いつでも、いつまでも


立花仙蔵は母親の顔を知らずに育った。
彼が生まれた時に母親はこの世を去り、大きな屋敷で父親と歳の離れた姉と一緒に暮らしていた。しかし、父親は仕事が忙しく家を空けることが多く、実際には姉と2人のことが多かった。
仙蔵は賢い子供で、姉が幼い自分の世話をしながら留守を守ることがいかに大変かを知っていた。そのため家を空ける父親のことを好いておらず、父親の話でへそを曲げていた。
縁側に座っていると、長い黒髪を揺らしながら姉のがやってきた。お盆には熱い緑茶と饅頭が乗った皿がある。

「仙ちゃん、お茶にしましょう」
「あねうえ、もう『仙ちゃん』というのは止めてください。もうわたしは7つになるのですよ」
「まだ7つでしょう?」
「あねうえっ!」
「手のかからない大人になったら呼んであげますよ」
「むぅ……」

くすくす笑いながらはお盆を床に置くと、綺麗に膝を折って仙蔵の隣に座った。
仙蔵に『熱いから気を付けてね』と言って緑茶を手渡しする。仙蔵はふーふー息を吹きかけながらコクリと一口飲んだ。上品な苦みが口の中に広がる。

「今日はお父様がお戻りになられますから、今晩は新鮮なお魚にしようと思うんだけれど……。もう、またそんな顔をして!」

幼い子供の眉間に皺が寄ってしまっている。はそっと仙蔵の頭を撫でた。それでもぶすっとした顔は戻らない。

「あねうえはちちうえのどこが好きなのですか?わたしにはわかりません。最近、戦で隣の国が焼けてしまったというのに、ちちうえは帰ってこないではありませんか」

仙蔵たちが住む隣の国では大きな戦が起き、国境では残党が村を焼いたという。そんなときでも帰ってこない父親に対して仙蔵は不満を持っていた。
は仙蔵の柔らかな頭から手を離し、庭を眺めた。が細かく手入れをしているため、春の花が少しずつ咲き始めている。

「お父様はいつもわたくしたちのことをお考えですよ」
「……そんなの嘘です」

小さく呟かれた声。少し間があったのは、心の奥で父親の面影を追いかけたいからだろう。

「戦が怖いのでしたら、わたくしが護ってあげますよ」
「な…?!」

からかうような笑顔に仙蔵は顔を真っ赤にした。

「怖いはずありません!わたしは、立花家の長男です。わたしがあねうえを護ってみせます!」
「まぁ!頼りにしていますね、仙ちゃん」
「だから、その呼び方は―――!」

怒った仙蔵が姉の方に向き直ると、は少し青い顔をして口元を押さえていた。ハッとなって仙蔵はの背中を宥める様に優しく擦った。

「すみません、気がつかなくて……。春とはいえ、まだ寒いですよね」
「いいえ、あなたが謝る必要はありませんよ。けほっ、けほ……」
「あねうえ、もう部屋へ戻りましょう」

仙蔵は姉の手を取った。白い手は氷のように冷たい。仙蔵がその手を握りしめると、は青い顔のまま薄く微笑んだ。

「でも、お茶を片付けないと……」
「そんなこと、わたしに任せてください。さぁ、部屋へ行きましょう」
「ありがとう…」

は小さな弟に支えられながら自分の部屋に戻っていった。姉の山百合の香りがふわりと仙蔵を包む。
は生まれつき身体が弱く、季節の変わり目になると体調を崩していた。それでも仙蔵はまだ幼いため、家を空けてばかりいる父親の代わりに世話をしている。
仙蔵にとっては姉であり母親だった。そんな彼女の支えに早くなりたいと強く願っていた。
だからこそ、決断したのだ。

「忍者に……?」
「はい」

仙蔵が9歳になった頃、自分が忍者になりたいことと、忍者になるための学校に通いたいと打ち明けた。
正座をして姉の前にいると妙に緊張した。けれどもから視線を外すことはせず、まっ直ぐに見つめた。
は少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。

