橙色の時 後編


バタン!!と右の襖が倒され、わたくしは身構えた。燭台が襖の風圧で転がり、同時に3分の1ほどになった蝋燭も倒れた。火はまだ辛うじて点いている。七松殿の気配もまだそこに感じる。だが、七松殿は私の時間に干渉出来ない。
屋敷に火が放たれたせいで、わたくしの部屋にも苦い煙が一気に入り込んできていた。視界が悪くなろうと、目に煙が染みようとも、わたくしは目の前の男から視線を外す事は出来ない。血と煤の臭いを纏う忍びだった。手甲で隠れているその手には、鮮血で汚れた苦無を持っている。表情は覆面でわからないが、殺気立っているのがわたくしにもわかる。
この部屋は屋敷の最も奥の部屋だ。ここへ到達するまでに、たくさんの兵士が護っている。それを倒して来たのだから、相当の腕を持つ忍者なのだろう。逃げるという選択肢は、わたくしの中で消えた。懐に手を伸ばし、懐剣の柄を握ろうとしたときだ。わたくしの動きを察知して、忍者は躊躇いも無くわたくしに向かってきた。赤いその苦無を、わたくしの胸に突き立てようとしている。それがわかっているのにも関わらず、足が床に縫い付けられているかのように動かない。
避けられない。最期の瞬間を覚悟し、恐怖から瞳を硬く閉じた。

ーー!!」

未来の世界にいるあの人の必死な叫び声が響いた。ハッとなってわたくしは顔を上げ、七松殿の方を見た。手を障子に掛ける動作が影となって鮮明に映し出されていた。それと同時に、七松殿と会話していたあの障子が勢い良く開いたのだ。
ありえない。七松殿がここへ、わたくしの時代へ来るなどありえない。けれども、わたくしの心は大きく跳ねた。こんなときだというのに、恥ずかしくも期待してしまった。
バンッ!という音と一緒に現れたのは、夜の色をした忍び装束の男だった。装束の上からでもわかるがっしりとした体躯に、意思が強そうな瞳でわたくしを見ている。わたくしに襲いかかろうとしていた男以上に、獣染みた殺気を隠す事無く曝け出していた。当然、わたくしが期待していた方ではない。この屋敷を襲った忍びの頭なのだろうか。どの道わたくしに生きる道は無さそうである。

「な、何だお前は?!」

意外な事に、わたくしを襲いかかろうとした男は動揺していた。この反応だと、知り合いではないらしい。仲間ではないのなら、別の城の忍びなのかもしれない。他の城も、わたくしの能力を狙っているというのは十分考えられる。
問われても、後から現れた忍びの男は口を開かなかった。返事の代わりに素早く懐から苦無を出し、指に引っ掛けると、あっという間に鋭い切っ先で胸元を薙ぎ払った。
わたくしの、ではない。わたくしを襲った忍びの方を、だ。

「うわあああーーッ!!」

赤い血飛沫が真っ白な障子に模様をつけていく。斬られた男は胸を押さえてもがき苦しみ、相手に勝てないと悟ったのか、そのままわたくしに背を向けて部屋を飛び出して行った。足元の燻っていた火はいつの間にか消え、わたくしとこの忍びだけが残った。まだ他の場所では刀の混じる音が耳を打つ。炎が燃え広がっている音は、更に大きくなっていた。
状況は変わっていない。ただ、わたくしを殺す相手が違うだけ。
再びわたくしが懐へ手を伸ばしたとき、忍びはわたくしとの距離を一瞬で詰めてしまった。しまったと思ったが、やはり身体がついていかない。わたくしはガッチリと正面から取られられてしまった。このまま背中を一突きされるものかと思っていたのだが、











背中に感じたのは痛みではなく、ずっと感じたいと願った熱。

「な……な、まつ、殿……?」

いるはずのない人の名前を、思わず口走っていた。
だって、耳元で聞こえたこの人の声は、七松殿と同じものだったから。

「お頭!」
「組頭!お急ぎください!」

七松殿が答えようとしたとき、複数の男の声が燃える屋敷に混じって聞こえてきた。『お頭』と呼ばれた七松殿は、わたくしを火の粉から護る様に自分の衣を脱いで被せる。鉄と煤と血の混じり合った臭いだったが、わたくしは全く気にならなかった。
口元を覆う布を引き下ろした七松殿は、『わかった!』と短く返事をし、わたくしの前で背中を見せながらしゃがんだ。

、私の背中に乗れ!」
「は、はい!」

わたくしは言われるがままに背中に乗る。すると七松殿は庭へ飛び出し、いつの間にか開いた壁の穴から屋敷を脱出した。振り返ると、闇の中で隠れ家は濃い橙色の炎に包まれていた。あの蝋燭も、全てを飲みこんで。
広くてがっしりとした背中に揺られながら、まだ夢を見ているのではないかと思う。わたくしを背負って風のように走るこの方は、ここにいるはずの無い方だというのに。そう思いたくて仕方がない自分がいる。
















水の流れる涼しげな音が耳に入ってくる。いったいどこから?そう思って瞳を開けると、最初に飛び込んできたのは薄らと青い空だった。鳥が朝の訪れを告げるため、強く鳴きながら空を横切っていくのが見えた。近くに川があるみたいで、川は見えなかったが身体にその振動を感じる。
しばらくぼーっとしてしまったが、昨夜の事を思い出して飛び起きた。心臓が口から飛び出してしまいそうなくらい脈打ち、辺りを見回す。青々と茂る木々の中に、あの人の姿を探す。けれども、わたくしが望む姿はどこにも見当たらない。わたくし独りだけがこの森の中にいる。
わたくしは大きく溜息を吐いて俯いた。全てが夢だった。そういう事なんだろう。あんなに都合の良い事が起きるはずがない。わたくしはあの人の過去であり、あの人はわたくしの未来。どんなに願っても、あの人との時間は交わるわけがない。あの蝋燭の炎みたいに、風が吹くと消えてしまうような儚い幻想だったんだ。

