橙色の時 前編


梟の声が木霊するだけの静かな世界に、私はいた。木の幹に手を当てて、冷たい真夜中の空気を肺いっぱいに吸い込む。

「ふむ……、ここはどこだ?」

私の問いかけに誰も答える者はいない。鍛練でこの山を突っ切り、学園へ戻るつもりだったのに、どこもかしこも同じ風景に見える。つまり、迷ったのだ。
山で迷うのは良くある事だ。6年生にもなって迷子になるなど、と文次郎あたりに叱られそうだが。
せめてどこかで一夜を明かさなくてはならない。朝を待って学園へ戻る事を決めた私は、とりあえず身体を休められそうな場所をじっと捜した。夜目が利く方とはいえ、ここは鬱蒼と茂る夜の森だ。そう簡単には見つかるはずも―――

「んん?」

ふと、私の視界にポッと柔らかい灯りが入った。それはとても小さな小さな灯りで、目を凝らしていないと見えなくなってしまいそうなものだった。
ともかく、誰かがこの辺に住んでいるらしい。私は木から飛び降りて灯りの見えた方へ藪漕ぎで進んで行く。眠っていた鳥たちが、私に驚いて飛び去っていくのを上の方で聞いた。
暫くして、私は少し開けた場所へ辿り着いた。ボロボロに廃れている小さな寺がそこにはあった。屋根に草がちょんちょんと生えている。人が住まなくなって長い時間が経ったらいしい。今にも崩れてしまいそうなくらいボロかったが、私は構う事無く崩れかかった門を潜って中に侵入した。寺がいくらボロくても、私が入った途端に崩れるくらいなら、もうとっくに崩れているだろう。そう思ったからだ。
ギシギシと酷い音を立てる廊下を進み、私はほのかな灯りが差す部屋を目指した。
灯りがあるのなら、誰か当然ここにいるはず。真夜中にボロボロの寺というこのシチュエーション。まるで、低学年の頃、夜中に仲間としたちんけな怪談話と似ている。けれども、あの当時のような恐怖は感じない。むしろ好奇心の方が勝っている。
部屋の直ぐ前に来ると、橙色の灯りに照らされ、障子越しに人影が映った。ただ1つの影だった。人影の隣に、蝋燭の炎が見える。確実に人がいる。そう確信出来る光景だったのだが、なぜか私は妙な気持ちになった。どういう気持かを説明しろと言われれば難しい。
いざ、決心を固めて一歩前へ出ようとしたときだ。障子の向こうの人影が、ビクンと肩を震わせた。

「もし、そこに誰かいるのですか?」

こんな荒れ寺に似合わない、鈴みたいな女子の声が響く。真夜中の、こんな時間に聞こえてきた声は、妙に耳に届く気がした。
怪しいと言えば怪しい。だけど、こんなに可愛い声の物の怪なら大歓迎だ。

「あの……もし?」

不安が滲んだ声だったので、ハッとなり私はサッと女子がいるだろう部屋の前に出た。

「夜分に申し訳ない!私は七松小平太と言う。ちょっと山に入って迷ってしまったのだ。少しこの軒先を一晩貸して欲しいんだが」
「どうやってここへ―――、いえ、まさかそんな……」

女子はうろたえているらしく、影が左右に揺れている。何をそんなに慌てているのだろう?まぁ、こんな夜更けに人が訪ねてくるのは予想外だったはずだ。女子は何かと準備も必要だと、仙蔵も言っていた。

「私がここにて何か不都合な事があるのなら、直ぐに出て行くぞ」

一晩くらい野宿したところで障りは無い。

「いいえ!そうではないのです!ただ……」
「ただ?」
「蝋燭に、火が点いたのです」
「……は?」
「それだけではなく、あなたまで現れて……、信じられない事ばかりです」
「どういう事だ?何だか良くわからないぞ?」
「あ!?その障子を開けては―――」

意味が通じなかったので、戸惑う女子の声が響いたが、私は戸に手を掛けて一気に開け放った。直接顔を見て話した方がきっとわかるだろう、そう思ったからだ。
ところが、障子を開けた途端に灯りがたちまち消えた。辺りは再び月だけの闇夜に変わる。
それだけではない。障子の向こうには、誰もいなかったのだ。穴の開いた床板から草が生えているし、古道具屋も欲しがらないほど仏具や生活道具が荒れている。天井からは夜露が滴り、その落下する音だけが聞こえる状況だ。女子の姿など、影も形も見当たらない。人が去って、何十年も経っていそうな感じである。
確かに私は女子の声を聞き、生活の匂いも感じていた。
あの女子は物の怪だったのだろうか?狐につままれて首を傾げながら、ぎいぎい音を立てる障子を閉じた。その瞬間、再び橙の灯りが障子越しに灯ったのである。映り込む人影も気配も戻ってくる。

「おお?!どうなってるんだ?!」
「恐らく、その障子を開けてしまったせいでしょう」
「……サッパリ意味がわからんぞ」
「えっと、とりあえず障子をを開けないでください。そうすればわたくしは消えませんので」
「それならわかった」

そう返事をした途端、影がずっこけるのを見た。何か私はおかしな事を言ったか?

