花のかんばせ


術学園に4年生として編入をした斉藤タカ丸は、何とか6年生まで進学していき、卒業を間近に控えていた。つまり、これからプロの忍者として生きていかなければならないのだ。
もちろんプロの忍者にならず、実家の家業を継ぐ者も卒業生の中にはいる。タカ丸の父はカリスマ髪結師である幸隆だ。忍術学園に編入する前は、タカ丸も髪結いとして実家で働いていた経験がある。無理にプロの忍者になる必要は無かった。しかし、タカ丸は自分が抜け忍の子孫である事を知ったときから、プロの忍者になりたと思っていた。忍術学園を卒業するからには、当然プロの忍者として就職活動をすると決めた。
しかし、就職活動はなかなか上手くいかなかった。髪結いの道具を持ったタカ丸は鬼のように強かったが、忍者としての技術はプロの域と呼べるか微妙なところである。忍者は時として非情さも必要だ。しかし、タカ丸の性格は優しすぎる。それを見抜かれてしまい、採用試験に尽く落とされていた。
同じ4年生の滝夜叉丸達は次々に就職先が決まり、就職難民になってしまったのはタカ丸だけであった。
そんなタカ丸が唯一最終試験に残る事が出来た城があった。もう後が無いタカ丸は、この城に就職するしかない。

(ここまで頑張ってきたんだ!絶対に内定貰うぞ!)

椿が咲き乱れる庭の見える廊下を通り、タカ丸はある部屋通された。部屋には他に10人程度の忍者がいた。この中では1番タカ丸が若いようだ。
タカ丸が緊張で唾をごくりと飲み込んだとき、重い足音が聞こえてきた。タカ丸は慌てて居住まいを正す。現れた中年の男が上座に堂々と座った。城の殿様である。タカ丸達は頭を下げて迎えた。

「皆の者、わしがこの城の主だ。これより最終試験を執り行う」

これまで最終試験まで残った事が無いタカ丸は、心臓がバクバクと強く脈打っていた。しかもこの試験に落ちれば、卒業までに間に合わない。本当の就職難民になってしまう。そんなのは嫌だ。タカ丸は拳を握って、最終試験の内容に耳を傾けた。

「最終試験を始める前に、我が娘を紹介しなければなるまい」

城主の意外な言葉に一瞬受験者達はざわついた。城主の娘と言えば姫だ。なぜ最終試験で姫が登場するのかわからず混乱していると、上質な絹が畳を擦れる音がした。そして、音が止まる。

「皆の者、面を上げよ」
「「「?!」」」

城主の隣に座していたのは、妙齢の姫だった。絹の美しい打掛を纏い、背筋を伸ばした姫の佇まいは教養に溢れていた。
ここにいる全員が、姫を見るなり息を飲んだ。
しかし、それは姫が美しいからではない。

(顔に、大きな赤痣……)

姫の白い陶器と見紛う左頬。その左頬を覆い隠すように赤い痣が広がっていた。生まれつきなのか、病なのかはわからない。しかし、この赤い痣は誰が見ても致命的なものだとわかった。見てはいけないものを見てしまったと視線を逸らす者、奇異の目でまじまじと見つめる者など、反応は様々だ。しかし、姫にとってその態度はどれも居心地が良いものではないだろう。そろりとタカ丸が姫を見れば、『もう慣れている』と言わんばかりの諦めの表情がそこにあった。姫は心底つまらなそうな目をしている。

「我が娘、だ。最終試験では、この姫に化粧をしてもらう。そして、最も姫を美しくした者を城仕えの忍者として雇う事にする」
「なっ!?それは忍者として必要な試験でございますか?!」
「そうです!そのような試験、聞いた事がありませんぞ!」

口々に飛び出す不満の声。そして、ちらりと姫を見て呟かれる言葉。

「姫に化粧をしたところで……」

言い淀む理由を、もわかっているだろう。
受験者達の反応にため息を吐いたときだった。

「?!」

の視界の端に入ってきたタカ丸の表情に、思わず二度見してしまった。





タカ丸は、キラキラと眩しい目をしていたのだ。





「静まれ!化粧道具はこちらで用意してある。この試験を受けない者は去れ」

城主が言い放つと、渋い顔をしているが誰も去ろうとしない。それを試験開始の合図に、城主は侍女達に化粧道具を用意させる。

「姫の化粧は順番にやってもらう。そこの者、前へ出よ。まずはその者から姫に化粧をしてもらうぞ」
「はっ!」

全員が見ている中で、姫に受験者達は化粧をしていく。
忍者は潜入をするときに女装をする機会がある。化粧をした経験がある忍者もいる。
しかし、自分の化粧と他人に施す化粧は違う。勝手が上手くいかないのか、最初の受験者はまごついてしまった。まるで母親の化粧道具で遊んだ子供のような顔にしてしまった。

