は4人の姿が見えなくなってもずっとその場に座ったままだった。
が『皆は城を出ましたか?』と言ったので、彦兵衛は家臣に確認をさせた。4人が光陽国の城を出たと報告を受けると、『そうですか』と小さく短い返事をし、彦兵衛には『少し時間をください』と頼んだ。
それから1時間ほどの時間が経過しても、は上座に居座り続けて沈黙していた。
傍に控えている彦兵衛はの様子を窺いたかったが、と彦兵衛を御簾が隔てている。彦兵衛がそわそわし始めた頃、ついにその沈黙が破られた。

「彦兵衛さん、待たせてしまってごめんなさい」

は御簾を片手で除けて上座から降り立った。小さな体に煌びやかな重ねを纏ったは、口元を扇子で隠した状態で彦兵衛を見つめていた。その真っ赤な瞳で。

「姫様、忍者をあのように帰してしまって良かったのですか……?」
「良くないに決まってるでしょう……!」

は迷わず即答した。その声は僅かに震えている。は座布団も引かず、その場にすとんと力無く座り込んでしまった。

「もっといっぱい話がしたかったし、一緒に外に出たかった。もっと、もっと……」

にとってはこの世界でできた初めての友人だった。大切でないはずがない。

「されど、あの者たちは―――」
「わかってます!」

赤い瞳には涙の膜が張ってしまっている。それでもは言葉を続けた。

「わかってます、彦兵衛さん。あの子たちは忍者で、人殺しで、そうしなければいけない役目を負っていることも」

は、無邪気な笑顔で武器を握りしめている彼らの姿を思い浮かべる。の世界では到底受け入れられない光景だが、この世界ではそれが当たり前。むしろの考えこそおかしいと突きつけてくる。

「あの子たちに酷いことを言ってしまった。人殺しだと罵ったのと同じ……。あの子たちだって、本当はこんなこと、望んでしてるわけじゃないのに」

自分の考えを押しつけてはいけなかった。
ここは、のいた世界じゃない。

「でも、私は世の中のせいにして人殺しを認められるほど、強くないんです……」
「姫様……なんという慈悲に満ちた御志でしょう」

彦兵衛は納得したかのように何度も頷いた。
けれども、が4人の護衛を帰したにはまた別の事情があった。

(違う……。それもあるけれど、本当は……怖かったから)

は恐れていた。
これから先は、城下で攫われたとき以上の危険なことが身に降りかかるだろう。けれど、その度に、まだあどけなさの残る彼らはを危険から護る。刃を振りかざして、に危害を加える者たちを消していく。

(あの子たちだけじゃない。この城にいる皆は、私のことを護ってくれる。相手を傷つけても、殺してしまっても、深い怨みを受けても、私のために血で手を汚していく。例え自分が敵に殺されたとしても、私を庇って死んでしまっても構わないと思ってる)





しかし、は―――





(私は、十六夜姫じゃない)





彼らが命を賭して護っているのは、この城の主である十六夜ではない。異なる世界からやって来たという別人だ。本当に護るべき相手である十六夜は、既にこの世界に存在していない。

(皆は、私を十六夜姫だと信じて疑っていない。だけど、私は別人。全く関係の無い別人のために……皆は、人を殺してしまうかもしれない。死んでしまうかもしれない)

出来上がった敵も味方も入り混じる屍の山。
それでも刃を振り続ける。
全ては姫を護るために。
空っぽの脱け殻になった姫のために。

(私には耐えられない。1つの命でさえ、背負うことが出来ないでいるのに……!!)

彼らの殺した相手の命は、それと同時にが奪ったことにもなる。その命をは背負うことなど到底できない。
主君のいない城を、国を彼らは必死で護ろうとしている。
その事実を知ったら、皆はどうするだろうか?考えるだけで胸が潰れてしまいそうになった。

(十六夜姫、あなたならどうする?あなたならこの重圧を背負うことができたの?『敵を全員殺せ』って命令した?)

