は城の厨房を借りてある料理の下準備をしていた。とは言っても、こことは違う世界から来た眞澄にとって、文明化されていない釜戸に火を点けるのは難しい事だった。加えて火加減が上手くいかず、何日も前から練習をしている。
「ちゃんと出来るか不安だな。……だけど、それより……」
は汗を手拭いで拭き、戸を開けて空を見上げた。この世界では、時間を正確に知る事はなかなか難しい。太陽の位置や影で時間を知る術を彦兵衛から教わったが、正直よく分からなかった。
暫く外を眺めていると、厨房に急ぎ足で侍女が入って来た。
「様、ご友人がお見えになりました」
「わかりました。直ぐに行きます!」
「あっ、お待ちください!私共がお呼びに参りますので―――」
「大丈夫です!私が迎えに行きたいので!」
は割烹着をサッと脱いで焦る侍女に預けると、パタパタと広い木目の廊下を駆け抜けた。
正門までは本当に遠い。この城が今のにとって自宅なのだが、あまりにも広いので走って移動する事が多い。東京ドーム何個分かは知らないけれど、とにかくそんな規模の敷地面積だろう。
(陸上部で良かった)
体力には自信があったので、そこまで不便は感じていない。けれども、こうして人が訪ねてきたときに直ぐ会えない事にだけ関して不便を感じている。
走って身体が汗ばんで来た頃、ようやくガッチリと構えている正門が見えてきた。その門の前で談笑している4人の姿が見えてくる。
「皆ー!」
「お、姫サン自らお出迎えか」
「さん、こんにちは」
「!元気だったか?」
「走って来たんですか?もっとゆっくりでも良かったですよ」
そう言って久々知が気遣い、持っていた竹筒を差し出してくる。せっかくなのではそれを礼を言いながら受け取った。竹筒の冷たさが肌に染みるようだった。
「実習だったんでしょう?お疲れ様」
「ま、オレたちにとっては簡単だったけどな!」
得意気に竹谷が白い歯を見せて笑った。
今日光陽国の近くで実習があるので、その帰りに立ち寄るという文を1週間ほど前に受け取っていた。
忍術学園から離れた場所にあるこの国でとりあえず暮らしているにとって、こうでもしないと彼らに会う事は出来ない。わざわざ来てもらうのも、こちらから訪ねるのにも迷惑を掛けてしまうと考えたからだ。もちろんの考えとは逆で、誰も迷惑には思っていないのだが、気負いしてしまう事を配慮して周りはの意思を尊重している。
「あのじいさんはいないのか?」
「そういえば。きっと最初に出迎えてくれると思っていたのに」
雷蔵がきょろきょろ見回しても、彦兵衛の姿はどこにも無かった。はというと、薄ら笑いを浮かべている。
「仕事で今日は出かけてるんだよ。それより、もう準備してあるから早く入って!」
「あ、はい。それじゃあお邪魔致します」
「お邪魔するって感じでもないけどな」
「だよな〜」
丁寧に頭を下げる久々知の隣で、三郎と竹谷が顔を見合わせて笑う。それもそのはず。この光陽国に少し前まで出入りを頻繁にしていたのだから、勝手知ったる他人の家状態である。
に案内され、4人は厨房へと移動した。流石に城の厨房というだけあって、30人は作業出来そうな広さがある。忍術学園の規模と比べて、4人は思わず歓声を上げた。
隣接している食堂はそれよりも倍以上に広い。きちんと手が行き届いており、埃1つ落ちていない。厨房から1番近い長机の上に、鮮やかなクリーム色のどろっとした液体が入っている桶が乗っている。そこからは、甘い香りがふんわりと漂っている。
「おー!これが噂のアレか!?」
「さんの世界の食べ物、ですね?」
「うん、そうだよ。コレがホットケーキ。正確にはホットケーキの種、だけどね」
以前、の世界にある料理についての話になったとき、物珍しい料理ばかりだったので、作れそうなものがあれば食べてみたいと4人から要望が出た。眞澄も自分で久しぶりに料理を作ってみたいと思い、この世界で出来そうな料理を検討した結果、ホットケーキに至った。
神妙な顔をして久々知が桶を覗き込んだ。
「兵助くん、どうかした?」
「【ほっとけ液】とは随分けったいな飲み物だと思っていましたが……」
「え?!
