村娘が町男に求婚される話 後編


忍術学園の食堂で、綾部、滝夜叉丸、三木ヱ門が座った。まるでお誕生日席のようにタカ丸を囲んでいる。口火を切ったのはタカ丸だった。

「皆、ちゃんを射止めるためにぜひアイディアをください!」

ガバッと頭を下げる。すると滝夜叉丸は自分の胸をドンと叩いてみせた。

「任せてくださいタカ丸さん!そのために我々が集まったのですから!」
「そうですよ、タカ丸さん!僕の言う通りに彼女に接すれば、きっとタカ丸さんに振り向いてくれますって!」
「例えば?」

綾部がそう三木ヱ門に問いかければ、でれっと顔が緩む。

「僕がユリコやかのこを大切にしているように、熱烈な愛を囁くんです!嗚呼〜、ユリコは今日も可愛いな〜!」
「それなら私だって輪子を愛してるぞ!私の輪子は何て愛らしいんだ!」

三木ヱ門と滝夜叉丸がうっとりとしている様子が奇怪に見えたのか、食堂へ訪れる生徒たちはひそひそ声で何かを噂している。タカ丸は乾いた笑いを漏らすしかなかった。そもそも4年生が一致団結して何かをするという事自体が奇怪に見えるらしい。

「綾部くん、2人が違う世界に行っちゃってるんだけれど……」
「いつもの事じゃないですか。その内戻ってきますよ」
「う、うん……」
「それより、愛を囁くにしても、その機会が無ければ意味が無いとは思いませんか?」
「そうなんだよね……」

好いている異性に愛を囁く事自体は良い案だとタカ丸も思う。それが1番気持ちが伝わりやすいからだ。タカ丸の性格からしても、それほど難しい案ではない。しかし、とは委員会以外の接点が無いに等しい。唯一の接点である委員会でも、真面目なはタカ丸と仕事以外の話はほとんどしない。挨拶を交わして多少の世間話をするくらいだ。しかもその世間話はタカ丸が話を振っている。から話しかけられる事はまず無い。

「まずはデートに誘いたいんだけれど、ちゃんがその誘いに乗ってくれるかなぁ?」
「タカ丸さん、デートはその後についてくるものにすれば良いと思います」
「え?」
「実は、協力者に来てもらっています」
「久々知兵助です」
「「「うわ?!」」」

いつの間にか綾部の隣に青い制服を着た人物―――久々知兵助が座っていた。突然現れた先輩に驚き、三木ヱ門も滝夜叉丸も自分の世界から引き戻される。当然1番驚いたのはタカ丸だったのだが。
久々知を呼び出した綾部は眉一つ変えずにこう続けた。

は委員会の仕事を真面目にこなしています。そのなら、委員会の先輩である久々知先輩の話なら聞き入れると思います」
「確かに」
「それは言えてるな」
「それで?」
「はい。久々知先輩にお願いして、火薬を仕入れているお店のある町へタカ丸さんと一緒に行って欲しいと」
「「「おおっ!!」」」

久々知が頷くと、思わず3人から歓声が上がった。

「こうすれば、も自然にタカ丸さんと出かける―――つまりはデートに行くというわけです」
「タカ丸さんと一緒に行く理由についても、『火薬について町で色々教えてやって欲しい』と頼んでおきましたから」
「なるほど〜。綾部くん、久々知くん、ありがとう!っていうかすごい根回し!」
「忍者ですから」
「まさか1番まとめられなさそうな人物がまとめてしまうとはな」
「全くだ」

滝夜叉丸と三木ヱ門は、1番有効な意見を出した綾部に対し拗ねる。タカ丸は『2人もありがとうね』と声を掛けると、直ぐにパッと表情を明るくした。

「あっ、でもちゃんは町の男が嫌いだって……。久々知くんは何か聞いていない?」
「町の男が嫌い?そうですね……、そういえば、の父親は町出身だったと聞いた事がありますよ。けれど、それが町の男を嫌う理由に結びついているのかはわかりませんが」
「そっか。ありがとう、教えてくれて。僕頑張ってちゃんにアピールするから!」
「「「頑張ってください!!」」」

熱く燃える男5人に、食堂へ訪れた生徒たちは首を傾げた。そんな事も気にせず、タカ丸の心は恋の炎で燃えていた。















『タカ丸さんと一緒に町へ火薬を注文しに行って欲しい』と頼まれた。先日の件もあり、最初は断った。しかし、久々知は用事があって一緒に行けない事や委員会では久々知の次に火薬に詳しい事もあり、は渋々了承したのである。
そして今日、タカ丸と町に行くのだ。

