04:裏切り者の伊作

早朝、紫色の空が世界を包む頃には飛び起きた。
布団を跳ね上げて汗にまみれた熱い掌をぎゅっと胸に当てる。荒い呼吸で苦しそうに胸元を掴み、喉奥から絞り出すように呻き声を上げた。ガチガチと歯が音を立てて震え、ぎゅっと強く目を瞑る。
心臓が脈打つ度に感じる包帯の下の痛みに耐えようと必死に歯を食いしばった。

「大丈夫?」
「?!」

ふわっと肩に良い香りがする羽織をかけられハッとなる。が直ぐ隣を見ると、薬草の青臭さに気づく。すり潰した薬草が入った乳鉢を片手に持った、まだ大人になりきっていない少年が心配そうにのことを見ていた。
が何かを言う前に少年がの汗ばんだ額に手を当てた。ゆっくり、を驚かさないように配慮された動きである。は自然と心が落ち着くのを感じて瞳を閉じた。

「少し熱っぽいね。それに痛み止めが切れてしまったみたいだ。今準備するから少し待っていて」

少年はの額から手を離し、くるりと背を向けて薬棚の前であれこれと目的の薬を探す。彼の背中を見ている内にの寝起きのぼんやりとした頭がハッキリとしてきた。
この部屋に時計は無いが、この空気が明け方であることくらいはわかる。

「ずっと……、ここにいたの?」
「まぁね。明日までに作らないといけない薬もあったし、それはいつものことだから気にしないで良いよ。あ、あった」

どうやらの怪我の具合を考えて一晩中ここに少年はいたらしい。少年は目的の薬を見つけたらしく、木の引き出しを引っ張った。
の記憶は昨日彼に謝罪しながら泣いたときからプッツリと切れている。安心して泣いた後、疲れて眠ってしまったようだ。は恥ずかしさで胸がいっぱいになり、腕や足の痣の鈍痛など忘れてしまっていた。
少年は茶色の粉薬を天秤に乗せて量り、懐紙に乗せると何かに気づいたように目を少し見開いた。

「薬を飲むのに水が無かったね。待ってて、直ぐ持ってくるから」
「ありがとう」

素直に礼を言うようになったに柔らかく微笑みを浮かべ、少年は音を立てない様に注意しながら保健室を出た。
ただ1人残されたは抱えた膝に額を押しつけて丸くなった。そして大きく息を吸い込み、それを吐き出した。

(やっぱり……さ、忍者だよね……あの恰好は!)

あの格好とは少年の着ている深緑の装束だ。どう見ても、時代劇で見かけるあの忍者装束である。
首を横に捻れば、横向きになった古めかしい薬棚や井草の畳の香り、見たことも無い道具が並んでいる。積まれた本も精製されたツルツルの紙ではなく、伝統的な和紙。表紙はが到底読めないような達筆な字体で、それこそミミズがのたくったような文字である。





は、この視界に入る全てが映画の撮影セットではないことを知っている。





そして、ここがどこでどんなことをしている場所であるかも知っている。





(ここは、あたしが知っているあの町の、室町時代なんだ……って改めて確認する必要もないか)

は既に現代から室町時代へ来てから約2週間が経過していた。今さら『え?!ここ何?!どこ?!』と騒ぐことは無い。そもそもは自分の意思でこの室町時代の世に来たのだから、尚のこと驚くことは無いのである。
唯一そんなが驚くことがあるとすれば、今彼女がいる場所のことだろう。

(ここは忍術学園だ……間違いない。あの薬棚、町の歴史資料館に展示されていたのとそっくりだし……何よりさっきのあの人は忍者の服着てたんだから)

忍者という存在は、室町時代に存在していたとはいえ、当時もその辺にいるわけではなかった。忍者であると相手に知られてしまうことは御法度とされ、正体は常に闇の中―――というのが忍者である。既にそのことは夏休みの宿題をする上で調べてきた。
闇に存在するはずの忍者が、堂々と忍者装束を着て歩いているような場所といえば、この町では忍術学園しかありえない。そう、ここは忍者という間者を育成する忍術学園なのだ。