ほっとけ液?!」
「ほっとけ液はおやつのときに食べるって聞いてたけど、確かに甘い匂いがすんな」
「何だかドロドロしてるぞ」
三郎が怪しんで桶を掴んで揺らしてみる。濃い黄色の液体がそれに合わせて波打った。
「要するにコレを飲むわけですね?」
「ち、違うよ兵助くん!皆も!これを今から焼いて、その焼き上がったものを食べるんです!!」
桶に入ったホットケーキの種を飲み干そうとするところで、は間一髪久々知から桶を奪還出来た。もしこのまま久々知に飲まれていたら、きっとの世界の料理を好きになってもらえなくなるだろう。
「皆で焼いて食べようと思ったから、種のままにしておいたんだよ。私の世界の料理を肌で感じて欲しくてさ」
「確かに、実際に自分で作った方が楽しいですよね」
雷蔵がそう言うと、全員がうんうんと頷く。
「それじゃ、さっそく焼こうぜ!!」
「「「おー!!」」」
ホットケーキを焼くためのフライパンは、光陽国の鍋職人が特別に作ってくれたというから驚きである。の描いた絵の通り、丁度良い大きさのフライパンを作ってくれた。
が最初にお手本を見せ、それをまねて4人はホットケーキの種をフライパンに流し込む。その瞬間、甘くて香ばしい匂いが音を立てて広がっていく。
普段から食堂などで調理をしている4人にとって、ホットケーキを焼く作業は本当に簡単なものだった。
「―――というモノローグを台無しにするほど、丸焦げだな」
「うっせ!!!」
もはや炭と化した産業廃棄物を前に、竹谷は自分の不器用さで頬を染める。
鼻で笑った三郎はというと、美しい円を描いた狐色のホットケーキをポンポン生み出していった。
「私なら焦がしたりせず、美味しいホットケーキを作ってやるよ」
「上手だね!三郎くん」
「もっと油足したらどうだ?こうか?」
「八左ヱ門くん、油の量もそうだけど、火の加減が重要なんだと思う。でも、火加減の調整は難しいから仕方ないよ」
「う……っ、は良いヤツだなぁ〜」
「やっぱり器用だね、三郎は」
(そういう雷蔵くんは、やっぱり大雑把だね……)
雷蔵の作ったホットケーキは、どれも大きさがバラバラである。まるでボーロと言えるくらいふっくら重量のあるホットケーキに、薄くてクレープ状になったホットケーキが横に並んでいる。
「兵助くんはどう?」
黙々と作業をする久々知のフライパンを覗くと、几帳面にキッチリと同じ大きさで同じ厚さのホットケーキが積み重なっている。焼き色も実に美味しそうだ。三郎のと比べると焼き色は濃い。但し、なぜか形が丸ではなく四角である。
「兵助くんも上手だね。慣れてきた?っていうか、どうして四角なの?上手だけど」
「こうしてお菓子を作るのは楽しいですね。特に、
田楽豆腐と同じ色をしていますし!」
「あ……、そういうこと……」
納得したような、納得出来ないような複雑な気持ちになるだった。
出来上がった大量のホットケーキは集められ、野菜を洗うときに使っている大きな笊へ積まれた。出来たての湯気が放つ香ばしくも甘い香りは、思わず飛びつきたくなるほどである。
「何か、たくさん作っちゃったね。絶対に20人分はあると思いますよ」
「残ったら城の皆と分けるつもりだから大丈夫。それより食べてみて!」
「さっそくいただきまーす!……お!美味い!!」
「生地がしっとりしていて美味しいですね、
豆腐みたいで」
「何でお前が作ったヤツは四角いんだ……?それにしても、これはいくつかの材料を混ぜて焼くだけなんだろ?だったら、私たちの世界でも簡単に作れそうだな」
「だよね。私もそう思って紹介したんだ」
「僕が作った、薄い方も美味しいですね。中に木苺を入れたんですか?」
「そうそう。今朝取れたばかりで、甘酸っぱいでしょう?挟んで食べたら美味しいかと思って。ホットケーキを薄くして、間に果物なんかが挟んであるお菓子は、【クレープ】って言うんだよ」
「おほー、そんなのも作ったのか。オレにも食わせてくれ」
「はい、どうぞ。まだいっぱいあるから慌てなくて良いよ。追加で作れるし」
の世界の料理であるホットケーキは大好評だった。20人分はあると思われる量が、4人の手によってどんどん減っていく。実習の帰りという事もあり、甘いものが欲しかったというのもあるのだろう。
ホットケーキを片手に、ふと雷蔵の動きが止まった。それからが食べているクレープに目が動いた。
「どうしたの?雷蔵くん」
「このホットケーキにも、何かかけたらもっと美味しいかと思いまして……」
「言われてみれば、確かにそうだな」
「さんの世界では、ホットケーキに何かかけて食べたりはしなかったんですか?
