
久々知とは、脱兎のごとく文の差出人の家へ向かった。殆ど飲まず食わずで、それでも身体に鞭を打ち、出来る限り急いで山道を駆けた。2人共、人生でこれだけ急ぎ走った事は無いだろう。
やがて、その人物が住まう家の前に辿り着いた。立派な門構えで、どこまでも長い塀が家を護る様に囲んでいる。その門の前で、1人の女性がせっせと竹箒で掃除をしていた。
珠のような白い肌に映える、癖の無い黒髪。割烹着を纏う後ろ姿に、久々知は見覚えがあった。忘れるはずが無かった。
「……姉さん……?」
名前を呼ばれた女性―――はくるりと振り返り、美しい笑顔を浮かべた。
「兵助、さん、良く来てくれましたね」
「さん?!」
「本当に……?!本当に姉さんなのか?!」
久々知はから竹箒をもぎ取って、細い腕を掴んだ。カランと音を立てて竹箒が転がり、は久々知の若干震えている手に自分の手を重ねた。
「ッ!」
最期に触れたの手は、まるで氷のように冷たかった。その手が今、久々知に熱を与えている。
「まぁ兵助、私の顔を忘れてしまったの?」
「じゃあ……、本当に姉さんなんだな?!」
「ええ。いったい他の誰に見えるのです?」
「姉さん……ッ、良かった……本当に、良かった……!」
久々知は、泣くまいと必死で込み上げてくる熱い感情を押さえ込んでいた。けれども黒い瞳には水の膜が張ってしまって、完全に充血していた。の目には、甘えん坊だった幼い頃の久々知が映っていた。俯き加減で耐えている久々知の頭を、そっとは撫でた。
は久々知との動揺とは対照的に、とても落ち着いていて普段通りの振舞いだった。
「やっぱり、本当にあの手紙はさんからだったんですね」
「2人共、文を読んだからここへいらっしゃったのでは……?」
「えっと……、あまりにもびっくりしたので、読まずにここまで来てしまったんです」
「そうだったんですか」
は思わず苦笑してしまう。
「直接私が出向いても良かったのですけれど、驚かせてしまうといけないと思ったので、文で知らせる事にしたのです」
「文でも十分驚きましたよ」
「そのようですね。ごめんなさい」
「姉さん、いったいどうして?なぜ、ここに今いらっしゃるんですか?姉さんは……あの日、亡くなったはずでは……?」
久々知は混乱しながらも1番訊ねたい事を口にした。
が生きているわけがないのだ。あの日、が忍術学園から家へ帰る途中、落石事故に巻き込まれて死した。大岩の下敷きとなったの亡骸は、本当に酷い有様だった。唯一本人と認められる品は、今久々知がしている翡翠の腕輪のみという状況だった。
久々知はそのとき腕輪を贈った事を死ぬほど後悔した。もし、に腕輪を贈っていなければ、は行方不明という形になったとしても望みはある。
「文にその事を記したのですが……、せっかくですし、家へお入りください。話はそこでゆっくりと致しましょうね」
そう言いながら、はするっと割烹着を脱いだ。
通された客室に、は熱い緑茶を持って現れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます、姉さん」
けれども久々知は出されたお茶に口もつけず、をじっと見つめた。
「姉さんが生きているとなると……、オレが見たあの女性はいったい誰なんですか?」
は兵助との向かいに座り、きゅっと表情を引き締めた。も真剣な目での言葉を待った。
「私はあの日、学園から山道を歩いている途中に女性と出会いました。私と丁度同じ年頃のようでした。行く先も一緒だったため、私は彼女と一緒に途中まで行く事にしたのです。彼女はこれから祝言を控えているという方で、お相手が待つ家まで向かっているところだと、とても幸せそうにお話してくださいましたよ……」
「それじゃ……、その人が犠牲に……?」
の問いかけには悲しそうに頷いた。
「突然落石が起きて、私は驚き身動きが取れなくなってしまったのです。本当ならば私があの下敷きになるはずだったのですが、彼女が咄嗟に私の背中を押してくださったので、私は助かりました。けれども彼女は……。後は兵助が見た通りです」