「いいでしょう。忍者になりたいと言うのなら、そうなさいな」
「姉上、本当ですか?」

意外な言葉だった。
誰よりも平和を愛している。自分の身にせんかが降り注ぐことはなかったが、戦の噂を聞くたびにその美しい顔を曇らせていた。
忍者も闇に生きる職業で、常に危険がつきまとう。が望むはずがないと仙蔵は思っていた。

「ただし」

正座して向き合うの表情が真剣なものに変わった。

「1つ、わたくしに誓いをたてなさい」
「誓い…?」

は深く頷いた。

「忍術学園に入学したら、卒業するまで家に戻ることは禁じます。わたくしと会うこともです」
「それは……」

思わず仙蔵が言葉を漏らした。長期休みにはせめて病弱な姉の手伝いをしたいと思っていたからだ。それに、これではが6年間もの間孤独でいなければならない。
仙蔵の戸惑いにがぴしゃりと言った。

「そのくらいの覚悟が無ければ、忍になれまんよ。それとも、諦めますか?」

まだ幼い子供にとって、親族に会えないというのは辛いものだ。
しかし仙蔵は覚悟を決めて、に両手をついて深く頭を下げると、瞳を閉じた。

「誓います」
「うん、よろしい」

次に顔を上げたとき、はいつものふんわりとした笑顔を見せていた。

「寂しくて泣いても知りませんよ」
「な、泣いたりしません!」
「本当ですか?」
「当然です!私は男子ですよ!これも誓います!」
「ふふ……。あ、文は送ってきても良いですよ」
「本当ですか?」
「もちろんです。わたくしも仙ちゃんの様子は知りたいですから。わたくしも送りますね」

ふと、あることが仙蔵の脳裏に浮かんできた。

「あの、姉上……」
「何でしょう?」

遠慮がちに仙蔵は言った。

「私からじゃなく、姉上からは会いに来てくださるんでしょうか…?」

自分でも屁理屈のような甘いことを言っているのはわかっていた。
は切なそうな笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね、それはきっとできないわ。わたくしの身体では……」
「あ……、申し訳ありませんでした」
「気に病むことはありませんよ。だけど…」
「?」

はきゅっと胸の前で手を握った。何かを心に決めたかのように。



「在学中にあなたに会うことがあるとすれば、それは―――」



の細められた瞳が、仙蔵の目に焼きついた。
















深夜、長屋の自室で眠っていた仙蔵は目を覚ます。月明かりが薄っすらと部屋を照らしていた。
横になっている仙蔵の頬に優しく触れる感覚があった。突然のことだったが、仙蔵は目を少し見開いただけで再び細めた。触れている相手の思うままにさせたまま、こう言った。

「姉上……、いつこちらにいらっしゃったのですか?」
「ほんの少し前ですよ。良く気づきましたね」
「もう学園に入学してから6年も経つのですから、当然です」
「ふふ、そうですか」

はくすりと笑う。同時に山百合の甘い匂いが漂ってきた。とても懐かしい香り。
この場に同室の文次郎がいなくて良かったと仙蔵は思った。きっと文次郎は今頃外でギンギンに鍛練をしているだろう。

「しばらく見ない内に、随分と大きくなりましたね。それに逞しく、美しくなったわ」
「そんな……、姉上の方が美しいですよ。全く変わっていませんね」
「お世辞も言えるようになったのですね。仙ちゃんは亡くなったお母様に良く似ています」
「そうですか」
「そうですよ」

2人の声だけがこの部屋に響いていた。

「父上はどうしていますか?」
「お健やかですよ。あなたが卒業するのを楽しみにしていらっしゃいます」
「……信じられません」
「まぁ!相変わらずお父様のことは良く思っていないのですか?」
「そんなことは……ありませんよ」
「そうですか」
「そうですよ」
「ふふ……」
「はは……」

先ほどのやり取りの繰り返しを思い出して2人は同時に笑った。
昔は感情的になって父親のことを嫌っていた仙蔵だが、成長すると同時に父親の気持ちも理解できるようになっていた。娘のことも大切に想っているが、一家を支える柱として働かなくてはならないことも。
は枕元に座ったままで仙蔵の髪に触れながら薄く微笑みを浮かべている。まるで昔の思い出を紐解く様に。

