綾部のかーちゃん


午後の陽だまりの中、竹谷は温かな風を感じながら目を細めてと草むらの上に座っていた。最近飼い始めた兎たちを散歩させている最中なのである。兎たちもこの日差しを受けてのんびりと青葉を食べ、ご機嫌な様子だ。
ずっとこんな天気が続けば良いと思っていると、兎たちが何の前触れもなく怯え始めた。不安そうに震え、蜘蛛の子を散らすように竹谷から離れて行く。

「な、何だ?おーい待てよ!」

追いかけようとして立ち上がったそのとき、背後に殺気を感じてハッと目を大きく見開く。背中越しにも感じる冷たい空気と恨みの念に竹谷は肩を震わせた。
後ろを振り返ろうか迷っていると、竹谷のボサボサの髪が強い力で引っ張られた。そして、耳元に怨霊の声が囁かれる。

「た〜〜け〜〜や〜〜く〜〜ん〜〜?」
「ぎゃあああああーーー!?!?!タカ丸さん?!」

竹谷が振り返らずともその声が誰なのか直ぐにわかった。本来ならば6年生の年齢なのだが、諸事情により4年生に編入してきた斉藤タカ丸である。
彼はカリスマ髪結いの息子であり、彼自身もまた髪結い。竹谷の手入れのされていない芝生のような硬い髪を見ると、髪結いのプライドが許さないのだ。タカ丸は竹谷の痛みきった髪を握ったままキラリと鋏を光らせた。その様子はまるで狩人が獲物を狙う目である。

「竹谷くん……僕ね、久々知くんに教えてもらうまで知らなかったんだ」
「なななな、何をですか?」
竹谷くんのそれが、髪の毛だってこと
「どう見ても髪の毛ですから!!」
「これのどこが髪の毛なの?モンゴリアンデスワームも良いところだよ。僕には許せない!そういうわけだから覚悟してね!」
「(もんごりあんですわぁむ?)ひいいいいいいーーーーッ?!?目がヤバい!目がヤバい!」

タカ丸はどこからか荒縄を取り出し、獲物が逃げ出さないようぐるぐる巻きにして地に転がす。竹谷の紺色の頭巾が手早く外され、結い紐がスパッと鋏で両断される。
忍術に関しては素人のタカ丸だが、髪結いとなればもはや別人。鋏を持つ手元は全く見えない。見えるのは残像のみで、竹谷の藁のような髪が散っていく。
竹谷はもう抵抗する術を見失っていた。後輩に背中を馬乗りされてもただ涙を流すことで精一杯だった。
タカ丸の手によって竹谷の髪は先ほどとは段違いに良くなってきた。痛んだ毛先は整えられて、無駄なボリュームがなくなっている。またもどこから取り出したのかわからない椿油の入った小瓶の蓋を開けると、仕上げとばかりに擦り込んでいく。油分を取り戻した髪はつるんと艶やかな光沢を放った。

「さ、仕上げはこの櫛で―――」
「……?」

櫛を掲げたのは良いが、タカ丸はその櫛を竹谷の髪に当てようとしない。
タカ丸が持っているのは飴色と蜂蜜色の筋が混ざりあった鼈甲の櫛だった。それは幼児の掌ほどしかない小さな飾り櫛で、随分と古いものであることがわかる。明らかに髪を梳く用ではない櫛だった。
タカ丸はしばしの間その櫛を見つめると、そっと櫛を懐に仕舞い込んだ。そしてさっさと立ち上がると竹谷に『えへへ』と照れ笑いを浮かべる。

「ごめんね竹谷くん。この櫛を使わなくても、その髪だったらもう大丈夫だよ」
「え?え??」

わけがわからないという竹谷を放置し、タカ丸は少し残念そうに眉を寄せてその場を立ち去る。茫然と竹谷は彼の4年生にしては大きい背中を見つめるしかなかった。
こうして、残されたのは艶々の髪になったぐるぐる巻きの竹谷と、竹谷を心配して戻って来た数匹の兎。

