綾部のかーちゃん・すりー


は下ろしていた髪を手早く結わうと、たすきを外して家の外へ出た。外にはくるんとした長い髪の息子である綾部喜八郎が待っていた。

「ごめんね、待たせちゃって」
「そんなに待っていませんよ。それより行きましょう。夕暮れには帰らなくてはいけませんから」
「そうよね。それじゃあ行きましょうか」

こくっと頷いて綾部はの隣に並んで歩き出した。
2人は町まで買い出しに行くのだ。本来なら1人で行ける場所だが、綾部に付き添ってもらう理由は彼女の腹部にある。の腹部は不自然に膨らんでおり、妊娠8ヶ月目に入っている。そのため、重い荷物は他の家族に持ってもらっているのだ。

「休暇くらいゆっくりしていれば良いのに……」

綾部が学園で忙しい日々を送っている事をは知っている。その分実家では身体を休めて欲しかったのだが、市にが出掛けると知って綾部は一緒に行くと言った。
綾部はのふっくらした腹部を優しい目で見つめながら答える。

「母上は身重なのですから、僕が護るのは当然の事です。それに、僕が母上と一緒にいたいと思ったんです。母上と一緒に過ごす時間は、僕にとっての休息ですから」
「……ありがとう、喜八郎くん」

は胸の中にふわりと優しく熱が灯るのを感じ、嬉しくて微笑んだ。
後妻として綾部家に嫁いだ事やが母親にしては若かった事もあり、どう綾部家と接したら良いか悩んだ時期もあった。特に末っ子の綾部喜八郎は、常に無表情で何を考えているのかがわからず、困惑していた。長期休暇があっても実家に戻らず、は自分を避けるためだと思っていた。けれども戸惑っていたのは綾部も同じだったとわかり、いつしか家族としての絆を深めていった。今は子供を授かり、更に綾部家は賑やかになるだろう。

「疲れたら言ってくださいね」
「うん、そうする」

休憩を入れながら小道を歩き、ようやく町に到着した。町には人が大勢いて、全てが市を目当てに集まった人たちなのだろう。綾部はよりも少し前に出た。

「喜八郎くん?」
「母上は僕の後ろを歩いてくださいね。人とぶつかったりしたら危ないです」

綾部の優しさに触れ、はこの人混みを見ても安堵出来た。

「まずはお醤油を買って、それから赤ちゃんのおくるみ用の布を買いましょうね」
「はい。では、参りましょう」

綾部はそっと手を差し出し、はそれに自分の手を重ねた。思っていたよりも手が硬い事に内心驚きつつ、は綾部の後について行った。














市は大変な賑わいだった。大きな荷車を引いて歩く商人は、大きな声を張り上げて客を呼び寄せている。商人だけでなく、人が集まるところには軽業師や見世物小屋が建っていた。拍手を送る人たちの中を、綾部が掻き分けてその後をが歩いた。
ようやく人混みを抜け、は安堵したように溜息を吐く。

「ふう……、すごい人だね」
「母上、疲れていませんか?」
「そうね、少し。喜八郎くんは?」
「僕は全然平気です。鍛えていますから」

確かに綾部は全く疲れていない様子。しかし手には醤油の入った徳利を持ち、背中には大量の布を背負っている。おくるみを作るための布だったが、綾部がもっと背負えると言ったので、家族の着物用にと布を追加したのだ。それでも綾部はけろっとしていた。鍛えていると言うだけの事はある。
は茶店を見つけ、綾部に提案をした。

