、こうして家族は出来上がっていくのだろう。


2010.08.22 更新