
は、午前中の授業を終えて食堂で昼食を食べる。
忍たまとくのたまの授業は時間が被らないことが多いので、久々知と一緒に食事をすることは珍しい。
久々知と赤い糸を結んでから、食事を共にしようと誘われるのだが、は『授業を優先して欲しい』と頼んで断っている。
に恋をしている久々知は良いかもしれないが、からすると相当精神的負担が大きい。久々知と赤い糸を見る度に、胸の奥がズキズキと痛んだ。
(この痛みはあたしが受けるべき痛み……。耐えなくちゃちゃダメだ)
久々知が受けるはずのなかった痛み。が自分の手で引き起こした地獄ならば、自分で背負わなければならない。
自分に強く言い聞かせる。は食事を終えると賑やかな食堂を後にする。廊下を出ると、演習を終えた5年ろ組のメンツとバッタリ合ってしまった。
「あ……」
思わず呟いた雷蔵。
庭で話したっきりだったので、お互いに微妙な空気が流れる。足がなかなか動かない。
先にが行動に出た。何も言わずに視線を逸らし、竹谷の横を足早に通り過ぎようとするが、竹谷の腕がの細い腕に伸びた。腕を掴まれては強制的に立ち止まり、不満げな顔で竹谷に振り返る。
「何かあたしに用?」
「この前のことだけど、さ……」
まだ何かあるのかとの視線が鋭くなったとき、竹谷は頭を思い切り下げた。バサバサの髪がその動きに合わせて揺れるのを、はポカンとした表情で見つめた。
竹谷はそのままの姿勢で言った。
「ごめん!」
スッと顔を上げると、申し訳なさそうに太い眉を垂れさせる竹谷がいた。後ろの雷蔵もまた同じような顔、三郎は頬を指で掻いて居心地悪そうにしている。これは竹谷が3人を代表して謝っているということだ。
なぜ竹谷が自分に謝るのかがわからず、は思った通りのことを口にした。
「な、何が……?」
「だから、この前、お前のことを責めるみたいなこと言って―――」
「あーもう、ここで話すことじゃないでしょ?別の場所に移動しましょ」
「ちゃん……」
心配するように雷蔵が言えば、はふぅと息を吐いて苦笑する。
「あたしも……ごめんね」
と3人はまた庭に移動した。この時間帯ならば、生徒たちは食堂へ向かうので人気も少ない。青い空だけがたちのことを見ている。
「兵助がおかしくなったのはお前とは関係無いことなのに、八つ当たりみたいなことをして悪かった」
三郎の言葉にの心臓が強く脈打つ。しかし、はそれを顔には出さない。
「……別に平気よ。久々知は今、さんのような存在を欲しがっているだけ。いずれはあたしから離れるわ」
赤い糸を結んで、久々知に幸せな時間を与える。を失った傷が癒えるのを待ち、時が満ちたら蝶々結びにしたこの糸を外せば良い。
「僕たちは確かに兵助のことも心配だけれど、ちゃんのことも心配だったんだ」
「え……?」
予想もしない話には目を大きく見開いて雷蔵を見た。雷蔵は頷き、他2人も同じように頷いてみせる。
「さんが亡くなってからずっと元気が無かったよね?ちゃん、自分では気付いていなかったみたいだけれど、兵助よりもずっと落ち込んでいるように見えたよ」
「そう……かな?」
が事故死したときからというより、2人を結ぶ糸を切ってしまったときからは精神に深刻な痛手を負っていた。
久々知のことで頭がいっぱいだったため、本人はまるで気付いていなかったようだ。
「兵助のことが心配だったんだろ?」
竹谷の問いかけには素直に頷いた。
「、私たちは兵助のこともそうだが、お前のことも……その、気にかけている。何かあったら言えよ」
三郎は少々恥ずかしいらしく、ぶっきらぼうに言った。
3人の温かく優しい気持ちが、さらにの心を深く浸食していく。
(あたしは、久々知だけじゃなくて皆にも迷惑をかけていたんだ……。自分で何とかしようと思っているのに、結局何にも出来ていないじゃない!!)
