
気が付くとオレは布団から飛び起きていた。
全身は汗でびっしょり身体が濡れていて、心臓がバカみたいに強く鳴りっ放しだ。癖のある長い黒髪も汗で濡れているせいで額や頬に張り付き気持ちが悪い。
(夢……か……)
そう、あれは夢だったんだ。あの顔の無い見知らぬ女性も、翡翠の腕輪も、全て夢の中の出来事。胸を押さえて呼吸を整えようと、オレは心の中で印を唱えた。
隣を見れば、既に同室の勘右衛門の姿は無い。厠にでも行ったのだろう。この朝日に満ちた部屋には、オレという人間だけしかいない。あの黒髪の女性もいない。あれだけ海のように広がっていた鮮血も、今は堅い床に変わっている。
汗で濡れた夜着を脱いで、肌を朝の冷たい空気に晒す。熱を持った身体が冷えて心地良く感じた。
オレが勘右衛門よりも起床が遅いなんてまず無かったことだ。それくらいここ最近ずっと疲れているような気がする。恐らくに好きだと告げた夜よりも前から。
オレはものすごく、好きな相手と肌を合わせた。その相手はだった。
好きで好きで好きで、本当にどうしようもないくらい好きだった。
他の何もいらなくなるくらいに、強い熱情を抱いた。そして、その熱情のままに彼女を抱いてしまった。
オレはいったいどうしたんだろうか?こんなにも早急に事を始めようとしてしまうなんて、普段ならありえない。
けれども、自分の心であるはずなのに上手く操ることが出来ない。自分のことなのに、自分がわからなくなる。
わからないことと言えば、オレ以外の生徒全員がおかしい。なぜかオレを見る度に、居心地の悪そうな、腫れものにでも触るみたいな顔をする。そして、口を開きかけては閉じ、話そうとしている事とは別の話題を持ち出すのだ。
オレにとって近い存在である勘右衛門、雷蔵、三郎、八左ヱ門は何度も『さん』という人のことを口にする。オレがその人を知らないと答えると、『本当に忘れたのか?』と驚く。
オレは乱れた夜着を整えて部屋を抜け出した。朝日がまだ強い光に慣れない目を直撃して眩しい。何度か目を瞬かせて、朝焼けに燃える空を見上げた。
知らない人間を知らないと言って何がいけない?
どうしてそんなに驚く必要があるんだ?
だけど、イライラする。もやもやする。
不安な気持ちにかられて、ふとの事を考える。するとすごく安心出来て、苛立った胸の内が温かい陽だまりに似た感情に変わっていく。の笑顔がずっと見ていたい。を見ていると楽しくなって落ちつく。
オレは、が好きなんだと自覚する。だけど、いつから好きなのかが全くわからない。オレは、自分の恋にも気付けないくらい鈍感な人間だったのだろうか?
おかしなところはまだまだある。
赤い髪の彼女のことを、なぜか黒い髪だったのではないかと思ってしまう。は普段そんなに笑ったりしないはずなのに、控えめに、まるで大人の女性みたいに笑うような気がしてくる。
の事を考えると安心出来るのに、その次に訪れるのはいつも不安だった。
いつもいつもいつも、いつも。
名前で呼びたいのに、それも出来ない。躊躇する自分がいる。名前くらいどうってことないっていうのに、なぜだか呼んではいけない気がする。
オレは大きく息を吐いて再び部屋に戻る。戸を閉めて目を閉じた。
とにかく、今日はこの事を考えない様にしなければならない。今日は、と一緒に町へ行くのだから。
気を取り直して着替える。衣擦れの音だけが部屋に響いた。袖を通し、手慣れた動作できっちりと帯紐を締める。髪は井戸で顔を洗うときに一緒に洗ってしまえば良い。
そういえば、町へ出掛けるのに財布の中身を確認していなかった。
オレは机の引き出しから財布を取り出そうと手を伸ばした。すると、何か冷たく硬い物に指がぶつかる。指をその冷たい物に絡めると、ある形が脳裏に浮かんだ。
「ま、さか……?!」
顔の無い、女性の姿。
ごくりと唾を飲み込んでから指に触れている物を掴み、引き出しから出してみる。
掌にあったのは、夢で見たあの淡い緑色の腕輪だった。
オレの夢に出て来た翡翠の腕輪が、小間物屋で売られている腕輪に重なって見えた。