「失格だ。これでは姫を美しくしたとは言えない」
「くっ……」
「次!前へ出ろ」
「はっ!」

次の受験者は白粉を叩く手つきもなかなか慣れていた。だが、の赤い痣を前にピタリと手が止まる。白粉をこれでもかと多く取り、の頬に叩き込んでいく。は嫌そうに顔を歪めて耐えていた。厚く塗りたくり、赤痣は白粉の下に隠れた。

「殿、いかがですか?赤痣を消す事が出来ましたぞ!」
「失格だ」
「な、何故ですか?!」
「赤痣を白粉で消しても、厚く塗り過ぎている。これでは時間が経つごとにひび割れてしまう」

赤痣を消そうと白粉を厚く塗れば、ひび割れて醜い姿になってしまう。かと言って、白粉を薄くすれば赤痣が目立ってしまう。他の化粧を濃くして誤魔化そうとしても、やはり赤痣は際立って目立つ。
次々に受験者達はに化粧をしていったが、城主を納得させるような出来栄えにする事は出来なかった。

「次で最後か。姫に化粧をしてみせよ」
「はいっ!」

城主は諦めたように最後の受験者であるタカ丸を呼んだ。他の受験者達も、受験者の中で最も若いタカ丸が試験を突破出来るなど思っていない。
タカ丸が最初に手に取ったのは、白粉ではなく紅と紅筆だった。これにはも城主も、他の受験者達も目を見張る。
は正面に座ったタカ丸を見た。タカ丸はへにゃっとした朗らかな笑顔だった。そして、繊細な手つきで紅をの左頬に塗っていく。いや、何かを描いている。

「なっ、何をしている!?」
「姫様の顔に落書きなど……!?」

周りから非難の声が上がったが、タカ丸は手を止める事無くするすると迷いの無い筆遣いを披露した。
暫くしてタカ丸はコトっと紅筆を置いた。

「これで、僕のお化粧はおしまいです」

紅筆を使っただけの化粧だったが、目くじらを立てていた受験者達は感嘆の息を漏らした。姫の顔を見て城主も予想外の事に驚きを隠せない。
先ほどまでの周りの反応が全く違う事に、は戸惑いを隠せない。今の自分はいったいどんな姿をしているのだろうか?

「姫様、鏡をどうぞ」

にこにこと満足げに笑うタカ丸に鏡を差し出され、は鏡を恐る恐る除いた。
鏡に映る自分の姿に、は目を奪われた。
自分の知る醜い赤痣のある左頬。そこには、繊細で美しい椿の花が咲き乱れていた。見苦しい赤痣は紅で描かれた椿の引き立て役となり、上手く調和している。
奇異の視線を集めてきた赤痣が、今美しさの象徴として見つめられている。
興奮したように城主は立ち上がって言った。

「お前、名は何と申す?」
「さ、斉藤タカ丸です!」
「タカ丸よ、見事だ!白粉で赤痣を隠さず、逆にそれを惹き立てるとは天晴である!お前は今日からこの城の忍者だ。姫の警護、及び姫専属の化粧師に任命するぞ。良いな?」
「はっ、はい!!ありがとうございます!!」

タカ丸は心臓が破裂するほど高揚した。ちらりとを見れば、ずっと鏡の中の自分を見つめている。薄っすらと涙を滲ませた瞳が美しく、先ほどまでの険しくつまらなそうな表情はどこにもなかった。そして、タカ丸の方に視線を移すと、鈴を転がしたような声を響かせた。

「礼を言うぞ、タカ丸。真に見事な化粧だ。これから宜しく頼むぞ」

の微笑みは、左頬の椿のように美しかった。それが嬉しくて、タカ丸は頬を緩ませた。

「はい、様!こちらこそ、宜しくお願いします!」

これがとタカ丸の出会いだった。

















城の一室で、タカ丸は主であるに向き合い、柔らかな頬に触れていた。
肌の調子を確かめるように、丁寧に触れていく。それからいつものように薄化粧を施していくと、時折は擽ったそうに両目を細める。