「おい」
「ッ!?きゃああ?!」

いきなり声を掛けられて、わたくしは喉を震わせて振り返った。立っていたのは腕に山葡萄を抱えた忍び。昨夜わたくしを背負って逃げてくれたその人だった。暗くて昨夜は良く姿がわからなかったけれど、顔に古傷をいくつも持ち、30歳前後といったところだろうか。無精髭が生え、野生の獣のような逞しさを感じさせる男だ。
わたくしが知る七松殿は、もっと若い。忍術学園の生徒であるあの人は、わたくしと同じ年だったはず。お頭などと呼ばれる人間ではなかった。ならば、この男は何者だ?

「近くに山葡萄が生っていた。腹が減っているだろう?昨晩から何も食べていないからな」
「あなたは……誰ですか?」

わたくしが慎重にそう問いかけると、きょとんとしてしまう。わたくしよりもずっと年上のはずなのに、その顔はどこか幼い。

「あなたは誰ですか?なぜわたくしを助けたのですか……?わたくしを誘拐しても、わたくしには何の力もありません」
、私は七松小平太だ」

そう名乗った男に対して、わたくしは悲しみを通り越して怒りを感じた。

「し……っ、信じられません!七松殿は、わたくしの未来。いくらあなたの声が似ていようと、七松殿だなんてありえません!」
、お前は私の過去じゃないんだ」
「え……?」
「お前は、私の未来だったんだよ」
「どういう事……ですか……?」
「私は、あれからを救おうと必死だった。姿も見えない、触れる事も出来ないを救いたくて、ずっと考えていた」

眉間に皺を寄せて、男は悲しげにそう言った。見ているこちらまで胸が痛くなる。

「私がを救うためには、どうしてもお前が私の未来である必要があった。それであの荒寺を調べてみた。は私の見た荒れ寺の事を、『屋敷』と呼んでいたな」
「ええ……」
「あのときは気にもしていなかったが、やはり変だと思った。寺は寺であって、屋敷ではない。私は昼間に荒れ寺で調査をした。結果、火事になった形跡はどこにも無かった。過去その場所で火事が起きたという話も、近くの村で聞いてみたが、そういう話もなかったし伝わっていなかった」

それじゃあ、まるで……。

「私はある仮説を立ててみた。がいた屋敷というのは、私の知る荒れ寺を取り壊した後に建てられたものだったと。そうすれば全ての辻褄が合うだろう?」
「そんな……。それが本当なら、わたくしには先見の力ではなく、過去を見る力が働いたという事になります……」

受け継いだ巫女の力は、先見の力ではなかった。けれども、先見の力ではなかったからこそ、わたくしは七松殿と出会い、こうして再会出来たのだ。

「そうでなければ、私がお前を救う事も出来なかっただろう」

七松殿は、山葡萄を適当な岩の上に置くと、わたくしの身体を抱き寄せた。わたくしが想像していた七松殿よりも、彼はずっと大きな存在だった。

「最後の逢瀬から、15年が経った。があの屋敷に入る事も全てわかっていたが、屋敷を襲った相手はかなりの強敵である事がわかってな。私もを救うために強くなる必要があった。本当に、遅くなって悪かった……。許して欲しい」
「15年も……っ」

両目から涙が溢れた。喉奥が熱くなって痺れるくらい、わたくしは感激してしまった。
わたくしと七松殿の間には、15年ものずれがあった。それでも七松殿は、わたくしを想ってくれていた。
わたくしは、ようやく触れ合えた七松殿の腰に腕を伸ばして精一杯しがみ付いた。もう離れたくない一心で。

「本当に嬉しい……!あなたが来てくれて、救い出してくれて、本当に嬉しいです……!ずっと、こうして触れたかった」
「私もだ、!お前は本当に可愛い顔をしているな。私の想像した通りだ!」
「えっ?!そんな、恥ずかしいです……!」

ぐいっと顔を上に向けさせられて、七松殿の顔が至近距離に迫る。野性的な男の顔をしている七松殿に見つめられて、わたくしは困惑してしまった。顔が熱くなっていくのがわかり、益々焦ってしまう。

「細かい事は気にするな!」
「細かくありません……!」
「ははははは!!相変わらずだな、は。昔とちっとも変っていないぞ」

そう嬉しそうにあなたが笑うから、わたくしも釣られて笑ってしまう。あなたの顔を見て、一緒に笑う事が出来る。ただそれだけの事が、こんなにも嬉しい。
わたくしはこの人と生きていく。一緒の未来を、これからは橙色ではなく、青い空の下を歩いていけるのだ。わたくしは空を見上げる。この空のように、離れていた時間も、わたくしと七松殿は繋がっていたのだ。

「さて、この葡萄を食べたら帰ろうな」
「いったいどこにですか?」
「決まっているだろう?私の所属する城だ。お前を嫁にするため、苦労させないように組頭にまでなったのだからな!」
「ええッ?!」

亡国の巫女から、いきなり忍組頭の奥方になってしまった。出会ったときからずっと振り回されてばかりいる。
だけど嬉しいです、小平太様。ずっとお傍にいさせてくださいね。


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