(あのお祭りの日から、どうしても彼を避けてしまった……)

あまりに突然の求婚に、は戸惑いを隠せない。委員会で顔は合わせるものの、後は意図的にタカ丸を避けてしまう。タカ丸もきっと避けられている事は感じ取っているだろう。それでも話し掛けようと必死になっているのが、痛いほど伝わってくる。

(私は、家族を助けないといけない。そう決めて、あの神楽を舞ったのに……)

心が乱れる。固く決意したはずの心が、大きく揺れた。そして困った事に、タカ丸の気持ちが迷惑で不快というものではなく、苦しいような嬉しいような気恥ずかしいような、甘酸っぱいものだった。
胸元でぎゅっと両手を握ると、益々脈打つ音が大きくなる。熱が顔に集まり、どうしようもない気持ちになってしまう。
求婚してきたときには必死で自分の動揺を隠した。その辺は流石くの一を目指す者と言えよう。けれども、次に顔を合わせたら?この胸の内を完全に隠せるだろうか?拒絶以外の別の言葉を口にしてしまいそうで、怖くなる。

(落着くのよ私……。平常心で行かなくちゃ)

は制服から私服に着替えて支度を整えると、待ち合わせ場所である校門へ向かった。
タカ丸はに気が付くと、パッとわかりやすく顔を綻ばせた。

ちゃん!来てくれたんだね。制服姿も良いけれど、私服も新鮮ですごく可愛いよ!」
「久々知先輩からの頼まれ事ですから、これくらい当然です。それに、タカ丸さんにとっても、火薬を勉強する良い機会になると思いますし」

可愛いと言われ、の内心はぐらっと揺れたが、何でも無いかの様に言ってのける。すると、なぜかタカ丸は子供っぽくむくれる。それから次に飛び出した言葉は、の予想しないものだった。

「……久々知くんだから言う事聞くの?」
「え?」

一瞬、何を言われているのか理解出来ず、はきょとんとしてしまった。その後タカ丸の言わんとする事を飲み込み、頬に熱が集まってきた。
の変化に気づかず、タカ丸は拗ねたように呟く。

「そりゃあ僕は久々知くんと比べてダメダメだけど……、ちゃんの事が大好きな気持ちは負けないよ!」
「たっ……、タカ丸さん、それ以上は止めてください!」
「どうして?」
「どうしてもです!それに、久々知先輩は尊敬すべき先輩というだけで、それ以上の気持ちはありませんから!」
「そうなの?良かったぁ〜」

本当に安心しきった顔で言うものだから、は益々どう対応したら良いかわからなくなる。この場からとにかく離れたくて、はくるっとタカ丸に背を向けた。

「とにかく、もう行きますよっ!」
「あっ!待ってよ〜!」

タカ丸を置いてはドンドン歩いて行く。気恥ずかしさでタカ丸の顔を見られない。の背後で、タカ丸は普段冷静なの新たな姿を見る事が出来、頬を緩ませていた。















町に到着すると、は目的の火薬が売っている店へ入る。この店では、学園で使う火薬を長年取引しており、学園は店からするとお得意様だ。火薬について質問をすれば、大抵の事は答えてくれる。

「タカ丸さん、火薬の事はここのご主人に聞くと良いですよ。あまり火薬を扱わない人にも、丁寧に教えてくれますからね」
「うん、わかった」

タカ丸はタカメモを取り出し、さっそく勉強モードである。

「あ……、でも僕が勉強している間、ちゃんは暇だよね」
「そんな事はありません。……私は少し外で待っています」
「う、うん。わかった」

は店主に話しをすると、店の外へ出て行った。
タカ丸は気づいていた。が、町に来てから静かになったのを。元々お喋りなタイプではないが、の静かさには違和感を覚える。

(ちゃん、何か考え込んでいるみたいだったな……)

悩み事があるのかもしれない。けれど、無理に聞き出すのは良くないだろう。

(今日はせっかくちゃんと一緒にいられるんだし、僕がちゃんを元気にしてあげたい。……僕は、そのくらいしか出来ないけれど、ちゃんが僕を少しでも頼ってくれたら嬉しいな)

祭りのときには、きっぱりと頼りにならないと言われてしまったが、タカ丸はその程度でへこたれていなかった。
暫く火薬の原材料や製法について説明を受け、タカ丸は店を出た。店の外ではが用意された椅子に座り、通りをただ意味も無くぼーっと見ている。

ちゃん」
「……あ?!タカ丸さん、終わったんですか?」

何でも無いように振る舞うだったが、やはりどこかおかしい。

「うん。お店の人、すごく丁寧に教えてくれたからわかりやすかったよ」
「そうですか、良かったです」
(やっぱり元気が無い感じ……。僕が突然プロポーズしちゃったっていうのもあると思うけれど、それにしたってぼーっとし過ぎだよね。良し!僕がリサーチした人気のお店にお昼を誘おう!)

