恋風邪


食堂でが久々知の風邪を耳にする8時間前、5年い組の2人は真夜中の実習を終えて学園に帰って来た。草木が寝静まる時間帯だけあり、寝むたそうに目を擦る。

「は〜今日も疲れたなぁ。な、兵助」
「ああ、そうだな。予定よりも時間がかかってしまって―――」
「よ、お2人さん」

5年長屋の部屋から顔を出したのはボサボサ頭を適当にまとめた竹谷だった。その後ろには雷蔵と三郎もいる。3人共既に寝間着姿だ。

「まだ起きていたのか」
「今日実習があるって聞いたからね。お腹空いてるかと思ったから、軽い物用意しておいたよ」
「雷蔵、気が利く!」
「おい、私も作ったんだぞ」
「オレもな」

勘右衛門はパッと顔を綻ばせた。実習は夕食を食べた後とはいえ、身体を動かせば腹は空いてくる。
勘右衛門は雷蔵が手にしているおにぎりを受け取り、大口を開けて頬ばった。ところが、久々知はその横を通り過ぎてさっさと自分の部屋へ戻って行く。

「兵助?食べないのか?」

勘右衛門が米粒を飛ばしながら問いかけると、頭巾を解いて床に落とす。

「確かに腹は減ってるけど、今眠らなければ明日が辛い。オレはこのまま寝るよ」
「せっかく雷蔵たちが待っててくれたのに―――」
「ははーん、なるほど、そういう事か」

三郎はニヤリと笑って久々知の様子を窺う。久々知は三郎の意味有り気な笑顔に嫌な予感がしたが、平常心を装い汚れた上着を脱いだ。
三郎だけが理解している、などという状況は面白くない。そう感じて竹谷は三郎に問いかけた。

「おい、何1人で笑ってるんだよ?」
「明日は委員会があるだろう?」
「…………あ〜〜〜〜はいはいなるほどなるほど、そういう事か」
「委員会、かぁ」
「委員会、ねぇ」
「あはは、そっかそっか、明日は委員会だった」
「……何が言いたいんだ?」

久々知以外の全員がニヤニヤし始める。久々知は視線の針で突き刺されまくり、拳を握っている。しかし、当人もいったい何を言わんとしているのはわかっていた。わかっているからこそ、この視線にイライラするのだろう。

「何?言って欲しいのか?では言ってやろう」
「ズバリ、寝不足で委員会に出られず、ちゃんに会えなくなると困るからもう寝るんだろ?!」
「!?」

勘右衛門に止めとばかりに図星を突かれ、久々知は羞恥心に塗れる。否定の言葉を叫んでしまいそうになるが、今は夜中だ。ぐっと喉奥に押し込めて堪える。
は火薬委員会に所属している後輩のくのたまだ。更に言えば、久々知が密かに想いを寄せている相手である。密かに、というには語弊がある。密かに想っている事は既に5年生の間では知れた話で、だけが知らない状況だからだ。
堪えてしまった久々知の態度を肯定と受け取ったのか、竹谷はバンバンと久々知の肩を強く叩く。

「ったく、さっさと熱いその胸の内をガツーンと伝えろよな!」
「余計なお世話だ。八左ヱ門にとやかく言われる筋合いはないだろう」
「いいや!友達として放っておけん!」
「ハチ、声が大きいよ。夜中なんだからもっと小さい声じゃないと……」
「あ、悪い悪い」
「とにかく、余計な手出しは無用だ」
「じれったいんだよ。見てるこっちの身にもなれってんだ」

三郎がまたしても妙案を思いついたらしく、ポンとわざとらしく手を叩いて見せる。

「わかった!それなら、いっそ私があの子に伝えてやるよ。うん、そうだそれが良い。我ながらナイスアイディアだ」
「は?ちょっとお前、何を言ってるんだ」
「おーそれは良いな。三郎、オレも参加するぜ」
「止めろ、そんな事しなくて良い……!お前たちが加わったらややこしくなるに決まっている!」
「遠慮するなよ。私たちが一生懸命伝えてやるからさ★」
「そういうところで一生懸命さを出すな……!」

これ以上話が発展すれば、自分が告白する前に全てが玉砕してしまい兼ねない。そうなればと永遠に会話も出来なくなる可能性も出てくる。それだけは絶対に避けたい。
久々知は忍務後にも関わらず、俊敏な動きで三郎に詰め寄った。襟元をぐっと掴み、鬼の形相で睨みつけた。

「とにかく、に余計な事を吹き込むようなら、オレは容赦しない」
「おー怖い!だが、やるなら受けて立つぜ」
「そして、その間にオレが代わりに告白してきてやるよ!」
「だから、それが余計なお世話だと言っているんだー!」