「せめて縄を解いていってくれ……」

竹谷が荒縄から解放されたのは数時間後、夕暮れ時である。















学園内の廊下に鮮やかなタカ丸の金色の髪が揺れていた。そして、その隣には夜空を思わせる黒髪がある。
黒髪はとても長く床についても余ってしまうほどだったが、どういうわけか彼女の髪は床につくことなくふわふわと重力を無視して浮いている。さらに言えば、少女の身体も一緒にわずかだが宙に浮いているではないか。
少女は大きな瞳に涙の膜を張りながらタカ丸に不満をぶつける。

「何てことをしようとするの!?あんな剛毛の髪に櫛を通したら折れちゃうよ!」
「ごめんごめん!ついああいう髪を見ているとこの櫛を使いたくなっちゃうんだ。機嫌直してよちゃん」
「ごめんじゃ済みませんッ!」

と呼ばれた少女は羽衣を揺らしながらキッとタカ丸を睨んでいる。そんな瞳も愛らしいと不謹慎ながら思ってしまう。

「コレで梳いた髪は特別綺麗になるけれど、歯が折れれば私は消えてしまうのよ!」
ちゃんは神様だもんね」
「そうそう……、ってちゃんと反省しているの?!」

は薄絹の長い袖で隠れた手でタカ丸を殴る仕草をする。けれどもの手はタカ丸の頭を突き抜けてしまった。まるで空気を掴むかのようである。
は驚くべきことに神と呼ばれる存在なのだ。八百万の神々とは良く言ったもので、が司っているのは人間の髪だった。の長い艶やかな黒髪はその象徴とも言える。
タカ丸はまだ5歳だった頃にと出会った。父親の仕事についていった帰り、しゃがみ込んで泣いているを見つけた。は神としての位が低く神たちの間でいじめられ、また人間たちからの信仰心も薄かった。そのため、の宿る鼈甲の櫛が祭られている祠を、人間たちに破壊されてしまったのだ。当然人間たちに神であるの姿は見えていない。
祠という家を失ったはとても不安定で、その存在そのものが消えてしまうところだった。それを救ったのがまだ幼かったタカ丸で、タカ丸はを慰めると櫛を自宅に持ち帰った。の宿った櫛は神棚に捧げられ、消滅を防ぐことができたのである。
それ以来はタカ丸と10年もの間共に過ごしてきた。タカ丸以外にが見える人間はいなかったが、タカ丸が独り事を言っているように見える以外何も不自由に感じていない。

「今度立花先輩の髪をこの櫛で梳かしてあげるから、それで許してよ」
「本当?あの子の髪ってすごく綺麗だから大好き!」

はパッと花が咲いたように笑う。髪が綺麗な人間に使ってもらうことは大歓迎らしい。

「立花先輩も髪が綺麗になるって喜んでくれるしね」

しかしタカ丸の言葉を聞いて直ぐに表情は歪んだ。とても悲しそうな顔に変わるにタカ丸は焦る。

「どうしたの?僕何か悪いこと言っちゃった……?」
「違うよ、タカ丸のせいじゃない。私……やっぱり髪を綺麗にするくらいしか役に立たないんだなぁって思っただけ」

が宿る鼈甲の櫛は小さいが、梳かすとどんな硬い髪も幼児の髪のように柔らかくなり、夜露のような艶が出る。髪を司るだけあり、人の髪を美しくする力を秘めているのだ。
しかし、それ以上の力を齎すわけではない。稲荷神のように作物を育むわけでもなく、水神のように命の源となる水を湧かせるわけでもない。
常にはそのことをコンプレックスに感じていた。他の神々からバカにされ、気づくと独りで小さな祠に立っていた。