「あの茶店で休んでも良い?」
「はい、わかりました」

綾部と茶店に入ると、店員が注文を取りに来た。

「何にいたしやしょう?」
「私はえっと、お茶と羊羹を」
「僕はお茶と団子で」
「はい、わかりやした。少しお待ちください」

暫くすると、良い香りのするお茶と艶々の羊羹、そしてもちもちした団子が出された。は疲れていた分、羊羹は更に美味しく感じられた。
綾部は少し心配そうに言う。

「つわりは大丈夫ですか?」
「え?ああ、学園での事ね。大丈夫よ、つわりはもうないから。ときどきお腹の中で赤ちゃんが動くのよ」

綾部の手を取り自分の腹部に当てると、はにっこりと笑った。綾部は膨らんだ腹部に触れ、瞳を細めた。上下に摩るとピクっと腹部が震える。

「あ……」
「今動いたね。ふふっ」
「はい」

綾部が嬉しそうに返事をするのを見て、はくすぐったいような気持ちになった。

「この子が生まれてきたら、喜八郎くんはお兄さんになるんだよ」
「あ、そうでした」
「『そうでした』って……もしかして忘れていたの?」
「はい。生まれてくる事ばかりを思っていたので。でも、僕が兄に……。何だか不思議です。僕はずっと呼ぶ事はあっても呼ばれた事はありませんでしたから」
「そっかー。私も実は呼ぶ事はあっても呼ばれた事はないんだ。だから喜八郎くんがちょっと羨ましい」
「羨ましいって……、母上の子じゃありませんか」
「それもそうね。あははは」

思わず笑い声が出てしまった。いつもは無表情の綾部も、笑みを浮かべている。
ここで綾部がハッと何かに気づいたような顔をした。

「どうしたの?」
「今思いだしたんですが、この前の休暇のときに鋤を鍛冶屋に預けたままでした」
「じゃあ取りに行かないといけないわね」

立ち上がろうとしたところで、綾部に制される。

「母上はここで待っていてください。僕だけで大丈夫ですから」
「そう?だったらここで待っているわ」
「はい」

綾部は立ち上がって足早に人混みの中へ消えて行った。は綾部の背中を見送りつつ、残りのお茶を飲み干した。
暫くして、急に茶店の通りが騒がしくなった。人々が足を止めて同じ方向を不安そうに見ている。

(何……?)

は人が見つめている先を確かめるために立ち上がった。そして視線の先を目指して足を運ぶと、そこには数人の悪い面構えをした男がおり、誰かを取り囲んでいる。が更に身を乗り出すと、弱々しい老人が男に胸倉を掴まれて怯えていた。男たちは腰に刀を差した侍で、老人を威圧するように睨みつけている。

「このクソ爺!オレにぶつかっておきながら、謝罪も無しかよ!あぁん?」
「ひいっ……、お侍様、先ほど謝ったではありませんか……!どうかお許しください……ッ」
「はぁ?あんなので謝罪になるかって言うんだよ!!」
「侍相手に舐めた態度取りやがって、無礼打ちにしてやろうか?」
「そっ、そんな……!?」

侍たちにこの老人がぶつかったところは見ていないが、にもとんでもない言い掛かりである事はわかる。けれども侍の凶悪そうな態度を目の当たりにして、見ている誰もが異を唱えられずにいた。―――ただ1人を除いて。

「待ちなさい!」

は老人を庇うように間に割って入り、侍の腕から老人を解放した。強い意志を秘めた目で、は自分よりも大きな侍に立ち向かう。けれども握った華奢な拳は僅かに震えていた。

「白昼堂々、か弱いお爺さんに言い掛かりをつけて恥ずかしくはないの!?武士だったら武士らしく振舞いなさい!」
「何だとこの女―――」
「いや、待て」
「わあぁっ?!」

もう1人の侍がニヤニヤといやらしく笑いながら老人を突き飛ばす。老人に駆け寄ろうとしたが、男の視線はに向けられたまま。は負けじと睨み返すが、恐怖で心は負けてしまいそうだった。老人は悲鳴を上げて逃げ出す。
侍はの手首を強い力で掴み、自分に無理やり引き寄せた。顎を大きな手で捉えられて上を向かされる。至近距離に侍の悪い顔が迫った。

「農民風情にしてはなかなか良い女じゃねぇか。腹に子供抱えているのはちょいといただけねぇけどよ」
「な、何を―――」
「これから酒屋に行くところだったんだ。そこで酌をしてもらおうか。それでオレに無礼を働いた事は勘弁してやるよ」