(さっきのあの人は、あたしが未来から来たこともここが忍術学園であることも知らない。夏休みの宿題のために、歴史が大きく変わってしまうことは絶対に避けないと……)

の行動が未来に何らかの悪影響を与えないとも限らない。それは過去へ飛ぶときに十分理解していた。しかし、考えがまだ甘かったのである。

(遠くから、少し見て帰ろうって決めていたのに……)

だから、あえて学園から離れた場所を選んだ(・・・・・・・・・・・・・・・・)

(……でも、この世界は戦争が激しい時代で、安全なところなんてどこにも無いんだろうな)

高校で習う歴史の通りなら、室町時代は戦国時代とも呼べる戦争が頻繁に勃発する世界だ。サッカーの試合と同じくらいに日本のどこかで小規模なり大規模なりで権力争いの戦争が起きている。兵ばかりならともかく、関係の無い村人が巻き込まれて悲惨な死を迎えている。そんな世の中に、平和しか知らない女子高生が太刀打ちできるはずが無い。例えが魔法遣いでも、その現実は変わらないだろう。
夏休みの宿題どころの話ではなくなってくる。それはも承知していることだ。





しかし、





(アレが……、あの砂時計が無い……!!)





今のには、現代へ帰る方法が無いのである。





(この忍術学園には……、あの【裏切り者の伊作】がいるかもしれないんだ)

の夏休みのテーマに選んだ、町の歴史に登場する善法寺伊作。自分を育ててくれた学園を裏切り、凶悪犯と手を結んだということで悪名を現代にまで残した男。その男がどんな男なのかを知るために、わざわざ数百年の時を越えた。既にはこの時代の恐ろしさを知っている。

「……ッ」

あの光景を思い出すだけで、背筋が凍りつく。はぎゅっと瞳を閉じ、ゆっくりと再び開いた。自分を落ちつかせるだけでも精一杯で、夜着に華奢な肩が震えてしまう。
安易に行動を起こすことは止めておくべきだ。

(裏切り者の伊作のことは本で読んだけなのに、こんな物騒な世の中を体験してしまうと本の中よりもずっと凶悪なヤツに思えてならないわ)

戦乱の世を行く抜くために、狡賢さや暴力に頼る連中も現れるだろう。そういった連中の中で、名前が現代にまで伝わっているくらいだ。善法寺伊作は、凶悪で惨忍な者だったのだろうと推測される。もし遭遇してしまったらと思うと、ゾッとする。などひと捻りで殺されてしまうかもしれない。

(それにしても、さっきの人はお人好しだな。見ず知らずのボロボロな娘なんて助けても良いことなんて無いのに)

の目で見てもあの少年が同じ年頃なのはわかる。色素の薄い瞳と髪は、きっとこの時代でも珍しい方だろう。全く毒気を感じさせない、むしろ柔和な雰囲気が漂う少年。彼が忍者を目指しているとは到底信じられない話だったが、この時代ならばそれも致し方ないのかもしれないと思う。甘さだけでは何も出来ないし生き延びることは出来ない。彼の手はの知る現代の少年よりもずっとザラザラしていて擦り傷が目立った。

(それに、今のあたしはお金なんて持ってないし……請求されたらどうしよう?)

枕元に置いてある自分の制服を探ってみても、財布はどこにも無い。もしあったとしても、この時代の通貨ではないので支払うことは無理だ。

(……裏切り者の伊作には、とにかく警戒していないと……)

廊下へと続く障子に人の影が映った。

「お待たせ。今、入っても大丈夫かい?」
「ッ?!あ、……どうぞ」

障子の向こうから少年の声が聞こえ、は肩がビクッと震えた。それでもどうにか平静を装って返事をする。まだ人に接触するのを恐ろしいと感じてしまう自分がいることを改めて知った。
少年は先ほど行っていた薬を飲むための水と、ほかほかと湯気が立つ白粥と梅干が乗った盆を持っていた。
数日間何も食べていなかったは、米の甘い匂いにくらくらしてしまった。相当腹が空いているようである。が喉を鳴らしたことに気付いた少年は、くすっと小さく笑った。