いくら問いかけても十六夜はの問いかけに答えない。
だから、は決めたのだ。

(私は十六夜姫じゃない。だったら、私は私のやり方で、この2つの国で起きている争いを止めてみせる。それが……不可抗力とはいえ、皆を騙している私にできる唯一の方法だと思うから)

そして何より、誰も死なせたくないと思っているのだ。

(失うのは怖い。皆の死ぬ姿なんて見たくない。そう……これは、ただの我が儘なんだ……。嗚呼……、あの子たちを帰してしまったから、私は三郎くんか雷蔵くんに殺されてしまうのかもしれない)

は1度目を閉じる。瞼の裏に浮かびあがる鮮血と身体を引き裂かれるような痛み。

(今は忘れよう。考えても、どうする事も出来ないし……)

ぎゅっと力を入れ、そして赤い瞳を開いた。

「彦兵衛さん、私にまだ話していないことがありますよね?」

彦兵衛の前で扇子畳んでその場に置いた。そして、目と口を開く。

「どうか教えてください。……私は、誰なんですか?」
「?!」

の言葉に彦兵衛はドキリと心臓が跳ねた。正確には、の暴かれた口元を見て緊張が走った。
扇子によって隠されていたの口から見える八重歯は、犬や猫などの獣を思わせるように発達し、鋭く尖っていた。それは人間の歯とはとても思えない。数日前までのにそのような牙は無かったはずである。



これではまるで、鬼のようだ。



「最初はこの赤い目だけだった。けれど、私を攫った男たちが私の背中を見るなり驚いていたんです。気になって背中を鏡で見たら、青い変な模様が浮かんできてて……。ついにこんな牙まで生えてきました」
「…………」
「これでも私は人間なんですか?」
「…………」
「それとも……、本当に【鬼姫】なんですか……?」

大きな黒い瞳は赤い色になり、いつの間にか背中にも青い蛇が這うような模様が浮き上がり、獣のような鋭い歯が生えてきた。
少しずつ身体が何者かに成り替わろうとしていることをは感じていた。最初に赤い目を見たとき驚きはしたものの、まさかここまで身体が変化してくるとは思っていなかった。
は込み上げる不安を必死で押さえながら彦兵衛の言葉を待った。
彦兵衛は額の皺を更に深くしながらも優しくに微笑みかけた。

「……姫様がお忘れになっているのであれば、そのままでも良いとわしは考えておりました。されど、姫様は真のことをお知りになりたいのですね……」

十六夜となってこの世界に現れたは、記憶が混乱しているということになっており、この身体に起きている異変や2つの国に起きている出来事をほとんど知らずにいる。
それを隠していたという彦兵衛にも何かあるのだろう。けれどもはそれ以上に知りたいと願っていた。

「十六夜様のお気持ちがお決まりなのでしたら、わしはお話するしかございません。どうか……心してお聞きください」
「はい」

恐らく彦兵衛がこれから自分に話すことは、国の重要機密なのだろうとは思った。ごくりと喉が自然と鳴ってしまう。

「まず初めに申し上げておきまするが、姫様は人です。他の誰が何と申し上げようとも、十六夜姫様は鬼などでは決してありませぬ」
「そ、う…………ですか」

鬼とは架空の存在であり、空想上の生き物だ。この世に存在しないことはわかっている。そのことは現代に生きるにとって聞くまでもないことだった。けれども彦兵衛に改めて自分が―――十六夜姫が人間であると教えられ、安心して力が抜けていくのがわかった。自分が忌み嫌われるものではないと知って、の手が震えた。

「姫様の御身体を蝕んでいるのは、ある病にございます」
「病……?病気ってことですか?」
「いかにも。【赤眼病】と呼ばれるものです」
「【赤眼病】……」

の世界でも聞いたことがない病名に首を傾げる。

「この病は、親から子へと受け継がれる遺伝の病……。他の者にうつることはあり得ませぬ故、どうかご安心ください」
「そうだったんですか、良かった……」

こんな酷い姿になる病気が他の人間にうつらないと知り、はホッと胸を撫で下ろす。しかし、そんなに彦兵衛は残酷な事実を伝えた。

「この病は百年(ももとせ)に亘って調べられてきましたが、今も尚完治させる方法が見つかっておりませぬ」
「治らないんですか……?」
「左様でございます……。この病を特に色濃く受け継いでいる者は10代未満で発症し、目はに緋色に変わり、それに次いで身体に蒼の刻印が浮き上がって全身へと拡がりまする。その内歯が獣のような鋭いものへと変化し、最終的には髪が白銀となって爪が割れ、正気を失ってしまうのです……」
「な……なんてこと……」
「この病における変化を【鬼化】と我々の間では呼んでおります。正気を失い完全に鬼化してしまえば、人ならぬ強靭な身体を手に入れることができ、血や肉を貪る……それはまさに鬼の所業でございます」
「それは……、まさか、人を……?」

