ハチミツジンジャーティーをもう一度


厨に立って、紅茶を淹れる。いつもと違うのは、紅茶特有の酸味がある香りの中に、スパイシーなショウガの香りが混じっている事。そこへたっぷりとハチミツを加えれば、僕の特製ハチミツジンジャーティーの完成だ。
この紅茶を誰が飲むのかと言うと、僕の主である審神者だ。実は2日前から体調を悪くしていて、今は私室で休んでいる。
僕は冷めない内に主の私室へ向かった。襖の向こうかた声を掛けると、主の疲れたような返事があり、僕は中へと入った。

「主、紅茶を持って来たよ―――って、何かすごいね」
「次から次へ皆がお見舞いに来てくれてね。それでこんな感じ!」

夜着姿にカーディガンを羽織った主は、自分を取り囲んでいるぬいぐるみやお菓子、花束を手の平で指し示す。まるでおもちゃ箱にでも放り投げられたかのようだ。僕は思わず笑ってしまった。

「皆、君の事を本当に心配しているんだよ。だって君、審神者になってから3年、一度も風邪を引いた事が無かっただろう?それどころか、咳1つしたこと無かったよね。元気が君の取り柄なのに、そんな君が風邪で寝込むなんて、天変地異が起きたみたいだ」
「酷いなぁ。私だって体調が悪くなる事くらいあるよ。でもまぁ、小学生以来の風邪だから、久しぶりではあるけれどね。だからって、皆心配し過ぎだと思うけど……」
「正直、三日月さんが本丸に来たときよりも騒いでいたよ」
「あははっ!天下五剣よりも騒がれちゃったか」

白い歯を見せながら、主は朗らかな陽だまりのように笑う。しかし、その額には汗が滲んでいる。風邪で体温は高いはずなのに、顔色は青白かった。
主は普段、どんなに忙しいときでもその大変さを表に出さない。時の政府に提出する報告書をまとめたり、遠征に内番、鍛刀、軍議などの指揮を執る。仕事さえしていれば審神者としての役目は果たせている。でも、僕達の主は、なるべく刀剣男士達の輪の中へ入っていく。目が回る忙しさの中で、どんなに疲れていてもだ。それは意識しているわけではなくて、無意識なのだろう。
主は掛布団に視線を落とし、ぽつりと呟いた。

「……小学生の頃に体調を崩して寝込んだときにはね、共働きの家庭だったから、誰も家にいなかったんだ。仕方ないってわかってたけど、やっぱり寂しかった。しんと静まり返った部屋に、布団から顔だけ出して、熱のせいで眠れなかったから、天井をひたすら眺めてた。そのとき思ったの。『世界中には今私しかいなくて、独りぼっちで私は死んでしまうんだろうな〜』って。ただの風邪だったのに、小学生ってそういう事考えちゃうんだよ。『独りぼっちのまま死にたくない』とか。おかしいよね」
「主……」

主は穏やかに笑っていたけれど、僕は胸の柔らかいところを掴まれたように苦しくなった。
僕が暗くなったせいか、主は首を左右に振ってこう付け加えた。

「今は寂しいって感じてないよ。静かに寝ていても、どこからか声が聞こえてくるから。光忠さんも様子を見に来てくれるし、皆がいてくれるって思うと、寂しい気持ちなんてどこかに飛んで行っちゃうよ!いつもありがとう、光忠さん。光忠さんが傍にいてくれて、私とても嬉しいよ」

主は僕の方に顔を向けてにこっと微笑む。その表情はこれまで見てきた主の表情の中で優しく、キラキラと眩しいものだった。
僕の内側にじわっとした温かいものが広がって、全身に行き渡るような感覚がした。主である彼女を守りたいという強い気持ちが沸き上がってくる。それと同時に頬が熱くなって、擽ったくて照れくさいような感情が芽生えた。