(こんなに間近で様を見られるのは僕だけなんだよなぁ)

タカ丸が見惚れていると、はふっと柔らかな笑顔を浮かべた。普段家臣たちには凛とした表情を見せている姫が、自分を前にして柔らかい表情になる事をタカ丸は嬉しく感じていた。

「今年も庭に椿が咲いたな」
「うん」
「タカ丸がこの城に仕えるようになったのは1年前であったな。月日が経つのは早いものだ」
「そうだね。忍者に向いていないって言われてた僕が、忍術学園の4年生に編入して、たった2年間勉強しただけでお城の忍者になるのは難しかったなぁ。周りが就職決まっていく中、僕だけ置いてけぼりで、もう就職浪人するしかないと思ってたよ……」

当時を思うだけでタカ丸の心はズーンと重くなる。

「ふふ。ならば、私が忌み嫌っていたこの痣にも意味があったというもの」

姫は左頬に咲いた椿に触れる。
タカ丸がこの城で就職試験を受けたときから、紅を使ってに紅で花を描く事が日課になっていた。椿の他にも、牡丹やツツジなど、様々な花を描いてきた。出来栄えは日に日に増していき、その美しい花の下に醜い赤痣が隠されている事などわからない。

様、最初に会ったときはすごくつまらなそうな顔をしていたよ。楽しい事何て何も無いっていう感じの顔」
「実際何も楽しい事は無かったからな。父上は、私の醜い痣をどうすれば消せるのかで頭がいっぱいだった。家臣達は私の顔を見る事を忌み嫌い、私も嫌気が差して人前には殆ど出なかった。今思えば、愚かでつまらない事をしていたと思う。人生は一度きりだと言うのに」

懐かしそうには過去を振り返る。憂いはあるが、その表情に悲しみはもう無かった。

「私に見事な化粧をする事が最終試験だったな。父上の無理難題を言いつけられて、他の忍者達は臆していたというのに、タカ丸だけは目を輝かせていた」
「お化粧は僕の得意分野だったのもあるけれど、きっと様を笑顔に出来ると思ったんだ」
「私を、笑顔に?」
「うん。すごくつまらなそうな顔してたから、僕が笑顔にしてあげたいって思って……。あはは、何か恥ずかしいね」

語尾が徐々に小さくなっていき、タカ丸は恥ずかしそうに頬を掻く。
タカ丸の人の懐へ入り込む技術は本物だは痛感する。元々の朗らかさと思いやりが感じ取れた。

(あのときも、タカ丸は優しかった)

化粧が終わり、化粧道具を片付けているタカ丸に言葉をかける。

「私に化粧をした者達は、全員私の痣を隠そうとした。だが、タカ丸だけは違っていた。タカ丸はこの赤い痣を利用し、紅で花に変えてみせた。その発想はどこから来たのだ?」
様の痣は様自身のものでしょ?隠さなくたって良いと思ったんだ。隠せても、心は隠せない。絶対にいつかは表に出てきてしまうものだから、後できっと苦しくなっちゃうよ」

化粧でコンプレックスを隠せても、それは本当に隠した事にはならない。心はわかっている。あくまでもそれは隠せているだけで、消す事は出来ないと。

「そなたのお陰で、私は自分を好きになれた。ありがとう、タカ丸」
「お礼なんて、大袈裟だよ〜」

間延びした声で笑い、タカ丸はの背後で髪を梳き始める。サラサラとした絹糸のような黒髪は、タカ丸がこれまで手入れをしてきた賜物だ。
少しの沈黙があった後、は静かに語りだした。

「……私の母がこの城に嫁ぐ前、既に父上には御正室がいた。しかし、御正室との間には子が出来ず、母が側室として迎え入れられた。やがて兄上や姉上が生まれ、父上は大層喜ばれた。しかし、そのせいで御正室は役割を奪われた。蔑ろにされ、私が生まれる前に御自害されたと聞く。血に濡れた遺書には、こう書かれていた。『次に生まれるややには、醜い呪いをかける』、と」

