
「―――後は、が見た通りだよ。オレは、姉さんを離したくなくて、あんな事をしたんだ……」
あたしは、久々知の話を理解するのに必死だった。
ちょっと待って、待ってよ。
さんと、既に別れていた?
あたしが糸を切ってしまったのは……、2人が別れてしまったから、切れ易くなっていたっていう事?
糸を切ってしまって頭が混乱してしまっていたけれど、今思えば確かにおかしい。
想い合う恋仲同士の糸が、そう簡単に切れてしまうはずがない。
「?」
雷にでも打たれてしまったかのような衝撃を受ける。混乱するあたしに、久々知が怪訝そうな顔で名前を呼んだ。待って欲しい。頭が、ついていかない……。
「うん……、わかった、久々知。そのまま続けて……」
そう喉奥から絞り出すと、頭に疑問符を浮かべたまま久々知は話を続ける。
「今にして思えば……、やっぱり姉さんの言う通りだった。姉さんは恋愛が何かを知らないオレにとって、姉上―――家族に等しい存在だったんだ。姉さんを大切だと想う気持ちに嘘は無いけれど、恋とは別のものだった。あの現場に鉢合わせて立ち去るお前を見て……、そう思えた」
「…………」
久々知がさんの事を姉のように慕っていると、あたしも思っていた。久々知の赤い糸は、不自然なほど穢れの無い綺麗な糸だったから。それが意味するのは、相手に対する尊敬と強い憧れだけ。
あたしが今まで視てきた赤い糸とは違う。人を想う気持ちには、美しさだけで構成されるものなんてない。
好きだから、憎い。好きだから、悲しい。
あの日、さんは気付いてしまったんだろう。
私はあなたとお話してみたいと思っていました。
だから今、こうしてあなたとお話できてとても嬉しいです。
だけど、後悔もしています。
だから、あんなにも糸から悲しい感情が伝わってきたんだ。
本当に本当に、辛かっただろう。好きな人に寄せられる好意が、真実では無かったのだから。
今のあたしには、その気持ちが痛いくらいわかる。
さんは、あの痛みとどのくらい付き合ったのかはわからない。だけど、きっとあたしよりも遥かに長いだろう。
「姉さんに酷い事をしてしまった。だけど、オレは……それでもお前が好きなんだ。好きだって、気付けたんだよ」
何……?久々知は……、さんじゃなくて、あたしが好きだったって事……!?!
そう考えると一気に顔が熱くなった。しかし、直ぐにその熱はさーっと引いて行く。だって、あの糸は恋じゃなかったけれど、さんはそれを除いても久々知にとって大切な人だ。さんが亡くなったとき、あんなにも久々知をおかしくさせた人だ。
それに、あたしは久々知の赤い糸を自分に結んでしまった。久々知の気持ちは、ただの錯覚じゃないの……?
指先から熱が消えていくのを感じ、ぎゅっと拳を握り締めた。
「本当はもっと早く言いたかったんだけれど、姉さんが……まさか、あんな事になるとは思わなくて……。今でもその事は信じられない。それに、どういうわけか記憶も一時的に失ってしまったから、伝えるのがかなり遅くなってしまった」
「久々知……!」
「?」
あたしはごくりと唾を飲んで、恐怖を押し留めながら言った。
「逃げようとして、嘘をついて、ごめん……。信じてもらえないかもしれないけれど……、やっぱり話すね。久々知が、そうして話してくれたように」
「…………わかった」
あたしが纏う空気が変わった事を理解して、久々知は静かに返事をした。
「あたしがこの学園に編入した本当の目的は、くの一になるためでも行儀見習いでもない……。赤い糸が視えなくなる方法を探していたの」
「赤い糸、って……?」
あたしは自分と久々知を結んでいる小指の糸を摘まんで引っ張った。ピンと張り詰めたこの糸は、久々知に視えるはずが無いのだけれど。
「久々知には視えないでしょ?でも、あたしには視えるの。あたしにだけ」
「にだけ視える糸?いったい何だそれは……?」
あたしが触れている糸の方をじっと視ているけれど、久々知にはその存在を認識出来ていないらしい。あたしは前髪が短くなったせいもあり、赤い糸が相変わらずハッキリと視えている。
「そこに、その糸があるのか?」
「そう……」
「オレには視えないな……。どうしてだ?そこにあるんだろう?」
「あたしにもわからない。でも、あたしの母親の実家である縁結びの神社では、稀にだけど赤い糸が視える人が生まれているらしくて……」
「縁結び……?それって、もしかすると……」
久々知はハッとなって何かに気付いたみたいだった。あたしは小さく頷いて返答する。
「『運命の赤い糸』って聞いた事くらいあるでしょ?将来結ばれる人や恋仲同士には、運命が定めた赤い糸が小指に結んであるって……。それが、あたしに視えている赤い糸なの」