「……そう、でしたか……」
「…………」
久々知もも押し黙り、女性の冥福を祈った。
これから祝言を迎えるという、幸せの絶頂で起きた悲しい事故だった。
「兵助には申し訳無かったのですが、翡翠の腕輪は彼女の冥福を祈るために捧げさせていただきました。他に何もお供え出来そうな物が無くて……」
「オレはその腕輪を見て、姉さんだと思い込んでしまったわけか……」
遺体の損傷は激しかった。血で衣服も黒ずみ、本人と特定出来るものは翡翠の腕輪しかなかったのだ。久々知が勘違いをしてしまっても無理は無い。
「その後、彼女がお相手に頼まれていたという本を、彼女の代わりに渡そうと思って旅する事にしたのです。彼女の形見になってしまいましたし、いち早く彼女の事を知らせられるのは、私だけでしたから。何より、彼女は命と引き換えに私を助けてくださった恩人です。何かして差し上げたかった……」
はぎゅっと膝の上の拳を握り締める。
ここでが疑問を口にした。
「でもさん、ご実家に連絡とかしたんですか?そうじゃないと、急ぎの用事とはいえ、最悪行方不明扱いになってしまうじゃないですか」
久々知も同じ事を考えていたのか、を見て頷く。
は形の良い眉をハの字にして困った様に笑った。
「実は私、忍術学園に行く前に両親と大喧嘩をしてしまって家出をしたんですよ」
「「家出?!」」
意外過ぎる返答に久々知もも唖然としてしまった。淑やかな女性であるが、家を飛び出すなど、それより両親と大喧嘩する姿など想像も出来ない。
「兵助との婚約を破棄したいとお話したら、かんかんに怒られてしまいましてね……。忍術学園で兵助にこの事をお話したら、元々実家に戻るつもりはありませんでした。そのままどこかへ旅に出るつもりでいたのですよ」
「そんなに行動的な人だとは知りませんでしたよ」
長年の許嫁の立場だった兵助も、流石にそこまでは予想出来なかったらしい。
は年齢以上に幼い笑顔を見せる。
「私には、私の人生というものがあります。そればかりは誰にも譲れません。……それに」
「それに?」
「兵助を苦しめるような人生は、こっちから願い下げです」
はハッキリとした口調で言う。真っ直ぐに見詰められて、久々知はの覚悟の重さを知った。
久々知がに対する恋心に気付かないまま、もしもと祝言を上げてしまったら?また別の人生になっていただろう。しかし、はそうしなかった。後に久々知が苦しむのは目に見えていたからだ。愛しい人が苦しむ姿を、一生涯見て生活しなければならないのは、も不本意だろう。
「でもまぁ、今は頭が冷えたので実家に戻ってみたのですが……。いつの間にか私が死人扱いで、本当に驚きましたよ。両親は私を見るなり念仏を唱えだしたりして、本当にとんでもない事になりました。私は確かに家を出ましたし、文も寄越さずふらふらとしていましたけれど、死んだ覚えはありませんからね」
「ご両親もさぞや驚かれたでしょうね……」
「普通に腰抜かすと思いますよ。オレだってそうだったんですから」
喧嘩別れ後に死んだと言われていた娘が、家にふらっと戻って来たとなれば、幽霊の類と思われても仕方が無い。
「戻ったのが夜でしたからね。それがいけなかったのかもしれません」
「いや、そういう問題じゃないと思います」
兵助がキッパリとツッコミを入れた。
昼間にだって死んだはずの娘が家に帰れば、どんな人間でも驚くだろう。特に娘の両親ならば尚更だ。
「ともかく、私はこうしてピンピンしておりますよ。ただそれだけお伝えしたかったのです。驚かせてしまってごめんなさいね」
「いえ、そんな事ありません!姉さんが無事で本当に嬉しいです。またこうしてお話出来て、オレは幸せです」
久々知が心底安心したように胸を撫で下ろす姿を見て、もまた心底安心した。
きっと久々知はと離れた後も優秀な生徒でいたのだろう。だから卒業生代表として挨拶もした。だが、は文からも久々知が無理をしていると感じていた。それを指摘したりはしなかったが―――指摘すればもっと頑張ってしまう性格だと知っているので―――、ただは久々知を見守る程度しか出来なかった。