自分の無力さを知ったは軽く拳を握る。
「心配かけて、ごめん。だけど、あたしが久々知の友達として出来ることが他に思いつかなかった。だからもう少し、久々知の恋人でいてあげたいの。本当に辛い事が起きたら、やっぱり誰だって縋りつきたくなると思うから……」
縋る様な気持ちでは忍術学園に編入してきた。それと同じ気持ちを久々知は味わっているのだろう。
「……わかった。でも、あまり無理すんなよ」
「僕たちは兵助だけじゃなくて、ちゃんの友達でもあるんだからね」
「いつでも私たちに声をかけろよな」
「……うん、わかった。ありがとう」
今上手く笑えているだろうか?と、は自分に問いかけた。
「今日は晴れて本当に良かったな」
「そうだね。晴れて良かった」
と久々知は町に遊びに来ていた。
5年ろ組と和解した日の夕方に、久々知が今度の休みに遊びに出かけようと誘ってきたのである。今のには拒否権は無い。二つ返事で了承した。
外へ出るのは久々知とへの贈り物を選んだ日以来である。は久しぶりに小袖に身を包んだ。腕をぐうっと伸ばしてみる。それを横で見ていた久々知は、『やっぱりな』と呟く。
「やっぱりって何よ?」
「ここのところは疲れていると思っていたんだよ。化粧で隠しても潮江先輩みたいに隈が酷いぞ」
「…………」
「どうかしたか?」
「別に。ただ、あたしの周りは心配症が多いと思っただけ」
「?」
の脳裏にあの3人の顔が浮かんでくる。
「それとも、部屋でゆっくりしていた方が良かったか?」
「ううん、そんなこと無い。誘ってくれてありがとう」
にとっても息抜きにはなるが、久々知も忘れているだけで相当な負担があったはずだ。久々知のためにもは今日という日を楽しまなければならない。
町をブラブラと散歩しながら、久々知はふと何かを思いついたように言った。
「そうえいば、前にもと一緒に町へ行ったよな」
(まずい……っ!)
「そのときは何で一緒に出かけたんだったか……」
あの外出は、久々知がのために贈り物をしようとしたからだ。そのを思い出させてはいけない。
「あたしたちは付き合う前だって友達だったじゃない。一緒にどこかへ遊びに出かけてもおかしくないでしょ?」
は内心ひやひやしながらも久々知にそう言うと、久々知も『確かに』と頷く。
「まぁ……、それもそうだな」
「そうそう!あっ、あそこの茶店に行かない?あたし甘い物が食べたくなっちゃった」
「おいあまり走ると転ぶぞ?」
はぐいぐいと久々知を引っ張って近くにあった茶店へ急ぐ。腕を引っ張られる久々知も口では咎めるものの、顔は優しい笑みを浮かべている。
(この笑顔は、全部あたしじゃなくてさんに向けられるべきものなんだ)
茶店は評判が良いようで席がほとんど満員状態だった。しかし、タイミングが良かったのか、久々知とはすんなりと席へ通された。
茶店にはカップルが多く、餡団子よりも甘い雰囲気が飛び交っている。
(うへぇ、赤い糸が……っ!!)
赤い糸が床に這い、の視界を悪くしている。だが、一度入ろうと言い出したのはなので引き返すことも出来ない。足元に気をつけながらは席に座った。向かいには久々知が座る。
「、顔色があまり良くないぞ?」
「あ、ああ……気にしないで。きっと店の雰囲気に酔ったのよ」
「ああ、そういえば恋仲のヤツが多いみたいだな」
久々知は至って平然とした様子だ。品書きを上から下へと眺めている。
(そういえば前にもこんな店に来たとき、久々知は普通にしてたっけ……)
恐らくと一緒にこういった店にも良く入っていたのだろう。
久々知は通りかかった店員に声をかけた。
「すみません」
「はい、お伺い致します」
「羊羹とみたらし団子をお願いします」
「はい、畏まりました。少々お待ちくださいね」
愛想の良い店員はにこりと微笑み、店の奥へと消えていく。
「ちょっと、久々知」
「何だ?」
「まだあたし何も選んでいないんですけれど?それとも、羊羹とみたらし団子は久々知が食べるの?」
の文句に対し、久々知は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。黒い大きな瞳が疑問を滲ませてのことを見ている。は思わず首を傾げた。
「久々知……?」
「だって、は羊羹が好きだろう?」
「え……?」
今度はが先ほどの久々知と同じ状態になる。
久々知は自分に問いかける様にぶつぶつと呟く。
「いや……、でもと付き合ってから今日初めて外に出たはず……」
「久々知……、あたしは羊羹よりどちらかといえばお団子の方が好きなんだけど」
「……え?」
2人の間に不思議な静けさが訪れた。
ここでハッとなる。の背筋に嫌な汗が伝う。心臓が早鐘のように鳴り響き、手が痺れてくる。
(もしかして、久々知はさんの好物をあたしの好物だと勘違いしている……?!)
