恋文


夜は忍者のゴールデンタイム。
というわけで、今夜も文次郎は鍛練に励むため長屋から外へ出た。薄暗く月明かりだけを頼りに校庭へと音も無く降り立った。
すると、背後で何かがこちらへ向かって走って来る音が聞こえてきた。文次郎はこの足音に聞き覚えがある。それも、何百回と聞いた音だ。逃げようとしたが、一歩遅かったようだ。

「もーんーじーろーっ!!好き!!」
「うわああああ?!?!」

背後から突き飛ばされるように抱きつかれた文次郎はその場に転倒した。しかも顔から。

「あ、ごめんごめん」

サッと抱きついたくのたまのは文次郎の上から降りた。けれども文次郎の怒りがその程度で収まるはずが無く、に潰されたまま怒号をぶつけた。

「何しやがるんだテメェ!」
「あはは、文次郎の顔が真っ黒になってる」
「お前のせいだろうがっ!!」
「だからごめんって謝ってるじゃーん」
「それのどこが謝罪の態度だって言うんだよ!」

は泥で汚れた顔の文次郎を見てもただ笑うだけだった。『まったく…』と諦めたように呟いて文次郎は頭巾を外し、自分の顔を拭った。

「お前のその態度、貴族とは思えねぇぞ」

そう、は名の知れた名家の生まれ―――つまり姫なのだ。
しかし、文次郎が4年生のときにくのたまとして入学してきた。当初学園内は貴族の姫君が入学してくるという話で持ちきりだった。まさか貴族の姫がくのいちになろうと考えるとは誰も思わない。
名家の姫ということで、のことは誰もが苗字に様付け。同級生であるくのたまたちも敬語で名前に様付けしている。貴族と何かいざこざが起きては困るからだ。
しかし、実際に入学してきたは、姫という肩書きに相応しくない振る舞いばかりしていた。先ほどのように文次郎に抱きついたり、文次郎に大声で『好き!!』と叫んだり……やりたい放題だった。
は文次郎の言葉なぞなんのその。無邪気な笑みを浮かべている。

「毎回人のことを見る度に好き好き言いやがって…注目を浴びるオレの身にもなれってんだ」
「良いじゃん別に。だって好きなんだもん」
「いつもそれだ……」

文次郎は出会った当時からずっとに好きだと言われ続けている。まるで挨拶のように告白してくるのだ。逃げようとしてもどこからともなく現れ、文次郎を捕縛しようとする。実技はあまり得意では無いはずだが、それでも文次郎はに捕まってしまう。
あまりにその行動が目立つため、学園内では名物コンビになってしまった。

「ああもう!いい加減にどきやがれ―――って、うわああああああ〜〜〜ッ!?!」
「文次郎?」

背中に乗ったままのを引き剥がして文次郎は先ほどよりも大きな声を出した。目玉は飛び出さんばかりに見開かれ、頬が赤く染まる。
文次郎の驚き方に首を傾げるは、桃色の制服ではなく薄い夜着を着ていた。いつもは高く結い上げられている黒髪も下され、艶やかに濡れている。どうやら風呂上がりのようで、柔らかなシャボンの香りが文次郎の鼻腔を擽った。

「何を慌ててるの?」
「バカタレ!そんな格好をしているんじゃない!さっさと部屋に戻らんかっ!!」
「だって、外を見たら文次郎がギンギンしてるんだもん!あたし、文次郎が好きだから追いかけてきちゃった」

そして再び文次郎に抱きつこうと細い両腕を広げた。満面の笑顔を見せるに一瞬くらっとしたが、文次郎はその両腕を掴んで拒絶する。

「ええい、止めんか!だいたい、オレはお前のことなんて―――」
「『好きじゃない』?」
「!」

何度の気持ちを拒否したかわからない。は文次郎が自分に興味が無いことを理解していないんじゃないかと思ったこともあった。しかし、はその度にこう言う。

「わかってるよ。文次郎があたしのこと好きじゃないこと、わかってるよ」

無邪気に、笑いながら。

「あたしは文次郎のこと好きだよ。大好き。例え文次郎があたしのこと何とも思って無くても、嫌いでも、大嫌いでも構わないから」

自分が好きであることが重要、と言っているようにも聞こえた。まるで文次郎の、相手の気持ちはどうでも良いかのように。
相手の気持ちもあって、初めて恋と呼べるのではないだろうか。けれども文次郎はそれ以上追及しないでおいた。
どこか今日のはおかしい。他の人であればそうは思わなかったかもしれないが、文次郎にはそう思えてなからなかった。

