とても良く晴れた午後、滝夜叉丸は廊下を歩きながら自分の指先を見た。人差し指の第一関節より上に赤い横筋が出来ており、その筋から赤い滴がタラリと垂れている。いつの間にか掌にまで流れ出た血液を手拭いで押さえながら『ふ……』と不敵な笑みを浮かべている。
「普段ならばこの程度の怪我など、この滝夜叉丸にとってはどうってことないのだが、明日は千輪の試験があるからな。嗚呼……、ちゃんと自己管理をしている私も実に素晴らしい……!!」
昼休みに千輪の練習をしていたら指を怪我してしまったようだ。
相変わらず自分に酔っているらしく、ぐだぐだと自画自賛をしている。擦れ違う忍たまたちはひそひそと滝夜叉丸を見ながら話をしているのだが、本人は全く気付いていないらしく深紅のバラの花弁を撒き散らしながら保健室へと向かった。
「んん?何だこれは?」
滝夜叉丸は保健室へ続く廊下が途中で封鎖されているのを見つけた。立て看板が置かれ、保健委員会の後輩が書いたと思われる歪な字で『保健室へ御用の方は臨時保健室まで』と記されていた。矢印の方へ視線を滑らせれば、そこには保健委員である乱太郎が苦笑しながら手招きをしていた。
「せんぱ〜い、臨時保健室があるのでこちらへどうぞ〜」
「臨時保健室?いったいどういうことだ?保健室は使えないようだが……」
「まぁまぁ、とりあえずこちらへ来てください」
乱太郎に案内され、仮の保健室へ到着した。そこは普段は使われていない空き部屋で、一応救急箱がいくつか置いてあるが保健室に比べて薬は圧倒的に少ない。まだ薬の調合が追いついていないのか、すり鉢の中には混ぜ合わせ途中の薬草等が入ったままで放置されている。この空き部屋にあったと思われる荷物は隅の方へと追いやられて積み上がっていた。
乱太郎は滝夜叉丸の向かいに座ると手拭いを取って怪我の具合を診る。
「切り傷ですね。他に痛むところはありますか?」
「いや、コレだけだ」
「良かった、それなら私でも診れますね」
乱太郎は滝夜叉丸の傷を丁寧に消毒すると、ガーゼを当てて包帯を巻いた。包帯の巻き方は少し不器用ではあったが、1年生にしては上手い方である。保健委員として練習をしていたのだろう。
「はい、できましたよ」
救急箱に道具を仕舞うと乱太郎に滝夜叉丸は問いかけた。
「今日新野先生はお留守なのか?下級生だけが残って仕事をしているのは珍しいな」
「はい、新野先生は薬を買い出しに町へ出ています。それに、委員長は……」
そうだ、保健室の養護教諭である新野がいないとき、普段ならば最上級生で保健委員長が留守番をしているはず。しかし、臨時の保健室だからといって1年生の乱太郎が生徒を診るのはおかしな話だ。
伊作の話で言葉を濁らせる乱太郎の様子はどうもおかしい。
「臨時保健室といい、何かあったな?この優秀な私、滝夜叉丸に理由を話してみたまえ!」
「……うー、それがですねぇ……実は―――」
乱太郎は困った顔をして滝夜叉丸に話始めた。
漂ってくる米の匂いに気づき、少女は闇の中から散り散りになっていた自分を掻き集めて意識を集中させた。ゆっくりと両目を開けたつもりだったのだが、なぜか左目だけが光を宿さない。揺れる視界が徐々にハッキリとしてきた。
「ん……」
目の前に広がっていたのは茶色の古めかしいタンスと、細かい傷がある床板だった。いくつものすり鉢が置かれ、そこからは青臭さがつんと鼻腔を刺激する。積み上がった本からは古い紙の匂い。けれども、どれも不快には感じなかった。
少女は自分が温かな布団に包まられ、横になっていることにようやく気付いた。まだ頭の中が眠っているようで、なかなか判断ができずにいる。
(あたし……いったいどうしたんだっけ?)