くのたまにモテるタカ丸は、女子の好む町の食堂に詳しかった。特にタカ丸はの好きそうな食堂をチョイスする。ここならきっと美味しい食事と楽しい時間を過ごせる。そう確信してに声を掛けた。

「「あの!」」
「え?」
「へっ?」

2人の声が被り、お互い驚き顔を見る。

「何?ちゃん」
「い、いえ、タカ丸さんからどうぞ」
「そう?実はね、ちゃんと一緒にお昼を食べたい食堂があるんだ。女の子たちにすごく人気でね、デザートも美味しいんだって!行かない?」
「は……はい、私も丁度お腹が空いたところだったんです。行きましょうか」
「うん!」

一瞬、が身じろいだ気がした。けれどもが誘いを了承した嬉しさで、タカ丸の頭からその事はすっ飛ぶ。タカ丸はの手を取ると、人気の食堂へ向かった。
食堂は繁盛していたが、昼時より少し早かったため、席に直ぐ座れた。

「ここの食堂は定食が美味しいんだよ」
「確かに美味しそうですね」

周りの食べている人たちを見て、も定食に期待をする。タカ丸とは店員を呼び、同じ定食を食べる事にした。程なくして運ばれてきた定食は、見た目も味も満点である。

「美味しい!とても美味しいです、この定食!食堂のおばちゃんと良い勝負ですね」
「本当?!気に入ってくれて嬉しいな。色々考えたんだけど、ここを選んで良かったよ」
「……タカ丸さん、わざわざ私のために?」
「えへへ、ちゃんの笑顔が見たくて……。ちゃんの嬉しい事が、僕には1番大事だから」

デートをするときは、食事をする場所も重要だと思い、喜八郎たちと一緒に考えた。

(僕の事を避けるようになってからは、1度も嬉しそうに笑うところは見られなかったもんなぁ……。やっぱり今日ちゃんと一緒に来られて嬉しいや)
「でもここ、少し料金が高いんじゃないですか……?」
「心配しないで!僕がちゃんの分も払うからさ」
「え!?そんなの悪いですよ!」
「良いの良いの!僕はちゃんに火薬のお店まで案内してもらったわけだし、そのお礼だよ」
「だけど―――あ!?」

肘が隣の席にぶつかってしまい、の荷物である風呂敷が落ちてしまった。中身が零れ出てしまう。

「荷物が……!」

直ぐにタカ丸は立ち上がり、が何かを言う前に落ちた荷物を拾おうと手を伸ばした。ここで、タカ丸は落ちた風呂敷の中身が笹に包まれたおにぎりであると気づく。が持参した昼食である。しかも、その笹の包みは2つあったのだ。

「も、もしかして……、お昼を作ってきてくれてたの?」
「…………はい。簡単なものですが、多分学園へ帰るのはお昼過ぎになってしまうと思いまして……」

最後の方は段々小声になってきてしまい、の言葉は良く聞き取れなかった。

(え?ええ?!僕のために、ちゃんはおにぎりを用意してくれてたの……?!それなのに、僕は……!)

タカ丸は先ほど昼食に誘ったとき、が少し顔を曇らせているのを見ている。その理由がようやくわかり、そしてとてつもなく後悔した。
思わずタカ丸は頭をガバッと抱えてしまう。その様子には周りの客もぎょっとした。

「タカ丸さん!?」
「ごめん、ごめんねちゃん!僕……、ちゃんがお昼を用意してくれたのに全然気が付かなくて……!」
「タカ丸さん、落ち着いてください!?」
「でも……!」

ここまで注目されてしまうと、流石に食堂を出なければならないだろう。とタカ丸は勘定を済ませると、足早に人通りの無い河原へ向かった。
ようやく落ち着きを取り戻したのか、タカ丸はしゅんとした様子で俯く。
は静かに言った。

「……タカ丸さんは、どうして私に求婚したんですか?」

顔を上げると、の戸惑う表情が見えた。

「私、無愛想で特別可愛いわけでもない。求婚されたときもきっぱり断りましたし、タカ丸さんの事は最近ずっと避けてましたし、校門の前でも可愛くない態度を取りました。今だって、タカ丸さんに恥をかかせてしまいましたよね?……私には、タカ丸さんが私を気にかけてくれる事がわかりません」
「そうかな?」
「え?」
「僕には、ちゃんがとても魅力的で可愛い女の子に見えるよ。結婚したくなるくらいにね」
「そ、そんな事……」