記憶が無くても、久々知はのことを無意識に表してしまっているらしい。
良く思い起こせば、久々知は学園を去るへ土産にと羊羹を手渡していた。羊羹はきっとの好物だったに違いない。
「ごめん……。オレ、誰かのことと勘違いしているみたいだ」
落ち込む久々知に、は首を力いっぱい横に振った。
「あたしは羊羹も好きよ。だから気にしないで」
「そうか……良かった」
久々知が再び笑顔に戻り、はホッと胸を撫で下ろす。
やがて運ばれてきた羊羹とみたらし団子を摘まみながらも久々知も会話に花を咲かせた。
を失ったときの久々知が、まるで嘘のように柔らかく笑う。その姿が見られては心底嬉しくなって、同じように微笑んだ。
会話に区切りが訪れたとき、久々知は黒い目を細めて言う。
「オレ……今すごく幸せだ。お前といると胸が温かくなって安心する」
「そう……。それは良かったわ」
久々知は天然だと良く言われるのだが、あまりにストレートな好意の表し方にも流石に照れる。
(これはさんに向けられているものなんだけどね)
しかし、次の瞬間に久々知の表情は曇る。
「だけど……」
「?」
「が他のヤツと一緒にいると、イライラして落ちつかなくなるんだ。この前お前がろ組と一緒にいるのを見て、頭に血が上った。あの3人には後で謝ったけれど……何だかオレ、変だ」
「久々知……」
普通の恋仲同士なら、彼女としては嬉しいはずの嫉妬。だが、はこの久々知の言動に言葉を失った。
久々知は、美しく気品があったが、他の男に言い寄られたりしないかを心配していたことがある。けれども、が他の男と一緒にいるんじゃないかと疑ったり嫉妬などは一度もしたことが無かったのだ。明らかにのときとは違う感情である。
(久々知は……、あたしをさんと重ねて見ているわけじゃないの?……でも、強制的にあたしを好きにさせているのは事実だ。あたしに向けられているものだとしても、それは本当の恋じゃない)
赤い糸から伝わる久々知の感情は恋心のような甘いものだけではなく、嫉妬というチクチクした痛みも混ざっている。
「ごめんな、嫉妬深くて。何か……恰好悪いよな」
「い、いや……謝らなくて良いから。あたしは、そういう久々知の素直なところが好きよ」
は久々知が悲しんだりしないように笑顔で受け答える。
「あたしは……久々知が幸せで、笑ってくれたらそれで良いのよ」
これは紛れもない本心である。だから赤い糸を結んだ。
の返答に久々知は何か不満に思う処があるらしく、眉間に少々皺が寄る。
「久々知?」
「……は、ときどきオレを突き放すようなことを言うな。それで良いって、まるで他には何もいらないみたいだ」
は自分の言った言葉を思い出してみる。相手が幸せならそれで良いという考え方は、相手の幸せを願っているけれど、どこか遠くに感じる。
「今に始まったことじゃないけれど、はもっと周りを見た方が良いと思う。1人で何でも抱え込むところがあるだろう?」
「久々知に言われるとは思わなかったわ」
「そうだな。オレも似たところがある。だから、もっと欲張りになろうと思う」
ニッと強気な笑顔を向けられて、は頬に熱が集まるのを感じた。
(やっぱり変だ。久々知は、さんがいればそれで良いっていう考えだったのに、今は違う人みたい……)
は恥ずかしさを誤魔化すように、『茶店からそろそろ出よう』と久々知の手を取った。触れた久々知の手は、普段感じるよりも大きくて異性であるということをに思い知らせた。
町で散々遊び、気付くと日が傾いて山の向こうへと姿を消そうとしていた。町を歩く人々も昼間と比べると減ってきている。
久々知は風に黒髪を靡かせながら言った。
「そろそろ戻るか」
「そうだね。今帰らないと夕食を食べ損ねそう」
問題無く久々知との逢引きを済ませることが出来ては安堵した。これから先も、久々知の心を癒すために精一杯出来ることをしよう。そう思ったとき、久々知はある一点を見つめて立ち止まる。
「ん……?」
「どうしたの?」
