優しい人


私には忍術学園に通う兄上、文次郎がいる。学園一ギンギンに忍者しているという称号を得ている兄上は、夏休みに実家に帰ってきたのだが、そのとき授業で使う本を忘れて行ってしまったのだ。
仕方なく私は兄上に忘れ物を手渡すため、忍術学園へ向かっている。少し遠いお使いだが、兄上がどんなところで勉強しているのかを見るのも面白いと思う。
学園の門の前までやって来た。とても立派な門を潜ると、『事務』と書かれた布を縫い付けている男性が近づいてきた。人の良さそうな笑顔で、私に入門表を差し出してくる。

「こんにちは〜。入門表にサインをお願いします!」
「はい、わかりました」

私が『潮江』と受け取った筆で書くと、事務員さんは少し驚いたような顔になった。

「もしかして、潮江文次郎くんのお身内の方ですかー?」
「はい。妹のと言います」
「あんまり似ていないからびっくりしちゃったよ」
「そうですか?まぁ、兄はいつもクマがありますし、人相も良いとは言えませんからね」

妹である私も、あまり兄上と似ているとは思えない。っていうか、似て無くて良かった……。

「今日はお兄さんに会いに来たの?」
「そうなんです。兄が忘れ物をしたので、届けに来ました」
「そうなんだ〜。……あ、丁度良いところに!」

事務員さんが近くを通りかかった生徒らしい人に声を掛けた。くるっと振り返った人は、美しいストレートの黒髪を靡かせる。切れ長の瞳はどこか優美で、肌は私よりも白い。所謂イケメンというヤツだ。私も一応年頃の女の子なわけで、イケメンを前に少し緊張してしまう。

「何ですか、小松田さん」
「ちょっとお願いがあるんだけどね、この子を潮江くんのところまで連れて行ってくれない?妹さんなんだって」
「え、この子が……!?」

黒髪の彼は事務員さんと同じく驚いたように言った。『似ていない』と言わんばかりである。
私は頭を下げて『初めまして』と挨拶をした。

「それじゃ、お願いするね」
「わかりました」
「宜しくお願いします」

事務員さんと別れ、私は彼の後ろをついて行く。背中で揺れる黒髪がまた美しい。いったいどんな手入れをしたらこんなに美しい髪になるんだろう?

「文次郎は今校庭で鍛錬をしているところだ」
「そうですか。兄は学園だとどんな感じなんですか?」
「常に鍛錬をしている。昼間だろうと夜中だろうと関係ないという感じだな。夜中に鍛錬をしている姿は、まるで鬼だったと下級生が話していたよ」
「ふふっ、家でもそんな感じなんですよ」
「やはりそうか。そうじゃないかと思っていたんだ」
「家でもずっと忍者してるって感じなんです」
「それじゃ学園にいても実家にいても同じだな」
「はい、そうなんです」

他愛もない会話だったが、この人の優しさが伝わってくる。私を飽きさせないように話題を次々に出してくれた。私が緊張しているのがわかったんだろう。

「それにしても、文次郎にこんなに可愛い妹がいるとは思わなかった」
「えっ?!そんな……恥ずかしいです……」
「恥ずかしがる事は無い。本当の事だ」

突然不意を突かれて私は頬が赤くなるのを感じた。お世辞だと言い聞かせても、この熱は納まってくれそうにない。
私はどうにか話題を変えようと思い、兄上がいつも文に書いていたあの事を口にする。

「えっと、そういうえばですね、兄がいつも文に書いている事があるんですよ」
「何だそれは?」
「立花仙蔵さんという方の事なんですが……」

気のせいか、一瞬彼の顔が強張った。でも、今はこれまで以上に良い顔をしている。

「立花仙蔵が、どうかしたのか?」
「え?はい、同じい組の方らしいんですけれど、もし学園に来る機会があったら、絶対にその人に近づくなと言われているんです」
「……それはなぜだ?」
「実は、とても恐ろしい方のようです。ドSで、人をいたぶるのがご趣味だとか……。『これが作法だ』と言いながら、笑顔で人をおちょくってくる危険な男だから、見掛けたら全力で逃げろとも書いてありました。焙烙火矢の新作を試したいからと言って、その新作焙烙火矢を投げつけられたとか……。そんなに酷い人がいるなんて怖いです―――あの、どうかされましたか?」
「いや、何でもない。早く文次郎に会いたいと思ってな」
「?」

顔は笑っているのに、青筋が見えるような……。
校庭に行くと、そこでは1人袋槍を操っている兄上の姿があった。私は汗まみれになっている兄上を呼んで手を振った。

「兄上ー!」
?!どうしてここに?!」

私は驚いた兄上は手を止めて私に向き直る。私は兄上に忘れ物の本を手渡そうとするのだが、兄上が向き直ったその瞬間、兄上の顔が真っ青になるのを見た。

「これ忘れ物―――あ、兄上……?」
「せっ、仙蔵……!?」

え?『仙蔵』?
ま、まさか……。

「文次郎、お前の可愛い妹に私の事を色々教えてくれたようだな……」

振り返ると、そこには鬼の形相で兄上を睨みつけているイケメン―――仙蔵さんがいた。兄上が言っていた通り、地獄からやって来た鬼のような恐ろしさだ。私も思わず怯んで後ろへ下がった。

