
地に落ちて無残に潰れた豆腐。食器が酷い音を立ててひび割れていく。しかし、久々知は脇目も振らずに、ただ顔を強張らせる。そして、何も言わず食堂を飛び出して行った。
「久々知?!」
も慌てて定食をカウンターに戻すと、食堂から出て久々知の背中に呼びかける。しかし、彼は返事もしないで廊下を駆け抜けて行った。途中で授業を終えたろ組の竹谷、三郎、雷蔵と久々知の行く先で喋りながら歩いていた。
「お!兵助!どうし―――っ?!」
竹谷が手を振り久々知に声をかけようとした。けれども、久々知は竹谷のことをまるで物であるかのように腕で薙ぎ払い走り去って行く。ぶつかった竹谷はその場に尻もちをついてしまった。腰を擦りながら竹谷は首を傾げる。
「おい、ありゃいったい何だよ?」
「随分と必死な顔をしていたな……、アイツ」
「兵助、どうしたんだろう?何かあったのかな……?」
酷く真っ青で、今にも死にそうな顔だった。しかし、黒いあの目だけはギラギラとしており、切羽詰まった様子。あんなにも必死な顔をした友人を見たことが無い。
すると、今度は久々知が走ってきた方から張り詰めた声が響いた。
「不破!竹谷!鉢屋!」
「ん?何だよ、そんなに慌てて……」
「早く久々知を追いかけて……っ!!」
久々知よりも真っ青な顔をしたがそこにはいた。ぎゅっと胸の前で握り、両手が小刻みに震えている。
「何があった?」
「久々知の許婚……さんが……、なっ、な、亡くなったかもしれない。だから……っ!!今の久々知を独りにしないで……っ」
「何?!わかった!」
一大事と知って、竹谷も三郎も久々知の後を追いかけようとする。しかし、ふと雷蔵があることに気づいて振り返った。視線の先には、いまだ震えが止まらない。
「ちゃんは?追いかけないの?」
久々知と親しいということならも同じはずだ。なぜ自分たちに久々知を任せるのだろうか?久々知のことが心配なのは、だって同じはず。
は大きく目を見開いて、首を弱々しく横に振った。赤い髪の隙間から見えた瞳は恐怖に満ちていた。
「あたしじゃ、久々知に追いつけない……。それに、あたし……は……」
「ちゃん……?」
どこの誰よりも美しい輝きを放っていた、赤い糸。
は絞り出すように弱々しい声で言った。
「あたしには……、久々知を追いかける資格なんて、無い……!」
の目の前から走り去った久々知。彼の小指に結ばれた赤い糸は、無残にも千切れたままであった。
いったい誰が久々知とを結ぶ糸を切ったのか、は良く知っている。
久々知兵助の許婚が、事故で亡くなった。
久々知と許婚は度々学園で会っていたこともあり、その事実は瞬く間に学園中へ広がった。また、それをいち早く知ったのは彼の親しき友人たちだった。
久々知が落石事故の現場となった裏々々山から帰ってきたとき、三郎、雷蔵、竹谷はずっと黙っていた。大切な、将来を誓っていた許婚のことを、誰より想っていたことを、3人は良く知っているからだ。
頼りない月明かりの中戻ってきた久々知。その手には、赤黒く乾いた血のこびり付いた翡翠の腕輪があった。
闇夜は消え、再び朝日が昇ってきた。
食堂はいつもより静かに思える。カチャカチャと食器の音が大きく聞こえてきた。
「兵助は……?」
「いや、まだ見ていないぜ」
竹谷の隣はぽっかりと空いたままだ。通常ならそこに久々知が座り、豆腐を箸でつついているはず。しかし、今朝はまだ姿を見せていない。時間にはきっちりしている久々知が初めての寝坊だった。
雷蔵は悲しそうに目を細めて俯く。
「仕方ないよね……、あんなことがあったんだから」
あまりにも突然過ぎる訃報に言葉も無いだろう。
久々知が事故の現場を訪れたときは、既にの遺体はどこにも無く、近くの寺に埋葬されていた。
遺体の状態は相当酷い物だった。右腕以外は完全に岩の下敷きになってしまい、血の海がそこには広がっていたという。偶然その場を通りかかった和尚が哀れに思い、弟子たちにいわをどかせて遺体を寺へと運んだ。その後丁重に供養をした。
和尚も遺体の損傷があまりに激しかったため、身元がわからず困り果てているところだった。そこへ久々知と付き添いの3人が訪ねてきた。事情を聞いた和尚が、遺品として持ち出した翡翠の腕輪を差し出す。久々知は泣くわけでもなく笑うわけでもなく、ただただ呆然としていた。
そして一言、『贈らなければ良かった』と呟いたのである。
「相当ショックだろうな……」
「贈った腕輪は、兵助が石を選んで作ってもらったんだろう?」
三郎の問いに竹谷が頷く。
「ああ、そうらしい……」
この世に2つとない品。
「身元がわからないくらいの状態なら、許婚とは別人という可能性もあったのにな。贈った腕輪が……か。皮肉なもんだ」
三郎の言う通り、あの腕輪が無ければ、いったいどこの誰が事故にあったのかは未来永劫わからなかっただろう。仮に事故に巻き込まれたのが本人だったとしても、行方不明ということで生死はハッキリとしない。生きているという可能性にも賭けることが出来た。
竹谷は箸を置いて大きな溜め息を吐いた。