は呪いのかかった左頬をゆっくりとなぞる。
タカ丸の髪を梳く手が止まった。背後から聞こえてくる声は硬い。

「……様、初めて話してくれたね。その痣の事。これまで一度も話してくれなかったのに、どうして?」
「…………タカ丸、済まない」

その謝罪だけで、タカ丸はの身に何が起きたのかを察した。サッとタカ丸の心に闇が下りてくる。どうにか喉奥から声を絞り出した。





「輿入れが、決まったんだね」





そう、姫は【醜い痣の姫】ではなく【花の美姫】と呼ばれるようになり、これまで痣のせいで諦めていた輿入れの話が舞い込んでくるようになったのだ。
元々美しい顔立ちをしていた分、紅で描いた花の化粧の効果は絶大で、輿入れ話はトントン拍子に進んでしまった。そして気づいたときには、もう直ぐ輿入れのために姫は城を出る。
は、タカ丸の質問に肯定しない。だが、否定もしない。

「これで最後だと思ったら……。この痣の話、自分からした事など無かったのにな。本当に、タカ丸の言うとおりだ。隠しているだけで、消せはしない。この気持ちは溢れ出て、苦しくなる……」
様……」
「本当に、苦しい……!」

タカ丸は衝動のままの華奢な背中を掻き抱いた。ふわっと白粉と紅の匂いが2人を包む。

「こんな事になるなら、僕は君にお化粧なんてしたくなかったよ。僕の腕の中にいてくれるなら、美しくない、醜い君でいて欲しかった……」

タカ丸とは心を通わせる関係になっていた。
いつもつまらなそうにしていたは、タカ丸と出会った事で人生に輝きを取り戻した。
タカ丸は、笑顔のを見られる事が嬉しかった。
それも、もう終わる。
自然と重なった唇。
最初で最後の口付け。

「戦国の世で、愛し合う人を見つけられた。それだけで、私は幸せであった。そうだろう?」
「…………」
「タカ丸、達者で暮らせよ」

はタカ丸の筋張った手に自分の白い手を重ねた。ビクッと強張る骨ばったタカ丸の手。直ぐにの手を握り締める。
は気づいていない。このとき、タカ丸がどんなに決意に満ちた表情をしていたか。















翌月、いよいよが嫁ぐ日がやってきた。前日より雨が降り続き、まるでこの輿入れを快く思っていないかのようである。はそんな考えにふっと笑いが込み上げてしまった。

(我ながら女々しい。一国の姫として生まれたからには、このような日が来るのは当然だと思っていたのに)

この城での最後の身支度は、全てタカ丸ではなく別に髪結い師と化粧師にやってもらう事にした。2人きりになる時間が多ければ多いほど、名残惜しく辛いものになると思ったからだ。

(想い人に花嫁支度をしてもらって送り出されるなど、笑えない)

小袖を脱ぎ、これから煌びやかな花嫁衣裳に身を包む。そうして何もかもを脱ぎ捨てて、は嫁いで行くのだ。

(タカ丸への想いも、いつか捨て去る事が出来るのだろうか?)

タカ丸との思い出を巡らせる。どれも楽しいものばかりで、逆に表情が険しくなってしまった。これから先、タカ丸との楽しい出来事は二度と訪れないのだから。
はタカ丸が姿を現す時を待っていた。永遠に来なければ良いと思う、その時を。

「失礼致します、姫様」
「入れ」

サッと戸が開く音がして、は振り返った。普段身の回りの世話をしてくれる侍女の信がいた。

「お信?」

てっきり髪結い師と化粧師だと思っていたので、は少し驚く。信は突然との距離を一気に詰めると、乱暴に片手で口を封じた。口に触れた手は女とは違う。タカ丸と同じ骨ばった男の大きな手だ。

(お信ではない!曲者……!!)

抵抗しようと腕を上げたつもりが、だらんと落ちてしまう。頭の奥が痺れてくらくらする。どうやら何か薬を仕込んでいたらしい。叫び声を上げようとして息を大きく吸ってしまったのが良くなかった。はもう考えをまとめられない。霞がかかった脳裏に浮かんだのは、タカ丸の顔だった。
殺される前に浮かんだ愛しい人の姿。我ながら本当に惚れていると、は呆れにも似た笑みを浮かべた。そして、の意識は闇に溶けていった。
それから間もなく、姫の部屋の方から絹が裂けるような悲鳴が響いた。

