◆◇ 番外編02 想い終わらず
この日の氷帝テニス部はいつもと空気が違っていた。今日は準レギュラーが正レギュラーに試合を挑み、正レギュラーへと昇格するための試合があるのだ。
今回の試合はただの試合ではない。
準レギュラーとしてこの試合に挑むのは、1年生のときから榊に一目おかれている滝萩之介。自分から攻めずに相手の攻撃を風に揺れる柳のごとくいなして返す。
そして対する正レギュラーは、1年生で既に正レギュラーになっている跡部景吾。完全に相手のプレイを支配するその圧倒的な強さと自信は、今後の氷帝テニス部を引っ張って行く存在になると期待されている。
観客席は既にほぼ満員で、一目この試合を見ようと生徒や選手が押し寄せているくらいだ。
「本当に注目されてるなー」
「ジローも起きたのか」
1番前の席で試合の様子を見守ろうと並ぶ2人のチームメイトたち。宍戸は肩まで伸びた髪を束ね直す。視線だけはコートに向いていた。
「今回の試合はかなり他のヤツらも注目してんだな」
「当然やろ岳人。何せ滝は跡部の次に正レギュかって言われてんねんで?」
『次はオレやな』と一言付け加える忍足に岳人が顔をしかめる。
「うっせー!次はオレが正レギュだ!」
「ともかく、その次に正レギュ候補って言われてる滝が、同じ学年の跡部と対戦とはなぁ……」
宍戸が腕を頭の後ろで組む。視線の先にいる跡部はここで負ければ正レギュラーからは降格されることになる。ラケットのガットに触れ、コンディションを確かめている跡部の表情は、普段よりもどこか険しかった。
「ちなみにこの組み合わせは榊監督直々だっていう話だC〜」
「マジかよ!?
「つかジロー、毎回どこからそんな情報を持ってくるんだよおまえは」
「確かに!」
寝ているばかりのジローがいったいどこでその情報を手に入れたのかは謎だが、監督が直接滝と跡部に提案したことらしい。かなり珍しいことだった。
審判に榊がコートに立った。滝と跡部がネット際に歩み寄る。2年目の春風がふわりと2人の髪を撫でていった。僅かに花の香りが混じっている。それでも2人は互いにじっと見つめ、同時に手を差し伸べて握手をした。2人の手の平はマメができていてゴツゴツと皮膚が当たる。
滝が背中を向け、定位置に歩こうとしたとき跡部がその背中へ声をかける。
「まさか、榊監督がおまえをこんな形で試すとはな……」
「試す……か。やっぱりそうみたいだね」
滝は跡部に顔を向けることは無かったが、その表情は既に跡部にはわかっている。きっと困ったように、いつものように笑っているのだと。
榊が手を挙げ、試合の開始の言葉を述べた。
「では、これより準レギュラー滝萩之介と正レギュラー跡部景吾の試合を開始する」
その声で滝と跡部の表情が変わる。険しくもあり、滝は少しだけ微笑んでいた。
(てめぇの気に入らない薄笑い、ぶっ潰してやるぜ)
跡部がシュッと青い空にボールを投げた。
「――それで?」
は隣に立つ跡部に声をかけた。
『過去に1度滝と試合したことがある』と話を切り出したのは跡部の方だった。それを今日この場所で話すとは思いもしなかった。
は明日立海大の高等部へ進学する。神奈川にある学校なのでまた学生寮へと移るのだ。当然今の寮から出て行く。
これから予約をしておいたカラオケボックスでお別れパーティーをすることになっている。だがその前に、どうしてもはここへ行っておきたかった。ここというのは墓地。滝の墓参りだった。
まさかこの場所でしかもこのタイミングで跡部がいるとは思わなかった。跡部は手に水の入った桶と真っ白な百合の花束を持っていた。真っ直ぐに墓標を見つめる跡部の表情は何を考えているのかが読めなかった。
が声をかける前に跡部がこちらに気がついたのである。『よぉ』と軽く挨拶をした跡部は少しだけ微笑んでいた。
そして、気がつくとこんな昔話を聞かされていたのだ。
「それで、結局どっちが勝ったんですか?」
「いい加減敬語は止めろよ……。試合はもちろんオレが勝った。6−3でな」
「割と普通ですね……じゃなくて普通だったね」
「いや、違う。オレはあの後激怒して滝に詰め寄った」
「ええ?!」
勝ったのに激怒するなどということがあるのだろうか。は驚きの声を上げてしまった。
跡部は桶を置いて古く枯れた花を抜き取ると、新しく瑞々しい白百合を挿した。の持ってきた桃の花も一緒に挿す。視線は相変わらず墓標のまま、背後のに話しかけた。
