05:テンケイ

が忍術学園に来てから初めて保健室を出ることが許された。許されたというか、本人の体調が回復したため食堂で忍たまたちに彼女の存在について紹介をするためだ。体力もおばちゃんの美味しい病人食によって大分回復しつつある。目まで覆い隠していた包帯も、今は額に巻いているだけとなった。
を看病している少年―――伊作は先導するようにの前をゆっくりとした歩調で歩いた。ときどき振り返りながらの具合を覗う。

「本当は負担もあるし保健室で紹介すれば良いんだけれど、あそこに全員は入りきらないし、かと言っていちいち紹介を繰り返していたら大変だから……。ごめんね」
「……いえ、大丈夫」
「?」

の態度はどこか余所余所しく、伊作から少し離れて歩いる。骨折して固定されている左腕を庇いながら、包帯の巻かれている両足を少しずつ運んだ。
を助けてくれた少年の名前が善法寺伊作であることがわかった瞬間、は動揺を隠せなかった。青ざめていくに伊作は心配をして『大丈夫かい?もう休んだ方が良い?』と尋ねられれば、ただ頷くことしかできなかった。
その日、夜になってもは一睡もすることができず、ただ胸が騒ぐ音を聞いていた。まるで、あの夜(・・・)のような不安が脳裏を掠める。

(どうして……?あの人が、あの……悪名高い善法寺伊作だなんて……)

そう、ずっと看病してくれていた少年こそ、の時代にまで伝わっている【裏切り者の伊作】なのだ。
先導する伊作の緑色の装束に包まれた背中を見つめながら、はうろたえていた。

(名前を知るまで全然わからなかった。だって、そんな悪人みたいな雰囲気は全然感じられなかったし……)

伊作はその名前とは全く合っていない、人の良さそうな笑みを浮かべて自分を見ていた。が想像していたような、悪人面や態度はどこにも見えなかった。今でさえの体調を気遣ってゆっくり歩調を合わせている。

(もしかして、別人…………とか?)

もしかすると『善法寺伊作』という名前は、この時代では珍しくないのかもしれない。
はなるべく平静を装いながら伊作に問いかける。

「あの……」
「どうしたんだい?」
「この学園には、善法寺伊作っていう人は2人いるの……?」
「え?いや、いないよ。僕だけだけど?」
「そ、そう……」

確かに、同姓同名はこの広い日本の中に3人、もしかすると5人くらいはいるのかもしれない。しかし、この学園の善法寺伊作はどうやら彼1人のようだ。そして絵本にもなっている裏切り者は忍術学園の善法寺伊作なのだ。やはり、彼しかいない。は途端に背筋が冷たくなるのを感じた。

(そもそも、彼が善法寺伊作じゃなかったとしても、彼は忍者―――暗殺者の卵なんだから!油断させておいて、あたしに危害を加えようとしていても全然おかしくない)

のいた時代とこの時代は大きく異なる。こうしている間にも、何百何千という数の人が戦場で死んでいるのだ。こんな世の中で生きていくためには、暗殺でも何でもしなければ無理な話しである。世を渡るために愛想を振りまくことも重要。そうとなれば、のことを率先して看病しているのも裏があるということになる。

(信じて……また裏切られるなんて、もう嫌……!!だけど今は、ここから逃げ出したら逆に不自然に思われてしまうし、外の世界で生きていける保障も無い)

が今外へ魔法で逃げ出すことができたとしても、戦国時代と呼ばれる今の世では生きていけない。の微弱な魔法では太刀打ちすることは不可能だ。
元の時代に戻るための手段が、今のには無いのだから。

「手を貸そうか?」
「ッ?!」

スッと差し出された伊作の手が、脳裏の裏側にあったの意識を引き戻す。優しい声色もには地獄の底から聞こえる鬼の声に思えて、はその手を払い除けた。乾いた音が廊下に響き、伊作の目が大きく見開かれた。

「あ……、あたし……ッ」

遅れての瞳も見開かれ、気まずそうに視線を足元へ逸らす。きっと伊作は嫌な顔をしているだろう、そう思った。けれども伊作から発せられた言葉は―――





「大丈夫なら良かった」





を十分驚かせた。
明るい声にが思わず顔を上げて見ると、伊作はにっこりと優しい笑みをまた浮かべていたのである。
の体調が大丈夫なようで安心した、と言わんばかりだ。目を丸くしていると、伊作は再びに背中を向けて歩き出す。