「いつも視えているのか?」
「そうよ。恋仲だけじゃない。不倫している人間だったり、片想いでも視える。恋をしている人間が、感情を外へ向けているのであれば全て視えるわ」
「それじゃ、町中なんて歩いたら糸だらけって事か」
「まあ、そんな感じね」
「何と言うか……すごい環境だな。忍務にも支障が出そうだ」
久々知はあたしの言葉を頭の中で再現したらしく、とても困ったような表情になった。眉間に皺が寄っている。きっと久々知もあたしと似て少し神経質なところがあるから、もしそんな状態になったらあたしと同様に悩むだろう。
「ずっと……鬱陶しい存在だった。しかもこの糸は、視えるだけじゃなくて、あたしに様々な感情を伝えてくるから」
「感情?」
「好きとか嫌いとか、そういう単純なものばかりじゃない。『恋仇を殺してしまいたい』とか、『どうして私を見てくれないの?』っていう憎しみ。『本当は好きじゃないけど一緒にいなければならない』、『自分は好きだけれど、この人じゃそうじゃない』っていう偽る事に対する悲しみ。そういう黒いものが胸の中に入って来て、とても辛い気持ちになったわ……。自分じゃない他人の感情だから、あたしには特に理解出来なかった」
感情が流れ込んでくる。それはまるで、濁った泥水でも飲まされているみたいだった。吐き気がして、どうしようもなかった。それでも次々に押し寄せてくる波のように黒い感情はあたしの心の中に入ってきた。
「それだけならまだ良かった……。母親が、父親以外の人間と糸が結ばれている……それを視るまでは」
「!?」
今思い出しても嫌になる。両親は喧嘩ばかりしていたけれど、決定的な事が無ければ耐えられた。
いや……、本当は気付いていたのに見ない振りをしていただけ。それを赤い糸があたしにまざまざと見せつけてきた。
「母親は頻繁にあたしを母親の実家である神社に預けていたわ。それが、愛人と会うためだったとわかって……赤い糸が、それを教えてくれた。その後、あたしは神社で暮すようになり、忌々しい赤い糸が視えなくなる方法を求めて忍者の学校を訪ねた。それが、この忍術学園よ」
「確かに忍者の学校ならば、様々な情報が伝わってくるな……。毎日図書室で本を読んでいたのはそのためか?」
「高価な南蛮の本も読み放題だったし、新刊も頻繁に入れてくれるから助かったわ」
あたしは自分を笑った。だって、毎晩遅くまで読み更けても手掛かりは1つも見つからなかったんだもの。
「医療関連の本はもちろん、薬や神社の事……それらしい伝承までも調べたわ。調べても調べても、何もわからなかった。ただ虚しく時間だけが過ぎていく毎日。忍者の学校に、そんなつまらない理由で編入したという負い目を感じるようになっていった。特に、久々知……あなたと話すようになってから、ずっとね」
「オレが?」
「別に久々知のせいじゃない。久々知は真面目で優秀で……、さんのために、一生懸命立派な忍者になろうとしていたじゃない?今思うと……2人に嫉妬していたんだと思う。あたしの両親とは全く違っていたから」
「……」
「でもね、久々知を好きになって、色々な事がわかった。あの汚くてどろどろした感情はあたしにもあって、生きている限り消せないんだって。あたし……、今なら、お母さんの気持ちもわかるような気がする。納得は出来ないけれど、前よりずっと寄り添って考えられるよ」
今も赤い糸を視るのは辛い。だけど、それだけじゃなくなった。
あたしは少しの間黙りこんだ。久々知は、その間もじっとあたしが口を開くのを待っていてくれる。
「久々知、あたしの赤い糸は……視えるだけじゃなくて、こうして触る事も出来るんだよ」
あたしは自分の小指に触れる。久々知は目を凝らしてくれているけれど、視えない。視えなくても、視ようとしてくれるのが嬉しい。
「触れられるから、あたしは足に絡んでよく転んだわ」
「いつも何も無いところで転んでいたのはそのせいか」
「保健委員だけど、そこまで不運じゃないつもりよ」
最近は不運だったかもしれないけれど。
「確かに……、穴に落ちたり、からくりに引っかかったりしているところは見ないな」
「でしょ?」
久しぶりに顔を綻ばせて笑う久々知を見た。釣られて自然とあたしも笑顔になる。
でも、ここから先はきっと笑えない。
「あたしが、どうやって久々知をあの暗い森から捜し出せたと思う?」
瞬時に久々知の表情が強張った。あたしを見たまま動かなくなり、やがて久々知は自分の手―――小指を穴が開くくらい見つめた。そして、再び視線をあたしに戻す。
