
(やけに良い匂いがする……。米と、卵と、豆腐……。…………ん?!)
久々知は黒目を見開いてガバッと飛び起きた。
「豆腐!!」
「第一声がそれかよ?!」
直ぐ隣からツッコミが飛び、久々知の視界に包帯や湿布が貼られた勘右衛門の姿が入る。
「勘右衛門……?!無事だったのか?!というか……、ここはオレたちの部屋か……?」
「そうだよ、寝坊助」
久々知が辺りを見回せば、そこは見知った我が家ならぬ自室だった。布団に包まった久々知は、ズキっと痛む全身に思わず顔を顰める。
「まだあまり動かない方が良いよ。オレもお前も満身創痍だったんだからさ。兵助は2日も眠ってたんだよ」
「た……、助かったのか…………」
部屋の戸の隙間から入る眩しい日差しで、今が昼だとわかる。あの暗い森の中が、まるで夢か幻のようにさえ思えた。頭もまだ意識がハッキリとしない。
勘右衛門が、久々知の枕元に置いてある豆腐入りの卵粥を差し出す。
「ほら、食べなよ。まだあったかいし―――」
「は?は今どこに……っ?!」
「兵助?!」
ようやく記憶が鮮明になった久々知は、自分を助けに来てくれたの顔を思い浮かべた。寝巻のまま右足の痛みも忘れて立ち上がろうとする。この慌て振りに、勘右衛門はぎょっとして久々知の肩を掴んだ。
「ちょっと落ち着きなって!」
「だけど―――」
「そうだよ、久々知。今は布団に戻って」
「伊作先輩……」
勘右衛門の後ろから姿を現したのは伊作だった。様子を見に来たところ、この光景を目撃したといったところだろう。手には包帯や薬などが入っている薬箱が握られていた。
「ちゃんは今保健室にいるよ」
「保健室?じゃあ、怪我をして……?!」
「久々知、彼女の話だったら僕がするから大人しくして」
「わかりました……」
久々知が大人しく伊作の言葉に従ったのを見て、勘右衛門はふぅと息を吐く。
伊作は勘右衛門の隣に正座をして、そっと薬箱を開ける。テキパキと慣れた手つきで湿布の準備をしながら言った。
「尾浜、腕と足を見せてね。それと、久々知は僕が尾浜の手当をしている内に、その雑炊食べちゃって」
「食欲ありません」
(豆腐好きの兵助が、豆腐が入っている雑炊を放棄した……だと……?!)
普段の久々知からは想像も出来ない様子に、勘右衛門は絶句した。
伊作は食事を拒絶する久々知の頭を鷲掴みにすると、無理やり自分の方へ向かせる。驚いた久々知は目を見開き、威圧的な笑みを浮かべている伊作をただ見つめた。伊作は、久々知の前にズイと良い匂いのする雑炊を差し出す。
「久々知、無理にでも今直ぐ食べなさい。食べ終わるまで、ちゃんの話はしないからね?良い?」
「はッ、はいッ!!」
気圧されて久々知は青い顔で雑炊を受け取ると、必死になって食堂のおばちゃん特製の雑炊を喉へ流し込んだ。隣で見ていた勘右衛門も、ガタガタと震えながら伊作の治療を受ける。
「うん、尾浜はもうほとんど良くなってるよ。でも、激しい運動は控えるようにね」
「ありがとうございます」
「伊作先輩、食べ終わりました……」
「本当だ。偉い偉い」
薬箱を閉じた伊作が、空になったお椀を見て微笑んだ。先ほどまでの気迫が消え、穏やかな表情に久々知も勘右衛門も心の中で安堵した。
「さてと、尾浜」
「はい?」
「悪いけれど、久々知と2人きりで話をしたいから、席を外して欲しい」
「わかりました。兵助、また後でな」
「ああ」
勘右衛門は久々知が食べ終えたお椀を盆に乗せて部屋を後にする。この場は静寂に包まれた。
久々知は記憶が途切れる前のを思い、伊作に改めて問いかけた。
「は保健室にいるんですよね?どうしていますか……?」
「順を追って説明するよ。行方不明になっていた久々知を学園まで運んで来たのが、ちゃん、って事はわかるかい?」