「光忠さん?どうかした?」
「えっ?あ、あぁ、大丈夫だよ。それよりほら、主にと思ってこれを持って来たんだ」

僕は早く主の体調が良くなるようにと作ってきた紅茶を差し出した。ふんわりと香る紅茶の存在に、主は目を輝かせた。

「光忠さんが淹れてくれたの?」
「そうだよ。僕の特性紅茶さ。食欲が無いって聞いたから、せめて飲み物だけでもと思ってね」

主は朝食も昼食も殆ど食べなかったと聞いている。食事も満足に食べられていないのであれば、体力も落ちてしまって辛いだろう。

「ありがとう。頂きます」

こくんと主の白く細い首が上下に動く。それから驚いたように目をパチクリと瞬かせた。

「紅茶だけど、ショウガが入ってる!」
「ハチミツジンジャーティーだよ。甘党の君にはハチミツを加えて飲みやすくしてみたよ」
「ショウガの辛さだけじゃなくて、ハチミツの甘くて優しい味がする……」
「ショウガは身体を温めて免疫力を高めるそうだから」
「へ〜、そうなんだ」
「君には早く良くなって欲しいからね。ショウガの辛さは君にはちょっと辛いかもしれないけれど、我慢して」
「大丈夫大丈夫。これくらい平気だよ。光忠さんがハチミツを入れてくれたし」

主は僕が淹れた紅茶のカップを大事そうに両手で支えた。手の平に伝わる温かさを感じ取っているように目を細めた。

「ありがとう、光忠さん」
「どういたしまして」
「もし風邪を移してしまったら、今度は私があなたにコレを作るね」
「ああ、それは楽しみだな。きっと、主が作ってくれるハチミツジンジャーティーは美味しいだろうから」
「その時、光忠さんは風邪を引いているのよ?」
「それでも全然構わないよ」
「あはは、何それ」















「―――?!」

ハッとなって、僕は目が覚めた。じっとりとした汗が肌に滲んで、自分が魘されていた事がわかる。僕は上半身をゆっくり起こして、女々しくベッドの上で膝を抱えた。
何度目だろう?あの夢を見るのは。まだ僕が刀剣男士で、主がニコニコと微笑みを浮かべていた、あの頃の夢。
今の僕は刀剣男士ではない。1人の人間―――長船光忠だ。人間に生まれ変わって25年になる。
僕は生まれて物心ついた頃から刀剣男士だった頃に記憶があった。時間遡行軍との激しい戦いと、本丸での刀剣達との暮らし。そして、審神者である彼女との事。
主は、先ほど僕が夢で見たあの日から、2週間後に亡くなった。
ただの風邪だと思っていたけれど、その後拗らせて重い肺炎になってしまった。僕達が気づいた時にはもう殆ど意識が無く、自分で呼吸する事が出来なくなっていた。直ぐに病院へ救急搬送されて入院。僕達刀剣男士は、主の家族ではないという法的な理由で面会する事が叶わず、最期を看取れなかった。刀剣男士の中では、僕が刀剣男士の中で最期に会話した者になった。そして、その会話がさっきの夢だ。
審神者が亡くなった為本丸は維持出来ず、解体される事になった。刀解される時、僕達は誰も不満を言わなかった。僕達がもっと早く主の容態に気づいていたら、主は助かっていたかもしれない。そんな思いが拭いきれず、その報いとして刀解は当然だと考えていたからだ。それに、僕達の主は、彼女だけ。もし別の審神者が引き継いでくれたとしても、上手く馴染めなかったと思う。

「……あっ?!もうこんな時間だ!」

デジタルの時計は、いつもの起床時間を過ぎた事を示している。
僕はベッドから跳ねるように起き上がって、手早く身支度を整えた。いつもはもっと髪のセットに時間を掛けているけれど、そんな時間はもう無い。冷蔵庫から昨日の残りのサンドイッチをいくつか取り出して、無理やり口に詰め、牛乳で飲み込む。
戸締りだけはしっかりして、僕はマンションを急ぎ足で出た。
向かう場所は僕が働いているカフェだ。昼間はオリジナルブレンドのコーヒーとランチを提供していて、夜はカクテルバーになる。料理やコーヒーの味は勿論だけれど、カフェの空間を大切にしているので、インテリアにも凝っている。杉の一枚板を使ったカウンターテーブルは僕の大のお気に入りだ。
僕が店長で、オーナーは鶴さんだ。鶴さんは自由人過ぎて、正直何の職業をしているのか良くわからない。多分今はフリージャーナリストという事になっていたはず……。交友関係もめちゃくちゃ広いので、色々な世界の人間をカフェに連れて来る。そのお陰でカフェはいつも賑わっていた。
今日は鶴さんが『特別な客人が来るから、カフェを貸し切りにしておいてくれ』と頼まれている。それがいったい誰なのかを教えてくれないのは鶴さんらしい。とにかく、遅れるわけにはいかない。
カフェの前に人影が見える。スカートを履いているから女性のようだ。背格好からして、大学生くらいだろうか。僕はカフェの窓からじっと中を覗き込んでいる彼女に声を掛けた。