「さ、行こう」

呆気に取られているだったが、慌てて伊作の後について行った。















食堂ではカラフルな色の忍装束を着た少年たちが昼食を取っている最中だった。混雑のピークは過ぎたようで、カウンターの前に並んでいる者はいない。
伊作は廊下で食堂の様子を覗い、の方へと振り返った。は小さな身体を更に小さくして小刻みに震えている。伊作はの肩にそっと触れて安心させるように擦った。

「大勢の人が怖い?」

はただ俯いた1度だけ頷いた。
子供たちの楽しげな昼食の会話も、今のにとっては恐怖に感じられるらしい。耳の奥がざわざわと不穏な音に変えていくのだ。

(無理も無いか……。恐らくさんは大勢の人間に執拗に追いつめられたんだろうし……)

伊作は『さん』と一声かけると、ゆっくりは顔を上げた。泣いてはいなかったものの、顔色は白くなっていた。

「中に入らなくても良いよ。入口で少し挨拶するだけだけだ。やってみようよ」
「うん……」

伊作はにあくまでも拒否権を与えなかった。
の恐怖心は人間から来るものだ。これから先生活していく上で人との接触は避けようにも避けられない。いつまでも心を閉ざしていては今後の生活に支障が出てしまう。ショックを与えないようにしながら、本人を諦めさせないことが肝心だと伊作は思ったのだ。も伊作が言いたいことがわかっているので返事を返した。
伊作は先に食堂へ顔を出した。

「皆、食事中だけれどちょっと良いかな?紹介したい人がいるんだ」
「あ、伊作先輩だ!」
「こんにちは〜」
「こんにちは!」

次々に伊作へ注目が集まる。子供たちの楽しそうな声が大きくなり、の心臓は強く脈打つ。掌に汗をかいてぬめる感触が気持ち悪くなってくる。
伊作はの方へ視線を向け、手招きをしてみせた。はぐっと唇を噛み、

(えぇい、もう行くしかない!)

食堂の入口から中へ一歩入った。の視界に幾人かの生徒たちが入って来る。うッと唸ってしまいそうになるのを必死で耐えると、眼鏡をかけた水色の忍装束の子供が以上に顔色を悪くした。

「わぁッ?!」
(な、何?あたし……何か変なことした?!)

悲鳴のような声を出されたは不安でまた汗が出てきてしまう。
眼鏡の少年は心配そうにのところまで寄って来ると、の包帯に巻かれて固定されている左腕を労わる様に擦った。この行動にはも驚いて固まってしまう。

「痛そうですね、大丈夫ですか?ずっと保健室の様子が気になっていたんですけれど……」
「え?ずっと……?」

言っている意味がわからず助けを求めて伊作を見ると、伊作は目を細めた。

「その子は1年は組の猪名寺乱太郎。僕と同じ保健委員の子で、怪我をしたキミのことを心配していたんだよ」
「え……?!」

見ず知らずの子供が、なぜ自分のことを心配するのだろうか?
は益々混乱した。けれども他の子供たちも自分からに近寄って来た。

「乱太郎から話を聞いていました!大怪我をしている人が保健室にいるって」
「でも、保健室から出られるようになったんですね!良かったです」
「まだ痛いですか?困っていることがあったら言ってくださいね」
「何か不自由していませんか?いつでも声をかけてください」
「ナメクジは好きですか〜?」
「こら!喜三太!!」

は、何をどう言えば良いのかわからなかった。何も言えずにいると伊作がの代わりに話し始める。

「はいはい、皆落ちついて。この人はさんって言うんだ。怪我が治るまでの間保健室が彼女の部屋になるから、保健室に用事があるときはもう少しあの臨時保健室を利用して欲しい」
「「「はーいっ!!」」」
「それから、今日はさんと一緒にお昼ご飯を食べてね。乱太郎、さんを席に案内してあげて。左近はさんの分の食事を持ってきてくれ」
「はい!」
「わかりました」
「え、あの……」
さんこっちですよ。ゆっくりで良いですから転ばない様に気をつけてください」

伊作はにこにこ笑いながらひらひらと手を振り動こうとしない。
は乱太郎の小さな手を借りて痛む足をゆっくり動かし席に座った。そして同時に目の前に本日のAランチ、出来たての焼き魚定食が置かれた。狐色になった魚から香ばしい匂いが漂い、の食欲を擽る。

(うっ!美味しそう……!!)
「それじゃあ後のことはよろしく頼んだよ、左近。僕は薬の準備をしなければならないから」
「わかりました。食事の後は保健室へお連れします」
「?!??!」

がおろおろしている間に伊作はさっさと食堂から出て行った。どうするべきか迷っていると、ぽっちゃりとした体格の子供が身を乗り出してきた。

「食べないんですかぁ?もし食べないんだったら僕が―――」
「た、食べます!頂きます!」

はお箸を貰って食事を始めた。保健室で食べたときと同じく、温かくて優しい味が腹部を満たしていく。
子供たちはニコニコと無垢な笑みを浮かべての様子を覗っている。

(何か変だ……この空気……)

まるで小学校に来たようなふわふわとした雰囲気が食堂いっぱいに広がっている。まるで自分が刺々しい警戒心を持っていることがおかしいみたいに。

(ここは本当に忍術学園何だよね…?)