その瞬間、オレは言いようのない恐怖に襲われて頭の中が真っ白になってしまった。恐怖と同時に感じたのは強い消失感だったが、いったい何を失ったのかは全くわからなかった。
何を失ったかわからない。それなのに、失ったことだけはわかるなんて不可解だ。
オレは心配そうにオレのことを見ている花本に言った。
「なぁ、。オレは……、忘れていることなんて無いよな?アイツらが言うっていう人のことも、ただの勘違いなんだよな?」
この質問はただに肯定して欲しかっただけだ。
オレは何も忘れてなんかいない。という人のことも、夢に出て来たあの女性も、翡翠の腕輪も、全てがただの勘違い……ただそう言って欲しいんだ。
はそれに答えてくれた。震えが止まらないオレのことをしっかりと抱き締め、優しく安心させるように言う。
「大丈夫よ、久々知。久々知は何も忘れてなんかいない。怖いことがあっても、久々知はあたしが絶対に助けるよ」
違う。
これは、オレが言わせた言葉だ。
でも、今はその優しさに縋りたい。
「……!!」
オレはの唇に勢い良く自分の唇を押し当てた。不安をという存在で埋め尽くして消してしまいたかった。
ただ逃げているとわかっていても、オレは瞳を閉じての温もりを唇から感じ取ることに集中する。
真実を突き止めるのが怖かった。
と町へ出かけてから1週間ほど経った頃、5年生の実習訓練である戦の調査に出かけることになった。つまり、野外演習である。
座学中にもその話はされていたが、改めて廊下に出ている掲示板を見た。予定では明日から5日間とのことだが、戦の場に赴くのは何度も経験している。だから特に緊張というものは無かった。
掲示板の前に立っていると勘右衛門がやって来る。食堂に行っていたのか、みそ汁の香りが勘右衛門から漂ってきた。
「あ、兵助!明日の野外演習で、何か心配な事でもあるのか?」
「いいや。それよりも勘右衛門、今夜自分たちの配置について確認するぞ」
「わかった。……ああ!?」
「何だ、急に大きな声を出して」
勘右衛門はポンと手を軽く叩いて慌てたように言った。
「さっき土井先生が火薬の準備を手伝ってくれって言ってた。明日使う火薬もあるだろ?多分それのことだと思う」
「わかった。それじゃあまたな」
「またな!」
オレは勘右衛門と別れて火薬倉庫へ向かう。
野外演習では焙烙火矢や鉄砲も使うことになっているから、火薬委員会は総出で最近まで準備をしていた。昨日で完了したものと思っていたが、どこかにミスがあったらしい。
この後彼女に演習前の挨拶をしたいと思っていたので、さっさと終わらせてくのたま長屋へ行こう。さえ笑ってくれていたら、オレは嫌なことも不安なことも全部忘れることが出来るのだから。
人を好きになるっていうのは楽しいことばかだと以前は考えていたが、それだけじゃなかった。
……ん?
以前って、いつだ?
廊下の角を曲がったところで、その疑問にぶつかり足を止める。一瞬だけ目の前の世界が遮断されて、疑問の言葉が自分の中で大きくなるのを感じた。
以前というのは自分で思ったくせに、それがいつなのかがまるでわからない。
またオレはわからないのか……!?
顔を顰めて俯いていると、人の話し声が耳に飛び込んできた。それは、庭で話しこんでいる小松田さんと学園長先生だった。このとき、なぜだかオレはこの2人の会話が気になった。こっそりと足音を立てない様にしながら物陰に移動した。
小松田さんは文を懐から出して学園長先生に差し出している。
「学園長先生、久々知くんのご実家からの文がまた来ています」
オレは小松田さんの言葉に耳を疑った。
なぜオレの実家から来ている文を、小松田さんが学園長先生に差し出すのだろうか?
学園長先生は、小松田さんからその文を受け取ると、じっと神妙な顔で見つめた。
「恐らく久々知の許婚の死に関するものじゃろうな。久々知本人は殿に関する事を忘れているが……まだ理解をする時期ではないじゃろうて」
「そうですよね……。落石事故で亡くなっただなんて、思い出したら……」
オレの許婚、落石事故……。
亡くなった……。
殿。
殿。
……。
、姉さん……!!!