「もしかして、鶴さ―――五条国永の紹介でいらっしゃった方ですか?」
「えっ?あ、はい、そうです」
「?!」

くるりと振り返った女性の顔に、僕は驚愕した。心臓を素手でぎゅっと握られたかのように、その衝撃は凄まじかった。息をするのを忘れてしまう。





彼女の姿は、僕の主と瓜二つだった。





「あの、どうかしましたか?」
「あ…………、いえ、何でもありません。失礼しました。貴女が……、あまりにも美人さんだったので、つい……」
「えっ?!そんな……。あなたの方がものすごいイケメンさんですよ」

何とか誤魔化した僕に、彼女ははにかんだ。はにかんだ表情は、まさに主だった。
あの頃と全く変わらない主の姿が、今、目の前に。
心の準備など何一つしていなかった僕には、眩しすぎる笑顔だ。

「…………」
「あ、あのう……?」
「はっ?!ご、ごめんね!」

失礼な事はわかっているけれど、つい凝視してしまう。慌てて我に返った僕は、カフェの鍵を開けて彼女を中へと招き入れる。

「好きな席に座って、ちょっとだけ待ってて貰えるかな?」
「はい、わかりました」

僕はカフェ奥の休憩室に入ると、光の速さで鶴さんの番号をコールする。待っている間がやけに長く感じた。

『お〜、光坊か。そろそろ連絡が来ると思っていたぞ』
「鶴さんっ!僕で遊んでない?!絶対遊んでるよね?!」

鶴さんの声は待ってましたと言わんばかりに愉快そうだった。多分、僕は鶴さんに嵌められたんだ。絶対にそうだ。間違いない。

『人生には驚きが必要だと、刀の付喪神だった頃も散々言っただろう?』
「それは鶴さんの話であって、僕の事じゃないだろう?」
『でも、内心は嬉しいんじゃないか?彼女に会えて』
「…………」

いつも飄々としているけれど、鶴さんは鋭い。
僕は主の事を1人の女性として恋していた。それに気づけたのは、あの日美味しそうに紅茶を飲んでくれた主の表情だった。いつまでも見つめていたい、穏やかで優しい顔。審神者と刀剣男士という垣根を超えて、僕は彼女に恋をしていたんだ。
主がどう思っていたかはわからない。仲は良かったと思う。けれど、僕の事を異性として好きでいてくれたのか、それを考えると不安は尽きない。

「……彼女は、本当に主なのかい?」

彼女とはどういう関係なのかとか、どこで知り合ったのかとか、聞きたい事が山のようにある。でも、まず1番知りたい事を鶴さんに聞いてみた。
鶴さんはワントーン低い声で言った。

『それを確かめるのが、君の役目だ』
「鶴さん……!」
『少なくても俺にはわからなかった。君ならわかるかもしれないと思ってな。彼女は確かに俺達の主にそっくりだが、審神者だった時の記憶は無いらしい。いや、本当に別人だからなのかもしれない。しかし、それを確かめる方法は俺には思いつかなかった。だから、君に任せたい』
「……オーケー、わかったよ」
『まぁ、単純に君なら良いリアクションくれると思ったんだよな!あっはっはっはっ!予想以上だったぜ★』
次会ったら、その綺麗な顔をふっ飛ばしてやる(打撃73)。それで、彼女とはどこでどう知り合ったの?今の名前は?」
『そういう事は彼女に聞くんだな』
「確かに、今のは格好悪かったね」

彼女との接触を怖がって、他の男から情報を得るなんて卑怯だ。彼女の事を知りたいなら、彼女に直接聞くのが1番だ。
僕は鶴さんとの電話を切って、彼女の待つカフェスペースに戻った。