「久々知はさんを亡くしたとき、一時的に記憶が無くなったって言ったね?」
「…………」
「記憶がハッキリしたとき、目の前には誰がいた?」
「…………」
「この糸はね、誰かに結び付けると、その相手を好きだと強烈に思ってしまう……そんな力があるの。とても恐ろしい力が」
その力が、久々知をどこにいるのかあたしに教えてくれた。
「…………」
「一応言い訳をさせてもらうと、さんの事を忘れさせるつもりはなかった。あたしに一時的にでも夢中になれば、嫌な事を忘れられるんじゃないかって……そう考えた。久々知が行方不明になったとき、この赤い糸を辿って見つけ出せた。でも……、あたしのした事は決して許されない。わかってる」
「……今も、オレとお前はその赤い糸で繋がっているのか?」
あたしはただ黙って頷く。俯いている久々知の表情はここからだと窺えない。だけどきっと良い顔はしていないだろう。
「結びつけられた相手を好きになってしまう。だからオレのお前に対する気持ちは、本物じゃない。つまりオレは、お前を好きじゃないって言いたいのか?」
ようやく合点がいったのか、久々知はそう静かに言った。
「久々知の今あたしに持っている気持ちは偽物よ。あたしの事なんて……、何も想っていない。何も感じていない。友達ぐらいにしか考えていない」
自分で言っていて無性に悲しくなってきた。自分が招いた結果だというのに、あたしは鼻の奥がつんとした。
久々知は何て言う?自分の恋心が偽物だとわかり、すごくショックを受けて―――
「で、言いたい事はそれだけか?」
「……え?」
顔を上げた久々知は、予想外な事に笑っていた。威圧的ではない、ごく普通のありふれた笑顔。そんな顔が見られるなんて思いもしなかったから、あたしは口をポカンと開いてしまった。そんなあたしを尻目に久々知は笑顔のままで話を続けた。
「残念だけれど、その話しは全く信じられない」
「ですよねー……」
久々知には、簡単にこんな話を信じてもらえないとは思う。それでも、この話は真実だ。赤い糸のために、あたしはこれまで色々な決断を迫られてきたんだから。
「だって、オレにはそんな糸は全然見えない。オレは自分の目で見える事しか信じない。がオレから逃れるためについている嘘だとも仮定出来るしな」
「普通、アンタを騙すにしてもこんな作り話をわざわざすると思う?」
「それでも」
久々知は迷わず言い放った。
「それでも、オレはお前が好きだから」
また、久々知はあたしに幸せな言葉をくれる。あたしを心の底から嬉しくしてくれる。
あたしには、そんな資格無いのに。
「久々知……、だったら今ここで証明してみせるわ」
手が震えそうになるのを堪えて、あたしは自分の赤い糸を摘まんだ。キラキラとした久々知の赤い糸。触れると、そこから温かくて優しい気持ちが伝わってくる。これが、久々知のあたしへの気持ちだったらどんなに嬉しいだろうか。偽物だと知っていても、手放したくなくなってしまう。
「どうやって証明するつもりだ?」
「この糸を引き千切る。……元に戻すのよ。もう今の久々知には必要の無いものだから」
まやかしはもう必要無い。久々知はさんの死を受け入れている。盲目的にあたしを好きになって逃げる必要は無いんだ。
それでも好きでいて欲しかった。
こんな風に思ってしまうあたしは、汚れてしまっている。
汚いけれど、恋する気持ちをを知れて良かった。
「無駄だ。そんな事をしたって、オレの気持ちは変わらない」
「だったらそこで見ていて。久々知が……、あたしに縛られる必要なんて無い……!」
あたしは絞り出すように言葉を吐きだして、ぐっと久々知に繋がっている赤い糸を掴んだ。引き千切らないでと言わんばかりに触れたところから感情が流れてくる。午後の温かい陽の光に似た気持ちが、あたしを躊躇わせる。しかしここでやらなければならない。元は存在しない感情なのだから、いくらあたしが久々知を今更好きだって遅いんだ。
さらに手に力を込めたとき、大きい2つの手があたしのそれを包み込んだ。ハッとなって顔を上げると、久々知が真摯な瞳をあたしに向けている。
「はわかってないな」
久々知は困ったように眉を寄せて言う。
「何よ、それ……?」
「オレには、その赤い糸が見えなくて当然なんだよ」
「え……?」
ぎゅっと今度は強く手を握り締められる。
「オレは、お前しか見ていないから。余計なものなんて、視界には入ってこないんだ」
久々知が、笑う。
「だって、昔からこう言うだろ?」
それでも、あたしを好きだと笑う。
「『恋は盲目』ってね」
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