被っている布団をめくろうと手を伸ばしたとき、手の甲に包帯が巻かれていることに気付いた。そして指も擦り傷がたくさん見つかり、固い瘡蓋になっているではないか。少女は驚いて身体を強張らせた。
(何……?どうしたの?何で、あたし怪我―――)
左腕を動かそうと力を入れたとき、異常なほどの痛みが走った。
「うぐっ?!」
今まで感じたことのない激痛で顔を歪めると、目を下へ動かして布団の中にある左腕を見た。添え木こそされていたが、包帯に包まれた自分の腕は異様に腫れ上がっていた。動かそうとする度に激痛が走り、脂汗が滲んでくる。
震えながら左腕よりは自由に動かせる右手で自分の頬や額に触れた。口元にはガーゼが当てられ、額から左目にかけては同じくごわごわした包帯で覆われている。このせいで左目が見えなかったのだ。
何が自分に起きたのか。まだ記憶が混乱しているせいもあって少女は不安で胸が押し潰されそうになる。掌に汗がふつふつと滲んできた。
痛みを堪えて上半身をどうにか起こすと、掛け布団を勢い良く取っ払ってじっくりと自分の身体を凝視する。真っ白な夜着は汗で張り付き、その襟合わせや裾から見える肌を見て少女はサーっと血の気が引いていく音を聞いた。
運動部で少し焼けた肌色。それが今、腐った果実のような色に変色していた。明らかに拳で殴打された内出血である。切り傷こそは無いものの、それがあちこちに出来ているのだ。腕も足も腹部も、単独によるものではない数の内出血でいっぱいである。
心臓が、耳元でうるさく鳴り響く。
「ひっ……?!あ、あぁあ……っ!!」
紫色の、大輪の華。
その1つ1つが、感触を少女に伝えてくる。
殴られる瞬間の、破裂するような痛みを。
狂気と憎しみを孕んだ、射抜くような視線を。
それら全ての痛みや狂気が、自分に向けられていたことを。
「う……うぅっえっ!げほっ!!げほっ……!」
少女は前屈みになり、胃から溢れ出る酸っぱい胃液を吐きだしそうになって堪えた。喉を押さえて顔をくしゃくしゃに歪め、嫌な汗がだらだらと流れ出た。
許しを求める自分の手を振り払い、無慈悲に殴りつけた鬼の形相。何度も瞼の裏に繰り返しフラッシュバックする恐ろしい映像の数々に、少女は神経が擦り切れてしまうのではないかと思った。指先から血の気が引いていくのに、身体が異常に熱い。
「はぁ……っ、はぁ……、苦しい……痛い……、う……いたい……!」
ここがいったいどこなのか、誰がここまで連れて来たのか、普通ならまずそこを考えるはずなのだが、今の少女の状態は普通とはかけ離れている。ただただ見えない恐怖に震え、必死で直ぐにでも霞のように掻き消えてしまいそうな自分の存在を保とうとした。
胸元を掴むように強く抑えて落ちつこうと深呼吸をする。しかし余計に過呼吸になってしまい、手はガタガタと震えて止まらない。
「ふ……っ、うぅ……っ!」
震えている両手で顔を覆ったそのときだ。閉じられていた障子がスッと音も無く開き、外の光が入ってきたのである。そして光と一緒に入ってきたのは、少女と同じ年頃の少年だった。
少年は癖のある茶色の長い髪を1つに束ね、深緑の忍装束を着ている。髪と同じ色の丸い瞳は穏やかに静まっていた。彼の右手には木製のお盆に乗った湯気の立つ粥と箸、左腕には少女の元々着ていた衣服が抱えられていた。雨水に濡れて泥まみれだったため洗濯をしたらしい。
目を大きく見開いて硬直している少女と目が合い、少年は『わぁ!』と驚いたように声を上げた。
「いきなり入ってごめんね。でもまだ寝ていると思ったんだ。昨日も酷い熱を出して魘されていたようだからね」
「…………」
同じ動きで障子を後ろ手に閉じると、少年はその場に正座をしてほかほかと湯気の出ている粥の乗ったお盆を差し出した。にこりと温かな微笑みを浮かべてこう続けた。