「待たせたね」
「いえ、大丈夫です。……あの、それで、カフェのバイトの面接ですよね?良いところがあるからって、このカフェを国永さんに紹介されたのですが……」

なるほど。確かにバイトの面接なら、色々質問をしても怪しまれない。鶴さん、そういう根回しはしてくれているんだな。

「そうだったんだね。あ、僕は長船光忠。このカフェの店長をしているよ。宜しくお願いします」
「私はです。宜しくお願いします」

彼女の今の名前はっていうのか。審神者だった頃と全く同じ名前だ。でも、それだけでは彼女―――ちゃんが僕の主だったのかはわからない。

「バイトの面接に来てくれたところ申し訳ないけれど、僕は今日がバイトの面接だって知らなかったよ」
「え?!それじゃ……」
「あ、勘違いしないで。新しいスタッフがが欲しいと思っていたのは本当だから。でも、鶴さんは全然教えてくれなくて」
「あ、もしかして、さっきの電話の相手は国永さんですか?」
「そうだよ」
「やっぱり!あの人、『人生には驚きが必要だ!』とか言って、何でもかんでも突然過ぎるんですよね……」
「あ〜、君も巻き込まれたクチなんだ」
「そうですよ!国永さんって変わってますよね。この前だって『サプライズだっ!』とか言って、誕生日にものすごく大きなクマのぬいぐるみをくれたんですよ。玄関の入り口から入らなくて、結局返品して貰ったんですけれどね。そもそも私、クマのぬいぐるみっていう年齢でもないのに」
「そうなんだ……」

彼女は困ったように、でも嫌そうには見えない笑顔を見せる。
ちゃんと鶴さんは、いったいどういう関係だろうか?
鶴さんの交友関係は広い。僕も全然把握出来ていない。だから彼女のような女性と知り合いという事も普通にある。
その気さくな性格のせいで、女性に勘違いされた経験もあるらしい。だから、最近では『女性との関係は考えたい』なんて言っていたのに。鶴さんはちゃんの誕生日を祝ったりする仲なんだ。
……いや、別に鶴さんがちゃんの誕生日を祝ったって良いじゃないか。鶴さんはいつも驚き欠乏症なんだから、ちょっと親しくなった女性にはサプライズをしたくなるだろう。僕だって、これからちゃんと仲良くなれば、誕生日のお祝いだって出来る!僕だったら、クマのぬいぐるみじゃなくて、綺麗な花束をプレゼントしたいな―――って、僕はちゃんの誕生日を知らないんだから無理だ!鶴さん……僕よりも一歩先にリードしているな……!
妙な対抗心を鶴さんに抱いてしまっているとは知らず、ちゃんは目を輝かせながら真っ直ぐ僕を見る。

「私、今はカフェの専門学校に通っている学生なんです。いつか、自分のオリジナルメニューを提供出来るカフェを経営したいと思っているんです。だから、バイト先もカフェを希望しています」
「でも、それだったら別にこのカフェじゃなくても良いじゃないかい?」

ちゃんと鶴さんの関係も気になるけれど、今はバイトの面接でもある。カフェの店長らしく、僕は鋭いツッコミを入れた。
ちゃんは僕の質問に対して、臆する事無く答えた。

「いいえ。このカフェが良いんです。私、あなたがブレンドしたコーヒーのファンですから!」
「えっ?君、このカフェに来た事あるのかい?」

ちゃんのような主そっくりの顔のお客さんだったら、一度見たら忘れるわけないのだけれど。

「このカフェには来た事ありませんが、国永さんがいつも朝飲んでいるコーヒーが気になって飲ませて貰ったんです。爽やかな酸味があるのに、コクがあってまろやかで……。本当に美味しくて感激しました!!どこのコーヒーなのか聞いたら、このカフェで店長さんがブレンドしたと聞きました。それで、ぜひこのコーヒーが飲めるカフェでバイトしたいと思ったんです。そしたら、国永さんがバイトを紹介してくれると言ってくれたんです」

ちゃんが僕のブレンドしたコーヒーを褒めてくれて、ものすごく感動している。でも、それと同じくらい酷く動揺している自分がいる。
ちょっと待って欲しい。『国永さんがいつも朝飲んでいるコーヒーが気になって飲ませて貰ったんです』という事は、ちゃんは鶴さんと朝に会う関係という事だよね……?それはつまり、鶴さんの自宅でお泊りをしているという事ではないだろうか?一緒に朝を迎える関係という事ではないだろうか?
いや、鶴さんが『このコーヒーをいつも朝飲んでいるんだ』と言っているだけかもしれない。きっとそうだ。そうじゃなければ、僕は鶴さんの事をもう一度お墓に埋葬しなければならなくなる