醤油みたいに」
「兵助、豆腐ネタ引っ張り過ぎ!つか、コレに醤油はねぇだろ!どういう味覚してんだ?!」
「やっぱりそうだよね……」
「姫サン?」
は苦笑して頬を掻いた。
「実はね、ホットケーキは蜂蜜やメイプルシロップをかけて食べるものなの。そっちの方が私も美味しいと思ったんだけど、この世界では簡単に蜂蜜は手に入らない物だし、諦めてたんだ。ごめんね。完璧なホットケーキじゃなくて」
「そんな事―――」
「よおし!!」
雷蔵の言葉を遮って、竹谷は一際大きな声を出した。拳を握り、天井に向かって勢い良く突き出した。
「だったら、オレたちで蜂蜜を手に入れようぜ!!」
「「「ええっ?!」」」
驚くたちに、竹谷は自信満々に言った。
「城下町で、蜂蜜を使ったお菓子を見た事がある。だったら、この周辺の森でやっぱり採れるんだろ?」
「でも、そう簡単には見つからないんじゃないかな……?無駄足になったら悪いよ」
「オレたちは、が一生懸命オレたちのために用意してくれたホットケーキを、完璧な味で食べたい。そうだろ?」
「蜂蜜をかけたら、もっと美味しいですよね。僕も食べてみたいです!」
「私も姫サンの世界の食べ物を堪能したいな。ま、
面倒な事は言いだしっぺに任せておけば良いし」
「
ガンバレ、八左ヱ門」
「お前らも手伝えよ!!」
「あはははっ、ありがとう、八左ヱ門くん。蜂蜜を絶対に見つけ出そうね!」
「おう!」
そんわけで、たちはホットケーキにかけるための蜂蜜を探しに、森へ出掛ける事にしたのだった。
「ところで、
前置き長くね?」
「三郎、しっ!」
蜂蜜を探して、たちは一度町で蜂蜜が採れそうな場所を訪ね歩き、その後光陽国の城から見える森までやって来た。
昼間の初夏の陽気は茹だる暑さだったが、森の中に入ると暑さがスッと和らぐのを感じる。青々と茂る木々が、太陽の光を遮ってくれているお陰だ。良い風も吹いてくる。
久々知は首に掛けていた手拭いで額の汗を拭い、町人たちから聞いた蜂蜜の採れそうな場所を記した紙を広げる。その音に気付き、他の4人も久々知の元へ集まった。
「町の人の話だと、この辺りで蜂が飛ぶ音がしていたと言っていたな……」
「確か2ヶ所あるんだよね?」
蜂の飛ぶ音を聞いたとされる場所。1つは森の中にある池の近くで、もう1つは廃墟となった寺の近くだ。
「だったら、近い方先に行った方が良くないか?」
そう言って三郎が指示したのは、廃墟となった寺の方だった。確かに、現在地からだとこちらの方が近いと言える。
三郎の提案に頷き、廃墟の寺へと移動した。寺は物の見事に荒れ放題で、屋根瓦には森と同じく青々とした草が伸びている。柱も根元が腐りかけている。取れかかった看板の下を潜り、近くで寺の様子を窺う。
「この寺のどこかにいるはず……。しかし意外と広くて―――」
「あ?!アレだ!」
「あっ、本当だ!」
「兵助、お前目が良いな」
久々知が指さす方、そこに一匹の蜜蜂が飛んでいた。時間が止まったとうなこの荒れ寺では、忙しなく飛び回る蜜蜂は直ぐに目についた。
発見者である久々知が先頭となり、蜜蜂がどこへ行くのか追い掛けた。もちろん刺されたりしないように一定の距離を置いて。
蜜蜂を追い掛け、行きついた先は釣鐘だった。この廃墟にしては比較的綺麗で、まだ使えそうである。釣鐘の周りは比較的広々としており、蜜蜂たちの騒ぐ重低音が釣鐘の中で大きく響いている。何十匹もの蜜蜂たちが釣鐘の回りを飛び、出たり入ったりが忙しい。
この状況に三郎は『げっ!』と声を漏らした。
「なんつーやっかいなところに……。周りに隠れられそうなところもねぇし、近づくのは難しいぞ」
「銅で出来てるし、鉄壁のガード……。蜂にしてはやるね」