今こうして久々知に安心を与えているのは自分ではなく、である。
(そうか……コレが嫉妬か)
本人が、の事で彼に安心を与えられるのは普通の事だ。そう思うようにしなければならないはずなのに、はに強い嫉妬心を抱いた。
「兵助、さん、あたし席を外しますね」
「え?」
「兵助、さんと話たい事、いっぱいあるでしょ?あたしの事は気にしないで沢山話しをしてね。気がすんだら声を掛けて。さん、それで良いですよね?」
「私は大丈夫ですけれど……」
「それじゃあ後でね」
はそう言って部屋を後にした。久々知とは、きっとこの先出会う事は無いと直感したからだ。
久々知はの願い通り晴れて優秀なプロの忍になった。家族でもない限り、忍と関わるのは危険が伴う。例え2人が本当の姉と弟のように仲が良くても、既に許嫁としての縁は切れている。しかもはくの一でもなんでもない、良いところのお嬢様だ。今ここで区切りをつける事は、お互いのためになるだろう。2人は口にしないけれど、はそれを知っていた。
「ここまでしか送れないけれど、許してね」
長く話しこんでいた久々知とだったが、を神社へ送り届けなくてはならない。夕方に差し掛かる前に席を立った。
門の前ではぎゅっと久々知の手を握り締めると、久々知もまたその手を握り返して離した。の腕には、久々知がお守りとしてつけていた翡翠の腕輪があった。
「そんな事ありません。姉さんと久しぶりに話せて、本当に良かったです」
「私も楽しかったですよ、兵助」
は最後の会話となるにも関わらず、凛とした表情で久々知を見つめている。久々知は深くその場に頭を下げた。もそれに習って静かに頭を垂れる。
「……行こう、」
「うん」
も久々知も、結局別れの言葉は言わなかった。再会を約束する事もしなかった。
すると、はさっとの手を掴んだ。何かと振り返ると、はの顔も見ずに久々知に声をかけた。
「ごめんなさい、兵助。少しだけさんとお話させて頂戴ね」
「え……?あ、はい、わかりました……」
何だか良く分からないままに久々知がそう頷くと、はにこりと微笑んでの手を取り門の内側へと入った。が何も言えずに首を傾げていると、はこう切り出した。
「さん、私なんかに嫉妬するなんてもったいないです。私よりも、あなたの方がずっと素敵ですよ」
「え?!」
嫉妬心を見抜かれ、カッとは頬を赤く染めてしまった。
(そ……そんなに分かり易かった?!)
にバレているのであれば、きっと久々知にもバレてしまっているに違いない。は益々顔を赤くしてしまう。
はクスッと悪戯っぽく微笑んで、の頬に触れた。
「多分そうだと思っただけですけど、本当にそうみたいですね」
(はめられたー?!)
まさかにそんな事をされるとは思わなかったので、は口をパクパクと酸素を求める金魚のように動かすしか出来なかった。
「兵助から聞きましたよ。私が死んだと勘違いして落ち込んだ兵助の事、色々助けてくださったみたいですね。そのせいであなたも色々傷ついてしまったのに……」
「そんな事ないです……。あたしはさんの方がすごいって思っていますから。とても強い人だって」
「私、ですか?」
「だって……、さん、本当は今も兵助の事を好きでいるんでしょう?」
はの言葉に目を細め、こくんと小さく頷いてみせた。それはとても慈愛に満ちた美しい笑顔で、は思わず見惚れてしまう。恋をしている女の艶やかさが滲み出ていた。は強く胸がざわつくのを感じ、それを押し込めるように言葉を続ける。
「それなのに、兵助を好きなのに気持ちを押さえて婚約を解消した……。普通そんな事出来ませんよ。だって、好きなんですから。許嫁だったんですから、そのまま夫婦になったって良かったはずです。夫婦になれば、兵助が姉としてではなく、さんを女性として好きになる可能性だって、いくらでも―――」
「さん」
はの言葉を遮った。ハッとしてはを見つめる。
「……ごめんなさい、あたしってば……」
「私が身を引いたのは、兵助の為ではありません」
「え?」