の恐怖に震える言葉を、彦兵衛は静かに頷いた。その瞬間は思わず口元を押さえた。
今は人だとしても、いずれは鬼のように狂ってしまうという。

「そうなってしまえば、もはや元のお姿に戻すことは不可能。心の臓を貫かない限りお止めする方法はございませぬ……」

1度そうなってしまえば、殺さなければ止めることができない。

「そんな病気が、どうして……」
「それは、光陽国と月陰国がまだ1つの国だった頃に遡ります」
「元は1つの国だったんですか?」
「はい。一般的には月陰国に住まう鬼を退治した一族がこの国を創ったことになっていますが、そうではないのです。元々は薬師が治める小さな村でした。しかし、戦が激しくなるに連れ毒を用いて敵と戦う術を研究するようになったのです。そんな折に入って来たのがこの赤眼病でございました。人間を鬼のように強靭な肉体に変化させる赤眼病を兵に加えることが出来れば、どんな戦も勝鬨を上げることができると……」

矢を射かけられても刀で斬りつけられても蘇る化け物。それをを生み出そうと計画していたのだ。
の知る言葉で表すのであれば、バイオテロと呼ぶのが相応しいだろう。
しかし、それを達成させるには問題がある。

「でも、遺伝の病気だから他の人にはうつらないんですよね?」
「はい。そのため、毒を用いた戦い方で名を上げ始めた村は城塞を築き、暗い地下で密かに赤眼病の人体実験が行われるようになったのです」
「なッ?!……それは、酷過ぎます……」
「まだ小さな村だった頃は、人々の病を治したいという一心で研究を行っていたはずでした。けれども、戦がそうした人々の心を変えてしまったのです」
「だからって、そんなことが許されるはずがありません!」
「姫様のおっしゃる通りです。おぞましい実験により人ならぬ者たちが生み出され、各地の集落を襲い始めるようになりました。城に鬼が住んでいるという噂が広がり、研究をしていた者たちの中に反対する一派ができました。それが―――」
「今の光陽国の一族なんですね?」
「左様でございまする。月陰と呼ばれていた実験に賛成側の者たちと戦い、そして勝利した光陽は国を2つに分けて月陰の国を監視する役割を担うことになったのです。されども、月陰国は戦に敗れながらも赤眼病を継ぐ子を手放さず、今も尚研究を続けているのです」
「止めることは出来なかったんですか?」

彦兵衛は苦しげな表情のまま首を縦に振った。

「この話は何百年も前のことです。時代が流れれば人も変わっていきます。特に現在の光陽国は、先代が国の秘密を暴きに侵入した忍者の手により毒殺され、国全体の力は風前の灯。それに加え、大勢の民を巻き込んで月陰国の陰謀を阻止する事は、先代が望まれておりませんでした故……」

元は国が1つだった頃の身内同士の争いだ。何も関係のない国民を巻き込むことはしたくないという気持ちはも同じである。

「毒殺……」

表向きには病死したということになっていたのだが、真実を知って強い憤りを感じた。

「それで彦兵衛さんは忍者が嫌いなんですね」
「忍者を雇っておきながら申し上げることではありませぬが、忍者の敵は忍者……。毒を持って毒を制す、でございます」

君主を殺された彦兵衛にとって、忍者は全て仇なのだろうとは思った。

「姫様は僅か9つで赤眼病を発症してしまい、月陰国に利用される前に光陽国でお育てすることになったのです」
「そうだったんですか……」

10歳未満で発症したということは、かなり強く赤眼病を受け継いでしまったようだ。
十六夜は9歳のときに親元から引き離されてしまった。9歳といえばまだ親が必要な盛りでではないか。敵対している国で鬼姫と呼ばれ、さぞかし辛かっただろう。十六夜のことを考えると涙が込み上げてきそうになって堪えた。

「彦兵衛さん、この病気は100年以上も研究されてきたんですよね?」
「はい」
「でも、聞いている限り全然進歩が無いような気がするんですけど……」

これだけ長く研究しているにも関わらず、病気を治す方法も兵力として利用する方法もまだ見つかっていないように感じられた。

「赤眼病は、例え親から受け継いでいたとしても、必ず発症するわけではないのです。さらには発症する時期に大変個人差があり、姫様のようにお早い方や、老年期に入ってからという方もいらっしゃいました。研究が最も進まない原因は、鬼化した者の力が強すぎて、3人がかりでも取り押さえることができないためです。女子であれば多少力が弱いのでどうにかできまするが、生きている間にどうこうするのは至難の極みでございます」
「それだけすごいってことなんですね」
「左様です」
「死んでしまっていたら意味がないの?」