「仙蔵、どうしてお前が妹と一緒にいるんだ……?!」
「そんな事はどうでも良い。それより、私の事をある事無い事色々話してくれたな……。もちろん、覚悟は出来ているんだろう?」

仙蔵さんは、兄上の持っていた袋槍をもぎ取ってベキッ!と良い音を立てて圧し折る。これから起きる自分の運命を暗示しているかの光景で、兄は震え上がった。私も先ほどまでの仙蔵さんと全く違う姿に腰が抜けてしまいそうだ。

「は、話せばわかる!話せば―――ぎゃあああああああーーーーッ!?!?

私は兄の悲鳴が聞こえている間、顔を覆い隠していたので何が起きたのかはわからない。けれども耳から入ってくるおぞましい音は、その分私の恐怖心を掻き立てた。
恐ろしい……。この人は本当に怖い人だ。
私は立花仙蔵という男の恐ろしさを心底実感した。

「ぐふぅ……」

兄上はギタギタにされて地に平伏した。仙蔵さんの怒りはようやく納まったらしく、『全く……』と呆れたように呟いた。それからハッとなって私に振り返る。私の心臓は跳ねた。兄上はともかく、私の身が危ない……!

「これは、その……」
「い、いやああああッ!!」

私は脱兎ごとく、その場から逃げた。
無礼を働いた兄上の妹となれば、無事では済まないかもしれない。私はとにかく仙蔵さんの姿が見えなくなるところまで走った。
直ぐにこの学園から出た方が良い。もう用事は済んだのだから、ここに長居しても仕方がない。私は門を目指す。ところが、急に雲行きが怪しくなってきた。

「あ、雨?!」

いや、小雨だったら走ってでも家に帰る……!そう思って再び一歩踏み出したとき、ザーーーーっと桶を引っ繰り返したみたいな雨が降って来た。
仕方なく私は校舎の中に避難する。

「帰れないか……」

このまま走って家に帰れば風邪を引いてしまうのは間違いない。
重くなってしまった髪にパサッと手拭が掛けられた。誰か親切な人が気を利かせてくれたみたいだ。私はお礼の言葉を述べる。

「あ、ありがとうございま―――きゃああ?!」

私がお礼を述べた人物は、仙蔵さんだったのだ。流石忍者……全く気配を感じなかった。

「そのままでは風邪を引くぞ」
「あ……ああ、あ、ありがとうございます……!」
「お、おい!」

私はそろりそろりと後ろへ下がって距離を取り、そのまま廊下を走って逃げた。さっきの事、まだ怒っていないとも限らない。廊下を走るのははしたない事だが、それよりも自分の身の安全が最優先だ。
















雨が一層激しくなり、結局私は学園長の御厚意で忍術学園に一晩お世話になった。その間も仙蔵さんが何かと気にかけてくれたのだが、はっきり言って怖い……。私は仙蔵さんと距離を取りつつ、顔を引きつらせながらも笑顔という壁を作った。
朝になり、雨はようやく上がった。これなら今日は家に戻れそうだ。
朝食の時間になり、私は食堂へ向かう。賑やかな食堂はどこもかしこも人が座っていて、私が座れそうな席が見当たらない。

「おい、
「あ、兄上!」
「こっちへ来い。オレの隣なら空いているぞ」

良かった、立ち食いせずに済みそう。私はおばちゃんから受け取った朝食を持って兄上の隣へ急ぐ。

「良かった、空いているところあって……」
「私もここで食べても良いか?」
「?!」

そう声を掛けてきたのは仙蔵さんだ。確かに私の向かい側の席は空いている。ここで断ったら、どんな事をされるのかわからない……。私は無言で頷くしかなかった。

「仙蔵、が怯えるから他を当たれ!」
「私に立ち食いをしろと言うのか?」
「そんな事は……っ。仙蔵さんも、ここで召し上がってください」
「それは助かる」

仙蔵さんは私の向かいの席に座り、朝食を食べ始めた。作法委員会の委員長をしているだけあって、食べ方がとても美しい。魚の食べ方なんて、私が恥ずかしく感じるくらいだ。
チラッと目が合い、私は慌てて視線を逸らした。失礼な態度を取った私の事は気にしていないのか、仙蔵さんは私に笑いかける。

「今日で帰るのか?」
「えッ、あ、そうです……。もう天気も良くなりましたし、長居するのはご迷惑になりますので……」
「それならば、私が送って行こう」
「えぇ?!」
「山賊が出るという噂もある」
「オレの妹だ。オレが送って行く!」
「お前はこの後忍務があるだろう?」
「うッ!?」