この男の態度からして、酌をするだけでは済みそうにない。けれども力では叶わない。咄嗟には男の顔に唾を吐きかけた。

「ぐ?!……このッ!!ガキごとあの世に送ってやる!」
「……ッ!」

顔を顰めた男は激情し、の腹部を目掛けて抜き身の刀を振るった。凶刃からは我が子の命を救おうと腹部を庇う。その場に居合わせた全員がおぞましい光景に目を逸らした。
ギィン!という鈍い音が耳を突き抜け、が目を開けると小さくも大きな背中があった。ふわりと舞う癖のある髪は、見覚えがある。はその人物の名前を叫んだ。

「喜八郎くん!」

綾部は侍の刀を鋤の金属部分でしっかりと受け止めていた。

「何だコイツ……?!」
「…………」

動揺する侍を無視して綾部は鋤を振るった。派手な音を立てて刀が真っ二つに圧し折れ、衝撃に耐えられず侍は柄を落としてしまった。ビリビリと痺れるような手の感覚を受ける。
綾部はを背後に隠すように立ちはだかり、自分よりも大きな侍に遠慮も無く殺気を放った。綾部の背中にいるも、尋常じゃない綾部の態度に汗が出た。

「僕の母上と僕の兄弟に何をしようとしていた?」
「ガキが……!野郎共、やっちまえ!」
「「「おお!」」」

4人の侍が一斉に刀を抜いて綾部を取り囲む。しかし綾部は怯むことなく、むしろ鋤を握る拳に力を入れた。

「粋がるんじゃねぇよ!!」

最初の男が踏み込んできた。真っ直ぐに振り下ろしてくる刀を鋤の柄で受け止め、綾部は無言のまま弾き返した。そして鋤を持って回転すると男の脇腹に叩き込む。

「が……ッ?!」

そのまま流れるように向かってくる男の腕に打ち込み、刀を手放したところを狙って顔面を鋤でぶん殴った。その衝撃は凄まじく、歯が飛んだ。

「ぐはぁっ?!」

倒れた男には目もくれず、今度は横に薙ぎ払う男の攻撃を間一髪のところで後ろへ飛んで避けた。はらりと散った髪が地に落ちる。綾部は鋤を地面に突き立て、それを軸に強烈な蹴りを男の脇腹に決めた。

「ぎゃあああーー!?」

最後に残った男はうろたえ、じりじりと歩いてくる綾部に怯えた。その怯えを押し込めるように叫んで綾部に斬りかかる。

「でやあああああ!!」

突きを繰り出してきたが、綾部はその動きを既に読んでいた。横に避けると鋤で刀を叩き割り、止めの一撃とばかりに男の鳩尾を突いた。男は短く呻き、その場にバッタリと倒れてピクリとも動かなかった。
一瞬の出来事で、現場は騒然となった。も、綾部がこんなに強いとは思わず放心してしまう。
綾部はくるりと振り返ってに駆け寄ると、ひしっとを抱き締めた。

「喜八郎くん……?」

さっきまであんなに戦っていたというのに、綾部の身体は震えていた。

「母上……怪我はありませんか?」
「大丈夫よ!喜八郎くんの方こそ、怪我は―――」
「さっき、母上が刀を向けられたとき……心臓が止まるかと思いました。どうせ無茶をしたんでしょう?」
「うっ……わかっちゃった……?」
「もう僕がいないところで無茶をしないでください。いくつ心臓があっても足りません」
「ごめんね……。でも、助けてくれてありがとう」

は震えが止まる様にと願いながら、綾部の背中を撫でた。綾部はようやくから身体を離し、真っ直ぐに母を見た。母と言っても歳は姉と呼べるくらいしか離れていない。

「しっかりしてくださいよ。僕とお腹の子の母上なんですから」
「うん!」

綾部はの手を握り、も強く握り返した。そしてふっくらとした自分の腹部を撫で、誇らしい気持ちでいっぱいになる。

「それより、喜八郎くんって強いんだね……びっくりしちゃった」
「鍛えていると言ったじゃありませんか」
「それはそうなんだけど、でもやっぱり驚いちゃうよ」
「今度護身術くらいなら教えますよ」
「それじゃあ産後のダイエットのときに教えて!」
「無茶はしないでくださいよ、本当に」

にこにこと笑うの事をいつまでも見ていたいと思う綾部だった。


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