「それで、一体どういう事なんだ?なぜ障子を開けるとお前の姿が消えて、閉じると再びお前の影だけが見える?」
「それは……、私が灯しているこの蝋燭のせいです」
「蝋燭?」
「はい……。この蝋燭には、特別な力が込められていると伝わっているのです」

女子の話す事は摩訶不思議なものだったが、とても興味が湧く話だった。
女子の一族は、先見の巫女としてある城に仕えていたそうだ。特に女子のひいひいばあちゃんは巫女の力が強く、歴代の先見の巫女の中でも右に出る者はいなかったらしい。けれども、女子のひいばあちゃんの代になってから、サッパリ先見の呪術が失われてしまったそうだ。それと同時に城も没落していき、ついに戦で殿は捕らわれ、巫女の一族である女子はこの地へ逃げて来たという。

「―――そして、捕らわれる前、殿がわたくしにこの蝋燭をいくつか授けてくださったのです。この蝋燭は、特に優れた能力を持っていた高祖母が念を込めて作ったものだと聞いています」
「普通の蝋燭とどう違うんだ?」
「言い伝えでは、蝋燭に火を灯せば、その部屋の障子越しに未来の世界が影となって映ると……」
「未来が……?」

いまいち女子の言いたい事が理解出来ずまた首を捻ると、女子が言葉を続ける。

「わたくしにも信じられませんでしたが、先ほど七松殿が障子を開けた途端にあなたのお姿が見えなくなってしまったので……。蝋燭の光が消えたり届かなくなると、映らなくなってしまいます。……恐らく、これは間違いない事です。わたくしは未来を―――七松殿からすれば、過去のこの部屋が、蝋燭の灯りを通じて見えているのです」
「それじゃあ、さっき私が見た荒れた部屋の様子は……」
「本来見えるはずの、七松殿がいる時間の部屋でしょう」
「お前は、私からすると過去の人間なのか?」
「はい。どうやらそのようです」

なるほど。女子が先見の蝋燭とやらを使っているのなら、私は女子にとって未来人となるのか。
橙の色が支配するときだけ、過去にこの部屋にいた女子と話が出来る……。何ておかしな事なんだ。だが、実に面白い。

「お前、名は何と言う?」
「申し訳ありません、名乗らずに無礼でした。わたくしは、と申します」
「おう!私は七松小平太だ!」
「先ほどもお聞きしましたよ」
「ああ、そうだったか!あはははは!」
「ふふ……面白い方ですね」

鈴みたいにコロコロと笑うは、姿こそ見えないがきっと可愛いいと思う。影でしか見られないなんて、勿体無い話だ。

「あ、そういえば、さっき『蝋燭に火が点いた』と言っていたな。普通、蝋燭には火が点くものだろう?なぜそんなに驚いていたんだ?」
「高祖母の蝋燭には、今まで多くの者が火を灯そうとしたのです。けれども、不思議な事に高祖母以外、この蝋燭には火を点ける事が出来なかったそうです。わたくしも、火が点けられると思っておりませんでした。さっきは暇を持て余していて、何となく点けてみただけなのです」
「なら、にはひいひいばあちゃんの血が濃く伝わっているのかもしれないな」
「そう……なのでしょうか?―――あ!」

の声が大きくなり、同時に撫子の影がどういうわけか波立ってきた。ジジッという何かが焦げる音もする。

「何だ?」
「蝋燭がもうほとんど溶けてしまって……。これで、お別れのようです……」

の語尾が小さくて悲しい。蝋燭の火と一緒に、弱くなって、消えてしまいそうになる。

「残念です。もっと未来の事やあなたの事が……知りたかったです……」
「なあ!その蝋燭、まだあるんだよな?」
「えっ?あ、はい、後何本かございます」
「だったら、またここへ来るよ!そうだな……、今夜みたいな三日月の夜に!!」
「!」

障子の橙色が再び闇色に戻る寸前、

「おっ、お待ちしております!三日月の夜に、蝋燭を灯して……!」

という、パッと明るい声が花咲いた。















あの三日月の夜から、私との時間を越えたややこしくも面白い交流が始まった。相変わらず影しか姿は見えないし、蝋燭が溶けるまでの短い時間だけだったが、と話すのはとても楽しい。
この事は誰にも話していない。学園の級友たちにも話していない。私だけの秘密で、を独占出来るのが何だか嬉しいから。

