天使のおとしもの


ハロウィン当日を迎えた、とある高校の学園祭。

「いらっしゃいませー!美味しいクレープはいかがですかー?」
「お化け屋敷はどうですかー?ハロウィンのお化けが沢山いますよ〜?」
「執事とメイドのカフェはこちらでーす!」

生徒達の賑やかな呼び込みの声が学校中に響いていた。
賑やかなのは生徒達の声だけではない。生徒達はハロウィンに合わせてそれぞれ好きなコスプレに身を包んでいる。吸血鬼、幽霊、魔女、メイド、執事、動物の耳を付けた軽いコスプレや、アニメキャラの凝った小道具を全身に身に着けている生徒もいる。テーマパークで有名なマスコットの着ぐるみ、地元のゆるキャラをモチーフにしたコスプレもちらほら見かける。
コスプレは生徒達だけではない。学園祭に訪れた客も、この学校の敷地内でだけ限定でコスプレをする事が出来る。その為、どこもかしこもコスプレだらけだ。生徒達も客も、日常を忘れてこの非日常の光景を楽しんでいる。

(―――だーかーら、すごく助かるんだけどね)

血で濡れたような爪紅に、同じ色のマフラーが首元で靡く。ダイヤカットされた揺れるピアスを輝かせ、細いヒールブーツを履いた彼―――加州清光の姿は目立たない。いや、目立っている。顔面偏差値が飛び抜けたイケメンの刀剣男士なのだから。チラリチラリと周囲の女子生徒や女性客が加州の事を盗み見ては、きゃっきゃと黄色い声を上げている。
実はこの高校の付近に、取り逃がしてしまった時間遡行軍が潜んでいるのだ。それを追いかけて加州が単騎でこの学校内に潜入している。転校生という立場でちょっと派手な高校生・加州清光を演じているのだ。
どういう因果か、丁度学園祭中で出入りが自由、しかもコスプレをして参加出来るという、潜入にはもってこいな時だ。刀剣男士特有の現代では目立ちすぎる戦装束も、気合入れたコスプレを楽しんでいる生徒にしか見えない―――はず。

「さてさて、どこから探しに行こうかな〜」

間延びした声を出しながらも、加州は眼光を光らせてハロウィン色に飾り付けられた廊下を進む。各教室、保健室、科学室、職員室、忘れてはいけないトイレも見て回った。しかし、時間遡行軍らしき者はどこにも見つからない。

「気配は俺でも感じるんだけど……」

決定的な尻尾を出さない時間遡行軍に、加州は焦りを感じてきた。長い時間は掛けられない。もし時間遡行軍の発見が遅れてしまったら、人間達に被害が出てしまうかもしれない。
廊下を歩きながら考えを巡らせていると、ゴソゴソという段ボールを漁るような物音が聞こえてきた。廊下の突き当りからだ。
加州はまさかと思い、急いでその音の出所に駆け付ける。突き当りの部屋には、倉庫1とドアのプレート書かれている。周囲を確認すると、生徒達や客は幸い周辺にはいない。それぞれの出店を頑張っている。
加州がゴクリと喉を鳴らしながらドアに手を掛けた。もう片方の手を刀の束に掛け、いつでも抜刀出来るようにしながら。

「そこにいるのかっ?!」

加州は鋭い声と同時に、勢い良くドアを開けて中に入った。抜き身の刀を構え、時間遡行軍との戦闘態勢に入る。しかし、そこには全身真っ黒な時間遡行軍ではなく、真っ白な翼が見えた。

「えっ……?な、何?鳥……?デカくない?」

予想外の事に加州は食い入るように翼を見つめた。立派な翼だった。それが人の背中だとわかり、加州は緊張んから解き放たれて全身の力が抜けていく。人が、段ボールの山を漁っているのだ。

「!?」

加州の存在に気付いたその人は、くるっと加州の方へ振り返った。
加州はその人の全身を見て衝撃を受けた。真っ白な膝丈ワンピースに、真珠色の瑞々しい肌。唇は血色が良く、濡れたように美しい。乱藤四郎に負けないくらいの青い瞳と星のような金髪だ。柳のように優美で華奢な体は、思わず守ってあげたくなるような気がしてくる。つまり、ものすごい美少女なのだ。容姿の美しさにも目がいってしまうが、注目するべきはその背中から生えている翼だ。柔らかそうで今にも羽ばたき動き出しそうだ。
遠くで人々の賑やかな声が小さく響いている。
少女は刀を構えた加州を海色の瞳で見つめた。