「お前……何か今日は変だぞ」
「え……?そ、そうかな?あははははっ」

誤魔化すように笑うは珍しかった。いつもの明るい声も、語尾が小さくなっていく。

「それに、お前がこんな遅くまで起きているのは珍しいぞ」
「あ、うん。ちょっと文を書いていたの。文って書くの久しぶりだったから、ちょっといろいろ悩んじゃったけどね」

手紙をが誰かに書いている。手紙を書くということは、この学園内の生徒ではなさそうだ。となると思いつくのは彼女の実家くらいだ。

「実家にか?」

文次郎もの手紙の送り主などなぜ聞いてしまったのかわからなかった。
は再び苦笑しながら言った。

「ええっとね、実家じゃないよ」

学園でも実家でもない人物。
は貴族だ。ならば向こうに残してきた恋人かもしれない。恋人の1人や2人、もしくは許婚の1人や2人、いてもおかしくないだろう。
そう考えた途端、文次郎のを見る目つきがキツいものに変わった。するとが怯えたように眉を寄せる。

「文次郎、何を怒ってるの?」
「別に。オレには関係の無い話だ。それに、いつも用が無いなら追いかけて来るなと言っているだろう?」
「文次郎……。うん、ごめん。もう二度としないから」
?」

普段ならば文次郎が嫌がっても離れなかったが、素直に返事をした。
はまた明るく笑って見せる。月の光りに照らされたは、手の届かない存在のように錯覚してしまう。

「それじゃ、あたしもう寝るね」
「お、おう……」

くるりと回って背中を見せたは言った。



「おやすみ、文次郎」



文次郎はなぜか、に『さようなら』と言われたような気がした。
















次の日、学園内はある話題で騒然となっていた。あの貴族の姫君である突然退学したというのだ。その理由については明らかになっていない。けれども誰もが噂しているのは、が別の名家と見合いをするためという内容。
仙蔵が自室に戻ると、文次郎がせっせと机に向って次の委員会予算を台帳に記入しているところだった。

「文次郎、なぜこんなところにいるんだ」
「なぜって、ここはオレの部屋でもあるんだぞ仙蔵」

脇目も振らずに算盤をバチバチ弾いている文次郎の横にドカッと乱暴に座り込んだ。隣の仙蔵にチラリと目を向けると、再び算盤を弾き出す。

「……何かあったのか?」
「今朝、様が忍術学園を辞めたそうだ」
「!?」

それを聞くなり文次郎は指がピタリと止まった。言葉を失った文次郎に、仙蔵は怒りを孕んだ声で尚も続ける。

「その様子では理由も知らないようだな」
「知るわけないだろ、あんな気まぐれ女。どうせ学園が飽きて辞めたくなっただけだろう」

突然が学園を辞めて出て行ってしまった。しかもその理由を自分は知らないのに仙蔵は知っているような言い方。文次郎の胸の中にもやもやとしたものが渦巻いてきた。
平静を装い、文次郎は再び算盤を弾き始める。その音がさらに仙蔵の苛立たせた。

「昨日、お前が鍛練に出ている間に様が私を訪ねてきた。様は様子がおかしかった。だから私は問い詰め、ようやくお話されたのだが……見合いをするために辞めるとおっしゃっていたぞ」
「オレもに会ったが、確かに様子はおかしいと思った。けどな、オレはヤツと恋仲でも何でもない。そんなオレに何を……」

昨日のを思い出すと腹が立つ、と文次郎は思った。明るく元気で、いつも自分に好きと言っていたが、悩みながら他の男に手紙を書いているところを想像するとイライラした。

「文次郎は様が辞めても何も思わないのか?あれだけ一緒にいながら、なぜ追いかけて行かない?」
「オレは別にのことなど何とも思っていない。むしろ嫌いだ。あれだけ一緒にいながら、何も告げること無く出て行ったのだからな。しかも、お前にはそのことを話しているじゃないか。いい加減、オレはうんざりしてたんだよ!オレに好きだ好きだと言いまくっておきながらは―――ッ!?」



何を熱くなっているんだ、オレは。



これじゃあまるで……。



「文次郎……お前、本当に様が貴族の姫だということを忘れているな」
「何?」

仙蔵に言うことが理解できない、といった顔で文次郎は仙蔵を見た。すると、懐から綺麗に折り畳まれた手紙を差し出してきた。飾っておきたくなるくらい達筆な字で、『潮江文次郎様へ』と書かれている。
文次郎にはこんな字を書く知り合いなどいない。では、誰が?

