
今日は天気が良くて本当に良かった、と久々知兵助は思った。
忍術学園に入学して4年目の春を迎え、制服の色も萌黄から茄子紺へと変化した。身体も1年前より大きく成長し、忍術も優秀な成績で収めている。このままいけば、優秀な忍者として人気の高い城で雇ってもらえるかもしれない。
若干12歳にしてこのように将来のことを具体的に考えているのは、彼が自分以外の誰かを養う必要があるからだ。
強固な門の前で、約束の時間よりもずっと早くからここに立っている。早朝から身支度を整え、部屋を掃除し、今日という日を迎えた。
この姿を友人たちが見れば、きっと『兵助は真面目だな』と言うに違いない。
しかし、今久々知が待っている人物はそれほど大切な人間。
門前の通りに一つの影が見えた。それが徐々に近づくに連れて全貌が明らかになっていく。
現れたのは珊瑚色の小袖を着た少女だった。笠をを被り、背中には小さな風呂敷包みを背負っている。手には杖を持ち、杖についている鈴が小さくチリンと音を立てた。足元は土で黒く汚れてしまっている。大分ここまで山道を歩いて来たようだ。
一瞬久々知は待ち人と認識してしまいそうになったが、どうも様子がおかしい。少女は前ではなく地面の方ばかり見ており、やがてゆっくりと目の前に立っている久々知にもなぞる様に視線を這わせた。顔を上げた少女の赤茶の長い前髪が揺れ、久々知の真っ黒な瞳とぶつかる。
「え……?!」
少女はとても驚いた顔で久々知を見た。パッチリと開いたこげ茶色の大きな瞳。それがとても愛らしい少女は、久々知と同じ年頃のようだ。
彼女が心底驚いているのは伝わってくるのだが、何を彼女が驚いているのかはわからない。けれども自分が待っている人間と別人ということはわかったので、久々知は遠慮がちに尋ねた。
「えっと……、オレの顔に何かついているか?」
「あ……、そういうわけじゃないから。ごめんなさい。ここは忍術学園……で、あっている?」
少女は被っていた笠を取った。長い髪に隠れて表情は半分しか見えないが、整った顔立ちなのだろうと思う。
「ああ。ここは忍術学園だ。もしかして誰かに会いに来たのか?」
時々生徒の家族が会いに来ることがある。少女もこの学園に通う者の家族なのかもしれない。
だが、少女は首を横に振った。
「あたしは編入生希望で、この学園を紹介されたのよ。今日からくの一教室の4年生になるの」
「4年生……、じゃあオレと同じ歳か」
「………」
「ん?何だ……?」
少女はとても複雑そうな顔をして久々知のことをじっと見つめている。何とも読み難い表情で、くの一を目指すものならば感情を相手に知られないという点では合格だ。
「……逆光源氏ってヤツとか……」
「何だそれは?」
「あ、何でもない。こっちの話なので気にしないでください」
「……?何だか良くわからないが、とにかくそういうことなら中に入ると良い。今事務の人を呼んでくるから」
「ありがとう……」
入門表にサインをし終えた少女はと名乗った。山を1つ越えた先にある街の外れに住んでいるという。
2人は廊下を歩き、学園長が待つ庵へと向かっていた。
「皆久々知と同じ忍者の格好してるね」
「まぁここは忍者の学校だからな。日常生活の中で忍者は昼にこの格好で活動しないから、珍しいんだろう」
「そりゃあね……」
街でこのような忍装束を着ていたら逆に目立ってしまうだろう。のような町娘の姿をしている忍者もいるということを話すと、『じゃあ会ったことがあるのかもしれないね』と言った。
それにしても、少女の様子はどこかおかしいと久々知は思った。初めて学園に来たということならば、辺りをキョロキョロ見ていてもおかしくはない。けれども、は生徒が近くを通る度に視線を逸らし、床ばかり見ている。何か心配事でもあるのか、どことなく怯えているようだった。
「どうかしたのか?」
「えっ?」
「ずっと視線が泳いでいるみたいだったから……」
「あ……」
何か思い当たることがあったようで、はポツンと声を漏らした。何かの触れてはいけないところに触れてしまったように感じて、久々知は直ぐに謝った。
「ごめん、変なこと言って」
「別に……気にしないで。あたしそんなに挙動不審だった?」
「あー……少し」
「そう……」
小さく呟き、は久々知の手に視線を落とした。久々知の左手は忍術を学ぶ内に傷が増え、そして逞しく成長している最中だ。の柔らかそうな手とは随分と違う。
「オレの手がどうかしたか?」
「見たこと無いくらい、とても綺麗だなって―――?!」
久々知の問いかけに口が動いたはハッとなって真っ黒な瞳を見た。カチリと視線がぶつかったのは一瞬で、再びはバツが悪そうに逸らした。どうやら無意識に答えてしまったらしい。