「きゃああ〜〜っ?!」
「何事だ?!」

駆け付けた中年の家臣は、信が腰を抜かして青くなっているのを発見する。

「ひっ、ひっ、姫様がぁ……!」

震えながら指さす方を見ると、姫が鮮血に染まって倒れていた。胸を一突きにされており、血がまるで咲き乱れる牡丹のようだった。この出血量では既に息は無いとわかる。

「何と……!?姫様、こんな惨い姿に……。誰か、曲者の姿を見ておらぬか?!」
「拙者、先ほど姫の部屋を慌てて出て行く忍者の姿を目撃しています!」

同じく姫の部屋に駆け付けた若い家臣が声を上げた。

「何?!忍者だと?!どこへ行った?!直ぐにでも追いかけねばならぬ」
「城の東へ逃げる様子でした!恐らく東門を目指しているのでしょう」
「油断ならぬ者だな。急いで兵を掻き集め、曲者を捕らえるのだ!」
「拙者は姫の部屋を封鎖します。輿入れという晴れの日に、このような惨たらしい最期、他の者達の目に触れさせるわけにはいきませぬ」
「うむ。任せたぞ」
「わ、私は直ぐに殿へこの事を伝えて参ります!」
「ああ、頼む。わしは兵達の指揮を取るぞ!」

中年の家臣は険しい表情で姫の部屋を飛び出していった。
続いて信も涙を袖で乱暴に拭い、姫の一大事を転がるように出て行った―――はずだった。

「……上手くいったな」

信はまるで男性のような低い声で一言呟くと、姫の部屋に戻って戸を素早く閉じた。若武者は外に気配が無いか耳を澄ましている。気配が無いを確認して、ほっと息を吐いた。
信は『全く……』と呟いて、事切れた姫の傍へ女性とは思えない大股で近づくと、べしっ!と頭を乱暴に叩いた。

「痛っ!?」

事切れているはずの姫が突然息を吹き返した。しかも、その悲鳴は少年と青年の境のようなものだ。叩かれた頭を抱えて呻いている。

「バカ、こんな状況で寝るヤツがあるかっ!起きろ勘右衛門!」

死んだはずの―――勘右衛門はむくれた表情で起き上がる。血まみれの姿とは打って変わり、とても元気そうである。

「叩く事無いだろ三郎!何か死んだ振りって暇だし、眠くなる」

信―――三郎は気だるげな勘右衛門の態度に腹を立てた。

「私の完璧な変装と死体偽装を前にして、その態度は―――」
「はいはい、止めて三郎。勘右衛門もね。まだ僕達はやる事あるんだからさ」
「それもそうだったな、雷蔵」
「さーて、もうちょっと頑張るか〜」

若武者―――雷蔵は立ち上がった。表情は穏やかだが、目にはプロ忍としての威厳と、かつての後輩を助けようとする真剣さが宿っていた。
















ガタガタと木が揺れるような音で、はもう2度と取り戻せない意識を取り戻した。
一瞬眠気が過ったが、はっと目を見張った。隣を見れば、もう会えないはずのタカ丸の姿があった。どうやらタカ丸の肩に寄り添って眠っていたようだ。

「タカ丸!?」
「あ、目を覚ましたんだね」
「これはいったいどういう事だ?ここはどこだ?」

知りたい事が多過ぎて、にしては珍しく慌ててしまう。クスっと笑うタカ丸はと違って落ち着きを払っている。

「ここは荷馬車の中だよ。お城から脱出してもう一刻以上になるかな。小雨が降っているから、僕達の気配を消してくれていると思う。追っ手もいないよ」
「え……?」

は今タカ丸からとんでもない言葉を聞かされている。
荷馬車の運転席からタカ丸と同年代くらいの男性2人が声を掛けてきた。1人はタカ丸が怒り出しそうなバサバサの髪をした快活そうな者、もう1人は癖のある黒髪を靡かせた睫毛の長い者だ。

「オレ達、タカ丸さんの元先輩の竹谷八左ヱ門って言います!」
「オレは久々知兵助と申します。斉藤がお世話になっています」
「わ、私はだ」

独特とも言える雰囲気に押され、も思わず悠長に自己紹介をしてしまった。

「久々知くんも竹谷くんも、僕が忍術学園の生徒だったときの先輩で、今はプロ忍なんだよ。後3人先輩がいて、その人達にも城から脱出するために手伝って貰ったんだ」

何からツッコミを入れたら良いのかわからない。だが、とりあえずは思った事を順番に口にしてみた。

「私は曲者に殺されたと思ったのだが……」
「それは変装が得意な鉢屋三郎先輩だよ。お信さんに変装してもらって、様を眠らせてもらったんだ」
「私を城から連れ出す為とはいえ、そこまでするとは……」