(やばっ……)

今自分は彼女に刀を向けている。現代で帯刀や抜刀は立派な犯罪だ。コスプレ用の模造刀だと思われたかもしれないが、完全に危害を加えようとしていると思われたに違いない。
ようやくハッと我に返った加州が素早く納刀し、自分の頭を誤魔化す様に撫でつける。

「あーっ、すごいねアンタ!その天使のコスプレ!」
「…………」
「ハロウィンだもんね、天使のコスプレもしたくなるよね。可愛いし綺麗だし、すごくアンタに似合ってるよ!」
「…………」
「その目、気合入れてカラーコンタクトとか?髪も綺麗な金髪に染まってるね!俺もカラーコンタクトで気合入れてきたクチなんだけどさ〜あはははっ」
「…………」

少女は何も答えない。反応が無くて加州は不安な気持ちなった。しかし、加州が少女に刀を向けた事は少なくとも怯えられていないようだ。不思議な事ではあるけれど。
少女はすごく困ったように形の良い眉をハの字にすると、加州に背中を向けて再び段ボールを漁り始めた。その手つきはまるで何かを探しているかのようだ。
天使のコスプレをした少女の様子を見て、加州の腹の奥がうずうずしてきた。少女の隣に近づき、声を掛けた。

「あのさ」
「!」
「何か探してるの?落とし物したとか?」
「…………」

少女は唇をきゅっと結んで俯くと、自らの柔らかそうな頭に手を乗せた。そしてスイスイと手を水平に振ってみせた。そこに何かがあるかのように。その動作を見て、『あ』と加州が呟いた。

「もしかして、天使の輪っかを探してるわけ?」
「!」

少女はパッと顔を上げて、こくんと頷いた。
確かに天使と言えば、翼を生やしているだけではなく、頭に光る輪を乗せている。

(翼があるだけでも天使に見えるけどな……。天使の輪が無いと、完璧に天使になり切れない拘りのコスプレとか……?まぁ、俺にも拘りはわかるけど)

加州は主の為に自らの手入れを欠かさない。戦場に行くときも、もちろん身嗜みは隅々まで整えていく。美しく彩った爪紅は加州の意地のようなものだ。

(―――それに、天使みたいにすごく可愛いし)

刀剣男士は、系統は違うものの全員文字通り神レベルの美男子だ。それでも、この少女の美形さは引けを取らない。浮世離れした儚さを秘めている。

(俺だって可愛いしっ!)

決して少女の見た目を口にはしないけれど。

「ったく、仕方ないなー。放っておけないじゃん」
「?」
「俺も一緒に探してあげるよ、天使の輪っか。大事な物なんでしょ?」
「!」
「探し物は人手が多い方が良いし。俺も暇してないけど、仕方ないよね」

そう伝えると、少女は頬をバラ色に染めて目を輝かせた。どうやらとても嬉しいようだ。ここまで喜ばれると、加州の方も照れてしまう。誤魔化す為に少女の細く白い手を取った。

「ほらっ、行くよ!人が多いから、逸れたりしないようにしないとね!」

少女はこくんと頷いてそれに従う。頼りにしているとばかりにぎゅっと手を握られ、加州はカッと身体の芯に熱が走るのを感じた。自分で少女の手を取ったというのに、妙な恥ずかしさだった。

「とりあえず校舎の中を探していこうか」
「…………」

少女は見つかるかどうかわからずに不安気だったが、こくんと頷いた。















加州は教室を1つ1つ回ってみた。お化け屋敷、メイド喫茶、輪投げ、美術部の作品展示、料理部のお菓子販売など、念入りに見て行った。しかし、少女の探している天使の輪のような物はどこにも見当たらない。
校舎内は大体見て回ったので、2人は校庭に出た。ここは食べ物系の出店が多い。好きなようにコスプレをした生徒達が、元気良く呼び込みをしている。ほくほくのたこ焼き、大ぶりのソーセージが入ったホットドッグ、ふわふわで見た目も楽しい綿飴、カラースプレーで飾られたチョコバナナ……。見ているだけでも楽しくなりそうな出し物が店先に並んでいる。どこも盛況のようだ。
少女はキョロキョロと興味津々に出店を見ている。小さな子供のように目を輝かせていて、加州は少しばかり不思議に思った。

「何?もしかして、お祭り初めてとか?」
「!!」

少女は加州の方に向き直って、力強く頷いた。

(お祭りなんてどこでもやってるでしょ、この時代。この子、もしかして相当なお嬢様で箱入り娘とか……?)