「感心している場合じゃないだろ、雷蔵。それより、あの蜂の巣がどれくらいの規模なのか確認出来ないな……。もし巣を確保出来たとしても、あまりに小さければ意味が無いぞ?」
冷静に分析する久々知に、竹谷が首を横に振った。彼の目は興奮しきった感じで、キラキラと輝いている。
「いや……、あれはかなりの大物だ!」
「本当?八左ヱ門くん」
「周りを飛んでいる蜂の数が多い。あの釣鐘の中はびっしり蜂の巣だな、ありゃ」
「それなら、何としてでも持ち帰りたいね」
「だけど、どうする……?」
「「「うーん……」」」
の声に、全員が唸ってしまった。その間も蜜蜂はせっせと働いている。
ガシガシと竹谷が頭を掻く。
「あれが釣鐘の中じゃなかったら、一部だけを壊して煙玉を投げ入れるんだけどなぁ〜」
久々知は、懐から実習で使わなかった火薬委員会特製の煙玉を取り出した。これで蜂を燻し、その隙に蜂の巣を採る作戦でここに来たのだが、銅の釣鐘ともなると破壊するのは難しい。
も必死に知恵を絞った。
「釣鐘の真下に煙玉を置けると良いんだけどね……。でも、風も吹いてるし……、あんなに蜂が飛んでいたらとても近づけないか」
「中の様子が確認出来ないのは厳しいですね。仮に燻せたとしても、どの程度の蜂が燻せているのかわからないですし」
「ところで……」
「ん?どうしたの?」
「さっきから姫サンが背負っているそれは何だ?」
三郎がの背負っている物を指さした。は麻の袋に何かを入れているらしい。それを斜めに紐をつけ、肩に背負っているのだ。大きさは座布団ほどだろうか。
は麻の袋を下して中を広げる。そこに入っていたのは、新品のように綺麗な白い着物の上着だった。
「白い着物……。また何で?」
「蜂には黒っぽい色の物を攻撃する習性があるんだよ。蜂に近づく人は白い服を着ていた方が安全だと思って、城から借りてきたの―――って、私が着るの!?」
「そういうことなら、さんは着ていた方が良いです」
「そうですよ。ここだって、結構蜂の巣に近いですから」
雷蔵と久々知がにさっさと白い着物を被せた。もし蜂が襲ってきたら、このメンバーで最も刺される可能性があるのはだろう。運動神経が良いとはいえ、敵が襲ってくるという状況に対処出来るわけではないからだ。
は2人の気遣いに礼を述べ、再び視線を釣鐘に戻した。相変わらずブンブン蜂が飛び回っている。は更に釣鐘から上にある、釣鐘を吊っている部分に着目した。釣鐘を吊るしている天井部分は、半分崩壊しており丸見えになっている。眞澄の視線を追い掛けていた雷蔵は、風で釣鐘が僅かに左右に揺れているのを確認して『そうだ』と呟いた。
「あの吊ってる部分を狙って、釣鐘を落とすのはどう?今日はちょっと暑いし、そのまま蜂を巣ごと閉じ込めておけば死ぬんじゃないかな?」
「
その死んだかどうかを誰が確認するんだよ?」
雷蔵の大雑把過ぎる作戦に対し、竹谷が冷静に座った目でツッコミを入れた。だが、その大雑把な作戦に賛成の声を上げる者がいた。鉢屋三郎である。
「お前が行って確認すれば良いだろ?いつも似たような事やってるじゃないか」
「三郎!それは不可抗力でやってるだけだ。生き物たちが集団で散歩に行くからであってだな……」
「ここで生物委員の力を見せなくてどうする!面を被ってて死ぬほど暑いし、さっさと済ませて帰りたいし」
「最後ボソッと言いやがって!それが本音だろ!?」
「だったら、私が―――」
「「「それだけは絶対にダメ!」」」
にだけはやらせるわけにはいかない。
決意を固め、竹谷は拳を顔の横で握り締めた。
「よっしゃーオレがやったるわいっ!!三郎、お前があの吊ってるところを落とせよ!!」
「合点承知!」
