午前の授業が終わり、伊作はの部屋と化した保健室へ向かった。戸を開けると、既に食事を終えて戻ってきたは布団の上に正座している。新しく摘み取ってきた薬草の籠を落とさないように気を使いながら、によって用意されていた座布団に座った。
「キミが呼び出すなんて珍しいね」
軽く笑いかける伊作に対しては真剣な表情を崩さなかった。ほんの少しだけ口にする事を躊躇い、覚悟を決めたように口を開いた。
「昨日はありがとう。あたしの事、元気付けようとしてくれたんでしょ?」
「そんな大した事していないよ。それに、落ち込んでいたって何にもならないからさ」
伊作は、照れたように頬を掻いて目を細めた。下心の無い伊作の態度はの凍てついた心を解きほぐしていくようだ。
は敷布団を右手でぎゅっと握りしめ、暗い記憶を振り払うように首を軽く振って言葉を続ける。
「あのね、伊作……。あたし、伊作に今日は知って欲しい事があって呼んだの」
「ん?何だい?」
「あたし……実は、魔法遣いなんだ」
出会ったときから言えなかった事実をついには伊作に告げた。
は言い切ってからチラッと伊作の顔を見た。ところが伊作はの言っている意味がわからないらしく、薄茶色の瞳をぱちぱちと瞬きさせている。
「まほう、つかい……?何だいそれは?」
「えっと、つまりこういう事」
は、朝伊作が用意してくれた鉄製のヤカンに入った緑茶を湯呑みに注ぐ。ほわんと緑茶独特の青草の香りが保健室に漂う。そして、はたっぷりと緑茶の注がれた湯呑みを、伊作の目の前でポンと投げた見せたのだ。
「わぁああっ?!」
焦った伊作は思わず悲鳴を上げた。投げられた湯呑みは宙を舞い、重力に沿って逆さまに引っくり返る。中の緑茶も飛沫を上げて飛び出した。伊作が無意識に手を伸ばしたその瞬間、パキンという氷が割れるような冷たい音が響いた。
音に驚き振り返ると、の全身が淡く白い光に包まれていた。骨折していない右手を軽く前に押し出すようにしている。その小さな掌は特に光が集まって眩しかった。
真っ直ぐに前を見つめているはそのまま指さした。
「見て」
「あ……っ?!」
伊作はの指さす方を見て驚愕した。息を飲む光景。投げられた湯呑みが、投げられた瞬間のまま空中で完全に停止していたのである。緑茶の水滴1つ床に落ちていない、飛び散ったままの姿はまるで緑色の花でも開いたかのようである。湯呑みも逆さまの状態で重力に逆い動かない。
伊作は信じられないといった顔で、思い切りの方へ振り返った。
「これはいったい何が……?もしかして、がやっているのか?」
「そうよ」
はそう伊作に答えて、再び意識を空中で停止している湯呑みに注いだ。湯呑みは、時間を巻き戻したかのように、先ほど投げた動きをなぞりながら素早く戻っていく。気付いた時には、の手に収まっていた。一滴も中身を零さず、まるで最初からの手にあったかのように。
伊作の頭は、目の前の出来事を処理しきれずぐるぐると回りっぱなしである。は『はい』と伊作に湯呑みを手渡した。伊作が触れても、湯呑みは傷1つ無く、中の緑茶もたっぷりと入ったままだ。まじまじと見つめる伊作に、は少しだけ笑って言う。
「ただのお茶よ。毒なんて入ってないから」
「いや、別にそういう意味で見てたわけじゃないよ!」
「冗談よ、冗談。……これが、あたしの魔法。あたしは時間をほんの少しだけ弄る事が出来るの」
「時間を?」
「うん。さっきは湯呑みの周囲の時間を止めて、時間を戻したってわけ。だから中のお茶は零れなかった。遣えると言っても、せいぜい5分が限界。他にはこの湯呑みみたいに一部じゃなくて、空間全部の時間を操ったり出来るよ。かなりの体力が必要だけれどね」
「この不思議なキミは力を、『魔法』と呼ぶのかい?」
伊作の問いかけには黙って頷いた。改めて伊作は湯呑みを観察するが、先ほどのの証言を裏付ける証拠に変わりなかった。
「黙っていてごめん……。だけど……怖かったから」
堅く拳を握りしめているの姿に伊作は胸が痛んだ。労わる様に優しく声を掛ける。
「のその怪我は、もしかしてこの魔法が原因なのか?」
「…………うん」
忍務の途中、雨が降りしきる森の中で倒れていた少女―――。
彼女は全身に打撲や切り傷を負わされ、左腕は骨折という重傷の状態だった。
忍術学園で治療はしたものの、の受けた心の傷は、身体よりもずっと深かった。それは、ずっと傍で看病してきた伊作が1番良く理解している。
なぜはこんなに怪我を負わなくてはならなかったのか?いったいどこで何をしていたのか?