「―――それで、また留三郎に塹壕を埋めろと怒られてしまったのだ」
「あまり困らせてはいけませんよ」
「塹壕堀は日課みたいなものだからな!それに、予算会議のときに活用出来る」
「予算会議、ですか?」
「ああ、予算会議っていうのは―――」

私は学園での話をたくさんした。忍者の学校という事もあり、関係者以外には話してはいけないのだが、違う時間を生きるにはお構いなしだ。何より、私がに話したい。
忍者の学校の話を、は興奮したみたいに歓声を上げたりしながら聞いていた。

「今後は課外実習で海の方へ行くんだ」
「海ですか。わたくしは本の中でしか知らない場所ですね。海というのは青くて、とても広いのですよね?」
「海は広いぞ〜〜。広くて、魚がいっぱいいて、それから青くて―――?」
「……」

急に静かになったせいか、梟の低い鳴き声と虫の鳴き声が混じる。

!」
「?!」

私が呼ぶとは我に返り、焦って『あの、申し訳ありません……!』と障子の向こうで謝った。私が何か気に触るような事でも言ったのだろうか?それとも、具合が悪いのかもしれないと思って問い掛けてみる。

「具合悪かったか?それとも、私が言った事で何か気になる事でもあったか?」
「いえ……、体調はは悪くありません。ただ……、七松殿はたくさんの事を知っておいでなのですね」
「そんな事は無いぞ!教わる事の方が多い」
「けれども、わたくしよりはずっと。わたくしは……この敷地から出られませんから。どんな場所のお話も、本の中でしか知らないのです」

は、この地へ逃げてきたと言っていた。

「ここへ来てどれくらいになる?」
「もう2年目です。故郷でも、戦が激しくて城下町より先は歩いた事がございませんでした。この先も……どうなるのかわかりませんし」
「まだ追われているのか?」
「そうのように報告を受けております。上様も今はどうなさっているのか……わたくしには知る術がありません」

精力に欠ける声が、時間という垣根を越えて私の耳に届く。
影が小刻みに震え、は喉奥から自分の醜さを吐き出すように叫んだ。

「わたくし、は……っ、自分が憎い……!自分が憎くてたまらないのです!身寄りも何の力も無いわたくしを、上様は……本当の娘のように接してくださった……。それなのに、わたくしはっ……上様にご恩返し出来ないまま、こうして身を隠すだけ!戦になったのも……、全て、わたくしが巫女の血を引いているから―――」
「上様は、お前が大好きなんだ」
「え……?」

呆けたようにが呟く。は、私が今何て言ったのかが理解出来なかったらしい。だから、私はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「上様は、お前が大好きなんだ。大好きなを護りたくて戦ったんだろう。は自分が憎いかもしれないけど、上様が大切に想っている。そんな自分を憎いと感じていちゃいけない。上様も悲しむぞ」
「七松殿……」
「私もが大好きだ!!」
「ええっ?!」

こんなに大声を出すは初めてだな。どんな顔で驚いているのかが見てみたくなる。

「上様と私、2人に想われているのだから、自分をそう責めるな。笑っている方が絶対に良いぞ。はきっと笑顔が1番可愛い!絶対に可愛い!」
「七松殿……!それ以上はおっしゃらないでください!」
「どうしてだ?」

首を傾げてしばし返事を待つと、さっきとは違いか細い声が返ってくる。

「は……恥ずかしいです…………」
「細かい事は気にするな!」
「細かくありません!」
「お、元気出たな?」
「……もう、七松殿ったら」

はそう言ってまた鈴みたいに可愛い声で笑った。姿は見えなくても、やっぱりは可愛いと思う。だから、こんな風にずっとと話が出来たら良いのに。
私の時間に、はいない。蝋燭の火が消えると、嫌でもそれを痛感する。辺りが真っ暗になっても、私の胸の中にはという炎が燃え続けている。














との出会いから3ヶ月くらいが経った。前回会ったときに、と私を繋いでいる蝋燭も、ついに残り一本だと告げられた。
そう、私たちの交流は期限付きなのだ。まだ先だと思っていた現実が、今目の前に突き出される。初めて荒れ寺へ向かう足取りが重くなった。
の部屋の前には、いつも通り蝋燭に火が灯されていた。橙色の優しくて、直ぐに消えてしまいそうな光は、まるでそのものだった。