「聞きたいことがたくさんあると思うけれど、まずはコレを食べて体力を回復させ―――」
「いっ、やあああああああああああああああああーーーーーーッ!!!!!!」
「痛っ?!」
突然少女は空間が引き裂かれるような悲鳴を上げ、少年が差し出した優しさを傷だらけの両手で思い切り薙ぎ払った。お盆が伊作の手から吹き飛び、器に入った粥が無残にも床に落ちる。偶然にも少年の手首に熱い出来たての粥がかかってしまい、熱さと痛みに少年は顔を顰める。形の良い眉が寄って皺が深く刻まれた。
少女は一瞬少年の痛みに反応したが、直ぐ視線を外してガタガタと震え出した。顔面は真っ青になり、指先からも血の気が引いていく。
少年は少女の様子がおかしいことに気付いてハッと顔を上げた。目の前で大粒の涙を幾筋も零している少女は、弱々しく首を振って混沌とした気持ちでいることを無意識に伝えてきた。
左腕は折れ、身体の到る所に暴力の痕が刻まれて泣いている少女。その光景は少年の胸に強い痛みと悲しみを与え、響いた。
「落ちついて、僕はキミの敵じゃない。敵じゃないんだ」
少女を刺激しないように声色を柔らかくしたつもりだったが、少女は少年が近付いて手を伸ばすと顔を引き攣らせて激しく拒絶した。少年の肩を突き飛ばし、動きに合わせて夜着が乱れたが全く気に留めていない様子である。少年を完全に敵だと認識しているのか、荒く息を吐いて暴れた。
「はぁっ、はぁっ、いや……、いやぁあああああああああああ!!!!!!来ないで!!!」
「落ちついて!」
「いやあああああーーーー!!!近寄らないで!!!近寄らないで!!!近寄らないでっ!!!」
「大丈夫、もう怖いことは起きないよ。だから―――?!」
少年が少女を説得しうようとして視線を足元へ移すと、せっかく包帯を巻いた箇所から傷口が開いてしまったらしく血が滲んでしまっている。痛みさえも忘れて少女は全身を使って少年を拒絶し続けている。このままでは1番酷い怪我である骨折した腕にも響くだろう。
少年は少女から素早く離れる。すると少女は胸を激しく上下させながら呼吸をし、布団をきつく掴んで自分と少年の間へ持ってきた。顔を隠し、少女は小さく縮こまって震えた。
ひとまず暴れなくなったことを確認すると、少年はホッと息を吐いた。
改めて少女のことを見つめる。先ほど開いてしまった傷のせいで白い布団に赤い血の痕が引っ掻いたように広がっている。今は隠れて見えない少女の足を同じ色に染めているのだろう。手当をさせて欲しいという気持ちが高まるが、嗚咽を漏らして布団の向こうで泣いている少女をこれ以上刺激することはできない。身体の傷以上に、心の方が重傷だった。
少年はできるだけ優しく少女に語りかけた。
「そのまま聞いて欲しい」
「ふ……っうっ、ひっく……っひっく……」
「キミにいったい何があったのか…僕は知らない。でも、本当に怖いことがあったことは良くわかったよ」
「ひっく……っ、う……っ、うぅ……っ」
「ここは忍術学園というところの保健室だ。僕はこの保健室を任されている保健委員長をしている。この保健室は、しばらくキミの部屋として使ってもらえるように話をしてくるからね。怪我人であるキミのことは僕が全力で守るから、心配しなくても大丈夫だよ」
「…………」
少女は布団に押しつけていた顔をゆっくりと上げた。前髪がだらっと頬に垂れ下がり、虚ろな瞳を伊作のそれを合わせて切れた唇を開いた。
「 」
「―――それで、その娘は先輩に何て答えたんだ?」
「……その……、『近づいたら殺してやる』……って……」
「それは物騒な話だな」
『物騒だな』と言いながらも滝夜叉丸は余裕の笑みを浮かべていた。忍者の卵である彼がボロボロになった少女に殺されるなどありえない話だからだ。