心の傷は彼女が何らかの暴行に巻き込まれたときの記憶に関係しているため、聞くに聞けずにいた。伊作がに気を遣って聞かずにいてくれていた事を、本人は良く理解している。自身が話さない限り、何が起きたのかは永遠にわからないままだ。
そのが神妙な顔で伊作に言った。
「信じられないかもしれないけれど、あたしはこの時代から数百年先から来た……未来の人間なのよ」
「数百年後?!未来だって……?!」
から語られる話に伊作は目を丸くしてしまう。突然魔法使いと言われたり未来から来たと言われたりすれば当然の反応だが、はその反応も仕方ないと割り切っているようだった。
(驚くのも無理ないよね。…………伊作が裏切り者として有名になる事は言わない方が良いし、黙っておこう。言っても信じてくれそうに無いけれど)
これから先起こるであろう未来の話を、当然は知っている。けれども、過去の人間に知らせてしまうのは未来に大きな影響を与えてしまう事になる。
は肝心の部分をオブラートに包み、話を続けた。
「伊作……、信じられないかもしれないけれど事実よ。あたしは数百年後から来た」
「でも、いったい何をしにここへ……この時代へ来たんだ?」
「し、信じてくれるの?!」
伊作の一言には身を乗り出して驚いた。
「どうしてが驚くんだい?」
この反応に伊作は苦笑いを浮かべる。
「え?あ……、だって、そう簡単に信じられるような事じゃないと思って」
「が見せてくれた魔法は、そういう事も可能にしてくれるものだと感じたからだよ。未来から来たという話も、信じて欲しかったから僕に見せたものだろう?」
「それはそうだけどね、こうもアッサリ信じてくれるとは……」
「……?」
は伊作を改めて見つめる。
薄い色素の柔らかそうな髪も、同じ色の優しさを帯びた瞳も、先ほどの態度も言葉も、の時代に伝わっている裏切り者とはまるで別人だ。裏切るどころか、彼はとても信用出来そうな素朴で温かい心を持った少年である。こうして話している自身も、それを十分理解している。最初はどちらの伊作の名を呼んでいたかわからなくなったが、今では伊作と言えばこの伊作の事だ。
(本当に伊作って不思議な人……)
歴史は間違って未来に伝わる事も多々ある。もしかすると今頃現代では、新しい歴史が刻まれているかもしれない。
「?」
「あっ……、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫?」
「平気平気、あははは……」
心配そうに覗き込む伊作に、は適当に言葉を濁した。
「未来からって言ってたけれど、いったい何をしに?何か目的があるんだろう?」
「?!」
確かに伊作の言う事は尤もな話だ。数百年の時を超えて来たのなら、それなりの理由があるはず。は顔に出ないように努力しつつ頭をフル回転させた。
(夏休みの宿題……っていうのは言っても大丈夫だろうけど、そのテーマが【裏切り者の伊作】だって事は隠さなくちゃ……!)