頼みの兄上は忍務で行けないらしい……。私は泣きたい気持ちになった。

「食べ終えたら学園長に挨拶をして行くぞ」
「は……はい……」

どうやら逃げ道は無いらしい……。
朝食後、私は仙蔵さんと一緒に学園長へお別れの挨拶をしに行き、学園を出た。私は仙蔵さんよりも斜め後ろを歩き、とにかく無言に徹した。何か余計な事を言って怒らせてしまうのは怖い。仙蔵さんはときどき振り返って私の様子を見た。その度に心臓が跳ね、慌ててしまう。

「そんなに驚かなくても良いだろうに」
「いえ、私の事は気になさらず―――」
「それより、私から離れるな」
「えっ?」

仙蔵さんがいきなり私の手を取り、引き寄せる。そしてもう片方の手は刀の柄に伸びた。

「仙蔵、さん……?」

状況がわからず、私はあたふたするだけだった。
すると木陰から3人の柄が悪そうな男たちが躍り出て来た。手には物騒な刀や斧を持っている。山賊だ……!

「おい、そこの優男。娘を置いて消えろ」

何かすごく物騒な事を言っていますが……。

「お前たち、この辺で娘を攫っている山賊だな?」
「だったらどうする?お前には娘を渡して逃げ帰る以外に選択肢は無いぞ?」
「今回の娘は上玉だなぁ」
「これは高く売れそうだ」

ニヤニヤ笑う男たちに私は背筋が冷たくなる。捕まれば最後、私は遠いところへ売られてしまう……。

「断る。この娘は、私の級友の大切な妹だ。差し出すわけにはいかん」
「だったら……てめぇを殺してでも奪うまでよ!」
「「うおおおおーー!!」」
「きゃあああーーっ!」

斬りかかってくる男たちに私はただ悲鳴を上げる事しか出来なかった。
仙蔵さんは私を後ろへ隠しながら、男の振り上げた刀を受け止め、弾き返した。弾き返された方は意外だと言わんばかりに驚いたが、直ぐに斧を持った男が襲いかかってくる。

!木の陰に隠れろ!急げ!!」
「は、はいっ!」

私は言われた通り気の陰に隠れ、ハラハラしながら様子を窺う事しか出来ない。だが、仙蔵さんは刀を操って男たちの攻撃を避け、手裏剣を打つ。打った手裏剣は男たちの手の甲に命中し、武器を零した。それを逃さず、仙蔵さんは蹴りをお見舞いした。

「ぐはッ?!」
「うえっ?!」
「ぐっ!?」


仙蔵さんの蹴りは男たちの腹部に直撃し、一瞬震えたかと思うと、その場に倒れた。そして動かなくなってしまう。
仙蔵さんは刀を鞘に戻す。私は思わず駆け寄った。仙蔵さんの身体に触れて怪我していないかを確かめる。

「だ、大丈夫ですか?!怪我はしていませんかっ?!」
「ああ、何ともない。口ばかりで腕は大したことのない男ばかりだ」
「よ……良かったぁ……」

安心したら気が抜けてしまった。でも、怪我が無くて本当に安心した。

「私が怖くないのか?」
「あ……」

気づくと自分から駆け寄り、仙蔵さんの身体をベタベタと触ってしまっている……。我に返って私は慌てた。でも、仙蔵さんは優しく笑った。

「それなら良い。が心配してくれて嬉しかったぞ」

今思うと、仙蔵さんが兄上に怒ったのは当然だ。自分の悪口を身内に言っていたとなれば仕方ない。それに、雨に濡れた私に手拭を貸してくれた。道中歩いていたときも、何度も振り返って私の歩く速さに合わせてくれていた。そして、怯えていた私を許してくれた……。





優しい人。





「あの、仙蔵さん……ごめんなさい。私、仙蔵さんの事を誤解していました……」
「誤解?」
「仙蔵さんは私の事ずっと気遣っていてくれたのに……。さっきだって、私の事を命懸けで護ってくれました。本当にありがとうございます」
「当然の事をしたまでだ」

仙蔵さんは私の頭に手を置き、優しく撫でる。

「文次郎からの話を聞いていた。そのときから、ずっとお前と話をしてみたいと思っていたところだ」
「え……?」

兄上がいったいどんな話をしたのかが気になるけれど、つまり仙蔵さんは私の事を前から知っていたって事……?
仙蔵さんは少し恥ずかしそうに笑う。

「会った事もない相手だから、一目惚れ以前の問題だな。だが、私はこうしてに会えた事が嬉しい。私が思った通りの子だ」
「思った通り、って……」
「『見ていて飽きない、可愛らしい子』という意味だ」
「?!」

ストレートな好意に私の頭の中は熱で真っ白になっていく。だけど、すごく嬉しく感じている自分がいるのも確かで……。
兄上の事を仙蔵さんが『義兄上』と呼ぶ日は近いのかもしれない。


2012.09.08 更新