「オレたちはどうしてやれば良いんだ?兵助に……、何もしてやれることはないのかよ……!?」
竹谷が己の無力さを嘆いたとき、食堂にドタドタと走って来る足音が響いた。そして、食堂へ顔を出したのはなんと渦中の人物である久々知だった。
「おはようございます!まだ豆腐定食ありますか?!」
「「「兵助っ?!」」」
ぎょっとして悲鳴のように久々知の名を呼ぶ3人。3人以外の食堂にいる生徒たちも、久々知の大きな声に驚いたらしく振り向いた。
久々知はおばちゃんから定食を受け取るとさっさと竹谷の隣の席へ座る。何と声をかければ良いのかわからずにいる3人だが、本人は目の前の豆腐にうっとりとしていた。それは、いつもと変わらない久々知の姿である。
「今日の豆腐も美味そうだな。では、いただきます」
「へ、兵助……?」
「ん?何だよ雷蔵?」
「何だよって……、キミは……その……」
言い難そうに語尾を濁した雷蔵に、『ああ』と気付いたように呟いた。
「姉さんのことだろ?」
「っ!」
久々知は温かい湯気の立つみそ汁をずずっと啜った。
「姉さんは亡くなった……。オレも全く予想できないことだったけれど、姉さんは亡くなったんだ。確かに不幸な事故だったし……、オレも悲しいよ。でも、うじうじしているより、その事実を早く受け入れて前に進む。その方が、姉さんだって喜ぶだろう?」
久々知はかなり前向きなことを切り出してきた。久々知の言う事は最もだったが、なぜか3人にはそれが納得出来ない。
「兵助、お前……無理してないか?昨日の今日でお前が立ち直れるとは思えねぇし」
三郎の意見に他2人は同感だった。
久々知との仲睦まじい姿は、何度も学園で見ている。久々知が許婚の話を振られると、いつも嬉しそうな笑顔を浮かべて自慢し出すのだ。そのを、全く予想しなかった展開で失ってしまったのだから、久々知の胸に開いた穴は計り知れないほど大きいだろう。
久々知は器を置いてキッと鋭い目で睨みつける。ひしひしと肌で久々知の気迫を感じ、三郎の瞳が険しくなった。
「オレをあまり見くびるなよ三郎。忍者を目指している以上、オレの周りで人が死ぬことはあたり前になってくる。それはもう覚悟の上だ」
低い、まるで敵を前にしているような声で言う久々知に、竹谷も雷蔵も傍で見ていて言葉が詰まる。
「……この程度のことで、オレがどうにかなるとでも思ってるのか?お前たちは」
「そ、そこまで言ってねぇけど……」
「なら良い。オレは平気だ。だから余計な心配は必要無い」
久々知は再び箸を動かし、3人も久々知が案外平気であることを知ってホッと心の中で胸を撫で下ろす。
久々知の言う通り、忍者を目指す者ならばどんな状況にあっても冷静な判断力が必要だ。優等生の久々知ならばそのことを心得ていて当然である。
食堂に賑やかさが戻った頃、『そういえば』と久々知が豆腐から顔を上げた。
「は…?昨日取り乱した姿を見せてしまったからな……」
傍にいたに何も言わず飛び出して行ってしまったこともあり、久々知はのことを気にかけていた。
「ああ、食堂へ来る途中で見かけたぞ。落とし紙を運んでいたから恐らく委員会中だろう」
三郎が定食を食べ終え、熱い緑茶を口にする。湯呑を置き、神妙な顔つきに変わった。
「遠目からだったが、何だか様子が変だった」
「変……?」
「とても暗かったというか、気落ちしているというか……。ともかく様子が変だった」
「ちゃん、何かあったのかな……?」
「どうだかな。元々何かあってもあまり人に相談するタチでも無さそうだが。……しかし、見たところこの前の兵助よりもずっと青い顔をしていたぞ」
「……そうか」
久々知はただそれだけを呟いて、箸を置く。細められた黒い双眸がの姿を思い浮かばせる。一度目を閉じて再び開けたとき、久々知は普段以上に明るい声で言った。
「それはそうと、早く授業に行かないとな。このままだと遅刻するぞ」
「あ!そういえばそうだったね。今日のい組の演習は、確か密書を持って近くの合戦場を抜けることだったっけ?」
「そうだ。だから遅れるわけにはいかないんだよ」
久々知はそう言って立ち上がり、空っぽになった食器をカウンターに戻し、さっさと食堂を後にした。
は放課後の保健委員会の仕事を終え、フラフラとくのたま長屋を目指して廊下を歩いていた。生気の無い暗い表情で、まるでこの世の終わりが来たかのようである。今日の天気はどんよりとした雲泥が広がり、雨が今に降ってきそうな雰囲気だ。
伊作に何度も『大丈夫か?』と尋ねられたが、その度に『大丈夫です』と返事した。しかし伊作にもきっとの様子が普通ではないことくらい、わかっていただろう。
(どうすれば良い……?どうすれば……。いや、あたしに出来ることなんてもう何も……)
久々知の許婚は突然亡くなった。死因は落石事故。しかし、には、どう考えても死因はただ1つしか思いつかなかった。
考えれば考えるほどの冷汗は滲み出てくる。
(久々知の世界で1番大切な人を……、あたしは奪ってしまったんだ!アレ以外に……、他にどんな理由があるっていうの?)