久々知は、最近傷が目立ってきた少しかさついた自分の手を持ち上げて見る。火薬委員として染み付いた火薬の臭いがする、綺麗とは言えないような手だというのに。
「綺麗……か?」
「ごめん……。あたしの方こそ、変なこと言ったね」
『手が綺麗』と言われて久々知は不快には思わなかった。ただ、疑問に感じただけで。
けれどもとても深刻な表情。まるで久々知を傷つけてしまったかのようにの表情が曇った。
「……いや、そこまで真剣に謝らなくても良いし」
「うん……」
久々知は長い前髪からチラリと覗き見えるの目を見た。黒く長い睫毛の下には、さらに濃い色をした瞳が理由も無くまた床を見ている。
同じ年頃のくのたまたちと比べると、まるで明るさが足りていない。これから学園で忍術を学ぶというにも関わらず、やる気も根気も感じられない。
生徒たちは様々な理由を胸に抱き、この学園の門を潜る。ある者は真の忍者になるため、またある者は生きるため……。その目標は、表情や態度に現れるもの。
ところが、からは何も感じられないのだ。
手が綺麗と言ったのも、本当はもっと別のことを言いたかったのかもしれない。
久々知はふう……と息を吐き、それからに言った。
「何があったのかは知らないけれど、そんなに気を張るなよ。オレと最初にこの学園で出会ったのも何かの縁だし、わからないことがあればオレに聞いてくれて構わない」
あまり深く詮索はしない。今の久々知に言える精一杯の言葉だった。
は久々知の言葉を予想していなかったのか、目を真ん丸に見開いている。けれども直ぐに形の良い眉をぎゅっと眉間に寄せ、無理やり笑顔を作った。見ている方が痛々しいくらいの切なくて苦しい表情であった。
「ありがとう。久々知は優しいね。だけど、大丈夫だから……」
「あ、ああ……」
更に無理をさせてしまったのかもしれない、と久々知はのことを見て後悔した。
は歩みを止めてこう言った。
「もうここまで来れば平気だし、久々知は戻って良いよ」
確かにの言う通りで、この先は角も無いため真っ直ぐ道なりに行けば、学園長の庵に到着するだろう。しかし、の突き放すような口調には胸が引っかかる。
「本当に良いか?学園長は良い人だから緊張とかしなくても良いぞ?」
「わかった。早く戻って、久々知。門の前にきっとあの女の人、もう着いているよ」
「あぁ、それじゃ―――え?」
くるりと背を向けて歩き出してしまうの言葉に、久々知は思わず声が漏れた。足早に廊下の向こうへ消えてしまう。呼び止めるタイミングが掴めず、結局そのまま見送る形になった。
(門の前に立っていれば、誰かを待っているって予測できるだろうけど……)
事務員でもない自分が、あの門の前に立っている。その理由を考えれば、誰か人を待っているか、これから出かけるかくらいだろう。それはではなくとも予想できることだ。
しかし、あんなにもハッキリと宣言されてしまうと逆に気になった。
久々知は歩幅を大きくしながら元来たところを戻り、門の前を見た。
門の前には、小松田と談笑している女性がいた。菫色の小袖を纏った、よりも一回り大きな背丈の女性である。久々知に気付いた女性は笠を取って雪のように白い肌を日の元に晒し、紅の引かれた口元を弧にして微笑みかける。それは、久々知がこの半年ずっと望んでいた笑顔だった。
「姉さんっ!!」
久々知の表情が、まるで花が咲いたように明るくなる。まるで探し続けていた宝物を見つけたような顔だ。
そこにいるのは、少し大人びた久々知兵助ではなく、12歳という年齢に相応しい少年だった。
頭の片隅でが言っていた言葉が浮かんできた。けれども、待ち望んでいた彼女との出会いで、そのことはいつの間にか忘れてしまった。
「ほほぉ……、医学を学びたいとな」
「はい……。忍者の学校ならば、薬草の知識だけでなく毒薬の知識も得られるかと……」
「ふむ、それは良い目の付けどころじゃな。確かに図書室には様々な医学の本も置いてある。戦国の世を生き抜くには、あらゆる知識を得る必要があるじゃろう。よろしい、入学を許可する」
「ありがとうございます」
は畳の上に手をついて深く頭を下げた。赤毛の長い髪が垂れて畳についた。
(嗚呼、これでようやく手がかりを掴めるかもしれない……)
次にが顔を上げて学園長を見たとき、その隣には黒い忍装束の女性が正座していた。いきなり現れた女性には思わず仰け反った。
「いつの間に?!」
「驚くことはない。彼女は山本シナ先生じゃ。今日からそなたの担任となる。では、後のことはよろしくお願いしますぞ、山本先生」
「わかりましたわ。さぁさん、いらっしゃい」
「は、はい……」
にっこりと毒気を抜かれるような笑顔を向けられ、は再び学園長に頭を下げると庵を後にした。
シナはを先導するように、少し前を歩きながらくの一の長屋へ向かった。
「くの一教室は男子禁制だから、もし男の子を見かけたら叩き出して頂戴ね」
