めぐる


寒い。





暗い。





早く帰らなければ……。





早く帰って、コレを……。





もう一度、アイツに触れたい。





もう一度、アイツに触れたい。





触れたい。





……」














いきなり肩を掴まれたは驚いた。薄暗いこの蔵の中には彼女1人しかいないはずだったのに、いつの間に人が入ったのだろう。
きっと、10歳になったばかりの弟が自分を驚かせようとしたに違いない。そう思ったは、ずれてしまった眼鏡を元の位置に直しつつ振り向いた。

「え……?!」

先ほども十分驚いたというのに、は再度驚いてしまう。
やんちゃで悪戯大好きな弟だとばかり思っていたのに、そこに立っていたのは見ず知らずの少年だった。よりも年上で、十代半ばくらいだろうか。獣の毛を連想させるふさふさとした長い髪を1つに束ね、頭に花緑青の頭巾を被っている。同じ色の、まるで忍者のような格好をした少年の姿は今の世から随分と浮いている。少々筋張った腕には黒い手甲を着けており、足元も良く見れば黒い足袋だ。
明らかにここにいるはずのない人物の出現で、はかなり動揺した。呆けている少年にすぐさま疑問をぶつける。

「だ、誰ですかあなた?!」
「おっ?あれ?お前こそ、いきなり現れてなんだ?ここはどこかの寺の蔵のはずだろう?」

少年もこの状況が良くわかっていないらしく、首を傾げてしまっている。

「確かにここはうちのお寺の蔵ですけれど……。っていうか、いきなり現れたのはあなたの方でしょう?!私はずっとここにいたんですからね」

中学生になって初めての夏休みに入り、は母の実家である寺にやって来ていた。盆シーズンは寺への出入りが激しくなるため、毎年手伝いに来ているのだ。蔵からお客様用の大皿を取って来て欲しいと祖父に頼まれ、は昼間でも薄暗い蔵に入った。そして現在に至る。それを説明すると、少年は益々変な顔をした。

「わたしは忍務の帰りで……、あれ?その後どうなったんだっけ……?とにかく、何やかんやでここに入ったんだ。それで気付いたらここにいた」
「全然わからないんですけれど……。だいたいニンムって何ですか、ニンムって。その格好も、まるで忍者みたいですよ」
「何だお前、忍者を知らないのか?」

少年は自分の忍び装束の襟元をぐいっと引っ張って見せる。

「忍者は知ってますけれど、テレビの中でしか見た事ありません。実際にそんな格好でうろついてる人なんて普通いませんよ!今を何時代だと思ってるんです?もう西暦2010年なんですよ?」
「は?!何時代って……、お前こそ何の話をしているんだ?わたしは、わたしのいた世界は―――」
「ちょ、ちょっと?!」

少年は言いかけたまま薄暗い蔵から飛び出してしまった。慌てても後を追いかける。蔵の外は真昼の太陽がギラギラと降り注ぎ、一瞬目が眩んでしまう。一度目を閉じ、目が慣れてきた頃に再び瞼を開けると、少年の後ろ姿が見えた。彼はだらんと肩を落とし、目の前にある寺の本堂を見て唖然としていた。

「いつの間にこんなにデッカい寺が出来たんだ?わたしが知っている寺はもっとちっこくて……。ああ?!それに、景色もわたしが知っているのと全然違うぞ?!さっきと全然違う!」
「え?さっきって……何言ってるんですか?ここはずっとこんな風になってますよ」
「何がいったいどうなってるんだ???」
「…………とにかく、私とあなたは一度話し合う必要があるみたいですね」

2人はまた蔵に戻り、お互いに状況を整理した。2人の話は互いに信じられない内容だった。

「―――って事はつまり、あなたはずっと昔の室町時代の人間だって事ですか?」

少年は現代よりも600年前の世界から来たらしい事を証言した。
室町時代といえば戦国の世。現代とは違い、領地争いが頻繁に起きていた頃だ。少年はその当時の忍者の見習いをしていたらしく、だからそのような格好をしていると言う。