加州がそう思った時、女子生徒の声が飛んできた。

「あ、加州くーん!」
「ああ、同じクラスの……」
「わあ!そのコスプレすごいねぇ!すごく細かいところまで凝ってる。カッコいい!何かのアニメ?それともゲームのキャラ?」
「えっ?あ、ああ……、まぁね、そんなところ!」

あまり自分の刀剣男士の装備については何も追及されたくない。加州は直ぐに話題を変える。

「そっちこそメイドの恰好、可愛いじゃん」
「ほんとー?!ありがとー!ねぇ、うちの店寄ってってよ。すっごく美味しいクレープあるからさ!」

明るい声で女子生徒は加州にクレープを勧めてきた。見れば色々なトッピングをしたクレープを持つ客が周囲にいる。皆甘い香りのクレープを美味しそうに頬張っている。
今は一応任務中だ。どうしようか迷っていると、少女が今まで以上に目を輝かせている。クレープに目が釘付けになっている。加州はその姿が愛らしくてクスッと笑う。

「食べたい?」
「!!」

少女は強く頷いて加州に訴えた。

「あれ?すごく可愛い天使ちゃんだね。とっても似合ってるよ、そのコスプレ。翼もすごくリアル!……んー?でも、こんな子、学校にいたっけ……?外部の子かな?もしかして、加州君の彼女?」
「ちっ、違うし!さっさとクレープ頂戴!俺、イチゴカスタードね!イチゴアイス付けて!!」
「はいはいっ。そっちの可愛い天使ちゃんは?どうする?」
「…………」
「あ、それじゃこの子にも俺と同じやつお願い」
「…………」
「え?別に怒ってないし。そんな事、気にしなくて良いからっ!」

まさか彼女と勘違いされて照れたなんて言えない。加州が頬を赤く染めている間に、香ばしい匂いを漂わせ、クレープはあっという間に2人分出来た。お金を支払って受け取る。
たっぷりと入ったカスタードと生クリーム、鮮やかな苺の赤が顔を出している。角が立った生クリームの上には、見た目も可愛いカラースプレーが塗してある。めちゃくちゃ美味しそうだ。

「…………」

手渡されたが、少女はじっとクレープを見つめるばかりで食べる気配が無い。どうやらクレープを食べた事が無いようだ。

「えっ?クレープ食べた事無い?!女子高生なら皆食べてるものだと思ってたけど……」
「…………」
「ほら、食べなよ。こうして食べるの」

加州がパクっと上から頬張ると、少女も見様見真似で恐る恐る口にした。その瞬間、パッと少女の表情に花が咲いた。にこにこと満面の笑みを浮かべてクレープを夢中で食べ始める。どうやら気に入ったらしい。少女が夢中で食べる姿が愛らしくて、加州は思わず吹き出して笑ってしまう。

「ぷっ!あははっ!そんなに急いで食べなくても良いのに」
「!」

少し恥ずかしそうに俯く少女の頬に、星屑色の髪が触れる。このままだとクレープに髪が付いてしまう。

「ほーら、髪が付いちゃうよ」
「!」

加州は自然な流れでそのまま少女の髪に触れ、すっとサイドに梳いた。金糸の髪がふわっと揺れて、少女の視線が真っ直ぐに加州の紅色の瞳にぶつかる。その時間は一瞬であったはずなのに、まるでスローモーションのように感じた。

「「?!」」

その瞬間、お互いに顔を苺のように赤くした。耳まで赤い2人の顔は、周りが恥ずかしくなるくらいだ。

「ちょっとー、いちゃつくんだったら他に行ってよね〜」
「ひゅーひゅー!」
「やだ〜、可愛い天使さんとイケメン君のカップル!」

周りが冷やかし始めてしまった。加州は残りのクレープを急いで食べ、『行くよ!』と少女の手を取り、その場を走り去った。
加州が逃げ場所として選んだのは、先ほど少女と出会った物置部屋だ。先程と同じように、ここには誰もいない。
一息ついたが、加州の胸の鼓動は収まらなかった。

(あれくらいのからかいで、何でこんなにドキドキしてんの?!)

