夜、少年は再び保健室へ訪れていた。
蝋燭の火を片手に、布団を頭から被って眠っている少女の傍まで静かに近づく。自分の存在に気づく気配が無いとわかると、少年は蝋燭の火を行燈へ移した。そして、少女のゆっくりと布団を音も無く捲る。
熱くなった布団の下には荒く息を吐いて痛みに耐えながら眠っている少女がいた。汗で髪がびっしょり濡れ、頬や剥き出しの首筋に張り付いている。肌が赤く染まり、包帯の白さが映える。固く瞳を閉じて眉を寄せ、何か恐ろしい夢を見ているらしく時々低い声で唸っていた。
少年は悲しそうに薄い色素の瞳を細めると、持ってきた水桶に手拭を浸して絞り、少女の不快感を少しでも減らそうと押さえるように汗を拭った。冷たさが気持ち良いのか、少女の険しい表情が和らいだ。眉間から皺が消え、火照りは消えないものの穏やかな顔つきになっていく。少年はホッと胸を撫で下ろした。
横向きで背中を丸めている少女の身体の下に手を差し込み、少女を起こさないように揺らさないようにと丁寧に仰向けにする。少女が目覚めなかったことに安堵しながら少年は傷の具合を診る。包帯は汗にまみれて、かなり不衛生な状態だ。これでは治るものも治らない。
(本当は新野先生に診察してもらいたいところなんだけれど……、今は村での治療に専念されているからな)
あくまでも自分は保健室を任された立場であり、本来指導する側ではない。けれどもそうも言っていられない。少女は左腕を骨折し、全身打撲の重傷だ。
少年は深緑の袖を捲り上げ、襷を縛り固定すると少女の左腕の添え木を外して包帯を慣れた手つきで解いていく。
徐々に顔を出す少女の左腕は酷いものだった。折れてパンパンに腫れ上がり熱を持った腕は、手首から上に華奢な手がが伸びている。それだけ見ても普段の腕と比べ、今の折れた腕がいかに異常かを伝えている。しかも、ただ腫れているだけではない。赤い掴まれたような指の痕が残っているのだ。明らかに単独のものとは思えない状態で、細い痕や押しつけられたかのような痕もくっきりと浮かんでいる。思わず顔を背けてしまいそうな光景だ。
(寄ってたかって……、何て酷いことを……。これじゃあ傷が癒えても何にもならないじゃないか……っ!)
ギリッと強く奥歯を噛み締める。傷は薬や包帯でいつかは癒える。しかし、身体以外は―――心の傷に効く特効薬など無い。酷いときには一生精神的苦痛に苦しみながら生きていくしかないのだ。少女の傷を見る限り、執拗に追い回されたのだろう。そう簡単に心は癒えはしない。
戦場で少年は数々の怪我人を診てきた。この少女よりも酷い怪我や病気の人間を彼は見ている。しかし、何度見ても慣れることが無い。特に少女のような華奢でまだあどけなさを持っている子供に対しては……。
近づいたら殺してやる。
少女は多くの暴力をその小さな身体に受け、さらに冷たい雨を打ちうけられて体力をかなり消耗していたはずだ。けれども、あの言葉を発したときの少女の眼光は、背筋が凍りつくほどの殺意を纏い真っ直ぐ自分に向けられていた。あんなにも静かであんなにも激しい言葉を少年は聞いたことが無かった。
(……悲観していてもしょうがない。僕に出来ることは傷の手当てくらいだけれど、出来ることがあるなら精一杯役目を果たそう)
そう心に決め、少年は発熱で苦しんでいる少女の汗をもう一度優しく拭い取り、治療に取りかかった。
(悪いけれど、近づかせてもらうよ……)
届かない謝罪をした。
鶏の鳴き声が響き、気がつけば日が昇って朝になっていた。彼は、いつの間にか、少女の看病をしている内に壁にもたれて寝てしまったらしい。
目が溶けてしまいそうなくらい眩しい日差しに少年は顔を顰めた。しかし、直ぐにハッとなって布団を見た。布団の中の少女はすっかり熱が引いたらしく、小さく穏やかな寝息は聞こえてきた。真新しい包帯がきちっと患部を覆い、醜い紫色の痣を隠している。汗で濡れていた額は乾き、頬も赤みが消えている。苦痛の表情はそこに無く、少女は長い睫毛を伏せていた。
穏やかな少女の寝顔に、少年の頬が自然と緩んだ。これが本来の少女の顔なのだと思う。
少年は少女のずれた布団を掛け直すと、静かに障子を開けて廊下に出た。廊下には、食堂のおばちゃんが作る朝食の香ばしい匂いが漂ってくる。少年はその匂いに誘われて、真っ直ぐ食堂へと向かった。
食堂は、既に起きたばかりの生徒たちで賑わっていた。早くしないと席が無くなってしまうと、下級生たちは急ぎ足になる。上級生たちは、下級生に席を譲って食べ終えるのを待っていたりする。下級生も、上級生に忍務など用事がある場合は大人しく順番待ちをしている。とは言っても、5年生と6年生は今学園にはいない。少年を除いて……。
カウンターに出される定食を受け取っている下級生たちの列に並び、少年はおばちゃんの正面まで来ると『すみません』と声をかけた。おばちゃんは、白いホカホカのご飯を茶碗いっぱいによそりながら少年の方へと振り返った。少年が何かを言う前に、ピンときたのか『ああ』と声を上げた。