「私は、このまま兵助の傍にいる事が辛かった。あなたを見つめている兵助の横顔を、このまま見ていたくなかった。だから……逃げたんです。自分の為に、私は逃げた。ただ……それだけの事なんですよ」
沈黙が降り、はになんて声をかければ良いのかわからなくなった。はの不安を感じ取って、再び口を開いた。にっこりと微笑みを湛えて。
「私と違って、あなたは逃げませんでしたよね、さん。好きな人に嫌われてしまう覚悟で、あなたは兵助の傍にずっといた。違いますか?」
久々知を助けたい。悲しみから救いたい。彼の命を救いたい。その一心では久々知がを失って絶望しているときも、実習中に行方不明になっても、自分の大嫌いだった力を使った。突き離されても追い続けた。
は眉を寄せながら、必死で笑顔を作る。
「私には……、出来ませんでした。だから、さん。私こそ……あなたにこう言いたい。あなたはとても強い人です。どうか、兵助と幸せになってください」
はに向かって静かに頭を下げた。
「弟を護ってくれて……ありがとう」
もまた深くその場で頭を下げた。
これは、のけじめの言葉。
の気持ちを考えると、は涙が止まらなかった。
(さんの嘘つき。さんほど強い女性を、あたしは知らないよ……)
「何でお前泣いているんだよ?」
「それは気にしないで。ところで久々知、このままあたしの家に行くの?」
一本道を歩きながら、は久々知の顔を覗き込む。
「ああ、そのつもりだ。悪いけれど泊めて欲しいんだが、大丈夫か……?」
きっと、の住まう神社に到着する頃には、とっぷりと日が暮れて夜になってしまうだろう。そのまま久々知が実家に戻ると、夜通し歩き続けなければならない。の件で2人共身体は疲れ切っている。久々知もどこかで休むべきだ。
「うん、それは大丈夫。部屋はいくつもあるし」
「…………」
「何?どうしたの?」
突然久々知は立ち止り、と向き合った。昔から、久々知の目に凝視されてしまうとどうも動けなくなってしまう。
が久々知の言葉を待っていると、久々知はガシッとの肩をいきなり掴みかかった。
「え?!何?!」
「」
「?」
久々知は益々真剣な顔つきになり、の心臓はバクバクと壊れてしまいそうなくらい脈打つ。
「姉さんの件で色々寄り道したりしたけれど、本当は姉さんの墓参りが済んだら、のお祖父さんに用があったんだ。挨拶とか、色々しなくちゃいけないってずっと思っていた」
「は……?」
久々知だけわかるような話をされて、は益々困惑した。どうやら、久々知だけが熱くなっているらしい。
「、オレと祝言を上げてくれ。卒業したら、絶対に言おうって決めてた」
「う……、うぇえええええええええーーー?!」
「何だよ、変な声を出して」
は道の真ん中での告白に、目玉が吹き飛ぶほど驚いた。
「はオレが辛いとき、一生懸命支えてくれた。まだ未熟なところたくさんあるけれど、今度はオレがお前を支えて生きていきたい」
久々知の話をようやく理解出来た頃には、顔は真っ赤でそれこそ火が出そうなくらいだった。
「ちょ、何……?!つか、こんなところでそんな事言わないでよ!」
「嫌なのか……?」
少ししょんぼりとしてしまった久々知に、は声を詰まらせる。
「……そんなの、答えなんて決まってるわよ!とっくにね!!」
恥ずかしさを必死で追い払いながら、は久々知にしがみ付いた。もちろん道の真ん中で。
「ありがとう、……。オレ、絶対にの事大切にする。だから、もう2度と離れたりしないでくれ」
「でも兵助、離れないと仕事に行けないよ?」
「……そういうのは、言葉のあやだってわかれよ」
「冗談!」
は、これまで以上に最高の笑顔で、久々知の背中に回す腕を強めた。
「愛してる、。誰よりも」
「あたしも、兵助を愛してるよ。これから先、ずっと一緒にいようね」
赤い糸はもう視えないけれど、きっと2人の間には強い運命の絆が結びついていることだろう。
18手紙
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2009.04.11 ~ 2011.01.11