「思えばタカ丸に出会ったときだって、家を壊されて泣いてしまったし……人間に助けてもらってばかり。ちっとも神らしくないよね」

神とは迷える人々を導く存在。救いを求めている人々に笑顔を取り戻すことが使命である。も髪を司る神として何か人の役に立ちたいと思い下界に降り立ったのだ。
けれどもを待っていたのは厳しい現実。人の信仰心から力を得ているのだが、髪を司るの祠こそ建ててくれたものの、信仰心は無いに等しかった。祠を破壊されたのだって、そこに農具を片付ける倉庫を作るためだ。神を祀っておくおくより、農具倉庫を作る方がずっと良いと判断されてしまったから。

「今だって……こうしてタカ丸に愚痴言ってるし」

『ごめんね』とは悲しそうに言った。
タカ丸は触れることのできないの髪を優しく撫でるように手を動かす。見つめる瞳はとても慈愛に満ちている。

ちゃんが役に立つとか立たないとか、僕はそんなことどうでも良いと思う。だってちゃんは神様である前に、僕の大事な友達で、家族だから」

カリスマ髪結いとして忙しい父を手伝いながら過ごしていたタカ丸にとって、は1番近い存在だった。何か失敗をして父親に怒られたときも、忍術学園に行くと決めたときも、はタカ丸の味方であり続けた。タカ丸にしてみれば、はただの神という存在ではない。

「あ、ありがとう……」

は困ったように微笑みを浮かべる。タカ丸の優しさが嬉しい反面、それは神としての自分を否定しているように感じるからだ。無論タカ丸にそのような含みは無い。それもわかっているだったが、どうしても神としての自信が見えなくなってしまう。
は話題を変えようと思い、タカ丸の正面をふわりと飛んだ。

「そういえば、滝夜叉丸と喜八郎と三木ヱ門はまだ戻ってないの?」
「うん。今日の朝には演習から戻って来るはずなんだけど……」

タカ丸は4年生に編入したとはいえ、忍術に関しては素人だ。まだ4年生の演習にはついて行けず、今回は4年生の中で1人留守番となった。
本当は6年生の年齢なのに、と陰口を叩かれることもある。けれども、や先ほど挙げた3人はタカ丸のことを応援してくれている。は家族として、他の人は同じ忍者を目指す者として。
ふと、背後からバタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。重い足音なので6年生か学園の教師たちだろう。振り返ると山田伝蔵が険しい表情をして足を止めた。もちろんの姿は山田には見えていない。

「タカ丸か、丁度良いところに。お前も来なさい」
「え?あ、はい」

『いったいどうしたんですか?』とは聞けないような切羽詰まった雰囲気を感じ、タカ丸は学園長がいる庵に着くまで一言も喋らなかった。は慌てて早歩きをする2人の後を浮遊しながら追いかける。黒く長い髪が光を纏い尾を引く。

「いったいどうしたのかしら……?」

タカ丸は視線だけに向けると、『さあ?』といった表情を浮かべた。
















庵には既に報告を受けているかのような学園長が上座に正座していた。山田と同じくタカ丸は一礼すると畳に膝を折った。はタカ丸の右隣に座って様子を窺っている。

「既に報告は受けておる。しかし、タカ丸が一緒ならば説明をしてやってください」
「はい。タカ丸……、落ち着いて良く聞きなさい」
「はい……」

返事はしたものの、この重々しい空気に次出てくる言葉を想像しながら警戒してしまう。午後の陽気が一気に冷えるようである。

「昨日の夜に行われた4年生の演習中、侵入先の城で平滝夜叉丸、綾部喜八郎、田村三木ヱ門が捕まって投獄された」
「えっ?!そんな……!それで、3人は無事なんですよね?!」





タカ丸さん、僕たちは演習で今夜いませんけれど心配しないでください。必ず戻ります。





まぁ多少やっかいな城ではありますが、この滝夜叉丸にかかれば……ぐだぐだ……。





タカ丸さんは気楽にお茶でも飲んで待っていてください。







昨日笑顔で見送った3人の表情がタカ丸の脳裏を掠める。少しばかり危険な演習だけれど、必ず戻って来ると約束してくれたのだ。タカ丸は縋る様に山田を見た。
山田は無言で俯くと、懐から折り畳まれた懐紙を取り出した。そして懐紙を広げると畳の上にそっと置いた。懐紙に包まれていたそれを見て、タカ丸の心臓は凍りついてしまうような感覚を覚えた。