が知るところでは忍術学園は暗殺者の育成所であり、自分を今取り囲んでいる幼い子供たちもその教育を受けているのだ。小さく柔らかそうな手にも刃を握る力くらいはあるだろう。そしては今怪我人であり、左腕に至っては動かすことはできない。

(油断しないでおこう……。相手が子供でも、刃物を向けられたら太刀打ちできないし)

には魔法がある。しかし、魔法を遣うためには精神の安定が不可欠。伊作を助けたときには遣えたのだが、調子が悪くて遣えないときもあった。体力もまだ戻っていない分だけ余計に魔法の成功は不安定になっているらしい。

(……この子たちはあの人と親しいみたいだったし……、ちょっと聞いてみよう)

は、隣に座ってお茶を飲んでいる乱太郎におずおずと尋ねた。

「あの、善法寺伊作、さん……のことだけど……」
「ああ、伊作先輩のことですか?伊作先輩はずっとさんのことを看病していましたよ。特にあなたが学園に来て1週間はろくに寝ていないんじゃないかなぁ」
「えぇ?!」
「今は保健医の新野先生が上級生の先輩たちと一緒に外出されているので、保健委員長の伊作先輩がずっとあなたに付き添っていたんですよ」

何となくずっと看病をしてくれていたことは知っていたが、改めて聞かされるとは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「あたし……、見ず知らずの人間なのに?」
「伊作先輩はそういう方ですから。戦場を通りかかると怪我人を片っ端から手当していくんですよ。敵とか味方とか、そういうのは関係無いみたいです」

驚いた。どうやら彼は気まぐれにを助けたわけではなく、普段から怪我した人を助けているらしい。まるでクリミア戦争で活躍した白衣の天使・ナイチンゲールのようだ。

(しかも敵味方関係無しって……)

自然とは思ったことが口に出ていた。

「それって、忍者に向いてないんじゃないの?」

にそう言われ、聞いていた乱太郎と左近は一瞬ポカンと口を開けてくすりと笑う。

「伊作先輩を見ると、皆さん同じようなことを言いますよ」
「僕たちもときどき傍で見ていてそう思うんです。でも、それが伊作先輩という人なんです。それに―――」
















「『そんな忍者がいても良いじゃないですか』、だってね……」

は途中までで良いと保健室までの断って1人で保健室へ戻る。まだ授業中のようで、茜色に染まる空の外からは子供たちの声が聞こえてきた。
食堂で伊作についてさまざまな話を聞いた。しかし、それはが知っている【裏切り者の伊作】とはかけ離れた性格をしていたのだ。悪意の塊と伝わっている善法寺伊作と、今自分を看病してくれた善法寺伊作は名前こそ同じでも全く別人に思えてならない。なぜなら恩人である伊作は悪意どころか善意の塊のような存在だからだ。

(わけがわからない……。ここは室町時代で、忍術学園も存在している。そして善法寺伊作だっているのに、まるで別人だとか……)

一瞬自分の魔法が失敗して別の時代に来てしまったのかと思ったが、善法寺伊作の性格以外は全て史実通りだ。

(だったら、あの人が笑顔の裏に悪意を持っていると考えれば全て辻褄が合うじゃない)

疑えば良い。
信じなければ良い。
隙あれば刃を向けてくる、そう思えば良い。

(でも……、あの優しい笑顔が嘘だと思いたくない自分も……確かにいる)





例え嘘だとしても、今はあの笑顔に縋るしかない。





保健室の障子を開けると、伊作が薬棚をいくつか開けて出来上がったらしい薬を仕舞っているところだった。くるりと振り返り、『お帰り』と言ってまた薬棚の方を向く。は布団の上に正座して一息吐いた。

「疲れたかい?動いたのは久しぶりだろう?」
「うん……まぁ、そんなところ」

それもあるが、今は精神的なものの方が大きい。何せ目的の人物がとても近いところにいたのだから。
伊作はそれっきり黙って作業を続けた。はその様子を横から眺める。夕日に当たって赤く染まった伊作の表情は何だか疲れているように見えた。

(……それってあたしのせいだよね?)