「僕がブレンドしたコーヒーをそんな風に思ってくれているなんて、すごく嬉しいよ。ありがとう。君みたいなコーヒーに熱心な子に飲んで貰えるなら、苦労してブレンドした甲斐があったよ。このコーヒーはカフェの看板メニューだからね」
「そんな……。私こそ、美味しいブレンドコーヒーを作って貰えて嬉しいです!進路の事、ずっと迷っていました。でも、店長さんのコーヒーを飲んで、絶対にカフェを経営したいって思えました。だから店長さんにはすごく感謝しているんですよ。あはは、ちょっと恥ずかしいですけれど……」

僕のコーヒーが、僕の知らないところでちゃんの背中を押していたなんて。人の縁というのは不思議なものだ。
言葉で表すのは簡単だけれど、進路を決めるのはなかなか難しい。ちゃんの一生懸命さはすごく良く伝わってきた。思えば主も懸命に僕達刀剣男士を導いてくれた。そのひたむきな真っ直ぐさは主と同じだ。でも、彼女が僕の主だったかはまだわからない。

「あっ、ごめんなさい。履歴書を出すのを忘れていました。コレです」

ちゃんは封筒に仕舞われていた履歴書を取り出した。履歴書にはこれまでちゃんが歩んできた道が書かれている。とても興味深いものだ。
そして、この1枚の紙切れが、僕に重症―――いや、刀剣破壊レベルの衝撃を与えた。





つ……五条、……?!





最初に飛び込んできたのは、女性らしい丸みを帯びた丁寧な文字。名前だ。その名前欄には、何と【鶴丸】と書かれている。
僕は履歴書の写真を見て、それから目の前の彼女の顔を見た。

「あの、店長さん……?」

僕にじっとまるで睨むように見つめられて、ちゃんは戸惑っている。だが、今は紳士的な対応は出来ない。僕の手の平からはダラダラと変な汗が流れる。
わかりきっている事だけど、鶴さんとちゃんは全く似ていない。つまり、鶴さんの妹とか家族とかそういう事ではないらしい。
もし本当に鶴さんの妹なら、兄を名前にさん付けなどしないだろう。鶴さんは一人っ子だと言っていたし、主そっくりの妹がいたら、今日までその存在を隠し通せるわけがない。僕と鶴さんの関係は長いのだから。
鶴さんの妹という可能性に一縷の望みを賭けていたけれど、見事に打ち砕かれる。いや、鶴さんの妹に転生していてもそれはそれですごくびっくりするけど。
鶴さんと同じ苗字を名乗る理由。それは1つしかない。





彼女と鶴さんの関係は、妻と夫、お嫁さんと旦那さんという事になる。





完全に真っ白になってしまった僕に、ちゃんは心配そうに声を掛けてくる。

「どうしたんですか?店長さん、顔色が悪いですよ?……はっ?!もしかして、また国永さん絡みですか?!何だったら私が国永さんを注意しておきますよ!」

『国永さん』と親し気に呼ぶちゃんは、まるで僕の傷口に塩を塗るかのようだった。

「いや……、そうだけど、そうじゃなくて……。ちゃんが気にする必要は無いんだ。僕は大丈夫だよ……」
「でも……」
「本当に大丈夫だよ。それより……結婚したんだね!お、おめでとう!」

ヤケクソになって振り絞った僕の言葉に、ちゃんは恥ずかしそうに少し頬を赤らめた。

「あ……、ありがとうございます」

その返事はお嫁さんになったばかりの女性の反応そのものだ。
鶴さんは僕より一歩リードしているどころか、とっくにちゃんとゴールしていたというわけだ。
鶴さんのプライベートは謎が多いけれど、結婚していたなんて本当に知らなかった。鶴さんみたいな自由人は、どんなお嫁さんを連れてきても驚かないと思っていたけれど、流石の僕でもコレは驚くしかない。
ただ主にそっくりなだけでこの衝撃だ。彼女が本当に主の転生した姿だとしたら、今以上のショックを受けてしまうだろう。これ以上ちゃんの事を知りたいような気持ちと、知る事を怖がっている自分がいる。
いや、失恋して好きな人の幸せを祝えないなんて格好悪過ぎる。そんな恰好悪い事は、僕が許せない。伊達男のプライドが燃える。
僕は何とか笑顔を作ってちゃんに向き直った。