「ちょっと待っててね。今よそるから」
「お願いします」
少し経ってから、おばちゃんは少年の前に湯気の立つ白い粥と付け合わせの深紅の梅干しを持ってきた。見ているだけで食欲がそそられる。それぞれを茶碗と小皿に乗せると、朱塗りの盆に乗せて少年の少し大人びた手に渡した。
「はい、保健室用のね。話は既に聞いているから」
「ありがとうございます」
「それで、あなたの分はどうすんのよ?」
「後で頂きます」
「昨日の夜も同じことを言っていたわよね?それで食べなかったじゃないの。看病も良いけれど、医者の不養生で倒れたら大変よ?わかってる?」
おばちゃんを怒らせると怖いのは、少年も良く知っていた。しかも、自分に非があるとすれば、その怖さは倍増である。少年は誤魔化すように眉を情けなく下げて笑った。
「だ、大丈夫ですよ!普段から授業で鍛えていますし……」
「あ、先輩じゃないですか、おはようございます」
「乱太郎か、おはよう」
食堂に入ってきたのは同じ保健委員の乱太郎だった。まだ眠そうな目を擦りながら眼鏡を直す。
「保健室……、まだ使えそうにないですか?」
「あぁ、すまない。まだ時間がかかりそうなんだよ」
『ごめんね』と言いながら、優しく乱太郎の柔らかな頭を撫でる。乱太郎は少年のそれを受け入れていたが、やがて何かを決意したように顔を上げて言った。
「先輩、無理していませんか……?」
「何をだい?」
「私……聞いていたんです、先輩にあの女の人が『殺してやる』………って、言っているのを……」
最後の方は声が殆ど消えてしまっていた。けれども、少年には乱太郎の心配する気持ちが良く伝わってきた。
自分の尊敬する先輩が、暴言を吐かれているところを見てしまった。少年以前に乱太郎の方もショックが大きかっただろう。
少年は一度盆をカウンターに置いて乱太郎に向き合った。そして今度はにっこりと満面の笑顔を浮かべた。
「心配してくれてありがとう。でも僕は、僕がそうしたいと思ってしていることだから大丈夫。それにあの子は……、本当に怖いことがあって、ただ怯えているだけなんだ。例えが変だけれど、手負いの獣が簡単に自分の領域へ入らせはしないのと同じでね。でも、怪我が治れば元気になるし、普通に話もできるようになるよ」
「……そうですよね!だけど先輩、お粥を持って行ったらその後はちゃんとご飯を食べてくださいね」
「うん、わかった。約束するよ」
少年の返事を聞いて、乱太郎は安心したように微笑んだ。
(下級生に心配かけていたら上級生失格だな)
少年はお盆を持って食堂を後にした。
腹が鳴ったのは聞かない振りをして欲しい、と彼は思った。
少年が保健室へ戻ると、少女はまだ目覚めてはいなかった。すやすやと先ほどと同じく安らかな寝顔をしている。とは言っても、顔の半分は包帯が巻かれているのだが。
持ってきた粥のお盆を一度自分の横に置いて座る。
(体力はつけないといけないけれど、眠っているなら寝かせてあげよう。ちゃんと眠れていないはずだから……)
精神的に大きなストレスを与えられたことと、傷口による発熱で魘され続けた少女。あの状態では深く眠れるはずがない。
(ここにお粥を置いておけば食べてもらえるだろう。僕がいるときっと混乱させちゃうと思うし……)
少年は寝返って肩を出してしまっている少女の掛け布団に手をかけた。すると、今までしっかりと閉じられていた少女の瞳がスッと開いたのだ。少年は思わず固まった。バッチリ少女の瞳と視線がぶつかり、少女の眼光が光を宿す。目の前にいる少年が自分の直ぐ傍にいることを脳が認識する。大きく見開かれて少女はガタガタと震え出した。
「ひッ?!あ……、あ、ぁぁああぁああああああああああああああ!!!」
『しまった』と思う少年だったが、もう遅い。
「あ!ダメだよ、暴れたら……ッ!」
「嫌!!嫌!!嫌!!やああああああーーーッ!!!!」
少女は少年を敵と判断して、昨日と同じように暴れ出した。細く華奢で包帯の巻かれた四肢を、全力で振り回す。恐怖が強く折れた腕も痛みなど感じていないのか、激しく揺さぶった。顔色は真っ青に変わり、くしゃくしゃに歪めて拒絶する。
少年はせっかく治療した傷が開いてしまうことを心配する。抑えようとするのだが、少女に彼の声は届かない。
「傷が開いてしまうよ。どうか落ちついてくれ……!」
「いやあああッ!!殺される!止めてええええーーー!!!」
少女の絶叫が保健室に響き、掛け布団は少女が暴れたせいで明後日の方へ飛んでいってしまった。
「怖い……ッいや、いやあああああ!!来ないでッ!」
本当に酷い暴れ様である。少年は、少女が手足を激しく動かす度に胸が痛んで苦しい気持ちになった。
(いったいどうしたら良い?どうしたら……、こんな風に怯えずに済むんだ……!!)