タカ丸は優しくに語りかけた。その声は、の心に染み入るようなものだった。

「僕が急に求婚したせいで、すごく困らせちゃったよね?それは本当にごめんね。避けられて当然だったと思う。だけど、そんな僕に付き合って町まで来てくれた。久々知先輩の頼みでも、断ろうと思えば断れたよね?でもそうしなかった。可愛くない態度だってキミは言ったけれど、僕のために動揺してくれたのはすごく可愛くて……。忙しい中、僕のためにお弁当まで用意してくれた。僕、すごく嬉しかったよ!益々キミの事、好きになるくらい」
「タカ丸さん……」
「僕は中途半端な気持ちでキミをお嫁さんにしたいわけじゃないんだ。それはわかって欲しい」

タカ丸の言葉が嘘偽りの無いものだと、その瞳を見ればわかる。の中心がぎゅっと掴まれたように脈打ち、苦しくなる。でも、それは嫌な感覚では無かった。だから、もタカ丸の思いに応えなければならない。

「…………聞いてくれますか?私の父の話を」
ちゃんのお父さん?確か、病気で亡くなったって……」

祭りの日、確かには父親が病死したと言っていた。

「父は―――あの人は、本当は亡くなってなんかいません。いえ……、亡くなっているかもしれないですけれど、私たち家族にはそれを確かめる術が無いんです」
「それは……どういう事……?」
「あの人は私たち家族を置いて、村から出て行ってしまったんです」

にとって、忘れられない出来事だった。父の背中が遠ざかって行く光景が、目に焼き付いて離れない。
の唇が重く開かれる。

「あの人は町の人間でした。村で育った母は、町へ作った草鞋を売りに行っていて、そのとき出会ったそうです」
「運命的な出会いだったんだね」
「はい。親同士が決めたわけではない結婚で、本当の恋だったと思います。最初は何かと便利な町で暮らす予定だったそうですが、当時母には病気の祖父がいて、家を離れる事は出来なかった。あの人は繁盛している商家の息子だったので、農作業をした経験も、遠く離れた井戸から水を汲んできた事も無い人でしたけれど、母の気持ちを尊重して婿入りしたんです」

町の男と村の娘。この時代、出身が違ければ慣習も違ってくる。特に嫁入りではなく婿入りともなれば、周囲の反対や障害もあったかもしれない。

「結婚後に私が生まれ、あの人は母と農業をしながら生活をしてきました。でも……、あの人は村での厳しい暮らしに耐えられなくなって、母を置いて出て行ってしまったんです」

は幼い頃に見た、父親の手を思い出す。霞んだ記憶の中に残された、父親の記憶は少ない。しかし、あかぎれと傷だらけの日焼けした手を今も覚えていた。

「お父さんとは、その後連絡は取れなかったの?」

はこくんと頷く。

「母はいつも言っていました。『町の男と結婚するな。あの人のように、きっと村から逃げ出す。あの人のように、町の男は働き手として何の役にも立たない』と……。母はあの人の話をするとき、険しい顔をしていました。まだ幼い私たちがいたのに、裏切り出て行ったのですから当然でしょうね……。ただでさえ辺鄙な村は人手不足ですから」

押し黙るタカ丸に、は慌てて笑顔を作った。無理をして作った笑顔は、タカ丸に深く突き刺さる。

「ごめんなさい、こんな暗い話を聞かせてしまって……。確かに色々あって大変でしたけれど、タカ丸さんを責めているわけじゃないんですよ!責めているわけじゃなくて……。ただ、私は、町の男の人に良い印象を持っていないんです。どうしてもあの人の姿と重なってしまって、辛くなってしまうんです。またいつか裏切られてしまうんじゃないかって……」
(それでぼーっと町の通りを眺めていたんだな……)

が心ここにあらずといった雰囲気を出していたのには、そういう理由があったのだ。強いトラウマが、に根深く残っている。
タカ丸は真剣な表情でをしっかりと見つめた。そして、意外な事を口にする。

ちゃん。辛い事を話してくれてありがとう。ただね、僕には、ちゃんのお父さんがキミたち家族を裏切ったとは思えないよ」
「え……?」
「むしろ、キミのお母さんがお父さんを裏切る形になってしまったんじゃないかな?」
「どういう事ですか……?」

の家の事情を知った者たちは、これまで全員が父親の行為を責めた。も、少なからず母親から聞かされて父親に対し恨みの念を抱いてた。だが、タカ丸はその逆の事を言ってくる。

