
日がほとんど落ち、地平線の彼方へ消えそうになっていた。茜色の空が夜を纏う時間に、雷蔵と長次はまだ図書室に残っている人物を見つける。その光景を見るのは、1年前からいつものことになっていた。
図書室に1人で座っているのはだった。の席には大量の本や資料が積まれ、その中に埋もれるようにしてがいる。赤茶色の長い髪を1つに束ねて視界を遮るものを無くし、ただ一心不乱に本を読んでいた。
目を素早く並べられた文章合わせて上下させ、手早くページを捲っていく。その速さは通常の人間が読む速さを超えている。アレで読めているのかと思われるほどに速いのだ。しかし、の頭の中には目を通した文章がぎっしりと詰まっている。
しんと静まったこの空間に、ただページをめくる音だけが響いている。
「いつ見てもすごいですね……」
「ああ……」
雷蔵は小声で長次に囁くと、こっくりと頷いた。
しかし、このままを放置しておいては図書室を閉めることができない。熱心に読書中のところを悪いと思いつつ、今日も雷蔵はの名を呼んだ。
「―――ちゃん、ちゃん、ちゃん」
「?!」
名前を何度も呼ばれ、ようやくは顔を上げた。本に落としていた視線を正面に向ければ、すっかり辺りは暗くなっている。その薄闇の中に雷蔵と長次の姿が見え、は慌てた。読んでいた本を素早く閉じた。
の顔はみるみるうちに申し訳なさそうに歪んだ。
「ごめん不破、あたしまた……」
「良いよ良いよ、気にしないで」
「でも……」
チラッと長次を見れば、雷蔵と同じくぼそっと『気にするな』と呟いた。
は積み重なっている本を急いで元の場所に戻した。
「僕も手伝うから、慌てなくても大丈夫だよ」
「あたしがやるから大丈夫よ。また迷惑かけてるし」
だが、の遠慮を雷蔵は受け取らず、長次と一緒になって本を片付けた。は溜め息を吐く。
(またやってしまった……)
は図書室の本を読み始めると周りが見えなくなる。それくらいのめり込んで読書に集中してしまうのだ。以前も同じように声をかけられても全く相手に気付かず、図書室に居座ってしまったことがあった。そして、今日もは同じことを繰り返してしまった。
「本当にごめんなさい」
本を片付け終わり、は改めて2ひとに謝罪した。しかし、雷蔵は柔らかく笑う。
「僕は、ちゃんがあんなに集中できることを尊敬しているけどな。いつも熱心に勉強しているし」
「……そんなことないよ。全然、そんなことない」
「またそうやって……。本当にちゃんは謙虚だなぁ」
「……」
雷蔵は、ただ自分のことを褒めただけに過ぎない。けれどもの胸に痛みが走った。
がいつも本を読んだり資料を漁っているのは、忍術や医学を勉強したいからではない。小指を繋ぐ赤い糸が視えなくなる方法を探しているからだ。歴史や医学、伝承、恋愛小説など様々な分野を読み漁り、ただひたすら手掛かりを探している。そのときに速読も記憶力も身につけた。ただそれだけのこと。
(周りはあたしのことを勉強熱心だとかそんな風に思っている。……好都合だけれど……)
忍術学園に編入したのも、全ては赤い糸が視えなくなる方法を探るため。自分で決めて編入したのだが、は常に強い罪悪感を抱くことになる。
は視線を雷蔵の小指へと動かした。雷蔵の小指には綺麗な赤い糸が絡まっている。先端が結ばれていないこの糸から、誰かを想っていることがわかる。はこれ以上雷蔵が自分のことを褒めたりしないように、話を逸らした。
「不破って好きな人がいるよね」
「え?えぇ!?」
雷蔵が驚きの声を上げた途端、長次が縄標を手に取ったのがわかって雷蔵は口元を押さえた。頬はほんのりと赤く染まっている。
恥ずかしそうにを見ると小声で言った。
「どうして知ってるの……?!僕、ちゃんに言ってないよね?」
「態度を見ていればわかることよ」
赤い糸が実際は示していることなのだが。
雷蔵がどう返事をしたら良いのか迷っているとき、図書室の扉がカラッと開いた。立っていたのはのルームメイトだった。
「すみませーん、はいますか?」
「ッ?!」
雷蔵の肩が大きく揺れた。そしてにしか視えない小指の赤い糸が、するするとルームメイトに向かって伸びていった。まるで、繋がりたいと意思表示しているかのように。
「あー……」
は思わず言葉を漏らした。
隣の雷蔵を見れば、顔を更に赤く染めているではないか。視線の先にはもちろんルームメイトのくのたまである。
(何だかこっちまでくすぐったくなる……)
ルームメイトはを見つけると、『いたいた』と言いながらこちらへ近づいてきた。
「ってば、いつも遅いんだからまた図書委員会に迷惑かけてるんじゃないかと思って迎えに来たのよ」
「ごめん、さっき怒られたわ」
「やっぱりね。雷蔵も、のことはもっと厳しく言ってやってよ。そうやっていつも優しくするからは……」
「ご、ごめん……」
好きな人に怒られ、雷蔵はしゅんとした。
ルームメイトは何かと雷蔵が三郎の暴走に振り回されているのを助けたり、今のようにに対してもっと厳しく対応するように求めている。雷蔵の優しさは、ときに甘えを生んでいるという指摘だ。