少女は心配そうな顔で加州の様子を見ている。その憂いたような表情に、またもや鼓動が強く脈打ったが、加州は『大丈夫!』と言って話題を探した。

「アンタの天使の輪っか、なかなか見つからないね。教室も大体見て回ったし、どこにいったのかな〜?早く見つけたいけれど―――って、何?どうしたの?」
「!」

少女が何気なく上を向いた時、空色の瞳を大きく見開いた。そして、上の方を指さす。そこには、輪っか型の電球が点灯している。白いパルックだろう。

「この電気がどうかしたの?……んん?あれっ?!」

電球だと思っていたそれは平たい。輝きがパルックのものとは違うように見える。金色の細かい粒子がふわふわと漂っている。

「ちょっと待ってて!」

加州は興奮したように声を上げると、電気のスイッチを切ってみた。しかし、この電球は輝きが消えない。ずっと神秘的な光を放っている。少女の白い肌に赤みが差した。

「コレだー!!コレでしょ?アンタが探してた天使の輪っかって」
「!!」

少女が勢い良く頷くのを見て、加州は直ぐに踏み台を出し、ピッタリとはまった電球の留め具を外していく。加州の手の中でキラキラと輝く天使の輪は、いつまでも手元に残しておきたくなるような輝きだった。

「きっと、誰かが拾って、電球と間違えてここに付けて行っちゃったんだろうね。はい。もう失くしたらダメだからね」
「…………」

少女は加州から受け取ると、嬉しそうにそれを頭に乗せた。少女の頭の上でふわっと浮き上がり、一定の場所で留まっている。

「……確かに天使の輪っかだけど、それどうなってるの?コスプレの小道具にしてはすごすぎるし、どういう仕組みで浮いてるの?この時代では当たり前なわけ……?」
「…………っ」

少女は質問攻めにされておろおろしている。少女にもその小道具の仕組みは良くわからないらしい。

「まぁ良いけど、別に。見つかって良かったね」
「…………」

少女の探し物が見つかったのは良かった。しかし、目的は達成されてしまったので、もう少女と一緒にいる理由が無い。それを理解した瞬間、加州は寂しさを感じた。

(もう少し一緒にいたい……って、思ったらいけないかな……)

少女も何か言いた気な雰囲気を醸し出している。だが、次の瞬間、今まで見た事が無いくらい目を鋭くさせた。そして少女は加州の腕を引っ手繰る様に引っ張り、窓側から引き離した。加州が何かを言う前に、窓ガラスが派手な音を立てて割れた。何かが投げ込まれたのである。

「な……?!くっ!」

少女を飛び散るガラスの破片から護る為、ぎゅっと強く抱きしめて庇う。
床には禍々しい黒い霧を帯びた刀―――大太刀が突き刺さっている。割れた窓から入ってきたのは、大男の名に相応しい2本の角を生やした時間遡行軍、大太刀だ。そして、加州が探していた者である。

「コイツ……!こんな時にっ!出てこないでよねっ!」

加州は少女を後ろに下がらせて、一太刀を威嚇で浴びせる。その隙をついて、加州と少女は物置から脱出した。
大太刀が通れる大きさのドアではないが、体当たりで無理やり壁を破壊し、加州達を追ってくる。大太刀の姿を目撃した人々は、得体の知れない禍々しさに驚き、悲鳴を上げた。廊下は阿鼻叫喚に包まれる。

(ここじゃ他の人間を巻き込む……!)

刀を構えて少女に叫んだ。

「アンタは早く逃げてっ!!」
「!?」
「早くっ!!とにかく逃げて!!俺は大丈夫だから!!絶対についてこないで!!」
「………っ!!」

加州は苦しい表情で手を伸ばす少女から離れ、人気のない方を探して走った。少女の姿は逃げ惑う人々の波で見えなくなる。
加州の背後を目掛けて大太刀が振り被った。加州は重いその一撃を避ける。標的を失った一撃が、ロッカーを粉々に薙ぎ払った。爆発のような金属音に、人々はパニックになった。
加州は急いで屋上へ向かった。加州が知る限り、鍵がかかっているあそこなら、誰も人間は侵入出来ない。

「ほらっ、お前はついてこいよ!この木偶の坊〜!」

その挑発に応える様に、大太刀は加州の後を追いかける。加州は階段を一気に駆け上がる。屋上前の両扉にかかった金属の錠前を斬り付け、真っ二つに破壊した。そのままの勢いで両扉を蹴り飛ばすと、バァン!と大きな音を立てて開いた。屋上の風が強く吹き付け、加州の癖のある髪を靡かせた。
追ってきた大太刀が両扉を吹き飛ばし、ドスドスと入ってくる。加州は柄を強く握り、ふーっと呼吸を整えた。大太刀も得物を構えた。