自分が恐ろしい。赤い糸が視える自分が憎らしい。
出来ることなら、この場で目玉を抉り出してしまいたいくらいに。
今の自分ではとてもじゃないが久々知に会うことは出来ない。そう思って今朝からずっと避けていた。しかし、久々知の様子は自分に対する憎しみと同じくらい気になっていた。
(久々知……どうしているだろう?きっと落ち込んでいるよね。あんなにさんのこと、嬉しそうにいつも話していたんだから……)
次の角を曲がったところで、廊下に腰かけて庭を眺めながら談笑しているくのたまたちがいた。くのたまたちは何やら楽しげにお喋りに夢中になっている。がその横を通り過ぎたとき、その会話が耳に飛び込んできた。
「久々知先輩の許婚って、事故で最近亡くなったらしいじゃない?」
「あーすごく噂になってるよね。大丈夫かしら……?」
「え?そんなに落ち込んでいる様子も無かったよ?」
「えー?!本当?あんなに許婚の人と仲良かったのに!」
茶色の髪をしたくのたまが、大袈裟なくらい驚いた顔になった。赤いリボンをつけたくのたまが、『それがね』と話を続けた。
「食堂で見かけたとき、何だかいつもと変わりなかったよ。むしろ闘志を燃やしていたというか……そんな感じ」
「それでかぁ〜」
茶髪のくのたまは、うんうんと納得したように頷いた。
「何が?」
「実はね、今日の5年い組の演習で久々知先輩が大活躍だったみたいだよ」
「へぇ!でもそれって優秀なあの先輩ならいつものことじゃない」
「違うの!何というか…、忍務自体は成功したんだけれど……」
「何?もったいぶってないでさっさと言いなさいよ」
「えっと……そのぉ……」
リボンをつけたくのたまが早く早くと急かす。茶髪のくのたまは、眉を寄せて複雑そうな顔に変わった。
「普段以上に血気盛んになって、見える敵をみーんな殺しちゃったんだってさ」
ドクン、との心臓が強く鳴った。気付くと身体が勝手に動いていて、話をしていたくのたまたちの間に割り込んだ。強く肩を掴まれた茶髪のくのたまは、驚いて悲鳴を上げた。
「今の話、詳しく聞かせて!」
「ひゃっ!?先輩……、いきなりどうしたんですか?」
「良いから!!」
切羽詰まっていることがわかったのか、くのたまたちはお互いを目で見た後頷く。そしてに久々知の様子について話しをした。
すっかり日も暮れて、学園の裏にある演習場は真っ暗になっていた。夕方から雨が降り始めたせいもあり、厚い雲が月や星を覆い隠して余計に暗い。そんな中で久々知は孤独に雨打たれていた。
雨が汗と混じって余計に身体が冷えていくのを感じる。冷たい雨が全身の熱を奪っていく。久々知はそれが心地良かった。が亡くなったと知らせを受けてからずっと、身体の内側を滾る熱が込み上げてどうしようも無い。その熱を発散させようと再び苦無を構えた。10メートルほど離れたところにある人を模した藁の人形は、もう急所どころか打ち込む隙間が無いほど苦無で埋め尽くされていた。
ねぇ、兵助……。
雨音に混じって、久々知の背後から聞こえてくる優しい優しいあの人の声。
絶対に立派な忍者になってくださいね。
「わかっていますよ……」
約束ですよ、兵助。
「わかっていますよ……、姉さん」
久々知は狙いを定めて苦無を放った。苦無で埋め尽くされた的の隙間を縫うように、久々知の放った苦無は鋭く突き刺さった。同時にバシャバシャと雨の中を駆ける足音が響いた。久々知が振り返ると、そこには傘を差したが立っていた。苦しそうに息を乱している。
濡れて黒髪を頬に張り付けた久々知と、何十本も苦無が刺さり無残な姿になった藁人形の的。それを見て目を見開いた。
「久々知……、もしかしてずっとここにいた?」
「ああ……」
「もう夕食よ?それにこんなに雨が降っているじゃない、早く戻ったほうが……っ!」
「嫌だ」
「え……っ?!」