「なんとなく……ですけれど、ずっと誰かに背負われていたと思います」
薬のせいで意識が無かった久々知だったが、身体は記憶の片鱗を拾っていたようだ。
「オレ、実習前にに酷い事を散々言いました。でも……アイツはオレを許してくれていたみたいです。それ以前に、怒っていませんでした……」
「そうか……。帰って来たちゃんは、久々知を本当に助けたくて必死だったんだよ」
「だからオレ……今直ぐにでもに会いたいんです!会って言いたい事が―――」
「ちゃんには会えないよ」
「な……ッ?!」
久々知の脳裏に最悪な光景が浮かんで、息が詰まった。伊作に喰いかかる勢いで問い詰める。
「なぜですか?!は保健室にいるっておっしゃいましたよね?つまり、生きているんですよね?!」
「生きているよ、ちゃんは。今保健室に確かにいる」
「それじゃあなんでそんな事……っ」
「ちゃんは」
一度伊作は言葉を切ってから、酷く悲しそうに言った。
「ちゃんは生きているけれど、
それは死んでいないだけなんだ」
新野と伊作は、保健室に運び込まれた久々知の容体を手早く隅々まで確認していった。
忍装束はところどころ穴が開き、土誇りで茶色くくすんでいる。手甲や忍足袋も斬り裂かれたような跡が見える。艶やかだった長い癖のある黒髪は、今は見る影もない。このボサボサになった髪を見たら、きっとタカ丸は泣くだろう。
右足は腫れ上がって捻挫こそしていたが、包帯がしっかり巻かれて添え木もされている。これならば3週間程度で歩けるようになるだろう。
「他に外傷はありませんか?」
「はい、手の甲に刃物による切り傷があります。恐らくここから毒が回ったんでしょう」
伊作が包帯を解き、その具合を見る。血が凝固して傷はほとんど塞がっていた。
「他にも細かい傷がありますけれど、軟膏が塗ってあります。彼女も言っていましたが、処置は終わっているようです」
「そうですか。解毒剤には睡眠薬も入っているようで、今は眠っているだけみたいですね。毒による峠は越えていますから、もう安心ですよ」
「良かったです!」
新野先生のお墨付きをもらい、伊作は久々知の寝顔を見て胸を撫で下ろした。保健委員として今まで何度も生徒の怪我や病気の治療に携わってきたが、緊張するのは相変わらずだった。
「そうだ、廊下で待っているちゃんを呼んでも良いですか?」
「大丈夫ですよ。きっと彼女も心配しているでしょうし」
「ありがとうございます」
「但し、足元には気をつけてくださいね」
「わかりました!」
伊作は立ち上がり保健室に散乱している薬箱や包帯などを注意深く避け、保健室前の戸に辿り着く―――
「え?うわああッ?!」
はずだった。
伊作は戸の縁に足を取られてしまい、派手な音を立てて廊下へ倒れてしまった。先週同級生の食満が、滑りが悪いからと油を塗っていた事を今更ながら思い出した。
「大丈夫ですか?!」
「あ、大丈夫……です……」
自分の不運を嘆きながら、立ち上がろうとして手に力を入れたときだった。雲に覆われていた空が晴れ渡り、まん丸の満月が顔を出したのである。
廊下が白く照らされて視界が良好になり、伊作はそのとき初めて何が起きているのかを理解した。
廊下にいるはずのは壁に寄り掛かっていた。瞳を堅く閉じているの、背中から腰にかけてが、赤黒く染まっていた。廊下にはの流したと思われる大量の血が、まるで水溜りのように広がっているではないか。それは、の赤毛よりも鮮明なものだった。
「ちゃん!?」
伊作は驚愕して飛び起き、の頬に触れる。の頬は冷え切り、この月明かりの下でもわかるくらい真っ白になっている。
「いったいどうしたんですか?……これは……っ?!」