少女はここへ来る前に相当酷い目にあったことはもう十分わかっている。けれども、彼女を癒す方法が全くわからない。
「離して!近づかないでよ!!この……ッ!」
少女が抑えようとする少年の肩を渾身の力で押した。少年はよろめき、後ろへと尻もちをつき、両手を床へ落とす。少女は押した反動で背中を薬棚にぶつけてしまった。痛みに少女は顔を歪めて耐える。
背後の薬棚の上に置いてあった重いすり鉢が、ガタッと音を立てた。ハッとなって少女が顔を上げると、3つ重なったすり鉢が真下にいる自分に向けて落ちて来た。分厚く重いすり鉢がしかも3つだ。これが頭に当たれば、大怪我は免れないことだろう。少女は怪我で身体が自由に動かない。落下してくる様子をただ目で追うことしかできなかった。
「……ッ?」
ところが、少女の突如目の前に深緑が広がった。直後にドッという低く鈍い音が3度続く。しかし、少女にはほんのわずかな振動が伝わっただけで、何も痛みは感じなかった。
何が起きたのかわからない。そんな顔で少女が顔を上げると、そこには少年の苦笑する顔が目と鼻の先にあった。少女は、自分の顔脇に肘と手をぴったりとくっつけている少年に気づいた。自分を覆い隠すように、傍から見れば拘束しているようにも見えるだろうが、それが違うことを少女は理解する。
少年は肩に落ちて来たすり鉢を受けたようで、苦痛に一瞬顔を歪めていたが驚いている少女に微笑みかけた。
「大丈夫、だったかな……?どこか痛いところはないかい?」
まだ大人になりきっていないアルトボイスが、少女の耳から心を激しく揺さぶった。少女は大きく目を見開いたままで視線を横へ流し、肩をビクッと跳ねさせた。
少女の視界に入ったのは、少年の腕。その腕には、赤く痕になっているところがある。それは、昨日自分に粥を差し出してくれた少年を火傷させてしまった痕だ。
手当もろくにされていないその傷。
そして、自分の真新しい綺麗な包帯の巻かれた腕。
近づいたら殺してやる。
そろそろと離れた少年の腕を強く掴み、引き止めた。驚いたのは少年の方だった。散々拒絶されていたにも関わらず、少女が自分から腕を掴んできたのだから。少女は俯いていて表情はわからない。けれども、小さく細い手が少年の火傷痕を労わる様に撫でた。
「あ……」
少年の腕に、少女の手以外の熱い何かが触れる。それは少女の涙だった。雫となってポロポロと腕に降ってくる。少女は、泣いていた。
「―――……ぃ」
「えっ?」
小さく弱々しい声だったが、少年が聞き返すと少女はゆっくりと顔を上げ唇を小刻みに震わせながら言った。
「ごめ……っ、な、……さ……ぃ。……ごめ、………なさ…っい。ごめん……、な……っさ……!」
何度もか細い声で少女は謝った。壊れてしまったかのように、繰り返し少女は謝りながら少年の火傷の痕を何度も何度も優しくけれども恐れながら撫でた。
少年は少女の手を優しく取ると、泣き続ける少女に今度はにっこりと笑いかけてごく自然な動きで抱き寄せた。
「良く頑張ったね。僕がキミを守るから、もう大丈夫だよ」
少年の行動に驚く少女だったが、温もりに包まれて今度は抵抗もせず少年の肩に額を押しつけて再び泣いた。
嗚咽が響く保健室だったが、ここは優しさに満ち溢れていた。
少女は―――は、まだ知らない。
これから先、さらなる屈辱と絶望を味わうことを……
は、まだ知らない。