久々知は短くそう言い、再び地に刺しておいた苦無を引き抜いて握りしめた。は久々知の肩を掴もうと手を伸ばしたが、くのたまたちが言っていたことを思い出して足が止まる。何本も久々知の足元に突き刺さっている苦無を見ながら、苦しそうに言った。
「久々知……、昼間の演習で敵の忍者を殺したんだって?」
「そうだ」
「どうして?久々知は、殺す必要の無い敵でも殺すの?」
演習で敵を殺してしまうことは、5年生にもなればあり得る話しだ。しかし、特に殺す必要も無い敵まで殺してしまうのは避けるようにと授業で習っているはずだ。真面目な久々知ならばそのことを理解しているはずだというのに、その場に見える全ての敵を殺したという。
それだけではない。久々知は、その後の授業でも、異常なくらい優秀な成績を修めていった。しかし、どれも周りの目から過剰だと思われるくらいのやりこみ用だった。
久々知は相変わらず振り返らない。
「邪魔だったからだ」
「?!」
「オレはこれから先、姉さんの望んでいる立派な忍者になる。それには、あの敵が邪魔だったんだよ。1人残らず殺せなくちゃ、立派な忍者にはなれない」
「……じゃあ、今こうやって過剰な練習をしているのも?」
「ああ、そうだ。今まで以上に厳しい鍛練を続けないと、姉さんの望みは叶えられない」
「そんなことを続けたら、久々知が倒れるでしょう?!」
久々知は叫んだの声に初めて反応し、勢い良く振り返った。持っていた苦無が雨に濡れた大地に落ちて突き刺さる。久々知はの華奢な両肩を思い切り強く叩くように掴んできた。驚いたは肩の痛みに顔を歪ませ、差していた傘をその場に落としてしまう。
久々知はギリギリと掴んだ指先に力を込め、を怒鳴りつけた。眉間に深く皺が刻みこまれて目は血走り、赤い口腔の奥まで見えるほど大きな声で怒鳴る。
「だったらどうすれば良い?!姉さんは死んだ!!もうこの世のどこにもいないっ!!いないなら、姉さんの最期の願いを叶えるしかないだろう!?邪魔な敵は皆殺しにするし、雨の中でも苦無を投げ続けて鍛練をする!姉さんが望んでいた立派な忍者になるんだ!!オレにはもうそれしかないんだよッ!!!」
正面から睨みつけられ、は視線を逸らすこともできずに硬直した。久々知はしばらくを見ていたが、肩を掴んだままゆっくりと俯き、吐き出すように言った。久々知の濡れた肩が震えていることに気づいて、は泣きそうになった。
「……聞こえるんだ」
「え……?」
「聞こえてくるんだよ、姉さんの声が……。何度も聞こえてくる。姉さんの優しい笑顔が浮かんでくる。姉さんが、オレに何かを求めているんだ。オレは姉さんに出来ることは何でもしたい。姉さんのためなら、何だってする」
「久々知……」
久々知は乾いた声を漏らした。
「ははははッ、姉さんはオレを見ているんだ。どこかで、ずっとオレのことを見ているんだ!傍に……いるんだ……。、姉さんは……」
「久々知ッ?!」
ずるずると崩れ落ちる久々知を支えながら、自分も一緒にしゃがみ込む。久々知の虚ろな目は、もはや何も映していないのだろう。濁ったままの両目は死人のようだ。
久々知の懐から零れ出た物は、雨に濡れる地面に落下した。
「これは……」
それは久々知がに贈った翡翠の腕輪だった。昼間はあんなに美しく優しい色だったのに、今は闇の中で真っ黒だ。
まるで今の久々知は、の亡霊にでも憑かれてしまっているかのようである。崩壊していく久々知の精神に、は改めて自分のしてしまったことを後悔した。その後悔の波が、の心に津波となって押し寄せる。
久々知の小指にある美しかった糸は千切れたままで、墨のように黒い色へと変わってしまっていた。もうあの光り輝く赤い色は戻らないのだ。
恋をして、毎日が楽しそうだった久々知の笑顔が、今は影も形も無い。
それを奪ったのは、糸を切ってしまった。
「久々知……」
黒い糸を見つめがら、はあることを思いついた。
それが今のに出来る、久々知を救う唯一の方法なのかもしれない。
07亡霊