久々知は話の通じない竹谷に向き直り、拳を繰り出す。それを合図に、真夜中の攻防戦が始まってしまった。















「―――で、こうなるわけだ」
「ごほッ、ごほ!」

勘右衛門が咳き込んでいる久々知を笑って眺めた。久々知は首まで布団を被り、風邪によって出てしまった熱に苦しんでいる。汗で額にへばり付いた黒髪が鬱陶しく見えた。

「まさか兵助が喧嘩で池に落ちるなんて、誰も思わないだろうなー」
「…………」
「い組が聞いて呆れるような喧嘩の内容だったしなー」
「…………」

全てが勘右衛門の言う通り過ぎて、久々知は反論出来なかった。いや、それ以前に熱に魘されて言葉が出なかったとも言える。
勘右衛門はポンポンと軽く布団を叩く。

「ともかく風邪をちゃんと治さなくちゃね」
「ああ……。げほッ……」

こんなにみっともない姿をの前に晒していないだけ幸いと久々知は思った。

(に知られる前に―――というのは無理だろうな。夜中に色々騒いでしまったし……。せめてこの寝込む姿を晒さないようにしなければな)
「兵助が少しでも早く元気になれると良いな!」
「あ、ああ……?」
「というわけで、入ってきてよちゃん」

久々知が何かを言う前に、戸がスッと開いた。僅かに出来た隙間から覗くつぶらな瞳は、様子を窺うようにキョロキョロしている。久々知は戸の向こうに誰がいるのか直ぐにわかり、毛穴から汗がどっと出た。

「えっ?あの、本当に入っても大丈夫ですか……?」

やはりその人物は今久々知が会いたくないだった。普段の久々知なら、人が立てば直ぐにわかるというのに、風邪を引いて感覚が鈍っているらしい。
は中に入る事を戸惑っているらしく、小さな声で問いかける。勘右衛門は

「いつまでもそこで迷っているようだったから気になってさ。まぁ入って。ちゃんがいた方が、風邪の治りも早いだろうし」
「勘右衛門……っ、ごほ!」
「それじゃ、お邪魔しますね……」

勘右衛門を咎める声は、咳で掻き消された。は戸を完全に開き部屋に入ってきた。手には盆に乗った土鍋がある。

「それじゃ、後はごゆっくり。ちゃん、兵助の事宜しくね」
「え?あ、はい、わかりました」

深い意味があるとは知らず、は部屋を出て行く勘右衛門に返事をした。勘右衛門の背中を不満そうに久々知は追いかけたが、戸の向こうに消えてしまった。
は勘右衛門の横に並んで久々知を心配そうに見つめる。

「久々知先輩、お加減はいかがですか?食堂でくのたまの子が、久々知先輩が風邪を引いたと言っているのを聞いたので……」
「ああ、ごほっごほっ……別に大した事は無い。明日には動けるようになるよ」
「そうですか?それなら安心しました」
「そういえば、授業はどうした?」
「今日は山本先生が出張なので自習です。……本当はここにいちゃいけないんですけどね」

自習は授業ではないものの、教室にいなくてはならない。基本的に真面目であるが、こっそりと見舞いに来るとは意外だった。

「ところで先輩」
「何だ?」
「久々知先輩が池に落ちるなんて思いませんでした。いったい何で喧嘩をしてしまったんですか?」
「ぶっ?!」
「せ、先輩……?!大丈夫ですか?!」

不意打ちに久々知は思わず噴き出してしまう。久々知はガバッと上半身を起こし、改めてを見た。

「げほっ!もしかして、さっきの勘右衛門の話……」
「話が聞こえてきたものですから。久々知先輩が池に落ちるほどの事ですから、よほどすごい事で揉めてしまったのかなと思いまして……」
「…………」

どう返したら良いのかわからず、久々知は口を噤んでしまう。想い人―――の事で揉めたなど、口が裂けても言えなかった。羞恥に耐えられず、憤死してしまうだろう。
久々知は答えにまごついたが、溜息を1つ吐いて髪をくしゃっと掻き上げる。

、お前は部屋に帰れ。ここには来るな」
「!」

は一瞬動きを止め、やがて少し震えながら俯く。

?」

どうしたのかと久々知が覗き込むと、は瞳に涙を溜めていた。

……!?ど、どうしたんだ?何で泣く……!?」
「ご、ごめんなさい、何でもないんです」

は手の甲で滲んだ涙を拭った。しかし、それでも涙が込み上げてくる。

「私が自習をせずにここへ来た事……先輩は怒っていらっしゃるんですよね?ごめんなさい、私……先輩の事が心配でっ、だから……」
、誤解しないでくれ。ごほ……っ」
「先輩?」
「確かに帰れと言ったが、決して怒ったからじゃない。むしろ……ごほ、お前が見舞いに来てくれて……、嬉しかった。ありがとう」
「本当ですか?」
「ああ。だが、ここにいつまでもいたら風邪を移してしまう。そういう意味だ」
「そう、ですか……。良かったです。先輩に嫌われたらって思ったら……すごく悲しくなってしまって……。驚かせてごめんなさい」
「あ、ああ……」

さっきとは打って変わって可愛らしい微笑みを浮かべるに、久々知は内心ときめいてしまった。

(は笑うと本当に可愛いらしい。いや、泣きながら震えている姿も護ってやりたく―――って、意識を飛ばしている場合じゃないだろう!良く考えれば、と2人きりという状況は初めてだな……)

