
久々知の許婚が事故死して、1週間が経った。
学園の関係者や生徒たちは、それぞれに久々知のことを心配した。久々知にとって、許嫁のが何にも代えられない大切な存在であったこと。それは、誰もが知る事実であるからだ。
しかし、久々知はたった3日で目に光を取り戻し、1週間経った今では暗く沈んだ面影はまるで無い。だが、おかしなことはそれだけではない。
「兵助……」
「ああ勘右衛門、1週間の忍務お疲れ」
座学後、勘右衛門は気まずそうに久々知を見ている。青くなっている顔色はまるで病人のようだ。
勘右衛門は、が事故で死んだことがわかる少し前に忍務で外へ出ていた。
ようやく今朝学園に戻り、竹谷たちを通してが死んだことを知ったのである。
勘右衛門もまた久々知との関係を良く知っていたので、久々知の心境を思うと胸が痛んだ。だが、その痛みも本人に比べれば痛みになど入るはずもない。
友人として何と声をかければ良いのか迷い、口を開いては閉じる。先に久々知が声を発した。
「いったいどうしたんだよ?何か言いたい事でもあるのか?」
「さんのことだけど……、亡くなったって……聞いて……」
どんどん語尾が小さくなり、ちらっと勘右衛門が久々知を見ればきょとんとしている。
「兵助?」
勘右衛門が呼びかけると、少し困ったように笑ってこう言った。
「って誰だ?」
勘右衛門は耳がおかしくなったのかと思った。
あの久々知が、を知らないはずがない。己の大切な許婚を忘れるはずがない。
「おい、今のは何の冗談だ……?さんはお前の許婚だろ?!」
「は……?オレに許婚なんていないぞ。いったい誰がそんなことを言い出したんだ?」
「兵助っ!!」
「わっ?!」
勘右衛門はガシっと久々知の肩を掴み、今にも泣きそうなくらい顔を歪めている。肩を掴まれた久々知は、益々首を傾げてしまう。
「兵助……お前、さんを失ったショックで記憶が無くなったんだな?!」
「はぁ?オレはなんて人は知らないし、頭だってハッキリしてる!」
久々知は勘右衛門の手を退かし、怪訝そうに眉を寄せた。
「いや……、嘘だろ?あんなに好きだったさんを忘れるなんて……ありえない」
「オレはお前の言っている方がありえないんだが……」
どうも話が噛み合っていないと感じた久々知は、誤解を解こうと口を開いた。その瞬間、久々知はとても幸せそうに笑う。
「オレはとかいう人じゃなくて、が好きなんだ」
まるでの事を言うかのように、久々知は本当に幸せそうに笑った。
あの夜から、久々知は変わった。あたしのことを好きにさせることで、さんに対する気持ちや記憶が完全に消えていた。
恐らく、さんを失った、身を裂かれるような辛さが反動になっているのだろう。さんとの思い出を無かったことにしてしまいたいくらい、久々知はショックを受けているんだ。
あたしが身体に受けた苦痛なんていうのは、あって無い様なもの。自分にそう言い聞かせて池の前に突っ立っていると、池に人影が浮かんだ。直ぐあたしの隣で。
「、こんなところにいたのか」
「竹谷……。それに不破も鉢屋もどうかした?」
あたしはなるべく平静を装いながら彼に向き直る。3人共不安や疑問を滲ませた目をしている。
「兵助のことなんだけど、何か知らないかな?」
「何かって何?久々知がどうかしたの?」
「何かって、お前は今の兵助を見て何も思わないのか?」
三郎がイライラしたように眉を吊り上げる。隣の不破とはまるで別人のような顔だ。まぁ別人なんだけど。
あたしは多少なりとも考える振りをする。
「……そうね、確かに今の久々知は変よ。あれだけ好きだった許婚のさんのことを忘れてしまっている」