「これは?」
様から預かったお前への文だ。さっさと読め」
が?!……アイツ、こんなに字が上手かったのか……」
「感心してどうする……!というか、今注目するべきはそこじゃないだろう、アホ」

仙蔵のツッコミを無視して文次郎は手紙を開いた。するとこれまた美しい文字が並んでいる。



潮江文次郎様へ。
もしかすると、わたくしを嫌うあなた様がこの文をお読みくださらないかもしれない。
けれども、どうしても伝えたいことがあって筆を執りました。
いえ、ただここに書き記したかっただけかもしれません。
お話したことは無かったと存じますが、わたくしは忍者になりたくて忍術学園に入学したのではありません。
逃げたかったのです。
わたくしの家は御察しの通り、名を持つ家柄です。
そのため、わたくしは幼き頃より……いえ、生まれる前からどこの誰と結婚するのかが決まっておりました。
ただ両親の命で行動するしかない人形のわたくしは、愛しいと想える人に出会えるなど、誰かを恋慕うなど、一生ありえぬ事と考えていました。
忍術学園に入学したのは、あの家から少しでも遠く離れてみたいという気持ちからです。
しかし……実際入学してみると、わたくしを貴族の姫をして扱う方ばかりでした。
この呪われた家名からは逃げられないのだと、わたくしは情けなくも嘆きました。




はいつも自由気ままに生きているように思えた。貴族の片鱗を見せたことなど一度も無かった。
しかし、この手紙からはひしひしと貴族という家柄と絶えず戦ってきた様子が伝わってくる。は屋敷にいた頃も学園に入学したときも、ずっと独りで貴族の自分と向き合ってきたのだ。文次郎の手紙を握る力が強くなった。
しかし、次の行からは内容が一転していた。



でも、あなた様だけは違っていました。
あなた様だけは、わたくしを名前で呼んでくださいましたね。
貴族の姫としてではなく、同じ学び屋の仲間として接してくださいましたね。
本当に嬉しかった。




……」

文次郎はとの出会いを思い出した。
は他の生徒たちから賛辞はされていたものの、誰も必要以上に近づこうとしなかった。誰もが敬語を使い、同じ生徒ではなく貴族の姫として見つめられることにきっとは疲れていただろう。



お前、何でこんなところに座り込んでやがる。



え……?だって、あたしは……。



ほら、さっさと立て。めそめそしている暇があったらオレの鍛練に付き合えよ、



……!?……う、うん!!




同じ忍を目指す者として、文次郎にはを特別扱いすることを嫌った。文次郎にとってを呼び捨てにしたり隣に並んで立つことは至極当然。けれども、このように大きな影響を与えていたとは気付かなかった。
どれほど彼女にとって嬉しいことなのか、わからなかった。



気がつくと、あなた様を見つめ、その背中を追いかけるようになっていました。
あなた様はさぞやご迷惑だったことでしょう。
貴族として育ったわたくしは、誰かに好意を言葉にするなどできませんでした。
ましてや、大きな声でなどありえませんでした。
その反動だったのか、わたくしはあなた様を好いていることを口にする度に喜びで胸がいっぱいになりました。
こんなにも自由に自分の気持ちを言葉にできることを、わたくしは経験することが出来て良かったと思います。




まさかこんなにも自由に過ごせるとは、本人も思っていなかったのだろう。
逃げ出した先で、自分が恋焦がれることの出来る人にも廻り逢えた。
顔も知らない男と政略結婚を待つだけの人生。その暗闇の中に光りが見えた。



愛しいと想える人に出逢えたこと、恋慕う気持ちを言葉に出来ること。




誰かを好きになれた。



これ以上、何を望みましょうや。



恋ができただけでも、充分。



筆を走らせている今宵も、それを思えば歓喜に打ち震えるばかりでございます。



もう、それだけで良かった。



ひと月ほど前、実家の父より連絡がありました。
夢のような時間はこれで終わりのようです。
わたくしはこれから実家に戻り、お見合い相手とお会いすることになります。
短い間でしたが、お世話になりました。
これで、お別れの言葉とさせていただきます。
より。