は思い切って話しかけた。

「作業中のところ悪いんだけれど……」
「何だい、さん」
「色々とごめん。あたしのせいで、随分疲れているでしょ?」
「え?いや……、さんの怪我の処置はもう終わっているし、そもそも疲れるようなことには慣れているよ」

煮え切らない言葉には首を傾げる。すると伊作は作業の手を止めてに向き直り膝立ちから正座をした。
改めて正面から見ると、中性的で端整な顔立ちをしていた。伊作はその端整な顔をへにゃっと困ったように笑う。

「ただ、少し考え事をしていたんだ」
「考え事?」
「うん。僕はキミを助けたこと自体には後悔をしていないし、むしろ助けられたことを良かったと思っている。すごくホッとした」
「あたしも……、助けてもらって良かった。すごく感謝しているよ」
「あ!お礼を言って欲しくてこんなこと言ったわけじゃないんだ!」
「わかってるって」

慌てた伊作は、に理解して貰えていると理解し、『良かった』と人の良い笑顔を見せる。しかし、次の瞬間その笑顔が崩れてとても疲れたような表情に変わった。が初めて見る、笑顔以外の伊作がそこにはいた。

「僕は……忍者を目指している。僕は、実習で人を殺したこともある」
「……」

人を殺したことがある。人殺しなどニュースの世界でしか知らないにとっては実感が湧いてこない。だが、それが真実だということはわかる。
伊作は自分の両掌を見つめて静かに言った。

「僕という人間は、人の命を奪える手を人間だ。それが自分の意思か命令かが違うだけで、人を殺す忍びを目指す者だ。だけど、僕はそれと同時に人を救いたいとも思っている。同じくらい強く…そう思っている。人は僕を矛盾していると言うし、僕だってそう思う。僕が助けた命が、僕の手で殺されることもあった……。それに、助けた人に怨み事を言われることもあった。『どうして助けたりしたんだ。こんな世の中でまた苦しめって言うのか』って…」

そこまで言うと、伊作はまた困ったような笑顔に変わった。色素の薄い色の目を細めて、何かを思い出すかのように。

「食堂の光景を見て、さんはどう思った?」
「え?えぇと、すごくふんわかしてて、あったかくて……」
「うん、そうだね。僕はあの空間がとても好きなんだ。でも、いつかあの子たちも大きくなって、僕と敵対関係になるかもしれない」





僕たちもときどき傍で見ていてそう思うんです。でも、それが伊作先輩という人なんです。それに―――





「僕は……そしたら、やっぱり殺すんだと思う。それが、忍者という闇に生きる者だろう?」





そんな忍者がいても良いじゃないですか。




伊作ははたと自分が口にした言葉の数々を思い出して誤魔化すように笑い、再び作業に戻ろうと薬に手を伸ばした。

「あはは……やだな、こんなことを聞かされてもキミが困るだけ―――」





伊作さんは、神様になりたいの?





「えっ?」

の言っている意味がわからない、という反応だった。しかしは真っ直ぐに伊作のことを見つめている。そこに笑顔は無く、真剣そのものといった具合だ。

「伊作さんは、つまり自分の許可無く誰にも死んで欲しくないってことでしょ?そして、自分が助けた人には絶対に生きて欲しい、と。それって、人間の域を超えて神様にしか出来ないことじゃない?」
「あ……」

伊作は自分が言ったことを改めて第三者視点で考えたらしく、目を見開いてを凝視した。
はあっけらかんとこう言った。

「伊作さん、人はあなたが助けようが助けまいが、殺そうが殺されまいが、いつかは必ず死ぬんだよ。それは間違いない事実だわ」
「!」

全ての生き物に言える話しで誰もが知っていることだというのに、まるで伊作は初めて聞いたみたいに驚いた。

「あなたが助けて殺したっていう人も、あなたが助けたからって人生の全てを掌握したわけじゃない。その後どう死ぬかどう生きるかはその人次第で、伊作さんは生きるきっかけを与えたに過ぎないよ。あなたがそこまで責任を感じたりするべきじゃない。『助けた』っていうことは、それ以上でもそれ以下もでない。その人のその後の人生まで考えるなんて、正直上から目線じゃないの?」
「そう……、だけど、でも…僕は……」
「人を……かつての後輩と敵対してしまったら、忍者だから殺す?バカなこと言わないでよ。どうして、そんなに答えを出そうとするの?あなたの言っていることはね、そんなに簡単なことじゃないはずだよ。これは一生悩むべき問題でしょ?」