「仙ちゃん、覚えていますか?9歳の頃、あなたは忍者になりたいと言っていましたね」
「ええ、覚えていますよ。懐かしいです……」

仙蔵も懐かしそうに目を細めて笑みを浮かべた。思い出すと自分がいかに子供だったのかを思い知らされて、頬が自然と赤くなってしまいそうになる。
仙蔵はあのとき聞けなかったことを思い切って聞いてみることにした。

「……姉上」
「はい?」
「なぜ、あのとき、姉上は反対されなかったのですか?私はてっきり、忍者になることを反対されるとばかり思っていました」

仙蔵を見下ろしていると目が合った。慈愛に満ちた視線が送られている。は両の手で仙蔵の頬を包んだ。

「反対した方が良かったですか?」
「いいえ!そんなことはありません。賛成してくださって、嬉しかったです」
「それ、ですよ」
「え……?」
「あのとき……幼いあなたの目が、真剣に認めて欲しいと訴えかけていましたから。それならもう、賛成するしかないじゃないですか」





どこの世界に、弟を戦場に出したいと思う姉がいるだろうか?





「本当は、寂しかったんですよ?」

そう照れ臭そうに呟いたに仙蔵は目を大きく見開き、そして横になっていた身体を起こした。夜着の襟を整え、姉の前に正座して向かい合う。あの日と同じように。
は、自分の背丈よりも大きくなった弟の成長を嬉しく感じているようだった。

「遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございました。姉上は、私にとって1番誇り高い女性です」

そう言って深くその場に両手をついて頭を下げた。長い黒髪が肩を滑る。

「わたくしの方から一方的にあなたの誓いを破らせてしまったのに?」
「いえ……、姉上に再びお逢いできて嬉しいです」





在学中にあなたに会うことがあるとすれば、それは―――





「……仙蔵、あなたがこれから生きる世界は、決して明るくはないでしょう」
「はい」

少し低くなった声が仙蔵に降ってくる。

「わたくしがもしあなたと他人だったのなら、血を浴びて生きるあなたのこと…を軽蔑しているかもしれません」
「はい」

そっと頭を垂れる仙蔵の頭に小さな熱が触れる。

「でも、あなたが望んで決めたことをわたくしは止めません。わたくしはあなたの姉なのですから」
「はい……」
「あなたが例え全身を赤く染めたとしても、誰かの命を奪ったとしても、わたくしは……あなたの暗闇に光があることを祈っています。いつでも、いつまでも」
















仙蔵が顔を上げたとき、丁度部屋には朝日が満ちていた。そして、白い光の中にの姿はどこにもいなかった。





―――わたくしが、世を去るときでしょう。





ぐしゃりと敷布団を力いっぱい握りしめた。握り締めた手が震える。

「姉上……姉上も約束を破ったのですから、私も、良いですよね……?」

戸が開き、朝日がめいいっぱい部屋に入って来た。同時に現れたのは鍛練帰りの文次郎だった。制服である緑の忍装束は汚れて灰色になっていた。額には鉢巻があり、そこには苦無が2本無意味に刺さっていた。

「今日もまた完徹しちまったぜ……って、おい、仙蔵?」

いつも文次郎が部屋に戻ると仙蔵は布団の中で眠っている。だが、今日は起きている上にどこか様子が変だ。
仙蔵の俯いた両目から大粒の涙が零れ落ち、敷布団に黒い染みを作っていく。もう止めることはできなかった。込み上げる感情に任せ、仙蔵は声を殺して泣いた。

「お、おい……仙蔵……っ?」

普段ならどんなに辛いことがあっても泣き顔など見せない級友に文次郎は焦った。だが、仙蔵は恥を感じることも無く、ただ静かに泣き続けた。
仙蔵から漂う山百合の香りは、まるで彼を護るかのように包みこんでいる。
そして、の死を伝える文が届いたのは、5日後の夕方のことであった。


2009.01.18 更新