「学園長先生!!」
「久々知……?!」
オレは庭に飛び出し、学園長先生に駆け寄っていた。驚いた表情をしている小松田さんが『うえ?!』と奇妙な声を上げたが、今はそんなことどうでも良い。
オレは学園長に呼びかけたのとは全く逆に、暗く、静かな声で願い出た。
「その文を………どうか、読ませてください」
真実を知るために。
夕方、あたしは保健委員会の仕事で薬棚の整理をしていた。
明日から5年生は野外演習がある。久々知の様子はまだ不安定で、とても心配だ。
あんなにも怯えている久々知を見るのは初めてで、本当に驚いたけれどあの姿もまた久々知本人なんだ。
結局糸を使って久々知から嫌な記憶を消したつもりでいたけれど、完全に消すことは出来なかった。それに、嫌な記憶以外の不安も与えてしまった。
あたしは何も久々知の力になれていないんだ。そう思うと、胸がぎゅっと潰されるみたいに苦しくなった。
棚の引き出しを閉じたとき、左手の小指に結ばれた赤い糸がくいっと引かれたような気がした。それと同時に戸が開く。外の空気と一緒に入ってきたのは久々知だった。
「久々知?」
久々知は息を切らして肩を上下に揺らしている。
「久々知……どうしたの?そんなに急いで」
「……。話がしたい。伊作先輩、少しの間をお借りしますね」
「あ、ああ……」
久々知の突然の登場に驚いている先輩だったけれど、久々知の威圧感に押されて首を縦に振った。
あたしは既に嫌な予感を感じていたけれど、逃げる事は出来なかった。
久々知と一緒に、今は殆どど使われていない倉庫の裏に移動する。久々知はあたしに背中を向けたまま、こう切り出してきた。
「は、オレは何も忘れていないって……そう言ったよな?」
「……ええ、言ったわ」
「それは、誰のための嘘だ?」
久々知はゆっくりと振り返った。黒い瞳の眼光が強まって、あたしのことを睨みつけている。初めてあたしは久々知に今睨まれている。
「う……そ……?」
呼吸が速まっていく。
指先がどんどん痺れていて動かせなくなっていく。
「そう、嘘だ。お前は、オレに姉さんという許婚がいて、その許婚が……落石事故で亡くなったことを、嘘で覆って、そんなことは無かったと主張したじゃないか」
「久々知…思い出したの?さんのことを……」
「ああ……。実家からの手紙を読んだ。姉さんの葬儀に出なかったことや、さんの実家のことが書かれていた。学園長先生はそれを意図的に隠していらっしゃったが、全部思い出した。この翡翠の腕輪のことも」
「……っ」
久々知が懐から出した翡翠の腕輪が、夕日で赤く染まっている。けれども、あたしはその腕輪が本来柔らかな緑色であることを知っている。
久々知は険しい顔をしたままあたしに言った。
「どうして……嘘なんかついていたんだ!オレは姉さんのことを忘れたくなかった。忘れていた理由はわからないけれど、忘れているというのなら無理にでも思い出させて欲しかった……!オレは……ずっと姉さんのことを覚えていなくちゃいけない。姉さんが望んでいたことを、全て叶えなくちゃいけないんだ!もう……、他にオレに出来ることはないんだからな……っ」
指が白くなってしまうほどに久々知は掌の腕輪を握りしめて訴える。怒りや悲しみで震えている久々知を見て、自然と涙が零れ出てしまいそうになる。けれどもあたしは必死で堪えた。ここで泣いたりすることは、絶対にしてはいけないと思うから。
「どうして嘘をついていたんだ?オレが、姉さんを大切に想っていたのは知っていただろう?」
「あたしは―――」
言いかけるが、いったい何を言えば良いのかがわからない。
あたしには赤い糸が視える?糸を断ち切って、さんを殺してしまったのはあたし?記憶が無いのはあたしと糸を結びつけたから?
真面目な久々知にはとても信じてもらえそうにない話しだ。
変な目で見られる。気持ち悪いと思われてしまう。
そんなの嫌だ。
脳裏に浮かんでくるのは、竹谷のあの言葉。
お前、本当は―――
久々知はあたしがいつまで経っても答えないことに苛立ったのか、足早に近づくとあたしの右手を掴み上げた。直ぐ目の前に、久々知の怒った顔が映って思わず逸らしてしまった。
「それが……、のオレに対する返答か?」
「……」
「オレのことが好きだって言ったことも嘘だったのか……?!」
「……」
何かを言おうと口を開く度に、喉が引き攣って声が出てこない。
黙っているあたしに久々知はするりと力なく手を離し、失望したような声で言った。
「……どうして、お前のことを嫌いになれないんだ……」
その言葉に、今度こそあたしは涙を一筋零してしまった。
夕焼けの中立ち去って行く久々知の背中を眺めるだけ。足は地面に縫い止められたように動いてくれない。
久々知を裏切ってしまったあたしには、彼を追いかけることなんて出来やしないのだ。
次の日から5年生は予定通り野外演習へと出かけて行った。
そして、演習開始から5日後……
5年い組の久々知兵助は、その消息を完全に絶った。
11崩壊