「水だけじゃ足りないと思ってね。食堂のおばちゃんに言って作って貰ったんだよ。食べる?」
「い、いただきます……」
「ははっ、そんなに畏まったりしなくても―――」
「あ?!」

少年が一歩保健室の中へ入ったときだ。足元に転がっていたトイレットペーパーを少年は踏みつけてしまい、バランスを崩す。当然持っていた盆も両手から離れ、宙を舞うことになる。水が入った湯呑や粥の入った器が放り出されていくのを目の前に、は意識を集中させた。

(止まれ!)

心の中でそう念じると、パキンというガラスの割れるような高い音が響いて世界が凍りついたように動かなくなる。が時間魔法が発動させたのだ。
全ての人に等しく流れている時間を完全に停止させたので、少年も驚いたままの表情でピタリと動かなくなった。何の音もしなくなった世界で自由に動けるのは魔法を遣っただけ。しかし、この魔法は5分が限度だ。早々に行動しなければならない。
は再度意識を集中させる。強く強く念じる。

(元に戻れ……!)

DVDを巻き戻すような素早い動きで、少年も飛び出した湯呑も器も盆も、以外の全てが保健室の障子を開けた直後に戻っていく。そして、が深く息を吸い込んで吐くのと同時に再び世界は呼吸を始めた。

「水だけじゃ足りないと思ってね。食堂のおばちゃんに言って作って貰ったんだよ。食べる?」

少年はに対して初めて言うように口を開いた。彼は自分が転んでしまったことも、に先ほど同じように声をかけたことも忘れている。否、忘れているのではなく、時間を戻したことによって最初からそれらの行動は無かったことになったのだ。

「食べるよ。それより、足元には気をつけて」
「あ、本当だ」

そう言って少年はひょいとトイレットペーパーを避ける。
が今ここで遣った時間魔法は、図書館で遣った魔法とは若干異なる。
今遣った時間魔法は、世界の時間そのものを止める全体魔法だ。この魔法を遣うと自分以外全ての時間を止めることができ、そのまま時間を戻すこともできる。故に少年は躓いて転んでしまったという未来が削除され、最初から存在しなかったことになる。つまり大きく記憶や事象を左右することにも繋がってくる。
そして図書館で遣った魔法は、世界の時間を止めるのではなく、特定の物体の時間を止める部分魔法だ。だからあのとき助けた少女には足が縺れて転んでしまったという記憶を持っていた。
は部分魔法でも少年を助けることは出来た。しかし、あえてそうしなかった。

(あたしが魔法を遣えることは、知られないようにしないと……)

が時間を操る魔法が遣えることは、きっと大きな話題になるだろう。極力知られない方が良い。奥歯を噛み締め、は少年の差し出した盆を受け取る。良い香りが鼻腔を擽り、益々空腹感が増す。梅干しを崩してレンゲに粥と一緒に乗せると、そっと口の中へ運んだ。
久しぶりに感じる温かな食事。梅干しの酸っぱさが程良く粥の味を引き立てている。

「美味しい……」

白米と梅干というシンプルな料理だが、故郷を思い出させるような優しい味がじんわりと胸にまで広がっていくのを感じた。
に受け入れられたということにホッとしているのか、少年は『良かった』と呟いた。

「食欲はあるみたいだね。だけどまだ疲れているだろう?それに怪我も治っていないし、治るまでこの保健室を使っても良いように学園長先生に頼んでみるよ」
「学園長先生……?」
「ああそうだった。目覚めたばかりのキミにはまだ色々なことを話していなかったな。ここは忍術学園と呼ばれている忍者の学校だよ。で、ここはその保健室だ」
(やっぱり忍術学園か……)