「全然知らなかったよ、結婚していた事。鶴さんも教えてくれたら良かったのに。そうしたら僕もお祝いに駆け付けるんだけどな」
「えっと、恥ずかしくて……。それに言いふらす事でもないよねって、2人で話をしていたんです」

鶴さんはともかく、ちゃんは恥ずかしがり屋なところがあるらしい。鶴さんはちゃんの意思を尊重したのだろう。
それにしても、何故鶴さんは今日僕をちゃんに会わせたんだろう?その意図が良くわからない。

「あ、良くわからないんですけれど、苗字の事は国永さんが『履歴書を見せるまで黙っていろ★』と嬉しそうに言っていました」
「ヘ〜、ソウダッタンダ」

今なら素手で検非違使を破壊する事が出来る気がした
鶴さん、次に会ったら本当に覚悟して欲しい。

「国永さんって変わってますよね。自由奔放って感じで。最初に会った時からそうでした」

ここまでくるともうヤケだ。彼女が主本人かどうかを探る意味でも、僕はうんうんと頷きながら尋ねる。

「鶴さんとは最初どういう風に会ったんだい?」
「お見合いの席ですね」
「えっ?!お見合い?!」
「あれ?そんなに驚く事ですか?」
「いや……そういうイメージが無くて……」

鶴さんとお見合いという単語が結びつかない。かなり意外だ。自分の傷を抉るだけにも拘わらず、鶴さんの意外な行動に何だか興味が出てきてしまった。

「かなり畏まった席だったのに、まるでジャングルの奥地からやって来たみたいな恰好をしていたんですよ。そうしたら、本当にジャングルの取材旅行から駆け付けたって言ってて……。ネクタイはワニに襲われた時に千切れたと言ってましたよ」
「本当に?流石鶴さん、期待を裏切らない人だなぁ。でも、鶴さんはボロボロの恰好でも恰好良いよね」
「それで何でも打ち消している感じはありますよね」
「ははっ、そうだね」
「後で聞いたんですけれど、場の緊張を解そうと思ったみたいですよ。やっている事はめちゃくちゃですけれど、それは国永さんにしか出来ない勇気みたいなものだと思いましたね」

鶴さんは恰好良い。それはルックスもそうだけれど、その行動にも目を見張るものがある。退屈な人生を少しでも面白くしようと努力している。周りの人を明るくする強さみたいなものがある。
鶴さんを単なるお調子者だと言う人もいるけれど、ちゃんは鶴さんの事を良く理解しているみたいだ。流石、鶴さんと結婚するだけあると思う。

「お似合い過ぎて、凹むなぁ……」

僕にしか聞こえない声で零した言葉。悔しさと諦めが混じったもの。
鶴さんの真意がどうであったとしても、いつかはちゃんと鶴さんの結婚は判明する事だったと思う。だったらサプライズみたいに、驚きで表現したかったのかもしれない。それが鶴さんらしさでもあり、彼の優しさなんだろう。

「店長さん、やっぱり顔色が悪いですよ。無理しないでください」

ちゃんが立ち上がり、僕の肩にそっと労わるように手を置いた。
触れたちゃんの手から、心地良い体温を感じ取れて、僕は一瞬泣きそうになってしまった。
だって、最期に葬儀で触れた時の彼女の手は、氷のように冷たかったから。

「そうだね……。実は少し喉が痛くて、風邪気味なのかもしれない」

本当は涙声になるのを誤魔化したくて言っただけ。でも、ちゃんは心配そうに見つめている。

「喉が痛いのは辛いですよね。……あの、キッチンをお借りしても良いですか?」
「え?構わないけれど、どうしたんだい?」
「風邪の時に飲むと良い特製の飲み物を用意しますから」

