光陽国の城内では、紺色が忙しなく動き回っていた。庭を、部屋という部屋を、天井裏まで全て見回ったが十六夜の姿が見えないのである。
竹谷は城門付近で久々知と三郎に駆け寄った。
「おい、いたか……?!」
「いや、いない。十六夜姫は城にいないのかもしれないぞ」
「私たちに気づかれず城を抜け出すなんて、なかなかあの姫サンもやるな」
「三郎、そういうことじゃないだろ?早く見つけ出さないとじいさんに怒られる……!!」
彦兵衛の恐ろしさは良くわかっている。1番の護衛は自分たちではなくあの老人に違いない。
「やっぱり着替えのときも一緒にいるべきだったのか……?」
「オレたちの身が持たない」
「「ですよねー」」
久々知の言葉に三郎と竹谷が頷いた。十六夜の美しさは芸術と言っても過言じゃない。その姫の着替えを見るなど、いろんな意味で天国に行ける気がした。
「じゃあ、さっそく町に行くぞ。今日は市で賑わっているらしいからな。もしかすると姫サンも興味があったのかもしれねぇし」
「応とも!」
「ん?」
久々知が視線を城門へ向けると、丁度そこで門番と話をしている人物がいた。それが直ぐに誰かわかった久々知は、大きな声を張り上げて名前を呼んだ。
「おい!雷蔵!!」
「……あ!兵助!それに三郎、八左ヱ門!」
門番に一礼すると、雷蔵は網笠を手に駆け寄って来た。微笑みを浮かべて雷蔵は手を挙げた。
「やぁ、まさか直ぐに皆と会えるとは思ってなかったよ」
「雷蔵、お前も護衛に来たのか?」
「うん、そうだよ三郎。学園長先生から言われてね。だけど、僕は図書の整理があったから少し遅れちゃったけど……って、どうしたの?何だかみんな眉間に皺できちゃってるけど」
雷蔵の言う通り、3人の眉間には深い皺が刻まれている。竹谷は頭を掻きながら『あー……』と呟いた。
「実は、ここだけの話……姫がいなくなったんだよ」
「ええ!?それはほんと―――むぐっ!」
「雷蔵、声がデカい!」
久々知に口元を覆われて雷蔵はピタッと口を閉じた。そして今度は近くに立つ門番を気にしながら小声で尋ねる。
「それで、どうしていなくなったのさ?」
「私たちにもわからん。けれど恐らく城の隠し通路を使って外に出たんだ」
その話を聞いて、雷蔵も他の彼らと同様眉間に皺を作り眉がハの字になってしまった。
「なぁ雷蔵、ここに来る途中城下町を通ったんだろ?」
「通ったよ。市があって賑やかだった」
「その中に十六夜姫のような人を見なかったか?」
「ちょっと落ち付いてよ兵助。僕は姫様がいったいどんな御姿なのか知らないんだよ?」
「あ、そうだった……」
よほど慌てていたのか、久々知は雷蔵に十六夜がどんな容姿をしているのか説明をしていなかった。
「お歳は15で、長い黒髪。背丈はけっこう小柄だ」
「それで絶世の美少女なんだぜ」
三郎が茶化すように言った。
「三郎、ふざけてる場合じゃねぇだろ。あ、それから1番目立つのが目だ」
「目?」
雷蔵が首を傾げると竹谷は頷く。
「目が赤いんだ。充血しているわけじゃなくて、瞳の色が……その……、血の色みたいに」
あまり良い例えではないが、その表現が1番近いので竹谷は雷蔵にそう伝える。
すると雷蔵はしばらく考えた後でハッとなった。
「そういえば、団子屋に案内した女の子……」
「何か知っているのか?!」
久々知の言葉に雷蔵は深く頷いた。
「ああ。見間違いかもしれないし、笠を被っていたから顔はちゃんと見えなかったけど……、目が赤い色の子だったんだ」
「「「それだ!!」」」
3人の声が1つになり、門番が不審そうな顔でこちらを見た。慌てて門番に背を向けるとまたひそひそ話を始めた。
「雷蔵のは見間違いじゃない。絶対にそいつが姫サンだ」
「だけど、団子屋の前で別れたからどこに行ったかまでは……」
「それでも良い!早く姫を探さないと!」
4人の護衛はさっそく風のように駆け、城を出た。
急いで十六夜を連れ戻さなければならない。彼女はただの少女ではなく、一国を背負う姫なのだから。
が男たちに連れてこられたのは、町から少し離れたところにある山林地帯だった。
太陽が沈み始め、深い木々がその光りを遮る。その中にポツンと荒れた粗末な小屋が建っていた。強い風が吹きつければ、直ぐに倒壊してしまうだろう。屋根には緑の蔦が這っている。
両手を荒縄で縛られたは、小屋の中に押し込められた。男の1人に背中を押され、バランスを崩し転倒する。元は倉庫だったようで、錆びついた農具が無造作に置かれていた。
土埃が舞い、は思わず顔をしかめて咽た。
「げほっ!げほ!」
は前で縛られた両手を使い、どうにか上半身を起こした。笠を被っているせいで視界は狭いが、視線を動かし自分がどういう状況なのかを探る。
きょろきょろ周りを見渡すに、3人の男たちはニヤリと口元を歪めた。
「今自分がどういう状態なのかわかってないようだな、嬢ちゃん?」
「…………。嫌な予感しかしないですけど、一応教えていただけます?」
は真ん中に立つ不精髭の男に尋ねた。さも聞いて欲しそうだったので、が質問をすると嬉しそうに男は言い放った。
「嬢ちゃん、オレたちは貴族ならだいたい見分けられるんだよ。嬢ちゃんもそのクチだろ?家出でもしたのかい?」
男の口調はを気遣っているようだが、そうではないことは男のいやらしい表情のせいで明白だ。