「室町時代が何なのかは知らんが、わたしがいた世界とここは全然違う。だから多分お前の言ってるので当たっているんだろう」

少年は胡坐をかいたままで深く頷いた。彼の前で正座しているもとりあえず納得するように努力した。

「あなたとは初対面ですけれど……、あなたが嘘を言っているようにはなぜか思えないので、そういう事にしましょう」
「その『あなた』って呼ぶの止めてくれ。わたしは七松小平太って言うんだ。よろしくな!」

向日葵のような明るい笑顔を向けられ、はきょとんとしてしまう。先ほどまでうんうん唸っていたとは思えないくらい、サッパリとした気持ちの良い笑顔だったのだから。
は少し目を細めて笑うと、再び真面目な顔に戻った。

「じゃあ七松さん、ここに来るまでの記憶ってどんな感じですか?何か覚えていないんですか?」
「それがだな、あまり思い出せないんだ。忍務の途中……いや、帰りだった気がする。そのときにこの蔵へ入ったんだよ。理由は良くわからないけどな。で、気付いたらお前が目の前にいたってわけだ」
「うーん……全く良くわからないです。私も気付いたら七松さんが後ろにいたって感じでしたし。結局全然わからな―――」
「あああああああああ!?!?!?」

突然小平太は勢い良く立ち上がって蔵中に響く声で叫んだ。目を大きく見開いて頭を抱えたかと思うと、今度は自分の着物の襟合わせに手を突っ込んだ。何かを探しているらしく、手を忙しなく動かすが目的の物にぶつからない。着物の上からバンバンと叩くが、やはり結果は同じだった。

「いったい何ですか?!」
「確かにここに入れてたのに!無い!!」
「ええっ?!?」

焦りを滲ませ、きょろきょろと自分のいた場所を見回すが、やはり目的の物は見つからないようだ。さらに小平太は蔵の中にきちんと並べてある家具やら食器などに手をかけた。古びた箱が飛び、酷い音を立てて床に落ちていく。それを目の当たりにしたは声にならない悲鳴を上げた。

「落ち着いてください!何が無いんですか?」
「簪!簪だ!」
「簪……?」
「そう簪だ!アイツに贈ろうと思って買った簪が、無いんだ!」

まるでこの世の終わりでも来たかのような、青い顔になってしまった。先ほどまでの明るい表情は消え失せ、冷や汗が出ている。良く見ると、足元には大きな黒い染みが出来ていた。

「私も一緒に探しますから、とにかく落ち着いてください。蔵が壊れます!」
「あ、ああ、わかった……」

の気迫に気圧されて小平太は蔵を物色(という名の破壊)を止めた。元の位置に胡坐をかいて座る。もホッと胸を撫で下ろした。

「お前は簪見なかったか?」
「いえ、見ていません……。どんな簪なんですか?」
「べっ甲の、向日葵の簪なんだ。銭を貯めてやっと買ったのに……!」
「アイツって言うのは?」
「わたしと恋仲の女だ。付き合ったばかりで、贈り物の1つしていない事を長次に言ったら怒られてな……。わたしもそれではいけないと思って買ったわけだが、どうやらここには無いみたいだ」
「大切なものなんですね、簪」
「わたしが大切なのは簪じゃなくてアイツだ」
「!」
「今頃……どうしているだろうか……」

大切な恋人の事を想っているのか、小平太は大きく溜息を吐いた。このまま帰れなくなれば、恋人も心配するだろう。それ以上に悲しむ事になるだろう。
は意を決して前に乗り出した。

「あのっ、私も探すの手伝います。だからそんな顔しないでください」
「本当か?!すまん!助かる!!」

小平太はの申し出にパッと明るい顔になった。見ているこちらまで嬉しくなる笑顔である。

「拾われたなら、きっとアンティークショップとかにあると思うんです。一応警察にも行ってみます。誰かが届けてくれているかもしれないですから」
「けいさつ?良くわからんが、わたしも一緒に行くぞ!」
「でも一緒に来たら―――」

一緒に街を歩き回るには不都合な格好を彼はしている。忍装束など誰も着ていないのだから。
そのときだ。ふと足元を転がり出てきた小さな丸い鏡に、は声を奪われる。古いものだが、曇りのない鏡を見た瞬間、は視線を外せなくなってしまった。