「これ……は……ッ」

そう呟くのがやっとである。
懐紙に乗っていたのは人間の髪だった。紙縒りで結ばれた髪の束は3つある。1つは癖の無い真っ直ぐな艶っぽい髪、もう1つは柔らかそうにうねった髪、そして最後はサラッと指通りが良さそうな色素の薄い髪。
その髪束の持ち主を、髪結いであるタカ丸が知らないはずがない。そして、なぜここに髪束があるのかも。

「これを侵入先の城の忍者が学園に投げ込んできた。見せしめだろう……。あの3人は―――」
「嘘だ!こんなこと、僕は……っ!」
「落ち着きなさい、タカ丸」
「これが落ち着いてなんていられるはずありません!僕は信じません。あの3人が………しんで、しまったなんて……!!」

遺髪。
この髪束が示す意図はそれしか思いつかなかった。
けれどもタカ丸は否定したい。この悲しい現実を受け入れたくない。

「こんなことしていないで早く助けに―――」
「もし生きていたとしても、あの城は城塞に相応しい……。居場所がわからない限り、下手に動くことはできん」
「そ……、そんな…………」
「タカ丸!」

ガクンとタカ丸の肩の力が抜け、両手を畳につけてどうにか身体を支える。が心配そうにタカ丸に近づき顔を覗き込むと、生気が抜けてしまったようなぼんやりとした顔をしていた。
学園長は苦虫を噛み潰したような苦しい表情を見せた。

「ミイラ取りがミイラになるわけにはいかん。しばし考える必要がある。タカ丸はもう下がりなさい。後はわしらに任せるんじゃ」
「…………はい」

学園長は学園の生徒の安全を第一に考えなくてはならない。大勢の命を危険に晒すことはできないのだ。
自分には何もできない。この学園で1番未熟である自分には。
タカ丸は返事をするだけでやっとだった。山田に手渡された髪束が包まれた懐紙を手に、タカ丸は来た道を力なく戻る。足取りは重く、俯いたままで顔を上げることができない。目尻には熱い涙が今にも零れ出そうだ。
忍道が厳しく修羅の道であることは理解していたはずだった。けれども実際に事が起きてしまうとどうにも悔しく未練が断ち切れない。冷静でいられなくなる。

「タカ丸……」
「…………」
「タカ丸」
「…………」
「タカ丸っ!!」
「?!」

大声で名前を呼ばれ、タカ丸はピタッと足を止めた。目の前には強い視線を送って来るが立ちはだかっていた。タカ丸が顔を上げたのを見ると、は先ほどとは打って変わって優しい慈愛に満ちた表情に変わった。そしてタカ丸頬に白い手を寄せると撫でるように動かした。

「泣かないで、タカ丸」
「だけど……、僕は友達を助けることができないんだ。それに……もしかすると、もう……」

手遅れなのかもしれない。それさえ確かめる術がない。絶望に打ちひしがれてタカ丸は小さな子供のように震えた。

(まるで、昔の私……)

タカ丸に救ってもらったあのときの自分が見えた気がして、はぐっと自分の手を握りしめる。
は美しい黒髪を揺らしてにっこりと微笑む。まるで小さな子供を宥める母親のような顔だった。

「大丈夫よ、私に任せて」
ちゃん?でも、どうやって……?」
「ふふっ、タカ丸ってば忘れたの?」

は意味深な表情でタカ丸の懐紙を握る手に自分の手を翳した。
すると柔らかな光がの指先に宿り、それは徐々にの身体全体を薄く包んだ。
全身に光を纏うの姿は、まるで―――





私は、髪様なんだよ?





が目を閉じた瞬間、美しい夜空のような黒髪が風にはためく帯のように広がった。


2009.03.03 更新