にこっと微笑むちゃんに、僕はキッチンを任せた。
暫くすると、とても良い香りがふわっと漂ってきた。ちょっとスパイシーで、懐かしいその香りは―――





「ハチミツジンジャーティーだね」





テーブルに静かに置かれたマグカップの中には、美しい紅色と刻んだショウガが見える。かつて、僕が風邪を引いた主に出したものだ。コレは確かに特別な飲み物だ。

「あ、ご存じなんですね。喉が痛い時はコレがとても良く効きますよ。ちょっと辛いかもしれませんが、ハチミツが入っているので飲みやすいと思います」

僕は、夢を見ているみたいだ。今朝見た夢の続きを見ている。そんな気がしてならない。

「私はコーヒー派のはずなのに、ハチミツジンジャーティーだけはすごく好きだったんです。物心ついた時から」

ちゃんは、目を細めて思い出を振り返るように言う。とても優しい表情だ。

「不思議ですよね。初めて飲んだ時から、すごく懐かしい気持ちになるんです。それで、その後……」
「その後?」
「すごく、寂しい気持ちになるんです。誰かが、一緒にいたような気がして。でも、それが誰だったのか、思い出せない。誰だかわからないその人を、探してしまうんです」

『おかしいですよね』と、ちゃんは眉をハノ字にして無理に笑った。
僕は、ハチミツジンジャーティーを一口飲んだ。紅茶の渋みは全く無い。ジンジャーのピリッとした刺激を、ハチミツがまろやかに包み込む。僕が知っている、僕が飲みたかった、あの日のハチミツジンジャーティーだ。





これは、夢じゃない。





僕は静かにマグカップを置いて、ちゃんを見た。隣に立つちゃんは、何故だか泣きそうな顔をしていた。僕の視界も歪んでくる。

「僕は、君が探している人を良く知っているよ」
「え……?」
「その人は、君とまた巡り逢えたら、美味しい物を沢山食べて欲しくてカフェを始めたんだ。でも、いざ君を前にしたら、驚いて、臆病になって、格好悪くて、無様な男になった」

ちゃんの―――主の目から、堪えきれない涙が零れ落ちる。僕は立ち上がって、それを親指で拭う。涙の熱さが、主の存在を証明している。

「それでも、君のハチミツジンジャーティーを飲んで、その人は勇気を貰った」
「勇気……?」
「そう。気持ちを伝える勇気を」

何も言わずに死に別れるような、あんな思いはもうしたくない。
例え、今は鶴さんのお嫁さんだったとしても、僕は、僕は―――

「よっ!光坊、邪魔するぞ!」
「ええっ?!」

僕が主に長年の想いを告白しようとしたその時、貸し切りの看板を無視して扉が開いた。入口のベルが大きな音を立てると、入ってきたのは満面の笑顔の鶴さんだった。
絶妙過ぎるタイミングに僕はズッコケてしまう。本当に邪魔でしかない招かれざる客だ。

「国永さん、確か今日はニューヨークだって言っていたのに」
「仕事が予定よりも早く終わってな。ちょっと挨拶に寄ろうとこっちに向かっていたんだよ。どうだ?驚いたか?」
「いつも突然なんですよね〜、国永さんは」

ちゃんは驚いた表情で、それでも嬉しそうに鶴さんの方へ歩いて行く。
嗚呼、隣に並ぶと、より一層彼女が鶴さんのお嫁さんである事を思い知らされる。とてもお似合いの2人じゃないか。
やっぱり僕の恋心は大切に仕舞っておくべきだったんだ。前世の気持ちは、今の世に持ち込むべきじゃない。
そう思ったとき、鶴さんは僕の頭上に爆弾を落とした。





「それで、バイトの面接は上手くいったのか?我が妹よ





「…………えっ?い、妹……?!だ、誰が、誰の妹だって……?!」

動揺し過ぎて、上手く言葉が発せられない。
ちゃんはきょとんとしているし、鶴さんは『ん???』という顔をしている。

「私、国永さんの妹です」
「気づいていなかったのか?光坊」
「えっ?だって、ちゃんは五条っていう苗字で……?鶴さんとちゃんは全然似ていないし、妹とかじゃなくて……。だから、僕はてっきりちゃんと鶴さんが結婚したのかと……」
「ええっ?!私と国永さんが結婚?!」
「あはははっ!そいつは驚きだな!光坊、本当に面白い事を言うなぁ」

鶴さんが彼女の背中をポンと軽く叩く。

「彼女は五条。3ヶ月前に俺の父親との母親が再婚して、法的に俺の妹になったんだよ」
「えっ?!それじゃあ、さっきちゃんが言っていたお見合いで初めて会ったっていうのは……」
「私の母と国永さんのお父様がお見合いをして、その席で息子さんの国永さんと初めて会ったんですよ。国永さん、本当に『鶴さん』ってあだ名で呼ばれてるんですね」
「ああ、そうだ。学生時代、めでたい鶴の恰好で登校したら、それ以来『鶴丸』っていうあだ名が付いてな。はっはっはっは!」