「どうかしたか?」

外へ出ようとしていた小平太の声に、は我を取り戻す。
ざわつく心臓を抑えつつ、小平太にぎこちない笑顔で答えた。

「何でもありません。今行きます」
「そうか?」

小平太はの態度に疑問を持ちつつ、蔵から出て明るい陽の光を浴びた。
は蔵を出る前に落ちている鏡を肩越しに見つめ、小平太の後を追った。















小平太の無くした簪を求めて2人は夏の強い日差しの中を歩き続けた。まず最初に警察へ行って事情を話したが、そのような落し物は預かっていないと言われた。
べっ甲という高価な素材の簪ならば、拾った人間が買い取ってくれる店に売ったとしてもおかしくない。そう思って今度はリサイクルショップやアンティークショップを探して回った。

「残念だけど、そういう簪は見ていないなぁ」
「そうですか……。ありがとうございます」

店主の言葉に肩を落とし、は店の外へ出た。ひんやりと冷たかった空気が、生温く暑い風に当てられる。

「どうだった?!」

店の外で待っていた小平太に、は首を横に振った。小平太は『そうか……』と一言呟き、拳を握り締めた。

「お前も疲れただろ?少し休憩するぞ」
「はい、ありがとうございます」

既に5件の店を回っており、この酷い暑さに体力を削られてしまっていたは、小平太の提案に頷いた。
狭い路地に入って少し歩くと、裏道にこじんまりとした昔ながらの駄菓子屋がある事をは知っていた。その駄菓子屋の直ぐ隣にある竹で出来た長椅子に2人で座った。丁度木陰になっているため、いくらか涼しい。駄菓子屋に設置されている年期の入った扇風機がぶーんぶーんと音を立てながら回っていた。

「似たような簪は置いてありましたけれどね……」

べっ甲で出来た簪は回った店の中にいくつか置いてあった。けれどもそれを見ては小平太の首が横に振られる。

「なかなか見つからんな」
「はい……」

蝉がうるさく鳴いている声が響き、の心は重くなった。

「この時代は―――」
「え?」
「この時代は、未来は、平和なんだな」

脈略も無く、小平太はそうポツリと呟いた。小平太の横顔は、遥か遠くの自分のいた世界を思い出しているのだとわかった。

「ここにいる人たちは皆笑顔で、誰も争っていない。悲しい顔もしていない」
「そういう時代になったんです。私が生きている現代では」
「わたしがいた忍術学園は、ここと同じくらいのんびりとした空気が漂っていてな、毎日走り回っていた」
「楽しい生活だったんですね」
「でも、忍術学園の外は常に戦が起きていた。わたしは忍者の卵だったから、色々な城に忍び込んだり戦場を駆け回った」
「忍者してますね」
「一応な!」

小平太はニカッと白い歯を見せる。背の高い入道雲が浮かぶ青い空を見上げて、目を細めた。

「どんなに賑やかな町でも、入り口付近にはいつも戦で家を無くしたやつらがたむろしていてな……。どうにか助けたかったが、わたしにはどうにも出来なかった。アイツも戦で家族を失った経験があったから……」
「……ごめんなさい」

は小平太の話を聞いて謝罪の言葉を口にした。意外な発言に小平太は首を傾げる。

「どうしてお前が謝るんだ?」
「だって……、私は何も言う事が出来ませんから。それに、七松さんは悔しいんでしょう?」
「え……?」

は苦しい小平太の想いを代弁しているかのように、ぎゅっと拳を握り締める。

「自分じゃなくて、この平和な時代に恋人さんを連れて来たいって思ったんじゃないかって……」
「?!」

は生まれたときから平成という時代でしか生きてこなかった。誰もが笑顔で生活できる平和な世界しか知らない。戦乱の世に生まれた小平太が、これまでどんな気持ちで生きてきたのかもわからない。もしかすると、聞いても理解出来ないかもしれない。
小平太はきっと自分よりも、家族を戦争で無くした恋人がここにいない事を悔しく思っているはずだと撫子は思った。
小平太は小さな少女の心遣いに胸を震わせると、優しい兄のような表情に変わった。そっとの頭を撫でてやれば、は目を丸くする。

「お前はアイツに似ているな」
「え……?」
「真面目で、嘘が苦手なところがそっくりだ!それに、わたしのために良くここまで探してくれたな。ありがとう」
「……っ?!」