「だろ?!あんなにさんさんって言ってたヤツが、亡くなって直ぐに忘れるなんておかしいだろ?!」
竹谷たちは久々知を励まそうとして色々話しかけたらしいが、久々知はさんのことをすっかり忘れていた。まるで、最初からいなかったかのように。
「最初は僕たちも冗談だと思ったんだ。だけど、兵助に何回聞いても知らないの一点張りだった」
「本で読んだことあるけれど、きっと久々知は辛過ぎる現実から向き合えず、さんのことを自己防衛で忘れちゃったんじゃない?あのままずっと覚えていたとしても、そう簡単に心の傷は癒えてくれないだろうし……」
そうだ。いつまでもズルズル嫌な事を引き摺って覚えているより、いっそ忘れてしまった方が本人の足枷にならない。
でも、竹谷は納得出来ないらしく、拳を強く握り締めた。
「だけどっ、辛いからって忘れて良いわけねぇ。さんとの思い出は、楽しいことだってたくさんあったはずだ。辛いからっていちいち忘れていたらこの先もっとおかしくなっちまうだろ……」
「今の兵助、ただ逃げているだけだと私は思うがな」
「あたしは、久々知と5年も一緒にいたアンタたちより久々知のことは知らない。でも、記憶から消してしまいたいと思うくらい辛い気持ちはわかる。あたしにも…そんな記憶があるから」
お母さんの浮気もこの赤い糸が視える目は、あたしにとっては耐えがたい事だ。今言ったように全て無かったことに出来たらと何度願ったか……。でも、今尚あたしは左手に結ばれた糸によって浸食が続いている。縛られ続けている。
「ところで、どうしてあたしにそんなこと言うわけ?あたしが久々知と何の関係があるって言うのよ?」
あたしも久々知とは友達だけど、そこまで親しいわけじゃないというのに。
「そ……それは……」
「お前、1週間前の夜に兵助の部屋にいただろう?」
「三郎っ!」
三郎は何の躊躇うことなくそう発言した。それを不破は咎めるように名前を呼ぶ。しかし、三郎の目はあたしに疑問を遠慮なくぶつけてくる。
あたしが黙っていると、三郎は畳みかける様に問い質す。
「兵助の部屋から、朝早くお前が出てくるのを見たヤツがいる。その日から兵助の様子が―――」
「久々知はあたしのことが好き。そう言いたいんでしょ?」
あたしがそう口を開けば、動揺した様子で3人は顔を曇らせた。あたしは相手を小馬鹿にするように嘲笑う。
「久々知はあたしのことを好きになったんだって。だから、あたしは抱かれたのよ」
夜の出来事が一瞬脳裏に浮かび、あたしは奥歯を噛んだ。手が震えてしまうのを必死で抑えこむ。
「久々知はさんのことを忘れて、あたしを好きになった。そうすることで、苦しさから解放されようとしているのよ。それの何がいけないの?いつまでも、これから先、ずっと、久々知に苦しさを味わえって言いたいわけ?」
「そうじゃねぇよ!お前はそれで―――」
「だったら何?!」
ぴしゃん!と異論を撥ねつけてやれば、3人の顔は強張った。
「笑えるようになった久々知が、また笑えなくなっても構わないの?」
あたしのせいでこんなことになってしまったのに。
「あたしは……そんなの嫌よ」
あたしにはこれくらいしか出来ないっていうのに。
「……」
「何?」
竹谷が太い眉を下げて悲しそうに言った。
「お前、本当は―――」
久々知は心配する勘右衛門から離れてを探していた。に早く会いたくて小走りになってしまう。のことを考えると胸が異様に高鳴った。
あの夜からずっと、に恋い焦がれ、見える全てが希望に満ち溢れて見えた。
(のヤツ……どこに行ったんだ?)