傍から見ると、のルームメイトは雷蔵を嫌っているようにさえ見える。だが、はその見解が間違っていることを知っている。
(糸が不破に向かってる)
ルームメイトが素直になれていないだけ。の目は、ルームメイトから伸びている赤い糸が雷蔵に向かっているのを捉えていた。
「とにかく、早くおいでよ?食堂が混むじゃない」
「わかった」
それだけ言い、ルームメイトはチラッと雷蔵を見て図書室から出て行った。
残された雷蔵は深い溜め息を漏らす。
「……僕、あの子が好きなんだ」
「(知ってるけど)あたしのルームメイトね。きっと、雷蔵のことを雷蔵と同じように想っていると思うよ」
「え?どうして?あの態度を見る限り……、僕に望みは無い気がするんだけれど」
「それがあの子なのよ。素直になれないだけ。それに、本当に嫌いだったら声なんてかけないでしょう?」
「でも……」
頭を抱えて悩みだした雷蔵の肩を背後から長次が叩いた。
「心配ない……。きっと、伝わる」
相変わらず小さな声だったが、長次の声は雷蔵の鼓膜を震わせる。もう一度を見れば、深く頷いてみせた。
雷蔵は悩み顔からキッと眉を上げ、拳を握った。
「僕、行って来きます」
「頑張ってね」
雷蔵は頷いて図書室を駆け足で出て行った。
次の日から、さっそく食堂ではあることが噂になっていた。
いや、噂というか正確には真実なのだが。
「ねぇねぇ、5年ろ組の不破雷蔵先輩に彼女ができたんですって!」
「彼女?もしかして例の?」
「ええ?!あの人?あたし、てっきり不破先輩のことは嫌いなのかと……」
くのたまたちが楽しそうに喋っている。これが恋の話となれば飛びつかないはずがない。
雷蔵はあの後のルームメイトに告白し、無事に交際を承諾してもらった。晴れて両想いというわけである。
しかし、噂になっているのはこの2人だけじゃなかった。
「そうだ、この2人をくっつけたのは先輩らしいよ」
「先輩が?普段は全然色恋に興味無いって感じするのに、意外ね」
「それなのに、2人の縁結びをしたのよ?すごいわよね。私はあの人が不破先輩のことを好きだなんて全然気付かなかったもの!」
「ねぇねぇ、それなんだけどさ」
4人の内の1人が身を乗り出し、神妙な顔で言った。
「先輩ってさ、縁結び神社の子らしいよ。私、昔その神社で先輩のこと見かけた覚えがあるの」
「あ!確かに有名な神社と苗字が同じ!」
「でしょ?!あそこは縁結びで有名な神社だし、恋の悩みだったらズバッと解決してくれそうじゃない?」
「そうかもー!」
「―――それで、今日はいつにも増してボロボロなのか」
「はい……」
保健室で作業をしているは伊作に困った顔で言った。
朝からくのたまたちに取り囲まれ、はいったい何が起きているのかわからなくなった。事情を聞いてみれば、いつの間にか自分が縁結びで有名な神社の巫女であったことがバレてしまっていた。しかも、くのたまたちの恋愛の悩みを聞いて欲しいと迫られたのである。お陰では学園中を逃げ回ることになり、赤い糸に何度も引っかかってボロボロになってしまったのだ。
(あの子たち皆して赤い糸をぶら下げているんだもの……。何度転んだかわからないわ)
受け身を取っていたものの、体力が限界になりつつあった。
伊作は学園長に処方する腰痛の薬を作り終え、の姿を改めて見た。
「はは……、事が治まるのを待つしかないね」
「いつ治まるのやら……」
「くのたまの子たちは皆恋愛話が好きみたいだから、暫くは逃げないといけないかもしれないね」
「はぁ……、何でこんなことに」
からすれば、あれだけ押しかけられて逃げたくもなるだろう。これで益々不運だと言われてしまうのは目に見えている。
(あたしは赤い糸が視えるだけで、別に何かできるわけじゃないんだけど……)
は赤い糸が視えることがトラウマとなり、恋愛をしたことが無かった。あそこまでくのたまたちが力を入れていることも理解できない。
しかし、今やくのたまたちの間では恋の達人か恋のアドバイザーになってしまった。
「キミが縁結び神社の巫女さんだったとは知らなかったよ」
「別に言う必要は無いと思っていましたので」
「あんな風に追いかけられるからかい?」
「……少しは」
「大変だね。生まれは、誰にも選ぶことができないから」
「そうですね」
このままくのたまたちから逃げ回るしかなさそうだ。
そこへ学園長が保健室へ入って来た。
「善法寺伊作、薬はできたかね?」
「あ、学園長先生、できていますよ。コチラになりますね」
「ふむ、すまなかったな」
「いいえ、とんでもないです」
「…………」
はチラリと伊作と学園長を見た。伊作の子指には赤い糸が伸びている。伊作もきっと誰かに恋をしているのだろう。けれどもに何か相談をするようなことは無かった。恐らく疲れているのことを気遣ったのだろう。
(本当に、この赤い糸で何かできるのかしら……?)