生きているからこそ価値のある情報を得られることもあるだろうが、遺体になってしまっても調べられる部分があるだろう。
の問いかけに初めて彦兵衛が戸惑った。

「いえ……それが、鬼化した者が死ぬと採取は不可能なのです」
「え?どうしてですか?」

少し迷った彦兵衛が視線をから逸らして呟いた。

「死した赤眼病患者は、即座にその身を砂に変えて消えてしまうのです」
「す……な……?え?砂になってしまうっていうのは……」
「そのままの意味でございます。身体が砂になり、人の形を残さないのです。そのため採取することが出来ず、研究には向いていないのです」
「人が砂になってしまうなんて……」

信じられないような話だが、彦兵衛の目がそれを真実であると物語っている。冷静なも流石に恐怖で震えた。死ねば死体さえ残らない赤眼病に身震いしてしまう。
は話を聞き、どうにか月陰国と平和的に和解できないかを考えた。ここである事に気付いて思案に耽っていた顔を上げる。

「ちょっと待ってください。赤眼病を使って世の中を支配しようとしているんですよね?研究が進んでいないのだったら、私は暗殺されるというよりもむしろ―――」

が言い終える前にどこからか黒い物が飛んできた。それは真っ直ぐにの方へと向かってくる。キラッと光るそれが金属でできた鋭い物であることはわかったが、身体が動かない。

「姫様!?」

彦兵衛が叫ぶのと同時に、の前に立ちはだかる影ができた。その何かがを狙って飛んできた物を遮り、突き刺さる。ボタッと力無く畳に落ちたそれは、十六夜の養父の形見である鷹だった。
は鷹―――月光を抱き起こすと刺さった物が何かを確認する。月光に刺さっていたのは、以前護衛たちに見せてもらった手裏剣だった。深く突き刺さった手裏剣のせいで、月光は翼をバタバタと苦しそうに動かしている。その度に赤い血が月光の翼を汚した。

「月光……?私を庇ったの……ッ?!」

がそっと月光の羽毛に覆われた額に触れると、大丈夫、と言わんばかりに擦り寄って来た。は健気な月光を見て唇を噛み締める。

「十六夜姫様、お怪我はありませぬか?」
「彦兵衛さん、何だかおかしいです。月光は許可が無い限り外には出られないはずだし……、それにさっきから何の音も聞こえてきません」
「何ですと……?」

脇差に手をかけて警戒する彦兵衛は、に言われて耳を澄ませた。人払いはしてあるものの、小鳥の囀りさえ聞こえてきない。不自然なほど音が聞こえてこないのだ。その代わり、ピンと張りつめた空気を肌で感じることが出来る。
は月光の身体を抱えるようにして護り、彦兵衛はそんなの背に刀を構えた。すると、勝手に襖がスッと開いた。しかし廊下には誰の姿も見えない。

「その鷹に助けられたようだな」
「誰っ?!」

が怒りを孕んだ声で尋ねると、声の主はあっさりと天井から廊下に降り立った。その数3人。
それぞれが黒衣の忍装束を纏い、口元も同じ色の頭巾で覆っている。主犯と思われる男は、日焼けして真っ黒になった僅かな肌が覗くだけの姿は不気味をしている。目は切れ長でギラリと血走っている。それは獲物を狙うかのような獣の眼だ。

(あの子たちはとは違ってガッチリした身体つき……。プロの忍者か)

十六夜姫の命を狙っていると言われている月陰国の者であることは一目瞭然だった。
は月光を自分の背後に隠すように置くと相手を睨みつけた。
現れた忍者はからかうような口調でに言った。

「あのまま手裏剣を受けていれば良かったものを、とんだ邪魔が入って残念だぜ鬼姫サマ。その姿……、既に鬼化が進んでいるようじゃないか」

全身を舐めるように見つめてくる男の不気味な視線が突き刺さる。鳥肌が立つほどだった。

「……城の人たちをどうしたの?」
「その辺でおねんねしてもらってるぜ。最も、抵抗したヤツには容赦しなかったがな。その鷹のように」
「!?」

男の言葉の意味を理解してが目を大きく見開いた。抵抗した者たちを月光のように傷つけたと言うのだ。恐らく、月光がいた小屋も何らかの衝撃を受けて破壊されたのだろう。
の苦しげな表情に男は満足したのか下品な笑みを浮かべている。