「村の生活は確かに厳しいのかもしれない。お父さんだってわかっていてそれでもお母さんと結婚したんだ。覚悟はあったと思う。きっとお母さんを本当に愛していたからだ。だけど、キミの話を聞く限り、まるでお父さんをただの働き手としか考えていないように聞こえるよ?」
「そ、それは……」

タカ丸の言う通り、家族というより働き手であるという部分ばかりが強調されている。

「お母さんはそんなつもり無かったのかもしれない。でも、お父さんはお母さんを愛していたからこそ、働き手としてしか見てくれなくなった事に耐えられなくなってしまったんじゃないかな?」

愛する人と巡り合い、結婚出来た。それがこの時代では奇跡のようなもの。しかし、もしもその愛する人が自分を道具のようにしか思えなくなってきたら……?
は首を振って否定する。

「違います!そんな事、私もお母さんも思っていません。私は、あの人の事―――」
ちゃん、気づいてる?」
「えっ?」





「キミもキミのお母さんも、お父さんを『あの人』って呼んでいるんだよ」





「!?」

無意識だった。父親を人前で何年もの間、ずっと『あの人』と呼んでいた。その異常さに、はずっと気づかずにいたのだ。

(お母さんも、ずっとそう呼んでいた……。あの人は―――お父さんは、それが辛かったんだ……!)

大粒の涙が溢れ、止められなかった。今までずっと母親の言う事だけを鵜呑みにしてきたは、自分の偏った考え方に深く後悔した。今直ぐにでも父親に会い、抱きついて謝罪の言葉を叫びたかった。それがもう叶わないとわかっていたが、それでもそう願わずにはいられない。
膝に顔を埋めて泣きじゃくるの肩を、隣でタカ丸は包み込むようにそっと抱き寄せた。肩から伝わってくる優しさに、は身を預ける。

ちゃん、僕はキミを辛くさせてしまったよね。ごめんね……」
「タカ丸さん、ありがとうございます。私……タカ丸さんに言ってもらえなかったら、一生父を恨んだまま、父の気持ちに気づけないままだったと思います」

涙をぐっと拭い、真っ赤な目をしたままでタカ丸と向き合う。

「僕の意見はただの推測だけれど……」
「いいえ。私は父との記憶を押し込めてしまっていましたが、思い出したんです。父は優しかった。母や私たち兄弟に、とても優しくしてくれていました。父は私たち家族を裏切るわけなかったんです」

鮮明になっていく父親の姿は、とても穏やかで温かいものだった。河原に吹く風のように。

「タカ丸さん、私は結婚って村に男性の働き手を入れるだけだと思い込んでいました。でも、そうじゃないんですよ。それだけが全てじゃないって、タカ丸さんに教えてもらいました。本当にありがとうございます」

はにっこりと微笑んでタカ丸の手に触れた。タカ丸は想い人に手を重ねられて頬が熱くなった。ぎゅっとの手を握り返し、意気込んで名前を呼ぶ。

ちゃんっ!」
「は、はい!」

思わずの返事も大きくなってしまう。

「僕は、確かに力仕事とか出来ないかもしれないし、器用じゃないから忍者としてもまだまだだけれど、お嫁さんにするならちゃんが良い!ずっとちゃんの事を幸せにする。僕が必ず幸せにするから、だから……、僕のお嫁さんになってください。結婚しようよ」

握られた手が僅かに震えている。心からの言葉を受け、は祭りの日とは違う顔をした。

「確かにタカ丸さんは、力も無いし忍者としての知識も全然ありませんよね。むしろ私の方がずっと優秀ですし」
「うっ?!」
「でも、きっと私を幸せにしてくれる。これだけは確信しています」
「そっ……それじゃあ……!」

はタカ丸の胸に勢い良く飛び込んだ。全身に感じるタカ丸の熱に、は満たされるのを感じた。

「タカ丸さん、私をこの世で1番幸せにしてください」
「……!もちろん!!絶対!絶対幸せにするからね!!」

タカ丸も、の華奢な身体を抱き締め返した。
喜びをしっかりと噛み締めた後、タカ丸はの耳元で囁いた。

「ところでちゃん、僕のお願い聞いてくれる?」
「え?何ですか……?」
「えっと、実はさっき食堂で中途半端にしか食べられなかったからさ、ちゃんが作ってくれたおにぎりが食べたいんだ」
「ふふっ、わかりました。でも――」

『これからはいつでも食べられますよ』とに囁かれ、タカ丸はへにゃっと笑う。今日は春の陽気にしては肌寒い。だが、そんな河原でおにぎりを食べるのも悪くないと思った。


2014.03.27 更新