三郎は懐から手裏剣を取り出して、釣鐘と天井を結んでいる錆びついた金属へ向けて打った。皆が見守る中、鋭く放たれた八方手裏剣は見事に命中し、火花を散らしながら地面に落下。同時に繋ぎとめられていた接続部分が破壊され、釣鐘はそのまま真下へと重力に引き寄せられる。
「お!やったか?!」
「流石三郎だな」
「命中したね!」
「すごい三郎くん!」
ドン、という鈍い音を立てると、釣鐘は5人の思惑どおりに落ちた。蜂たちは我が家の位置が変わって混乱しているらしく、うろうろと釣鐘やその周辺を飛び回り、少しだけその姿が気の毒に見える。
三郎がどや顔で振り返ったその瞬間、突如蜜蜂が真っ黒な塊となって此方へ猛然と向かってきた。全員に嫌な汗が滝のように溢れ出る。一瞬動きが止まったの手を、久々知が握って掛け出した。他の3人も危険を察知して必死に足を動かす。
「そんな!?いったいどうして……?!」
「きっと、オレたちの死角になっている部分に穴が開いていたんでしょう!」
「釣鐘が落ちた衝撃で、蜜蜂は興奮状態になってるんだ!」
「とにかく今は逃げよう!」
けれども蜜蜂たちの早さは想像以上で、ドンドン距離を縮めてきた。一方人間である彼らは、伸びきった草や張り出した木の根を避けながら走る必要がある。飛行している相手に追い付かれてしまうのは時間の問題。
「ダメだ!追いつかれるぞ!」
「さん、結構足速いですね。手を引いている感じがほとんどしません」
「え?そうかな。私は、どっちかって言うと長距離の方が得意なんだよね」
「そこー!今の状況わかってる!?」
嫌な重低音が背後、直ぐそこまで迫ってきていた。
すると、三郎が器用にも走りながら振り返り、竹谷に向かって悲しい微笑みを浮かべた。それを合図に、竹谷と以外の全員が同じように悲しい笑顔に変わる。
「ハチ……、お前の事は忘れないからなっ!他、全員伏せろ!」
「「合点承知!」」
「ひゃあ!?」
「え?ちょ、何うわあああ!?!何だ?!」
三郎は竹谷に球状の何かを投げつけてきた。雷蔵と久々知は三郎の指示通りに伏せる。久々知の腕が肩にのしかかり、も自然と身体が前に傾き地面に伏せった。
球状の物は竹谷の胸元にぶつかって破裂し、強烈な甘い香りが竹谷に纏わりついた。はたと動きを止め、竹谷が大きく息を吸い込む。嗅ぎ覚えのある香りと、三郎の悲しい笑顔に背筋が凍りついた。
「これは三郎が変装で使ってる女物の香水…………だああああああ〜〜〜!?!」
強烈な香りの塊となった竹谷を、蜜蜂たちが逃すわけもなく襲いかかってくる。蜜蜂の意識は全て竹谷に向けられ、たちの上空を通過していってしまった。
「行ったか?」
「うん。助かった〜……」
久々知がと雷蔵が顔を上げ、続いて三郎も竹谷が脱兎のごとく走り去った先を見つめる。黒い塊はいつの間にか点のように小さくなり、森の中へと溶けるように消えてしまった。森に再び平和な静寂が戻る。
「こうしてハチは犠牲になったのだ……」
「どうしよう?!八左ヱ門くんを早く助けないと……!!」
「忍者はときとして、忍務遂行のためには味方をも裏切る。そういう世界なんです」
「その事は、ハチもわかっていると思います」
「それ自分に言い聞かせてない……?とにかく、八左ヱ門くんを追いかけよう!きっと困ってるから!」
「あ、待ってください!」
「僕たちも一緒に行きます!」
「姫サン、短距離も初めてみたらどう?!」
「考えとく!!」
結局囮になった竹谷が心配で、は竹谷の後を追った。
森に隠れてしまった竹谷を探すのは苦労したが、森の入口付近で『
もう誰も信じられない』と怯えながら蹲っているところを発見した。相当必死で逃げたらしく、後ろ姿はまるで使い込まれたボロ雑巾のようである。