は鋭く伊作を見つめた。

「もし悩むのを止めてしまったら、本当の忍者になれるのかもね」
「……」
「でもさ、あなたという人間は存在しなくなるとあたしは思うけど」

ビシッと指をさして伊作にが言ったところでハッとなった。相手は善法寺伊作で、それ以前に忍者を目指す者だ。怒らせてしまってはこちらの安全は保障できないことをすっかり忘れていた。
今になって慌てるはぐるぐると頭が回るばかりで何を言えば良いのかわからない。しかし、伊作はを責めることも手を上げることもしなかった。ただ黙って鼻をすすり、目元を拭って顔を上げた。そこにはが普段見ている伊作の穏やかな笑顔があった。夕焼け色になった伊作の顔にはスッと恐怖心が消えた。

「ありがとう、さん。僕……ずっと、死ぬまで悩み続けることにするよ」
「うん、そうして。少なくてもあたしは伊作さんに助けてもらって感謝しているからさ」

伊作は再び涙を滲ませて『ありがとう』と言い、心から安心したように微笑みを浮かべた。
その笑顔が、の心にも大きく影響を与えていることを彼は知らないだろう。














この静かな新月の夜は、誰もが動くことを止めて夢の中へと誘われる。
もしこんな夜に活動しているとすれば、それは夜行性の動物か忍者くらいのものだろう。
学園長の庵では、オレンジ色の炎が唯一の灯りとして内部をぼんやりと照らし出していた。今から話されることを思えば、この程度の灯りで丁度良い。
伊作は、畳に両手をついて上座に座っている学園長に、頭を深々と下げた。学園長は『楽にせい』と支持を出せば、再び顔を上げる。じりじりと蝋燭の炎が酸素を燃やす僅かな音が聞こえるほど、この空間は静かだった。
学園長は懐から少し土色の染みがついた文を取り出した。文に触れる音がやけに大きく聞こえる。

「例の村の調査報告書じゃ。伊作も後で読むと良い」
「……承知しました」

学園長に差し出された文を受け取り、伊作は懐へと仕舞いこんだ。その後は燃やして処分することも視野に入れながら。
昼間だととんでもない思い付きで生徒たちを混乱させる学園長だったが、かつては天才忍者と言われていただけあって貫禄がある。

「ところで……」
「はい」
「保健室で保護している、あのという娘はどうじゃ?」

口調は普段通りだが、伊作には空気が変わったと肌で感じ取っていた。
伊作は正座を崩さずに背筋を伸ばして質問に答える。

「はい。の怪我は全て治療を完了しました。後は経過を見るばかりです。しかし、それ以上に精神に大きな傷を追っているように見えます。怪我の様子を見る限り、彼女に危害を加えたのは単独によるものではなく複数であると考えられます」
「伊作」
「はい?」
「お前、わしが何を聞いているのかわかっていて答えているな?」

学園長の皺だらけの目尻が釣り上がるのを見れば、伊作も緊張が走る。
伊作は拳を握って、『申し訳ありません』と謝罪した。

「……の身元は全くわかりません。発見した際に着ていた着物も履物も奇妙で、見たことがない代物です。南蛮の洋装にしても、おかしな点が多く……。指先も綺麗で、農民などの庶民の出というわけではなさそうです。ただ、深く追求することは控えるべきかと」
「なぜじゃ?」
「彼女は先ほども申し上げた通り、精神的に大きな苦痛を受けました。取り乱して真意が読めないでしょう」
「なるほどのぉ……。しかし伊作、まだ肝心なことを言い忘れてはおらぬか?」

どうやら学園長は伊作が思うほど甘くは無いらしい。
伊作は視線を学園長の背後にある灯りへと移した。

「今はまだわかりません」
「先ほどの報告書には、テンケイの仕業である可能性もあると書かれておった」
「?!」

その言葉に反応して伊作が素早く学園長へと視線を戻せば、ニタリ、と笑う顔があった。

「伊作、あの娘のことはしばしそなたに任せよう。報告は怠らぬようにな」
「はい、わかっております」
「テンケイであるのであれば、取る行動は1つだけじゃ。わかっておろうな?」
「はい」
「下がって良いぞ」

学園長に両手をついて、また深く頭を下げる。





伊作さんは、神様になりたいの?





夕方に傷ついた少女の発した言葉。それが伊作の脳裏に蘇ってくる。

(今はとてつもなくそうなりたいと思う僕がいるよ)

顔を上げたのと同時に、伊作の姿は庵のどこにも無かった。




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