「さぁて鬼姫サマ、その御命頂戴しようか」
「そのようなことはさせぬ!!姫様、お逃げください!姫様はわしが命に代えてでも御護りします!!」
「彦兵衛さん?!」

彦兵衛はを突き飛ばすと、刀を抜いて構えた。
相手はプロの忍者が3人。数だけでも勝ち目がないことは一目瞭然だった。
彦兵衛は逃げることをは躊躇している。彦兵衛は背を向けたままを初めて怒鳴りつけた。

「姫様!!ここであなた様が死んでしまっては、誰も歪んだあの国を正すことが出来ませぬ!!どうか、生きてくださいませ!!」
「!」

今度こそは躊躇することなく、彦兵衛の言う通りに部屋の奥へと駈け出した。部屋の奥には隠し通路があり、この階から離脱できるのだ。

「逃がすな!追え!」
「ここから先は、通させぬぞ……!!」

彦兵衛は弾かれたように猛然と目の前にいる男たちに斬りかかった。
の、姫の無事を祈りながら……。
















は奥の部屋の狭い隠し通路を伝ってある場所に出た。そこは小さな茶室。隠し通路は茶室に飾られた掛け軸の裏と繋がっていた。

(どこかに隠れようか……それとも、外へ逃げるか……)

ともかく、この茶室は隠れるところが無いため、は迷いながらそっと茶室から顔を出した。廊下はしんと静まっており、人の気配は感じられない。
動き難い打ち掛けの裾を引きずりながら慎重に足を運ぶ。
突き当たりの廊下の角を曲がったときだった。の足元に転がっているではないか。

「ひっ!?」

視た瞬間は喉が引き攣った。
何とそれは手裏剣が胸に突き刺さった侍女だった。良く見れば、以前自分のために食事を運び、そして自分に怯えて食事を台無しにしてしまった侍女である。縦一列に突き刺さった手裏剣により、胸部からは真っ赤な血が染み出てきている。侍女は柱に背中を凭れさせながら、髪を乱して苦しそうに息を吐く。あの忍者たちにやられた傷だろう。

「うぅ……痛い……」
「酷い怪我……。止血しないと……!」

はそう呟くと自分の着ていた打ち掛けを脱ぎ、歯を突き立てて適当な大きさに引き裂いた。
侍女は苦しそうに目を細めながらもの行動に驚いた。

「十六夜様……、お止めください……。美しいお召し物が……はぁ……っ」
「何言ってるるんですか!服なんてどうでも良いから、今は自分の事だけ考えててください」

は侍女の胸元を引き千切った打ち掛けで圧迫し、残った部分で侍女の胸部を包帯のように巻きつけてきつく縛った。美しい模様が施された打ち掛けは無残な姿になったが、には全く後悔の色が無い。

「いたぞ!あそこだ!!」

その声にが振り返ると、主犯と一緒にいた忍者の1人が主犯と共に走って来るのが見えた。は侍女から離れると再び駈け出した。
広い廊下を裾をたくし上げながら走るのは難しい。ひゅん!と後ろから何かを投げつけられ、それはの頬を掠めていく。柱に突き刺さったのは棒手裏剣だった。さらにまた棒手裏剣が飛び、の着物の袖に穴を開ける。これが突き刺されば動けなくなってしまうだろう。

「わッ?!」

は足元に飛んできた棒手裏剣に驚き、その場に転んでしまう。転げながら襖に体当たりし、空き部屋の中へと入った。急いで立ち上がろうと畳に手をかけたとき、ついに忍者2人がの逃げ場を塞ぐように立ちはだかった。
は視線を部屋に巡らせるが、隠れられるようなところも武器になりそうなものも見つけられなかった。
主犯の男はを見下ろしながらニタニタ笑っている。手には苦無が握られ、僅かに血で汚れているのが見えた。