「?!くそ……っ何やってんだよ!」
「!どういう事なんだ、これは?!」
「ちゃん?!やっぱり、門の前にあった血はちゃんのだったのか……!」
駆け付けた5年生たちがと同じく真っ青になる。
「いったいどういう事です?」
「暗くて気付かなかったんですけれど、コイツ怪我したままここまで久々知を運んできたみたいなんです」
半泣き状態になっている雷蔵の肩を労わる様に触れ、三郎はを見つめた。
「失血もあるでしょうが、これは恐らく毒でしょう。とにかく、急いで処置する必要があります。伊作くん、熱いお湯を沸かしてきてください」
「それならオレがやります!」
竹谷が立ち上がって食堂の方へと駆けて行く。
「新野先生の傍には伊作先輩がいてください。僕らも手伝います!」
「わかりました。伊作くんは包帯と消毒の準備をしていてください」
「はい!」
「鉢屋くんは学園長に報告してきてください。不破くんはさんを運ぶのを手伝って」
「「はい!」」
三郎が学園長の元へ急ぎ、雷蔵はの手首に触れる新野の隣で拳を握って無事を祈った。
だが、新野が口にした言葉は酷く残酷なものだった。
「脈が、ありません……」
「そんな……っ?!」
新野はの口元に手を翳してみる。しかし、から感じる呼吸は無い。所謂心肺停止状態だ。
涙が溢れ出そうになる雷蔵を、新野は叱りつけた。
「しっかりしなさい!まだ間に合います。慎重に運びますから、手伝ってください。泣くのはそれからです」
「はい……!」
雷蔵は流れた涙を乱暴に拭うと、を保健室へ運び込んだ。
「ちゃんの呼吸は奇跡的に戻って、心臓も動き出した。だけど、意識が戻らない」
「それってつまり……」
伊作は残念そうに瞳を細める。
「危篤状態なんだ。学園長先生の指示で、ここよりも良い治療が出来る町の診療所まで連れて行くつもりでいるよ。今準備中で、だから面会は出来ない」
久々知は伊作の一言一言で心臓が止まりそうになる。
「そんな……」
……、オレ……目が覚めたら、お前に言いたい事……が、ある、んだ……。
うん。
本当に……たくさん、たくさん……あるんだ。……きいて、くれるか……?
うん。だから今は眠って、久々知。後はあたしに任せて、ね?
(『任せて』って……、そう言ったにオレは甘えてしまった。もっと早く怪我に気付いてやれていたら……!!)
久々知はただ茫然とする事しか出来ない。視界がどんどん狭く暗くなっていくのを感じる。後悔と絶望で何もわからなくなってくる。
だが、1つの疑問が浮かんできた。
「でも、は解毒剤を持っていましたよ?毒でどうにかなるなんて……」
久々知の記憶では、は解毒剤を自分に差し出して飲ませてくれた。だからこそ今の自分があるのだ。そのが解毒剤を使っていないなんて事はありえない。
伊作は一瞬言葉にする事を躊躇った。大変言い難そうに口を開く。
「ちゃんは、解毒剤を1つしか持っていなかったんだよ」
久々知は、今度こそ鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
口が上手く回らない。声が震えてしまう。何も言えずにいる久々知に代わって伊作が言った。
「彼女はきっと、久々知が毒に侵されていたらと思ったんだろうね。だから自分には使わず、キミのために―――」
「伊作先輩」
久々知の声は静かだった。
静かで、頼りない子供の声。
「オレは……どうすれば良いですか?」
「久々知……」
「どうすれば、良いですか……?」
きつく拳を握り、項垂れて『教えてください』と、消え入りそうな声で久々知は問いかけた。伊作は答える術を持っていない。
その問いには、ここにいないだけが答えられるのだろう。
14危篤