は小平太の言葉に一瞬目を大きく見開き、それから口元を震わせながら口を開いた。

「あ、あのっ!七松さん……!」
「ん?何だ?」
「……あなたは―――」
「はいはいちょっとごめんなさいね」
「「?!」」

が声を発する前に駄菓子屋の店主であるお婆さんが、たちの前に水を撒き始めたのだ。バケツに入っている水が柄杓で撒かれる姿は何とも涼しげである。
だが、小平太にとってそれはどうでも良い事だった。小平太はお婆さんに目を奪われた。正確にはお婆さんの白髪頭に飾られている簪―――べっ甲で出来た向日葵の簪だ。小平太は勢い良く立ち上がって指をさす。

「わたしの簪だ!」
「えぇ?!これが?!」
「そうだ!間違いない!わたしが失くしてしまった簪だ!!」

思わぬ場所で簪が見つかり、もまた心臓が跳ね上がった。

「あの、すみません、お婆さん」
「なんじゃ?水かかったりしちゃったのかい?」
「違います!その簪、いったいどこで……?!」
「ああ、これかい?」

べっ甲で繊細に造られた簪に触れながら、お婆さんは記憶を探り出す。

「先週、骨董屋で見つけてねぇ。気に入ったから買ったんだよ」
「それはわたしが落としたものだ!返してくれ!」

小平太は必死になって訴える。もそれに続いてお婆さんに向き合った。

「お婆さん、それは大切な簪で探していたところなんです。お金は払いますから、返してくださいませんか?」
「まぁ、そうだったのかい。こんな暑い中大変じゃったろう……」

お婆さんは神妙な顔つきになり、の訴えに耳を傾けてくれた。そして団子にしていた髪から簪を引き抜くと、それをに手渡した。が財布を取り出そうとすると、お婆さんは首を横に振って拒否した。

「お金なんていらないよ」
「え?でも……っ」
「ああ、探していた物なんだろう?だったらそのまま受け取りな」
「あ、ありがとうございます!」
「ありがとな、婆さん!」

予想もしなかったところから目的の物が見つかり、2人は心底驚きながらも安堵した。は見つけ出した簪を小平太に手渡す。小平太のごつごつしたマメだらけの手に、美しい簪が陽の光に当たって輝いた。

「見つかって良かったですね、七松さん」
「ああ!本当に―――」
「……七松さん?」

小平太は簪を穴が開くんじゃないかと思うくらいじっと見つめたまま動かなくなってしまった。小平太の様子にが心配そうに声をかける。だが、小平太は全く動き気配が無い。ただただ簪を凝視している。

「七松さ―――」
「お嬢ちゃん、言い忘れておったわ」

店に戻ったと思っていたお婆さんが顔を出し、にこう言った。






あまり独りで喋っていると変に思われるから、止めておきなさいね





お婆さんが店に戻ると、は咄嗟に小平太から視線を外した。そして、ぶるぶると震えて青い顔に変わる。
小平太はそんなに優しく語りかけた。掌にある簪を、大切に握り締めて。

「お前は気付いていたんだな……。わたしが既に死んでいるってこと
「…………、はい……っ」

は顔を上げる事が出来ず、俯いたまま隣に座っている小平太に頷くだけで精いっぱいだった。小平太が今いったいどんな顔をしているのか、知るのが怖かった。

「…………さっき蔵にいたとき、あなたの姿が落ちていた鏡に映っていなかったんです。私は結構そういうものが視える体質なんですけれど、七松さんの事はあまりにハッキリと視えたので……最初は全然気づきませんでした」

は子供の頃から普通では視えないはずの死者の霊を視る事が出来た。大抵が半透明で、視れば直ぐに人間か否かを判断出来るのだが、小平太の事はどういうわけか鮮明に視えたため、そこにいるべき存在ではない事に気付けなかった。
蔵の中で転がっていた鏡には、小平太の姿は映っていなかった。それは即ち、彼がこの世の者ではない証明だった。だが、には直ぐその事を言えなかった。