「八左ヱ門くん、大丈夫?!どこか怪我してない?!」
「〜〜!!」
の姿を見て安心したのか、涙を溢れさせた。の両手を握り絞めて、生きている事を噛みしめているようだった。
「良く助かったな!」
「ハチが無事で良かった!」
「お前の事を私たちは信じていたぞ!」
「
オレはもうお前らの事信じてねーけどな」
もうすっかり辺りは暗くなってしまっている。再び蜂蜜を探すのは難しい。飛び立つ鴉たちを見つめ、しんと静かな空気が流れた。
改めてに向き直り、竹谷は残念そうに太い眉をへの字に曲げた。
「ごめんな、。蜂蜜手に入れられなくてよ……」
「全然気にしてないよ!むしろ私の方こそ、こんな事お願いしちゃってごめんね……。蜂蜜はまた機会があったときにでも、ね?それより、八左ヱ門くんが怪我してなくて本当に良かったよ」
「……!」
「皆もありがとう!!夜になる前に帰ろう!!」
「そうですね。でも、今日は色々さんと行動出来て楽しかったです」
「僕も。さんとこうして外へ出たのは初めてでしたし」
「やれやれ……。しかし、蜂蜜を口実にまた姫サンに会えるのは楽しみか。っつーわけで、今度こそ上手くやれよ」
「2度とやらねーよ!」
蜂蜜という目的の物は手に入らなかったが、それぞれ今日の出来事を思い出に残せそうだ。
5人は仲良く横に並んで、真っ赤な夕日が沈み行くその姿を目に焼き付けた。はこうして4人と触れ合える事を奇跡のように感じていた。
一番星が輝く頃に城の門前に到着すると、丁度そこには彦兵衛が門を潜ろうと門番に声を掛けているところだった。傍で篝火がパチパチと火の粉を散らしている。彦兵衛は月陰国との今後について話し合うため、外出をしていたようだ。
「彦兵衛さん!」
「これはこれは、様ではありませぬか」
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様でした」
彦兵衛は被っていた笠を脱いで会釈をする。続いて4人もまた会釈を返し、はにっこりと満面の笑顔を返した。
彦兵衛ともすっかり今では祖父と孫のような関係に近づき、を見る目が優しくなっていると4人は気付いた。
「そういえば、そなたらが遊びに来る日は今日でしたな」
「はい。さんから眞澄さんの世界にあるお菓子をご馳走になって―――彦兵衛さん、その袋は?」
雷蔵が彦兵衛の手にある袋に気付いた。人の顔ほどある袋はこんもりと膨らみ、そこに何かが入っているのは間違いない。
彦兵衛は袋を少し開けて中を見せる。そこから漂ってくる甘くて優しい香りに、4人は驚愕した。黄金色の蜜をたっぷり含んだ、琥珀のように美しいそれ。間違いなく蜜蜂の巣だった。
「じいさん、それ……っ!」
「実は、城へ帰る途中の森の荒れ寺で休もうとしたところ、この蜂の巣が釣鐘から零れ出ているのを見つけたんじゃよ。良い土産になると思うてな―――って、どうかなさいましたか……?」
5人はお互いに顔を見合わせて、ちょっと笑ったり溜息を吐いたり脱力したり。けれども最後には全員が笑顔に変わる。
代表してが彦兵衛の疑問に答えた。
「彦兵衛さん、とっても素敵なお土産をありがとうございます。お礼に、私の世界のお菓子をご馳走させてください。今度は完璧に再現してみせますから!」
「今度は……?それは楽しみですな。さぞや美味しいものなのでしょう」
「え?わかります?」
「その顔を見れば」
更に顔の皺を濃くして笑う彦兵衛に、全員が釣られて笑ってしまった。
その日の夕食には、デザートとして甘い蜂蜜たっぷりのホットケーキが登場した。お手製のそれはまさに完璧な味であり、光陽国全体にブームが訪れるのも時間の問題である。
番外編 室町ハニーハント