廊下から中庭を見ると、と竹谷たちが池の前で何かを話しているところだった。久々知は声を掛けようとして口を開きかけたとき、が長い前髪を振り乱して叫ぶ声が耳に飛び込んで来た。
「違う!そんなこと絶対にありえない!!」
は竹谷たちに背中を向け、くのたま長屋の方へと走り去ってしまう。一瞬を追いかけそうになったが、久々知は庭に下りて残された3人に駆け寄った。
「おい、お前ら!」
「あ、兵助……」
「に何を言ったんだよ?!」
理由は全くわからないが、が竹谷たちによって傷つけられたと決めつけ、久々知は怒りを露わにした。その普段とは全く違う久々知の怒り方に3人は溜め息を吐く。
「別に何も言ってねぇよ」
「嘘をつくなよ!があんなに大声出すなんて変だ」
久々知がいきなり頭ごなしに怒鳴るなんて、今まで無かったことだった。
記憶が無いだけではなく、まるで別人にでもなかったかのようにさえ見える。
「兵助は本当にさんの事を忘れちゃったの?」
「いったいなんだよ……。皆オレの事を見るとさんさんって……。オレはっていう人は知らないし、今はそんな事よりもの方が大事だ。お前たちが話さないなら、オレはもう行く」
「兵助!?」
を追って駈け出した久々知は、黒髪を靡かせて行ってしまう。名前を呼んだ雷蔵は三郎に肩を叩かれて振り向く。三郎は首を軽く横に振った。
「何だか良くわからねぇけど、とりあえずが関わっていることは確かだろうなぁ」
「のんびり言ってる場合じゃないよ三郎。兵助もそうだけど、あの様子じゃあむしろ……」
「ああ。の方が……ずっと傷ついているみたいだった」
竹谷は自分の言葉を思い切り否定したの事を思う。久々知が笑うのと反比例しての顔色は暗くなるばかりだ、と。
あたしは、竹谷たちから逃げるようにくのたま長屋へ戻った。同室の友達は朝から先生に呼ばれて今朝からいない。本当に良かったと思う。
あたしは力無く膝を崩して床に座り込む。息が上がってなかなか整わない。胸に片方手を当てれば、ドクリドクリと鼓動が伝わってくる。そして、小指の赤い糸がゆらりと揺れた。
久々知はあたしのことを好きになった。いや、あたしが強制的に糸を結んで好きにさせた。他の人からすれば、突然久々知が心変わりして異常見えるのだろう。
でも、あたしは間違っていない。あのまま久々知がさんの死に縛られて、精神も肉体もボロボロになってしまうところは見たくない。
そう、見たくない。何もおかしくなんてない。
あたしは、久々知の友達、なんだから。
「!いるか?!」
「久々知?!」
久々知がまさかここへ来るとは思っていなかった。久々知は半開きの戸に手を当てて開くと、あたしの直ぐ傍に座った。友達としてしか見ていなかった頃を思うと、考えられないくらい近い距離であたしは驚く。
「大丈夫か?何かアイツらに言われたのか?」
「何でも無いわよ。少し……あたしがイライラしてただけ。それより離れて。近いわ」
「あ……、ごめん」
久々知はわかりやすく傷ついた表情に変わった。そして、あたしの言う通りにあたしの傍から少し離れる。友達だった頃と同じ距離である。
あたしが、久々知をこんな風に変えてしまったんだ。久々知に、久々知の大切な友達である竹谷たちを疑わせ、あたしを最優先にさせている。
「でもオレ……のことが心配だったんだ」
「どうして?」
と問えば、とくんと糸が更に赤く染まる。同時に久々知も頬を赤らめて拗ねる。
「……オレはが好きだって、あのとき何回も言っただろう?」
久々知の言う通りで、あたしを抱いた久々知は何度も何度もバカみたいにあたしのことを好きだと言った。
本当にバカみたい。
バカは、あたしだというのに。
「……今更かもしれないけれど、お前の返事を聞かせて欲しい」
偽物だって良いじゃない。
「あたしも好きよ、久々知」
どうせ、いつか離れてしまうのだから。
09偽物