「は……はぁ、わかりました」
くの一と忍たまでは、学習する内容も微妙に異なってくる。けれども、叩き出せという指示が出るとは思っていなかったので、は曖昧な返事しかできなかった。
(厳しい世界……)
案内されながらはシナの手を見た。忍術を極めているはずの教師ながら、シナの手はとても白くて綺麗だ。
「私の手がどうかした?」
「あ、いいえ。何でもありません」
はシナの手というよりその周りを見ていたのだが、さっと久々知のときのように視線を逸らした。
「そう?そういえば、あなたは有名な縁結び神社の娘さんなんですってね」
「あ……はい」
「くの一教室の子たちもいろいろな家から来ているけれど、神社の子は初めてですよ。そういう子はくの一じゃなくて巫女になるものだとばかり思っていたから……」
「そうですね。珍しいのかもしれません……」
くの一とはいえ厳しい修行が必要だ。女性の職業としては最もハードな世界だろう。家が神社であるならば、そのまま巫女として暮らして行くことも出来る。むしろ、その方が安全に生活することが出来るだろう。
「でも、医学を学ぼうという姿勢はとても素晴らしいことだわ。これから頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言うだったが、何か言いたそうに口をもごもごと動かしている。シナは小首を傾げて微笑みかけた。
「どうかしたのかしら?遠慮しないで」
「あの、実家が縁結び神社だということは……伏せて置いてくださいませんか?」
「あら……。別に構いませんよ。他の子たちには黙っておいてあげる」
「ありがとうございます!」
先ほどよりも大きな声ではシナにお礼を言った。学園で医学を学ぶ意欲を褒められたことより、よほどそちらの方が大切といった具合だ。
シナは少し疑問に思いながらもと一緒に廊下を歩いた。すると、向こうの角から人の気配がする。目の前に現れたのは華やかな色合いの小袖を着た女性。それにしては脛の体毛が濃く、顎には髭を剃った痕が残っている。まるで逞しい男性のようだ。
「うふん、シナ先生こんにちは。その子はどちらさん?」
猫撫で声。しかし、しゃがれた低い声は男性そのもの。彼女―――彼は女装をした山田伝蔵だった。ガッチリとした身体つきは小袖の上からでも良くわかる。さらに、濃い化粧のせいで益々不気味さが醸し出されているではないか。
シナはこの姿の山田に慣れているため、にっこりといつも通り挨拶をした。
「こんにちは山田先生。この子は今日からくのたまになる子で―――さん?」
は山田を見て完全に固まっていた。目をこれでもかというほど大きく見開き、目の前の山田の女装を凝視している。逸らしたいのに逸らせない、といった雰囲気で胸元をぎゅっと掴んで震えている。
「まぁ、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。初めて見る人はきっと驚いてしまうでしょうけれど……」
「シナ先生!それってどういう意味?!」
確かに初めて山田の女装を見たものは、吹き出す、顔を青くする、などのリアクションが出る。お世辞にも美しいとは言えない山田の女装は、慣れるまでに時間がかかる。
だが、の様子は輪をかけておかしい。山田を上から下まで見ると、サーっと顔の赤みが消えて真っ白になってしまった。この様子にはシナも慌てる。気遣うようにの背中を支えて呼びかけた。
「さん、大丈夫?」
「……うぅッ!!」
苦しそうな呻くとその場に膝を落として口元を両手で覆った。額には大量の脂汗が滲み、酷く苦しそうである。ぎゅっと閉じられた瞳からは涙が滲んでしまっている。
「山田先生!とにかく、その女装を今直ぐに止めてください!」
「私のせい……ですよね、わかりました!」
『私のせいじゃない』と言いかけた山田だったが、目の前で苦しんでいるを見ると、そういうわけにはいかないようだ。サッと小袖を脱ぐと、いつもの黒い忍装束の山田に姿を変える。けれどもの容態は一向に良くならず、眉間に皺を寄せて酷い咳をした。
「けほっ!げほッ!!」
「「?!」」
が覆った白い両手の隙間から、赤い液体がポタポタと零れ出た。点々と床に落ちるそれは鮮血に他ならない。2人の目が驚いたように見開かれた。
「あ……」
が震えながら自分の両手を見る。そこには真っ赤な液体が少量こびりついていた。
(あか、い………)
指の間から滑り落ちるそれを見ながら、は横に倒れる。
「山田先生、新野先生を呼んできてください!」
「わかりました!!」
というやり取りが聞こえてきたような気がしたが、の意識はそれ以上持たなかった。
(あたしはどこまで壊れていくんだろう……?)
染まった手を見ながら、はそのまま瞳を閉じたのである。
02編入