はひょいと伊作の赤い糸を掴むと、学園長に近づいた。
「学園長先生、失礼します」
「ん?何じゃ?」
はほんの少しの好奇心から、伊作の糸を学園長の子指に結んでみた。するとどうだろう、あっさりと簡単に結べてしまった。
次の瞬間、伊作と学園長は何かに憑りつかれたかのように勢い良く抱き合ったではないか。
「伊作……!」
「学園長先生……!」
「……え?」
伊作も学園長もお互いをじっと見つめ合う。熱を孕んだ瞳はまるで恋人同士のようで、頬を染め合っていた。ぎゅっと抱き締める力を強くし、より一層2人は密着した。
「嗚呼、学園長先生……あなたはなぜ学園長先生なのですか?!」
「嗚呼、善法寺伊作……そなたはなぜ善法寺伊作なのじゃ?!」
「ひいっ?!」
この甘ったるい異様な空間には恐怖を感じた。このままでは、世にも奇妙なカップルの誕生である。
は冷や汗を滲ませながら、2人を結んでいた赤い糸を直ぐに取り払った。先ほどと同様にあっさりと解けた糸。そして問題の2人ははたとお互いを見つめるが、恋人同士の熱を持たない視線だ。ポカンとしている。
「は……?!なぜ僕は学園長先生と抱き合っているんだ?」
「さぁ?わからぬが、とにかく離れるとしよう」
「そうしましょう」
少し前の記憶が無いのか、伊作も学園長もお互いにこの状況が良くわかっていないらしい。だが、からすると好都合である。2人は首を傾げながら、抱き合うことを止めて距離を取った。
(良かったー……)
安心した途端どっと疲れが溜まり、は胸を押さえた。
(こんなことが出来るなんて知らなかった。絶対に気を付けないとダメね……)
は赤い糸を結んだり解いたりしたことが無かった。それもそのはず。糸を視るだけでもストレスを感じるのだから、自分から近づいたりするはずがない。今日の出来事は深く心に留めておくことにした。
(人の心を操れるなんて、相当だわ……。早く普通になりたい)
自分が恐ろしい。
伊作は襖を空けて外を見た。もう既に星が瞬く時間になってしまっている。
「ちゃん、疲れているみたいだし、夕食前にお風呂にでも入ってきなよ。この時間だったら他のくのたまの子はまだ授業中だと思うから」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えてそうさせていただきますね」
は委員会のために授業を先に抜けてきたのだ。確かにこの時間ならばくのたまたちは授業中で、今風呂に入れば相談事などされないだろう。
さっそくは保健室を出て自室へ戻ると、入浴の準備をして風呂へ向かった。脱衣所には誰の衣服も置いておらず、自分が1番乗りだということがわかった。
さっさと衣服を脱ぎ、は湯気が立つ湯船へと身体を沈めた。肩まで浸かると心地良い温かさがじんわりと身体に染みる。今日の疲れが一気に取れてしまいそうだ。
(はぁ……良いお湯。本当に今日は疲れた。次に後輩に会ったら何て言おう……)
相談には乗れないことをどう伝えれば良いのか考えていると、格子の向こうから人の気配を感じた。一瞬覗きかとも思ったのだが、くのたまの風呂場を覗くなどという命知らずはこの学園にいない。
少々聞こえてくる息使いで、はその人物がいったい誰なのかを理解した。どうやら外で壁にもたれて座っているらしい。
「久々知、そんなところで何をしているの?」
「!?」
覗きと間違われてしまいそうな人物―――久々知兵助は立ち上がりそうになったがハッとなって再び腰を降ろした。真面目な彼は乙女の入浴を覗くはずがないので、は特に気にしないで話を続けた。
「くのたまがお風呂に入っていることにも気付かないなんて、よっぽど意識が散漫なんじゃない?」
「ずっとを探していたんだ……はぁ……っ、学園中を探した」
「あたしを?」
くのたまだけでなく、久々知までもが自分を捜しているとは思いもしなかった。
「もしかして、アンタもあたしに恋愛相談したいわけ?」
久々知には年上の許婚がいる。許婚の段階になってしまえば、相談したいことなど無さそうに思えた。ただでさえ睦まじいと言うのに。
久々知の性格からして、相手に負担のかかるようなことを言ったりしないだろう。だが、この状況でに恋愛相談とは困ったものだ。
(何かよほどのことでもあったとか?)
久々知は少しの間押し黙り、それからこう言った。
「厳密に言えば、相談というわけじゃない」
「それじゃあ、いったい何なのよ?」
「、お前に一緒に来て欲しいところがあるんだ」
「あたしに来て欲しいところ?」
ちゃぽん、と天井の水滴が湯船に落ちて波紋を作った。
04恋愛