「小平太さんは、自分が死者である事に気づいていなかったみたいでしたから……。言えなくて……」
「そうか……」

恐る恐る小平太の方を向くと、彼の横顔は絶望ではなくただ寂しさが張り付いていた。簪を握る手に力が籠った。

「さっき、この簪を受け取ったときに思い出した。わたしは忍務の帰り道、山の中で夜盗に襲われている親子を助けたんだ」

小平太は簪に触れた途端、脳裏に強いショックを受けた。次々に思い浮かぶ映像が自分の記憶である事を察知し、そして理解した。
夜盗の罵声、親子の怯えた顔、暗い夜道に吹く風、そして―――

「わたしはあのとき、背後にまだ敵が残っていたのに気付けなかった」

自分の腹部に風穴が開いた事を思い出した。
刺された当たりに触れる。そこに傷も出血の痕も無かったが、確かに小平太は自分が刀で刺された。夥しい量の血が流れ出たのを、今では鮮明に思い出す事が出来る。流れ出す血の脈打つ音が今も聞こえてきそうに思えた。蔵の中で足元にあった黒い大きな染みは、きっとそのとき小平太が流した血なのだろう。

「簪を絶対に手渡すまで死ねないって思って、わたしは走った。走って、走って、走って、どこかの寺にあった蔵へ身を隠した。それから……目の前が暗くなって、目を閉じる瞬間に……アイツにもう一度触れたいと思ったんだ」

手を伸ばした先にいたのは、全くの別人だった。
はただ黙って小平太の話を聞いていた。でも俯いたりはしなかった。涙が零れて小平太を困らせてしまうと思ったから。

「色々気を遣わせたな。すまなかった」
「そんな事ありません!私の方こそ……なかなか言い出せなくてごめんなさい」
「気にするなって!」

小平太は明るく白い歯を見せて笑った。出会ったときと同じように。
けれども、口に出したりしないが小平太はもう簪をあげる相手がいない。それどころか、自分さえ存在しないのだ。ようやく見つけた簪が寂しげに見える。
ついに涙が決壊してしまい、はポロポロと涙を零した。

「おわっ!?おい、泣くなよ、な?わたしなら大丈夫だから」
「でも……!」

が泣き出し、小平太はどうしたものかと悩んだ。
は涙で眼鏡が汚れないようにフレームに手を掛けて外す。

「……七松さん?」
「お前……まさか……っ!?」

小平太はの顔を凝視し始めた。丸いこげ茶色の目に見つめられ、しかも泣き顔を見つめられているは慌てて目元を乱暴に拭った。

「いったいどうしたんですか?」

の問いに小平太は答えなかった。けれども小平太は何かを悟ったように『そういう事だったのか』と呟いて、満足気である。

「いや……何でもない。それより―――」

そっと大きな手を伸ばすと、小平太はのポニーテールの髪に触れた。優しく小鳥にでも触れるかのような手つきで、向日葵の簪を挿した。

「それ、お前にやるよ」
「あ、あの?!でもこれは、七松さんの大切な人への贈り物でしょう?!受け取れません!」
「…………ホント、そういうところもそっくりだな」
「え……?」

くしゃっとおかしそうに笑う小平太には疑問符で頭がいっぱいになってしまう。小平太は両手での頬を包みこみ、額をそれと合わせた。

「良く似合ってる。その簪はお前に相応しい。だから、お前に貰って欲しいんだ!」
「七松さん?!」

小平太の身体が光の粒子に包まれて徐々に消えていく。は咄嗟に叫んだ。けれども小平太はその事を気に留める様子も無く、ただ最期のそのときまでを見つめ続けた。





「ありがとう、!わたしはずっとお前を見ているからな!」





小平太はその言葉を残し、の前から姿を消してしまった。蝉の鳴く声が一段と大きくなり、は長椅子から立ち上がる。周りをいくら見渡しても、あの笑顔はどこにも無い。もうどこにも。
は小平太が残した簪に触れてみる。確かに簪はの髪に飾られていた。確かにさっきまで小平太がいたのだと主張している。

「七松さん……、どうして私の名前を知っていたのかな……?」

は小平太に自分の名前を名乗っていなかった。
呼ばれるはずの無い名前を、彼は知っていた。
の問いに、もう誰も答えてはくれない。
けれどもは不思議とその答えを知っているような気がした。


2010.08.05 更新