「『6−3なんかでオレを騙せると思ったのか?!』ってな……」
「騙す……?」
滝が相手を騙すような行為をするとはとても思えなかった。だが跡部の口ぶりからすればそれは本当のことだったのだろう。しかし、なぜそのようなことを滝がする必要があったのだろうか。
「滝は1度だって本気を出したことが無かった。あのときのオレに対してもそうだった」
「そんな……萩之介くん……」
「テニスだけじゃない。きっと勉強とかそういったことでも、本気で何かしたことが無い。滝は詰め寄ったオレに何も言わなかった。それが何よりも不思議だった。アイツは今までオレが知る限り、黙って茶を濁すようなことだけはしてこなかったからな」
跡部は目を伏せた。
その後の跡部と滝はあからさまに不仲を晒したりはしなかったが、それでもわだかまりは残った。滝と跡部の距離を心のどこかで会話をする度に思い出すようになっていた。
そして何も進展が無いまま、謎が残されたまま滝は死んだ。
本当にあっという間で、寝耳に水で、信じられなかったというよりも、それ以前に何が起きたのかがわからなかった。
めまぐるしくその後は時間が経った気がしている。滝の葬儀、マスコミの取材、の交通事故、が息を吹き返して、その間もずっと後輩たちの指導、卒業の準備……。跡部はこの間ずっと滝に想いを馳せることが出来なかった。
ようやく時間ができた時、ふっ……と出てきた感情は悲しみや絶望ではなく、記憶だったのだ。
「オレはアイツが嫌いだったよ。今でもそれは変わっていない。だが……」
「『だが』?」
「同時に自分のことも嫌いになった。本当のことを知ったからな」
「……」
「滝は、ずっとおまえに対する罪を抱えてきた」
滝は幼馴染でもありいとこでもあるに対して、恐ろしいことをしてしまった。滝がもし行動に移さなかったら、今でもの両親や兄は生きていたかもしれない。は心に大きな傷を負わずに済んだかもしれない。そんな、とてつもなく大きな闇だった。滝は大きな闇を抱えていたのだ。
「今ならわかる。アイツは欲することを止めたんだよ。本気で手に入れたいと望んだから、を取り返しがつかないほど不幸にした……」
「それで、萩之介くんは本気で欲しいと思わなくなったの……?」
全てに対して、欲することを止めた。
また誰かを不幸にするくらいなら、何もいらない。
「いや、それだけじゃない」
「え?」
「滝は1番辛い立場に自分を置いた。好きなテニスで本気を出さないのはそのためだ」
本気は出せない。けれどテニスはする。
自分の好きなことをめいいっぱいすることを自ら禁じた。まさに拷問だった。
「他のヤツらはなんだかんだでテニスをしている。特に、真っ直ぐに上を目指せるヤツら……それを見ることだって辛かったはずだ」
「私……私のために萩之介くんが……!」
は涙が出そうになった。だが、跡部は振り返っての手を取った。あのとき滝と握手したときの感触とは全く逆。すべすべとした、小さく、細い手だった。
(これが……滝の守りたかったものか)
今だからこそわかることが多い。
だから憎いのだ。
知ったところで、何ももうできないのだから。
「……ふっ……うぅ……」
ぽろりぽろりと溢れ出る涙が、白い頬を伝って落ちていく。は掴まれていない方の手で懸命に拭った。
「おまえは泣くな」
「う……っく……ひっく……っ」
「それが嫌で、どうしようもなくて、アイツはずっと隠して…ついには墓場まで持って逝っちまったんだからな」
「……っ……うん……」
それでもの涙は止まらない。ぽろぽろと泉のように湧き出る涙に跡部は苦笑した。跡部もの涙を拭ってやった。
「そろそろ行くぞ。時間に遅れるとアイツらうるせぇしな」
「は、はい!!」
手を差し出してやれば、また小さな温もりに触れる。2人はそのまま歩き出した。桜が満開の、ピンクの絨毯を真っ直ぐに進んでいく。
薄紅の風が2人の髪を撫でていった。滝と跡部が昔試合をしたときのような、優しい風だった。
やっぱりオレはおまえが嫌いだ。
勝手に全部押し付けて消えるなんてな。
それに、結局泣かせてるじゃねぇか。
こんな良い女泣かせてんじゃねぇよ。オレがもらっちまうぜ?
なぁ、滝……。
守るぜ。
おまえが命をかけて守りたかったものを。
だから、安心して眠ってくれよ……。
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