久々知は通りにある小間物屋に目を奪われた。
店の前まで移動すると、色々な雑貨が並べられていた。美しい彫り物のされた櫛や繊細な細工のされている簪など、女が喜びそうなものが多く置いてある。手拭や結紐も綺麗に並べられている。
「、何か欲しいものはないか?」
「えっ?いや、そんなの悪いよ」
「気にするなって。オレがに贈りたいんだ」
が久々知の申し出に考え込んでいると、店の奥から初老の女が現れた。人当たりの良さそうな笑みを浮かべて久々知に皺枯れた声で話しかける。
「いらっしゃいまし。何かお探しでしょうか?」
「彼女に何か似合うものはありませんか?」
「まぁまぁ可愛らしいお嬢さんですね。今若い女の子に人気のものがありましてね……」
「もう……。私、買ってくれなんて言ってないのに」
そう言って店主は久々知とに数珠状の透明な腕輪を差し出した。水晶で出来た腕輪である。シンプルだが、逆に珠の美しさが光る。
(腕輪……)
久々知がに贈ったものと良く似ている。
腕輪を差し出された瞬間、みるみる内に久々知の顔色が悪くなっていった。サーっという音が聞こえてきそうなくらい血の気が引いていく様子をは見逃さなかった。
「あ……っあぁ……?!」
「久々知?!」
「あ、ちょっとお客さん…?」
久々知は何か恐ろしいものでも見たかのように頭を左右に振り、店から逃げるように駈け出してしまった。は久々知より一拍遅れてその後を追いかける。
久々知は町からどんどん離れ、茜色に染まる小道を走り続ける。男の足をに追いつくのは難しいが、も必死になって地を蹴った。
ようやく久々知が足を止めたのは林の中で、その場に蹲っているところをようやくが見つけ出した。久々知肩で息を乱していたが、それは走った疲れだけではない。
「どうしたの?久々知……具合が悪いの?」
久々知は背中を擦るの問いかけに首を横に振る。ガタガタと寒さに耐える様に自分を両肩を抱く。
喉から絞り出すように震えた声が、青くなった久々知の唇から零れた。
「今朝……、オレは買った覚えのない腕輪を自分の引き出しから見つけた」
「?!」
「緑色の翡翠の腕輪だった……。オレは腕輪なんて身に付けないし、ましてやアレは女の腕にしか入らない。……さっきの店で腕輪が、緑色に見えたんだ。翡翠の腕輪みたいに。……ただそれだけのことなのに、どうしてか恐ろしく感じて……。他にも、自分の記憶にないことがあるんだ。だけど……、身体が覚えているみたいに勝手に反応する」
知らないはずのことを知っている自分がいる。
そんな自分を、久々知は知らない。
じわじわと額や手から嫌な汗が滲んでくるのを感じて、久々知はぎゅっと瞳を閉じた。
は久々知が感じている恐怖の正体を誰よりも知っている。しかし、ここで言う事は出来ない。もしもそのことを言ってしまえば、久々知は再び闇の中へ身を置くことになってしまう。
久々知は不安げにを見つめる。
「なぁ、。オレは……、忘れていることなんて無いよな?アイツらが言うっていう人のことも、ただの勘違いなんだよな?」
この問いかけは、に肯定してもらうことで安心を得たいからだ。そのことは久々知自身良くわかっているだろう。
は、久々知が欲しい言葉を捧げるだけだ。久々知の身体を強く抱き締めて、耳元で優しく囁く。
「大丈夫よ、久々知。久々知は何も忘れてなんかいない。怖いことがあっても、久々知はあたしが絶対に助けるし、護るよ」
「……!!」
久々知はを一度引き離すと、噛み付くように唇に強くのそれに押し当てた。
熱い体温が唇を通して伝わってくるのを感じながらは目を閉じた。微かに震えている久々知の唇を慰める様にも強く口付ける。あの日抱かれた夜にも口付けはしなかったので、これが2人にとって初めての口付けである。
久々知の中に渦巻いている嫌なことが、全て消えてしまうように心から願った。
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