「彦兵衛さんを……どうしたの……?」
「さぁ、どうだかな」

の反応を楽しんでいるようだ。
男はいつまで経ってもにその刃を振り降ろそうとしない。ただじっと観察しているだけで手を出そうとしなかった。それには違和感を覚える。

「私が狙いなんでしょう?それなのに、……いったいどういうつもりですか?」
「御命頂戴……、そう言いたいところだがそうもいかない事情があってな」

男の言わんとすることがわからず、は警戒を解かなかった。頬を伝う血がポタポタと畳に落ちて赤い染みを作るが、それを拭おうともせず敵を睨みつけた。

「我が主が鬼姫サマをお呼びだ。オレたちと一緒に来てもらおう。まぁ、騒いだところで誰も来ぬがな」
「………やっぱり私を殺すことが目的じゃなく、私を連れ去ることが目的なんですね」

赤眼病を色濃く受け継ぐ十六夜の身体ならば研究のために有効利用できると考えたのだろう。十六夜を光陽国へ養女として送る振りをして、ずっと鬼化するときを待っていたのだ。
捕まってしまえば、人体実験と一言では表せないようなことが待っている。そして、自分が望んでいない戦の火種を生み出す研究に関わってしまうことになってしまう。

「今更気づいたところでもう遅い。忍術学園からの護衛がいると聞いていたが、そいつらはどこにもいないようだな。まさか、護衛に逃げられたのか?ふははははは!!これは傑作だ!」

姫に忍術学園から護衛が派遣されていたことも既に知られてしまっている。が考えている以上に情報が外に漏れ出ていたようだ。
はしゃがれた声で笑う主犯の男こそ卑劣極まりない鬼にしか見えなかった。そして、浮かんでくる大切な友人たちの顔。
はスッと静かに立ち上がった。真正面にいる殺しのプロを前に、堂々たる姿で告げた。
手の震えは、既に納まっている。

「私に、最初から護衛なんて人はいない」
「何だと……?」

怪訝そうに忍者はを見た。
今まで男が殺してきた子供は自分を見ると恐れ、震えあがり顔を真っ青にしてきたものだった。この姫も子供と同じく華奢な身体で、この手で握り潰すことなど簡単にできるだろう。
けれどもその少女に男は強い威圧感を感じてならなかった。赤い目に牙の覗く口元は笑みを湛え、臆すること無く真っ直ぐに自分を見つめてくるのだ。





「私に、護衛なんていうひとくくりで言い表せるような人はいない」





優しく、そして強く、自分に微笑みかけてくれた彼ら。





「私と一緒にいたのは、私の大切な友達なんだから!!」





強く言い切ったに男の目が少しだけ焦りの色を映す。そして完全に無慈悲な冷たい目に変わった。それをも感じ取って拳をぎゅっと握りしめた。

「くくくく……、何をバカなことを。忍者の世界には支配する側とされる側しか存在しない!駒でしかない者たち……。それを友と呼ぶのか?」
「少なくても、私はそう思っています」
「戯言を……。おい、鬼姫を捕えろ!抵抗するなら、多少痛めつけても構わん!」
「はっ!」

部下がを捕まえようと腕を伸ばした。

「く……っ!」

はその腕から逃れようと後ろへ下がろうとしたとき、

「ぎゃあああ!?!」

部下の男が伸ばした腕に、遠慮なしに苦無が振り降ろされて突き刺さった。男は腕から血を流し、悶絶しながらよろけた。
突然のことに主犯は眉を寄せて叫ぶ。

「何奴?!」





息を飲むの目の前に、紺色の衣を纏った背中があった。





黒い癖のある髪をはためかせている彼を、は知っている。





「へ、兵助くん!?」





それはが学園に帰らせたはずの久々知だった。
しかし、現れたのは彼だけではなかった。

「オレたちもいるぜ、姫!!」
「ったく、危ないところだったな」
「姫様、ご無事ですか?!」

今度こそは驚きのあまり何も言えなくなってしまった。敵の忍者の後ろからそれぞれ得物を持って3人が姿を見せたのだから。

「そんな……どうして……っ」
「今はそんな質問している場合じゃありませんよ!」

うろたえるに久々知がそう叫ぶと、彼ら4人は目の前にいる敵を討ち滅ぼさんと構えた。

「このガキ共、プロを舐めるなよ……!」

一瞬怯んだ敵も同じように武器を構え、臨戦態勢に入る。じりじりと睨み合いが双方で行われ、そして、

「さぁ、反撃開始だ!!」

竹谷の声を合図に、戦いの火蓋が切って落とされた。





第九夜 太陽と月と病