正直はもう殺されたとばかり思っていた。曲者に襲われたと思い、背筋が凍る思いだった。
タカ丸はあくまで笑顔だったが、どこか寂しそうに言う。

「だって、様はきっと僕の提案に頷いてくれると思えなかったから。僕とは違って、大きなものを背負っている立場だし、責任感もすごく強いでしょ?」
「…………」

確かにはタカ丸に掛け落ちしようと言われても、絶対に頷かなかっただろう。髪結いの忍と逃げるなど許されない。一国の姫としての使命を果たさなければならないのだから。
黙ったままのに、タカ丸は不安を感じた。もしかすると、は自分と駆け落ちなどしたくなかったのかもしれない。自分の事を、そこまで愛していなかったのかもしれない。強い不安に緊張して手の平に汗が滲む。まともにの顔を見られないと思ったとき、タカ丸は自分の肩に再び重さを感じた。が身を任せてきたのだ。その表情は柔らかく、そしてどこか諦めに似た笑顔だった。

「知らなかったぞ、タカ丸。お前が一国の姫君を連れ出してしまうような根性を持っているとはな。私の負けだ」
「それじゃあ……!」
「私は、これから生涯お前だけのものだ。ありがとうタカ丸。私を連れ出してくれて」

タカ丸はぎゅっとの華奢な肩を抱き寄せ、満面の笑みで幸せを噛みしめる。危険な逃避行中だというのに、決して不安は感じなかった。

「これから先も、様にお化粧出来るのは僕だけだ。ずっと僕だけでいたい。君が嫌う顔の痣も、御正室の呪いも、全部僕が愛したい。愛してる。様―――ちゃん、僕のお嫁さんになってください」
「ああ、喜んで請け合おう。タカ丸と一緒なら、どこへでも私はついて行く」

は花のように咲き誇る笑顔でタカ丸に頷いた。の目じりには涙が光っている。
幸せオーラ全開の荷台に、馬を走らせている2人は顔を見合わせた。

「これで一件落着だな!つーか、殆どオレ達のお陰じゃねぇの?」
「一応姫の暗殺で城を掻き乱し、東門に敵を引き付けて、西門から姫を連れて脱出するっていう作戦は斉藤の提案だが。斉藤って正直忍者としての才能はからっきしダメだけど、人たらしの才には恵まれているよな」
「全くその通り。戦わずして勝つ!みたいな。タカ丸さんって放っておけない気持ちになるし、助けたくなる人なんだよな。三郎が人を手伝うってあんまり無い事だし」
「オレ達よりよっぽど忍者に向いてる」
「そうだな!あ〜、オレにも早く春が来ねぇかな〜?」

竹谷がくるっと振り返れば、羨ましいほどの愛が満ちている。

「あっ!?竹谷くん、久々知くん、狼煙が上がってるよ!」

外の様子を伺ったタカ丸が歓喜の声を上げた。狼煙は小雨の中でもゆっくりと上っている。

「おっ、勘右衛門達だな。上手く逃げられたらしい」
「やっぱり僕の先輩達はすごいな〜!僕もあんなプロ忍になりたい!」
「タカ丸は今のままで十分魅力的だぞ」
「え?」
「私には、1番輝いて見える」
「……!ありがとうちゃん!」
「「御馳走様でした」」
「「?」」

ちょっと恥ずかしそうにしている竹谷と久々知に、タカ丸とは首を傾げた。
は少しの沈黙の後、タカ丸の袖をくいっと引っ張った。

「……タカ丸、私の顔に花の化粧をするのはもう止めて欲しい」
「どうして?」
「もしも追っ手が現れた時、この化粧は目立ってしまう。……それに、もう私には必要無いものだから」

この痣に関係無く自分を愛してくれる人がいる。そう思えた今のは、とても晴れやかだった。それを察したタカ丸も、『そうだね』と言っての手を包み込むように握った。
花の美姫はもういない。しかし、それはとても優しく甘やかな終わり方。
のいた城では、こんな噂が囁かれている。『花の美姫は実は生きていて、愛する人と幸せになった』、と。


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