暗黒の空の下、慣れない目を必死に凝らして先を見つめる。頬や腕を掠めていく木々の枝を強引に無視して押し通り、先へ先へと急いだ。
1人は男、1人は女。どちらもまだ10代特有の幼さを持っている。少年は細かい傷を全身に作りながらも致命傷だけは避けてきた。少女は骨折しており、添え木で固定されている方腕を庇いながら少年に手を引かれて走った。
2人は良く見ると違う時代の衣服を着ている。少年は深緑の忍者を連想させる着物で、少女は現代で良く見かけらる女子学生服を着ていた。何とも不思議な組み合わせである。
木の葉の擦れる音と荒い息遣いが響き、天にも届きそうな大木から大きな鳥が2人の存在に驚いて飛び立った。坂になった道無き道でひたすら足を動かした。
「は、なしてっ!離してよ!」
「…………」
強く握られた手首が痛む。少女は少年から逃れようとするのだが、怪我のせいで上手く抵抗できずにいる。また、少年は少女の訴えを無視して無言のまま森を駆けた。
「離して伊作!嫌っ!!」
少女は何度も掴まれた手首を振り回し、ついに少年―――伊作の手から逃れることができた。しかし、既に目的の場所へと辿り着いており、2人は終わりの無いと思っていた森から抜けた。暗黒だとばかり思っていた空を見上げると、星がいくつも輝いていた。そして大きな満月が2人を出迎える。あまりにも木々が鬱蒼と茂っていたために空が見えなかったのだろう。
伊作は自分の手を振り解いた少女の赤い痕がついた手を見て、それからじっと少女の目を見た。乱れた呼吸だけがこの空間に響き、伊作の慰めるような視線に耐えられず少女は伊作を置いて先へと足を進めた。
「はぁ……っ、はぁ……!ふ……っ!」
少女は体力の限界で、フラフラになりながらも一歩ずつ前に足を進める。そこは切り立った崖の上で、この夜空よりも深い色をした森が遥か下に広がっていた。強い風が吹きつけ、容赦無く少女の身体を煽る。長い髪が額や頬に張り付くことも気にせず、無限に広がっている足元の光景に脈打つ鼓動を更に高めた。
嫌な汗が全身から流れ出て、少女はガタガタと唇を震わせた。
「はぁ……、はぁ……ぁ……はぁっ……!」
背後からは伊作が現れ、少女の華奢な背中に言葉を投げかける。
「さあ、ここから飛び降りて」
「……っ」
少女が振り返ると、伊作は真っ直ぐに自分のことを見ていた。深い森を背負う伊作が月と星の光に照らされて、色素の薄い髪がそれと同じ色に重なる。
「そうすれば死ねる。キミを殺すことができる」
少女の背後に広がる深い森の海原。この高さから飛び降りれば、彼の言う通り迎えるのは死である。彼は、少女の意思に関係なく彼女の死を望んでいるのだ。伊作の澄んだ瞳が冗談ではないことを少女に教えている。
少女は顔を歪めて嫌だ嫌だと首を力なく振った。けれども伊作はそれを許さない。
「残念だけど、もう時間が無いんだ。僕は、キミを殺す……」
「そ、んな……!?嫌だよ!嫌!」
今度は激しく髪を乱して首を振る少女。
「怖い?大丈夫、怖い事は直ぐに終わるから」
飛び降りれば、一瞬で済むことだ。怖い気持ちや悲しい気持ちなど、全てが一瞬で終わる。
「違うよ!あたしが死んだら、伊作が死んじゃう!!!」
「キミは大きな勘違いをしている」
「え……?」
少女の瞳が伊作の言葉で揺れる。涙が薄っすらと滲んでおり、伊作の顔がぼやけてしまっている。
「僕は……ううん、僕たちはみんな死んでいる。1人残らず死んでいる……」
「……伊作」
「この意味が、キミにはわかるだろう?」
伊作が自分の胸に手を当てて訴えかけるのを、少女は目を見開いて小さな子供のように嫌々と首を振った。伊作の言葉が深く深くこの胸に刻まれて、じくじくと痛んだ。
「……だから、キミが心配することは1つも無いんだ」
「やだ……そんなことわからないよっ!」
「キミは生きている人間だ。だから、ここで死んだらダメだ」
「伊作……いや、だ、いやだよ……っ」
もう考えることさえ苦痛なのか、少女は俯いて大粒の涙を零し出した。薄い肩を震わせて、何度も嗚咽が呼吸をする度に混じった。
伊作は泣き続ける少女の目の前まで近づくと、足を止めた。自分に重なる月影に、少女は泣き腫らして赤くなった目を伊作のそれに合わせた。
伊作は言った。
「 」
しゃわしゃわしゃわ、みんみんみん。
蝉の鳴き声が耳鳴りのように聞こえてくる8月の1日の正午。空は打って変わって真っ白な雲と青い青い空ばかりが続いている。太陽が容赦無く照りつけ、アスファルトで固められた地面からはゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。
その熱せられた鉄板のように熱いアスファルトを、少女は額から噴き出すように流れる汗を気にもせず猛然と駆けていた。それを追いかけるように少女の影が必死でついてきている。噴き出した汗が飛び散ってアスファルトに小雨のような小さなシミを落としていった。
静かな住宅街に蝉の声と少女の地を蹴る音が響く。時折擦れ違う虫籠を持った子供たちが一心不乱になって走り抜けて行く少女を見て足を止めていた。
少女は住宅街を抜けて、小高い丘の見える場所へ向かっていた。草が茫々に伸び放題で全く手入れのされていない更地。
その場所こそ、かつて―――いや、ついさっきまで少女が存在していた場所である。
なぜそれがわかるのか?
目印が、少女のことを待っていてくれてたからである。
「ふっ……!」
少女は息を大きく吸って自分の腰の高さまで壁のように茂る草を掻き分けて丘の上を目指す。猫じゃらしが足にぶつかり、くすぐったさを堪えながら少女は坂道を登っていく。頂上に一歩一歩近づく度に目頭が熱くなってくるのを感じて鼻を啜る。
少女は目印を頼りに頂上まで辿り着いた頃、両目から今にも涙が零れてしまいそうだった。
目印の下、膝が汚れることも構わずその場に四つん這いになって茶色の土を掘った。素手で触れる土は夏の日差しのせいで熱くて人の体温ほどもあった。
汗が地に落ち、涙がそこに混ざり、呼吸をするのが苦しい。けれども手を休めない。
掌だけでなく、手首も肘も土で真っ黒に汚れていった。爪の中にまで土が入り込んで醜い指先へと変わっていく。
土の湿った匂いと一緒になって出て来る小石や虫の死骸も全て除け、少女は目的のものを探した。
本当はそこに存在するのか、確たる証拠は無かった。
けれども本能がそこだと言っているのだ。
ここ以外に、少女には覚えが無い。
「っ!」
自分の肘まで穴に入るほどの深さになったとき、指先に何かが触れた。
少女は、ぶわっと更なる汗が出て来るのを感じ、鳥肌が立った。触れた指先がブルブルと震え、まだ良く見えないそれの形を確かめるようになぞっていく。
嗚 呼 、 そ れ は 君 の ―――
今度こそ、涙が止まらなかった。