言わずとも、まさか伊作も自分が裏切り者として後世に名を残そうなどと想像もしていないだろう。
「夏休みの宿題でね、昔のこの辺りの地理とか……っそういうものを調べようと思ったんだよ。だったら現代で調べるよりも、過去に行って直接見た方が手っ取り早いでしょ?」
「なるほど、百聞は一見に如かずっていうわけだね」
どうやら伊作も夏休みの宿題をした事があるらしく、うんうんと頷いて納得した。宿題というものはどこの時代にもあるらしいのかもしれない。は心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「この時代の回顧録が見つかって、それを読んで、疑問に思ったりしたからね」
「キミの時代で言ったら、数百年も前の本?!よく残っていたなぁ……」
「確かにそうね……。まぁとにかく、あたしは数百年前にやって来たわけなんだけれど―――」
そこまで話しての顔色が青く変わった。伊作が労わる様にの肩に触れると、一瞬だけ震えたがそのまま伊作を見つめる。
「、無理しなくても良いんだよ?」
「ううん……。いつかは話さないといけないと思っていた事だから」
伊作の気遣いに少し安心したのか、は記憶を辿っていった。
「あたしが過去―――この時代に辿りついたとき、最初に聞いたのは子供の泣き声だった」
「子供の……?」
「うん……」
突如森の中に白い閃光が走った。瞬く間にその光は収まり、ただ1人の少女が立っていた。時空転移して数百年前のこの世にやって来たである。
初めての大きな時空移動には、流石に魔法遣いの身であっても行った事は無かった。故に興奮のあまり息が上がる。
肩で息をしながら周りを見渡す。先ほどまで自分がいた世界とは違い、高い無機質なビルも無ければアスファルトの堅い道路も無い。あるのは伸び伸びと育った緑の茂る森と、木の葉が積って出来た土である。
木漏れ日の中、はようやく気を静めて手の中にある砂時計を見つめた。普通の砂時計とは違い、いくら砂が落ちても一向に溜まらない不思議な砂時計。それがを過去へと導いたのである。
「本当に、来れた。ここが……、数百年過去のあたしの町なんだ」
しばらく放心状態でこの光景を見つめていると、どこからともなく何かの音が聞こえてきた。
「何……?」
は、もう一度その音を聞こうとして意識を集中する。
続けてまた聞こえてきた音は、鳥の声でもない、木の葉が風で揺れる音でもない。甲高い子供の泣き声だった。
「子供の声?何でこんなところで?」
は砂時計を制服のスカートにあるポケットに仕舞うと、声がする方へ向かって地を蹴った。草を掻き分けて走れば、徐々にその泣き声は大きく近づいてくる。まるで火がついたように泣き叫ぶ子供の声。思わず耳を塞ぎたくなってしまうが、我慢しては慣れない森を走り続けた。
やがて、少しだけ開けた場所に辿り着いた。視界の中央に一際背の高く逞しい木が姿を見せる。見上げてもてっぺんが見えてこないほど、それは見事な巨木だった。
子供の泣き声はそのてっぺんの方から聞こえてくる。は西日の強い木漏れ日の中、目を凝らして上を見上げた。巨木のてっぺんに近い枝先に、泣き声の主と思われる子供が泣き喚いていた。
のいる地上からは良く見えないが、洋服ではなく子供はこげ茶色の地味な着物を纏っており、ここが600年前である事を示していた。
「うわあああん!!うわあああああーーーんっ!!助けてええーーーー!!」
木の上で泣いてると言ったら、降りられなくなって泣いているとしか思えない。は思い切り息を肺に収めると、一気に吐き出して呼びかけた。
「そこのキミ!大丈夫?!」
「ふえっ?!」
いきなり声をかけられた子供はビクッと肩を震わせてこの瞬間だけ泣き止んだ。けれどもの姿が豆粒ほどに遠い地上を見下ろし、再びドングリのような目から大粒の涙を零して泣き叫んだ。
「とても話が出来るような状態じゃないわね、コレ」
「うわああああああん!!!」
子供はパニックに陥っており、いつ木から落ちてもおかしくないだろう。小さな子供の体力なんてたかが知れている。しかし、はあの子供くらい小さい頃にしか木登りはした事が無い。下手に登って落ちたりすれば、自分の方が危ない。
「手を放しちゃダメよ!しっかり握ってて!」
「無理だよおおお!!うええーーーんッ!!」
がどうすべきか迷っている間にも、子供の手は痺れてくる。下で見ているだけのは焦りで眉を寄せた。
「うわあああん!!兄ちゃん!兄ちゃあああん!!怖いよーーーッ!!」
「あッ?!」
子供が更に大声で泣いたときだ。
「わあああああああああーーーー?!?!?」
子供は遂に手を滑らせて背中から地上へ向かって落ちてしまった。
「―――ッ!!」
重力に逆らう術を持たない子供は真っ逆さまだ。子供も覚悟を決めたのか大きな目を力いっぱい閉じ、心の中で絶望しながら今世に別れを告げる。
だが、彼女だけは、
その重力に逆らう能力を持っていた。
「止まれッ!!」
茜色に染まる森の中に、の鋭い声が響いた。
淡い光を帯びた掌を目標である子供に向ければ、の言葉を具現化するように落下が止まった。空中で完全に停止した子供は突然気持ちの悪い浮遊感が消え、何事かと目を開ける。
「?!?!」
子供は自分がほんのりと温かい光に包まれているのを知り、驚きのあまり言葉が出ない。下手に泣かれるとまた手間がかかるので、そのままは胸の内で『ゆっくり』と念じる。子供はの意志通りゆっくりと落下していった。子供がきちんと地上に降りるのを見届けてから、一点に集めていた意識を散らせる。
「大丈夫だった?」
「ひっく……、うわあああん!!怖かったよおおおーーー!!!」
子供の傍にしゃがむと、子供は大きな目にを写すと今度は安堵から涙で頬を濡らした。は子供の扱いに慣れていなかったが、ふわふわとした黒髪の小さな頭を撫でた。
(なるべくこの時代の人に見つからないようにしたかったのに……!でもやっぱり今のは不可抗力だよね?!)