「じゃ、おっぱじめるぜぇ!」

加州はわかっていた。恐らく、この一撃で決まる。相手もそのつもりだろう、と。加州は渾身の一撃を刃に込め、飛び掛かった。

「これが!本気だ!」

大太刀の機動より、加州の方が上回った。加州は横薙ぎに大太刀の首を跳ね飛ばした。ボトッと重い音がして、大太刀の頭がコンクリートに落ちる。そして次の瞬間には黒い霧になって消えていった。徐々に胴体の方も黒い霧に包まれて形を失っていく。
ようやく事が終わり、加州は胸をなで下ろして納刀した。キン、と小さく金属音が擦れる音がした。
屋上からの風を感じ、少女の金髪が柔らかく靡く姿を思い出す。

「あの子……無事に逃げられたかな……」

加州は上を見上げた。雲の無いどこまでも青い空。少女の美しい空色の瞳が忘れられない。
ほわっとした気持ちが広がった時、自分の足を何かが乱暴に掴んだ。

「何だっ?!う、うわあああーーーっ!?!?」

消えかかった黒い霧、僅かに腕の形を残した時間遡行軍のそれは、加州を振り回して投げた。その瞬間に黒い霧になって腕が消える。

(油断した……っ!クソっ、往生際の悪い!)

加州は屋上から宙へと投げられてしまったのだ。
付喪神と言えど、この高さから落ちればひとたまりもないだろう。そう考えると思考が停止してくる。嫌な浮遊感が加州を包み、絶望が訪れた。
だが、神は―――天使は加州を見捨てなかった。加州の視界に白い大きな翼が見えた。白い鳩。そう思った時、あの柔らかな金色の髪と同じ天使の輪が光っている。あの少女が、加州を追って屋上から飛び降りたのだ。

「ええっ?!」

少女が両手を広げて何かを唱えた時、加州の身体から嫌な浮遊感が消えた。頭から真っ逆さまだったのに、光の粒子に包まれて身体が持ち直され、宙に浮いている。隣では少女が翼広げ、ワンピースの裾がゆっくりと波打っている。それは風の影響とは全く関係無い動きだった。

「なっ、何?!どうなってるの?」

少女はそのままにこりと微笑むと、加州の手を握り、翼を羽ばたかせて屋上へと戻っていく。加州はふわっと再び屋上へ降り立つ事が出来た。少女は翼を広げて宙に浮いている。作り物ではない翼と、天使の輪。まさにその姿は本物の―――

「天使……。アンタ、まさか、本物の天使だったの?!」

少女は加州に優しく微笑みかけると、口を動かす。声は相変わらず聞こえなかったが、確かに『ありがとう』と呟いていた。
少女が瞳を閉じると、世界が美しい金色の粒子に包まれた。

「ま、待って……!俺、アンタに言いたい事が沢山―――」

世界が光と1つになった時、加州は意識を失った。
















「清光、帰ってきてから何か変だよね」
「べーつーにー。何も無いし」

本丸で加州はいつものように爪紅を丁寧に塗っていた。ふーっと爪紅を乾かす隣で、相棒の安定が不思議そうに加州の様子を見ている。

「でもさ、気づいたら物置に戻ってて、しかも人間達が誰も時間遡行軍が現れて大暴れした事を覚えてない。そんなのおかしいよ」

そう、加州が意識を取り戻した時、少女と出会ったあの物置教室に倒れていた。電球は天使の輪などではなく、ごく普通の電球だった。遠くで生徒や客の賑やかな声が聞こえ、何事も無かったかのように学園祭が開催されていた。それはまるで、時間が巻き戻ったような感じに思えた。

(―――でも、あの子の事は、覚えてる)

出来上がった綺麗なネイルを翳して見る。

「教えろよー、絶対に何かあっただろー?」
「ダーメ。秘密」
「何だよそれ。清光のケチ!」

少女は天使だった。でも、それを確かめる術が無い。だが、加州は確信していた。

(またいつか会えると思っちゃうんだよねー。次は名前、教えてもらわないと!)

加州は立ち上がって、伸びをする。

「ほーら、クレープ食べに買出しへ行く約束だったでしょ?行くよ」
「……後で絶対に何があったか教えてよ!」
「知らなーい」
「もう!」

今日はクレープを食べに行く。食べるのは勿論イチゴカスタードのクレープ。少女が気に入った味だ。
少女が加州の買出し先でクレープの屋台に並んでいるのは、ほんの少し先の未来。


2020.05.12 更新