「……こんばんは、
「こんばんは」

自分でも情けないくらい声が沈んでいた。けれども、は普段通りに明るい声で返事をしてくれた。それが更に私を苦しくさせる。

「今夜で、最後になりますね」
「最後か……」
「ええ。先読みの蝋燭も、最後の一本です。わたくしと七松殿を繋ぐ物は無くなります」
「なぁ、どうにかならんのか?」

腐った廊下に拳を押し付けた。皮膚が木切れに食い込もうと構わない。

「私は、お前と離れたくない。もっとお前を傍で感じたい。影ではなく、お前を感じたいんだ!私には、お前と離れる事なんて出来ない!」
「七松殿……わたくしは―――?!」

の影が弾かれたように跳ねた。そして、正面にいる私ではなく顔を右の方へ勢い良く顔を向ける。私も僅かに異変を感じ取った。がいる向こう側から、臭いがする。何かが燃えているような焦げ臭さだった。

、どうした?」
「何でもな―――」
「ちゃんと話せ。もうわかっている。何があった?」
「……外が騒がしいのです。どうやら、敵にここが見つかってしまったようです」
「何だと!?」

私は思わず立ち上がって辺りを見回した。だが、ここは怖いくらい静まり返っている。虫の鳴き声を聞いて、ようやく私はの時間に起きていると気付いた。
恐れていた事が起きてしまった。私はの前に改めて座ると、噛みつく勢いで言った。

!早くそこから離れるんだ!敵に見つかる前に逃げろ!」

けれどもの影は左右に首を振る。

「既に屋敷は囲まれています。あちこちで兵士たちが戦い、火の手が見えます。もう直ぐここにも刺客が入り込むでしょう」

そう告げるの声は妙に落ち着いていて、それが逆に私の心を乱した。

!!早く逃げろ!!もたもたしている場合じゃないだろう?!お前が死んだら、上様だって―――」
亡くなりました
「?!」

火が弾ける音や、刀が混じる金属音が私の耳に飛び込んでくる。煙も薄らと蝋燭の炎に照らされて映りこんだ。そんな状況でも、の声は穏やかなものだった。

「先日、密書が届けられたのです。上様は監禁されたあげく……斬首された、と」

掛ける言葉が見つからなかった。が話してくれる上様は、とても優しくて慈悲深い人だった。に対しても、本当の娘のように接していたという。その上様が殺され、はさぞ傷心しただろう。

、上様が亡くなったからと言って、お前まで死んでしまう事はない。上様だって、お前の無事を祈っているはずだ……!」
「七松殿、わたくしには会えましたか?」

は全てを悟っているように、穏やかな口調で質問してきた。の意図がわからずに黙っていると、再び口を開いた。

「わたくしは七松殿の過去。もし……わたくしが七松殿の時間に生きているのだとしたら、あなたに会っていないはずありません」
「…………死んでいるのか、?お前は」
「きっとわたくしの命は、ここで尽きる運命にあったのです。あなたに出会って、薄々感じてはいました。わたくしは、あなたの時間に存在していない。これは、わたくし行く末を示しているのだ、と」
「そんなわけない!!」
「いいえ、きっとそうなのです。だから、わたくしは逃げません」

がすっと立ち上がった。迷いの無い動きで、私に真っ直ぐ視線を浴びせてくる。
黒い煙が濃くなって、視界を隠していく。火は更に強まったようで火花の激しい音がした。の周りはもはや戦場と化しているのだろう。

「わたくしはもう逃げたくない。隠れもしない。上様が命を賭してわたくしを救ってくださったように、今度はわたくしが亡き上様に変わって戦う番です」
……!」
「七松殿、あなたがいてくれて本当に良かったです。あなたがいたから……わたくしは運命に諦めず、最後まで戦う勇気が持てました。呪われたこの血も、好きになれます」

私はの悲しい言葉に耐えきれず、床を殴りつけた。拳が腐った床を突き破って傷つくが、そんな痛みは痛みには入らない。

!私が絶対にお前を助け出す!」
「それは出来ない事です。わたくしがあなたの過去である以上、この出来事はもう既に終わっているのです……!だから、もうわたくしの事はお忘れください!」
「出来ん!お前が言ったんじゃないか!諦めないと!だったら、私を信じろ!」
「七松殿……」
の笑う顔を見るまで私は諦めない。もっと長く、と話をしたい。まだたくさん話したい事がある!」

未来が何だ!過去が何だ!
私がを救う。それだけは何が起きても変わりはしない。

「必ずお前を救う方法があるはずだ!だから―――」

バタン!!という大きな音が聞こえたのと同時に、の部屋を明るく照らしていた橙色が床に落ちた。何者かがの部屋に侵入したのだろう。もう1人、のじゃない誰かの影が入り込む。身構えたのの様子では、味方では無いのは明らかだった。
の以外の存在に私の身体が動き、私は無駄だとわかっていてもその戸を開けずにはいられなかった。

ーー!!」

戸が外れてしまうのではないかと思うくらい、強く開け放った。


2011.07.17 更新