読み終えた文次郎はぐしゃっと文を握りながら言った。

「オレはやっぱりが大嫌いだ」
「文次郎…」
「アイツはいつだって一方的で、オレからの返事は決して聞こうとしなかった」

今思えば―――いや、前から気づいていた。が何かに恐れて、いつも文次郎からの返事を聞こうとしなかったことを。
答えは決まっている、と。

「勝手に自己完結させやがって……!今回のこともそうだ。自分で勝手に満足していなくなった。オレのことなんてお構いなしにな!」

だからいつもイライラしていたのだ。
恋できただけでも良い方。結ばれないのだから諦めてしまおう。
そのの根性が、文次郎をイライラさせていた原因だった。
仙蔵は皮肉めいた笑みを浮かべる。

「その苛立ちこそが、お前の答えだろう?」
「……ああ、そうらしい」

文次郎もニヤリと笑った。

「コレのどこが別れの文なんだ?こんな別れの文があるかってんだ」

立ち上がると、部屋を出ようとする。後ろから仙蔵に呼び止められた。

「行くのか?」
「当然」

サッと頭巾を被り、周辺の地図を懐に入れる。





「恋文には、返事が必要だろう?」
















もう昼を過ぎただろう。文次郎は地図を頼りにの実家がある街を目指していた。
街へと続く小道を木を伝いながら飛ぶように走っていると、下の方で足音が聞こえてきた。それは聞き覚えのある音。文次郎は思わず足を止めた。
自分とは反対方向に小道を走って来る女性がいた。薄絹のついた笠を被り、色鮮やかな小袖を着ている。手甲を付け、鈴のついた杖を持っていた。
チラリと見えた笠の下の顔に文次郎が叫んだ。

ッ!!」
「も、文次郎?!」

前に降り立つと、一瞬が戸惑って後ろに下がろうとする。しかし文次郎がそれを許さず力いっぱい自分の腕の中へ閉じ込めた。勢いでの笠が地面に落ち、文次郎の胸にふわっと普段は無い花の香りが広がる。
突然現れた文次郎には混乱している。自分が今どうなっているのかもわかっていないようだ。

「え、あ、文次郎?何??どうしてここにいるの?!」
「お前こそ、なぜオレに黙っていなくなった!!」

本気で怒っている文次郎に、は目を丸くするしかない。
けれどもしばらく抱きしめられている内に、ようやく自分が文次郎の元へ帰れたことを理解して目を閉じた。

「そっか……仙蔵だね、文次郎」
「違う。オレの意志でここに来た」
「な……ん、で」

少し文次郎から離れて、は文次郎を見上げた。口に紅を差したはまさに名家の姫君だった。

「恋文の返事をしようと思ってな」
「恋文……?あ、あれはそんなんじゃ―――」
「あんなにオレを好きだと言っておいて、アレは恋文じゃないと言うつもりか?」
「……」
「昨晩の文の宛名はオレだったのだな」
「……うん」

消えそうな声では頷いた。

「あたし、あんなこと書いたけど…、戻ってきたよ。お見合いの相手…ボコボコにして、さ。くのたまを舐めるんじゃないっての!!」

は照れたように頬を掻いた。
どうやらは学園に戻ろうとしていたところのようだ。

「ずっと怖かったよ。文次郎があたしのこと…自惚れかもしれないけど、好きなんじゃないかって思った。でもそんなことがもし本当になったら、あたしは生きていけないよ…っ」

貴族の姫と、忍者。どの道結ばれないのなら、返事なんていらない。
文次郎は優しくの頭を撫でた。

「で、も……、あたし……諦めなくても、良いの?」

文次郎は返事の代わりにをまた力強く抱きしめた。の大きな瞳から、堪えていた涙が次々に零れ落ちた。ぎゅっと瞑ると、さらに大粒の涙が伝い落ちる。

「返事……、聞かせて……っ!!」

叫びに似た声に文次郎は答えた。

「何でも独りで抱え込むは嫌いだ。だが、素直に願いを言うは好きだ」
「あたしも……、追いかけてきてくれる文次郎が、大好きよ」
「ああ……、知ってる」

その後、と文次郎は学園に戻り、早馬で駆け付けた実家の使者を手紙を持たせて追い返した。
手紙にはしっかりと『好きな人がいるので戻れません』と記した。両親にが反抗したのは学園に入学するとき以来だったので戸惑った様子だった。けれどもの淡々とした内容に、とりあえず卒業するまでは見合いの話はしないことになった。
2人が揃っての実家へ挨拶をしに行くのは、そう遠くないだろう。


2009.05.16 更新