未来とは小さな過去の綻びから大きな時代の波を生み出す事もある。時を操る魔法遣いは特にその事を十分に理解していなくてはならない。学校でも耳にタコが出来るほど言い聞かされてきた。それだけ時を操る魔法遣いは社会的にも注目を集めている。
(10歳にはなってないって感じだな。子供がここにいるって事は、村が近い?…………いやいや!?こんなに小さな子供が独りでこんなところにいるわけないじゃない!!)
咄嗟に立ち上がって振り返ると、同時にガサッという嫌な音が聞こえてきた。
「いったい……今のは何だ?!」
「あ……?!」
蹲って泣いている子供と目付きや鼻筋が良く似ている、ほんの少し成長した感じの子供だ。恐らく未だ泣いている子供の兄だろう。気が強そうだが、無垢で活発な印象である。
兄はあんぐりと口を開けてを疑惑の目で見つめていた。
(これは完全に見られたな……)
これだけ驚いているのだから、きっと子供を助けるために葉子が魔法を遣ったところを見ていたのだろう。のいる現代世界でも、魔法は世間に知られているものの遣えない人間にとっては未知の力に違いない。ましてや、テレビも新聞も無い情報が隔離された環境で生活している村人ならば、魔法遣いや魔法を目の当たりにするのは珍しいはずだ。
(何て言えば〜〜〜?!)
返答に困っていると、その落ち着かない沈黙を高い声が破った。
「兄ちゃん!!」
弟は涙と鼻水だらけの汚れた顔をパッと明るくし、兄の元へ走って抱きついた。兄は正面から抱きつかれてしっかりと腕を回した。敵意の視線をに向けたままで、腕の中の弟に問いかけた。
「おい、大丈夫か?!何か酷い事されたりしていないか?!」
「大丈夫だよちゃん!どこも痛くないっ!」
自分の無事を主張し、弟はに可愛らしい笑顔を見せた。
「にーちゃんも見てただろ?あのねーちゃんが、オイラを助けてくれたんだよ!」
「ど、どーも……」
「…………」
作り笑いを浮かべているを、兄はじっとさらに注意深く見つめてくる。遠慮のない視線にが耐えられなくなった頃、ようやく兄は敵意を少し解いてくれた。弟の小さな手をしっかりと握り締めて、素直に頭を下げた。
「弟を助けてくれて……ありがとう……」
声は小さかったが、の耳にその言葉は届いた。
「いえ、全然気にしないで良いから。そろそろあたし―――」
「ねーちゃん、お礼がしたいからオイラたちの村においでよ!」
「へっ?!」
予想もしない申し出に、は思考が停止してしまった。だが、その意味を理解した途端額に汗を滲ませて首を振った。
「大丈夫よそんな事しなくたって!お礼をされるような事してないし!」
「弟を助けてくれた恩人だからな。お礼ぐらいさせろよ」
「そうだよ!ねーちゃん、お礼お礼!!」
は悩んだが、子供の申し出を無下にするのは躊躇われた。
(もしかすると、【裏切り者の伊作】がどこにいるのか教えてもらえるかもしれないわね)
この時代にわざわざ来たのは、夏休みの宿題をやり遂げるためだ。情報を収集出来るのであればその方が良い。
(もう見られちゃってるし……、いざってときは魔法でどうにかしよう)
は自分を納得させてから頷いた。
「名前は教えられないけれど……、それで良かったらお邪魔させてもらうわ」
「わーい!お客さんだー!!」
「案内するからついて来いよ」
「わっ?!足が速いよ!待って!」
は山歩きに慣れた子供たちの後を追いかける。たちを照らす茜色の太陽は、山の間に隠れていった。
まだ人を疑う事を知らないには、これから起きる惨劇を予期する事など出来るはずが無かった。