普段は委員会会う事が多く、そのときはいつも傍に第三者がいた。と完全に2人きりになる事は、今回が初めての事。久々知は急に熱が上がったような気がした。

「そうだ先輩、差し入れを持ってきました。朝食をまだ食べていないと聞きましたから」

気持ちを上手く切り換えたは、土鍋の蓋を開ける。するとそこには湯豆腐が入っていた。昆布出汁の仄かな香りが鼻腔を擽る。

「湯豆腐か」
「はい。先輩はお豆腐がお好きでしたので、湯豆腐にしました。消化にも良さそうですし」

豆腐が大好物である久々知にとって、これはただの病人食ではない。さっそく食べようとすると、はレンゲで豆腐を崩し、一口分を乗せて久々知の口元へ運んだ。

「久々知先輩、口を開けてください」

これは、所謂あーんしてもらうという状況だ。久々知はの予想外の行動に心臓が跳ねた。

「げほっげほごほっ!いや、オレは自分で食べられるぞ」
「本当は起きるのもお辛いはずです。私が食べるのを介助しますよ」
「いや、そうではなく……」
「私相手に遠慮しないでください」

どうやらはあくまでも病人を介助するという意味での行動らしい。しかし、久々知はどうしてもそれ以外の意味を思い浮かべてしまう。どうすれば良いのか迷っていると、は『ああ、そうでした』と声を上げた。

「熱いですよね、まだ出来てですから。ふー、ふーっ……」
「?!?!」

は自分の口元へレンゲを運ぶと、湯気立つ湯豆腐を冷ましにかかった。の吐息が吹きかけられる様子を見せつけられ、久々知は全身の血液が顔に集まるのを感じた。咄嗟に顔を片手で覆い隠し、の姿を視界に入れないようにする。

「久々知先輩?」

は久々知の態度にきょとんとしてしまっている。風邪を引いているから、耳まで赤くなっている事は誤魔化せる。赤い顔のまま、久々知はどうすべきか思案を巡らせていた。

「先輩、まさかお豆腐が嫌いなんて事は―――」
「それだけはない」
「なら良かったです。さ、食べてください。このままだと冷たくなってしまいます」

スッと差し出され、久々知は観念したように大きく口を開けて待つ。はニコニコと笑いながら久々知に温かい湯豆腐を食べさせた。味なんてわからないくらい久々知は緊張し、さっさと飲み込む事に専念する。今日というこの日を久々知は生涯忘れないだろう。

「美味しいですか?」
「ああ……ごほっ、美味かったよ」
「それ、湯豆腐ですから誰が作っても失敗なんてしませんけど、私が作ってきたんですよ」
「ぶっ!?」

てっきり食堂のおばちゃんが作ってくれたものとばかり思っていた久々知は、またしても不意打ちを食らって噴出してしまう。が作ったものを食べるなんていうのは初めての事だ。しかも自分の大好物である豆腐だ。不味いはずがない。
いきなり噴出した久々知の背中を優しくは撫でた。

「大丈夫ですか?!気管支に入ってしまったんでしょうか?」
「そうじゃないんだ……。が作ってくれたという事に驚いただけだよ」
「私、料理出来ないように見えますか……?」
「いや。の料理を食べる事が出来たから……その……、嬉しかった。げほっ、良かったらまた作ってくれないか?」
「っ!はい、もちろんです!今度はもっと凝ったお豆腐料理を作りますね」

は嬉しそうに微笑み、久々知はそれを見て胸がじわりと熱くなった。そして、自然とへと手が伸びる。触れた頬は滑々としていて、爪を立てたら直ぐに傷つけてしまいそうだ。久々知は優しい手つきでに触れる。は目を大きく見開いて、久々知の行動を見つめるしかない。


「は……はい……」
「昨日、三郎と八左ヱ門と喧嘩をしてさ、それで池に落ちたんだよ」
「そうですか。でも、どうして喧嘩を……?」
「お前にオレの気持ちを代わりに伝えてやるって言われたから」
「久々知先輩の気持ち……?」

はそこまで呟いて、何かを察したようにハッとする。けれどもまだ確信は持てないのか、口をまごつかせているだけ。久々知はそんな風にうろたえているも愛しいと思う。

「そう、オレの気持ち。だけど、今それを言うわけにはいかない。こんなみっともない格好では言いたくない事なんだ。だから、オレの風邪が治ったら真っ先に打ち明けるよ。それまで誰のものにもならずに待っていてくれ。頼む」

は久々知より一回り小さな手を振るわせながら、それを久々知の手に重ねる。ぎゅっと頬を押し当てれば、の体温がより伝わってきた。とても熱い。

「ま、待って……います、ずっと!だからっ、早く元気になってください……!!」

の頬は可哀想なくらい真っ赤に染まり、同時に久々知の唇は弧を描く。そしては、小さく『先輩の風邪が移ってしまいました……』と呟いた。


2012.03.23 更新