何だか色々頭の中がめちゃくちゃになっていく。鶴さんだけがニヤニヤとこの状況を楽しんでいる様子だ。

「『結婚したんだね』って店長さんに言われたから、私は両親の再婚の事を言っているんだとばかり……」
ちゃんもちょっと恥ずかしそうにお礼を言っていたし、鶴さんの事を『国永さん』って名前で呼んでいるから、2人は夫婦になったんだろうと思ったんだ」
「両親の再婚って気恥ずかしいじゃないですか。だから周りには言わないでおこうという話になったんです。国永さんも良い大人だし、お兄さんと呼ぶのは抵抗があって……。だから名前で呼ばせて貰っているんですよ」
「俺は『お兄ちゃん』でも全然構わないけれどな!」
「そんなの恥ずかしいので無理ですっ」
「恥ずかしがらずとも良いんだぞ、我が妹よ」
「国永さん、痛いですよ〜」

ぐりぐりとちゃんの頭を撫でる鶴さんに、僕はただ脱力してしまった。

「えーっと、それじゃあ、鶴さんが朝飲んでいるコーヒーを飲ませて貰ったっていうのは……?」
「家族としてのお付き合いを深めるため、一時的にですが私と国永さんは再婚した両親と暮らしていたんです。国永さんは世界中を飛び回っていて、朝しか日本にいない時期があったんですよ。帰ってきた時にいつも国永さんはコーヒーを飲んでいたので、私も飲んでみたくなって」

鶴さんと彼女が家族になったなら、朝一緒に同じ家にいてもおかしくない。まぁ、鶴さんを1つの場所に留めておくのは難しい。どうにかして交流を深める為の苦肉の策だったのかもしれない。

「はあ〜〜〜……安心した……。鶴さんとちゃんが夫婦だと思っていたから、本当に心臓が止まるかと思った」
「そう疲れた顔をするなよ光坊。俺は別に君を勘違いさせて嵌めようとしたつもりは無いぜ?に苗字を隠しておけとは言ったが、その流れで妹だとわかるというドッキリだったんだよ。まさか俺とが結婚しているなんていう誤解をしてくれるとはな〜。あっはっはっは!」
「全く、鶴さん!君って人は……!」

鶴さんも悪いところがあるけれど、僕も勝手な勘違いをしてしまった事が恥ずかしい。ちゃんにこれからどう振る舞えば良いのか悩んでしまう。
鶴さんがぐっと僕の肩を掴んで、ちゃんには見えないようにひそひそ声で話す。

「それで、は俺達の主なのかい?」
「……そうだね。間違いないと思うよ。審神者だった頃を完全に覚えているわけじゃないけれど、彼女は僕達の主だ」

『そうか』と鶴さんはホッと安心したようにくしゃっと笑った。鶴さんも、何だかんだで真実を確かめたかったのだろうと思う。

「…………」
ちゃん?」

急にちゃんが僕達を見て黙ってしまった。不思議に思って名前を呼ぶと、彼女も不思議そうな顔をした。

「あの、どうして店長さんは私と国永さんが兄妹だってわかって安心しているんですか?」
「?!」

ついうっかり彼女の前で本音をポロっと言ってしまった。無垢な瞳で僕を見ているちゃんに、僕は一瞬焦ってしまった。でも、その気持ちは、テーブルの上にあるハチミツジンジャーティーを見て平らになる。そして、あの無意識に彼女の瞳から零れた一粒の涙が脳裏に浮かぶ。
そうだ。僕はもう一度彼女と出会えてしまったんだ。この奇跡みたいな話を、彼女とこれからゆっくりとしていきたい。僕の恋心も含めて、ね。
僕はごくんと一気にマグカップの中身を飲み干して、彼女に差し出す。

「長い話になりそうだからね。もう一杯貰えるかな?」
「はい、勿論良いですよ!」

僕がもう一度見たかった満面の笑顔。
彼女が可愛いスタッフになり、僕の事を『店長さん』ではなく、『光忠さん』と呼んでくれるのはそう遠くないだろうと確信した。


2018.09.16 更新