しかし乱太郎は不安そうに俯いた。
「でも……、心配なんです。私たちは不運委員会なので……」
『あはは……』と乱太郎は力なく笑った。眉がふにゃっと下がり、何とも情けない笑顔だったが、彼なりに不安を消そうとしているのだ。
滝夜叉丸はすくっと立ち上がって懐に隠し持っていたバラを片手に宣言する。
「なぁに心配はいらない!いざとなったらこの学年一優秀な平滝夜叉丸が活躍してみせようぞ!!あっはっはっは!!」
「は、はぁ……」
乱太郎はテンションの高い滝夜叉丸のバラを呆れながら見ていた。
「あの先輩の面倒見の良さは、天下一だな」
「私もそう思います。でも、人の性格ってそんなに簡単に変わったりできないですよ」
「ん?なぜ私を見るんだ?」
「あ、気にしないでください」
「?」
ふと、外からパタパタという雨の音が聞こえてきて乱太郎は障子を開けた。思った通りいつの間にか曇ってしまった空から小雨が降っていた。庭の土は雨が染み込んで色を濃くしている。
「雨ですね」
「そうだな。恐らく通り雨だろう」
「5年生と6年生の先輩たちはまだ忍務だと聞いてますが……大丈夫でしょうか?最近雨が多いですし」
「1年生のお前が心配するような話じゃない。我々下級生はただ信じて待てば良いのだ」
「それはわかってますよ」
乱太郎は垂れ込む雲の向こう、山の向こうを見つめた。
相変わらず雨が続いている。蓑や笠を被っていてもあまり意味が無いくらいだ。
肩に濡れた不快な感触にも慣れた頃、忍姿の少年―――小平太は大木に登って幹に手を置き遥か下に広がっている世界を見降ろした。ここからだとぐちゃぐちゃで良くわからないものの全貌が見えてくるだろうと思ったのだ。
小平太はここから見える光景に愕然とした。普段は明るい性格の彼だったが、流石に言葉を失う。
山と森に囲まれた村は、雨と靄の中に存在していた。けれどももはやコレは村とは呼べなかった。村はほとんど全滅と言って良い有様で、質素な家や物置などは全てバラバラになっていた。屋根は吹き飛び、家の壁だった木材等は泥と雨にまみれていったいそれが何なのかもわからない。
畑も、まるで土をひっくり返したかのように泥で埋まってしまっている。栽培されていた野菜も今はどこにあるのか見えない。恐らく土の中に埋まっているのだろう。
「ここまで酷いとは思わなかったな」
怪我をした村人たちは、そこから少し離れた場所に避難している。しかし、村の大部分の人間は死に絶えてしまった。避難している村人はごくわずかで、虚ろな目をしていたことを思い出す。
(この木でさえ、根本の方が抉られるように無くなっていた……)
この辺りでは1番太く高い木に登っているのだが、根本付近は抉られており、周辺の木は薙ぎ倒されている状態。
『まいったな……』と呟いたとき、下から気配を感じて小平太は飛び降りた。小平太を待っていたのは、同じように笠と蓑を被った顔に傷のある無口な少年―――長次だった。
「小平太……」
「長次、上から見た景色は最悪だったぞ。見ない方が良い」
「村人の様子だけで……十分だ……」
「そうだな。村を見なくても酷いことくらいはわかるか……」
小平太はずれてしまった笠を被り直した。
「5年生はまだ戻っていないか?」
そう尋ねると、長次は首を縦に振った。
小平太は雨を見上げ、それから壊滅状態の村の方を見てぼそっと呟く。
「いったい、あの村で何があったんだ……?」
小平太の答えてくれる者はいなかった。
とりあえず、今はこの鬱陶しい雨が止むのを祈るばかりである。
「小平太……」
「どうした、長次?」
長次が指さす方を見ると、何かが木の根元に落ちている。この暗雲と雨の中に薄っすらと輝きを放つそれは、まるで空に瞬く星が地上へ落ちてきたようだった。