はただ少年の言う事をうんうんと頷くだけで特に驚いた様子も無い。それには少年の方が驚く。

「驚かないんだな、キミは。忍者の学校ってそんなに多く無いから、大抵驚かれるんだけど……」
「えっ?!いや、その……えっと……」

まさか最初から知っていましたとは今さら言う事もできず、はあたふたと次の言葉を探した。

「まだ体力が戻っていないから、頭があまりついていってないみたい」
「そうなんだ。後で食べられそうならお粥以外も持ってくるよ」
「ありがとう……」

はそう言って粥を口へ運ぶ手を、傷が痛むことも無視して忙しなく動かした。その間少年はにわかりやすく忍術学園のことを説明してくれた。が現代で得られなかった情報も多く有り、正直有難かった。

「―――ところで、聞かないの……?」
「何をだい?」
「あたしがどこの誰で、どうしてこんなに怪我をしていたのかをよ」

を発見した少年ならば、あの異様な光景に疑問を持っているに違いない。室町時代には無い不思議な服を着た少女が、満身創痍で雨の中倒れていたのは何の理由も無いはずがない。
少年は空になった器を受け取って盆の上に戻す。

「僕は保健委員長をしているんだ」
「う、うん?」
「だから、結構色々な怪我を診てきたよ。キミの怪我は、人間の手によるものであるくらいはわかる」
「……っ!?」
「それにあのキミの取り乱しようは異様だった……。何か辛いことがあったんだろう?そんなに辛いことをわざわざ思い出さなくても良いよ。話したくなければ話さなくても大丈夫」
「……ありがとう」
「うん」
「本当に、ありがとう……」

は自分の肩を抱くようにしながら身体を小さく丸めた。その背中に優しく少年の手が延ばされ、ゆっくりとした動作で擦られる。人と話すことも接触することも恐怖と憎悪を感じていたというのに、少年の手がの悴んだ心を解かしていくようだ。やっと安心できる場所を見つけたせいかじわっと目頭が熱くなって、はより一層背を丸めた。
保健室に近づく足音が聞こえ、は少年以外の存在にハッと顔を上げた。あからさまに怯えた色に変わる瞳を見て、少年は障子の向こうにいる存在に声をかけた。

「今保健室にご用の方は臨時保健室へ行って―――」
「わしじゃよ」
「学園長先生ですか」
「入るぞ」
「はい、どうぞお入りください」

少年がすっとの背中から手を離し、スッと正座に座り直した。その様子にはもいささか緊張してしまう。忍術学園を束ねる長なのだから当然だ。しわがれた声の持ち主には意識を集中させる。
障子が開くと、そこには威厳のあるヒゲの老人ではなく、小柄で覇気を全く感じさせないオカッパ頭の白髪の老人がいた。

「様子を見に来たんじゃよ。……ほお、既に娘さんは目覚めておったか。わしはこの学園の学園長をしている大川平次渦正じゃ」
「(長い名前……。まぁそういう時代なんだよね)お世話になっています。あの……、あたしはです」

が名乗った途端、少年は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。それを見て学園長はおかしそうに笑った。

「ははははは!まだ名前を聞いておらんかったのか?まず最初にすべきことじゃろうに」
「そうでしたね……あはは」

苦笑いを浮かべて少年は癖のある頭を掻いた。

(そういえば……、あたし、この人の名前を知らなかった)

自己紹介というものをすっかり忘れていたのはも同じことだった。
学園長は笑いながら少年に言う。

「この保健室はしばらくの間好きに使っても良いからの」
「丁度そのことをお話しようとしていたところだったんです」
「そうかそうか。じゃ、娘さんのことは頼むぞ伊作





イサク。





いさく?





「え……?あ、の……?」

は学園長の思わぬ言葉に驚いて頭が回らなくなった。
いさくとは何だ?名前?

「お前は自分の名前も名乗っていなかったのか、伊作」





伊作。





今度はハッキリと聞こえた。
伊作というのは、あの裏切り者のこと?
それならば、いったい誰を伊作と呼んだのだろうか?
少年は『ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね』と言い、に向き直る。





「僕の名前は善法寺伊作って言います」





かつて学園を裏切り凶悪犯と共謀した、現代で悪名高い男。





『よろしくね』と、少年―――【裏切り者の伊作】は微笑んだ。




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