この男たちはが珊瑚の簪を団子屋に差し出すところを見ていたのだろう。あの簪はかなりの高級品だったらしい。
「つまり……、私を人質に身代金を要求するわけ、ですね?」
ひとまず、は自分を捕らえている相手が月陰国の連中でないことを神に感謝した。もし敵国の忍者だったりすれば、一気に戦へと発展しかねない。
「オレたちはこの辺を根城にしている人攫いだからな!」
不精髭の左に立つ太めな男がニタニタ笑いながらを見つめる。遠慮のない視線に、は思わず視線を逸らした。その態度が気にいらなったのか、太めな男はに近づいてしゃがみ込むと、細い顎を掴んで上を向かせた。
「生意気な態度取りやがって――――!?何だコイツ?!」
の瞳を至近距離で見た男は、驚愕して乱暴に突き飛ばした。
「っ!」
その衝撃では再び地面に倒れ、被っていた笠が転がる。
「おい、貴族サマなんだから丁重に扱えよ。銭が要求できなくなるだろ?さっさと名前を聞き出してだな……」
色黒の男が太めの男を嗜める。けれども太めの男は怯えたような態度でこう言った。
「この女の目……!」
「目がどうかしたのか?」
「目が真っ赤なんだよ!!」
叫び声のような声と同時にが再び上半身を起こすと、3人の男の目がに集中していた。
今はの顔を隠すものは何も無い。土で頬は汚れてしまっているが、天女を連想させる美しい顔と潜血のように赤い瞳が露わに。そして、顔を隠そうにも両手は自由を奪われている。
(わー……、最悪)
は心の中で静かにこの状況を絶望した。
赤い目という気味の悪い姿を晒してしまえば、下手をすると殴られたりするかもしれない。
はとりあえず顔を再び背けた。美しい黒髪がの細い肩を滑る。その情景に3人の男たちはゴクリと唾を飲み込んだ。
人攫いたちも、まさか捕らえた娘がこんなに美しい容姿をしているとは夢にも思っていなかったらしい。赤い瞳は一瞬不気味に見えたものの、今は逆に美しさを惹き立てているように映る。さらに、先ほど転倒した拍子に裾が捲れて白い太腿がチラリと見えているのだが、本人は気がついていない。
不精髭の男が『ほう……』と呟いた。
「嬢ちゃんの姿は中々そそるものがあるなぁ」
「は、はぁ……?」
は相手の言葉の意味を理解出来ず、ただうんざりした声を漏らした。そろそろ縛られた両手が痺れてくる頃だ。
(早くどうにか脱出したい……。勝手に城を抜け出したあげく、人攫いに捕まるなんてバカも良いところじゃない……)
現代ならば人通りの多い場所で、白昼堂々と誘拐事件が起きるとは誰も予想できない。
けれど、ここはの知っている世界ではない。つまりの常識は通用しないのだ。
(わかっているつもりだったけど、やっぱりわかっていなかったみたい。この国はもっと警備を強化しないとダメだと思う。毎回こんな事件が起きていたら町の人たちだって迷惑だろうし、城に戻ったら彦兵衛さんに相談しよう)
今回の出来事について反省しつつ、今後このようなことが起きないように考えを巡らせていた。
しかし、人攫いたちはが自分たちに恐れを感じて黙ってしまったのだと勘違いしている。蛇に睨まれた蛙を想像するように。
「この娘ならば
女衒に売り飛ばせば高値で取り引きできるぞ。この赤い目と姿でいくらでも客を呼び込めるだろうよ」
「銭をコイツの親にせびるよりずっと良いな」
(何?ぜげん?売り飛ばす……?)
いやらしい笑みを浮かべる男たちに気づき、が顔を上げた途端、色黒の男に顎を掴まれた。至近距離で見る男の顔はギラギラと血走っていた。
「これからお前は一生男に不自由しなくて済むぞ。へへへっ、ありがたく思え」
「???」
は男が言う意味が理解出来ず、瞬きを繰り返していた。
色黒の男がの両足をゴツゴツとした手で抑え込んだ。そして太めの男がに近づき、露わになっている膝をねっとりと撫で上げた。その瞬間の背筋に悪寒が走った。
「まぁ、最初はオレたちで可愛がってやるから安心しな」
は口を『あ』の形に開けたままで硬直してしまっている。男の言う安心がいったい何を示しているのか理解できない。
いや、本当はできていたのかもしれない。ただ、信じたくないだけで。
「ああん?何だ?まだわからねぇのか?『お前を犯してやる』って言ってるんだよ」
……………………。
(―――えええええええええええッ?!?!?!)
顔や声にこそ出さないものの、は今内心大混乱である。あまりの衝撃に反比例して表情は全く変わっていないが、心の中のは自問自答の嵐だ。
(な、何?!そういう展開なの?!私にはそんなに魅力なんて……いや、十六夜姫はそれほど綺麗だけれど、でもまだ彼女は15歳じゃない!?でも私は18歳か……。うん、こういうことに年齢はもはや関係無い!ロリコンかどうかわからないけど、変態には間違いないな……。正直、今どういうリアクションをして良いのかわからないし!)
リアクションを求められているわけでもないのに、は真剣に考えてしまう。自分の予想を超えた出来事を処理するのが苦手なようだ。
完全に固まっているの様子を見て、男たちは勝手に処女の恥じらいと思い込んでニヤニヤと笑った。
「そう身体を硬くしないで、オレたちに任せとけ」
「大人しくしていれば良い思いをさせてやるからよ」
(
帰りたい。全力で元の世界に帰りたい)
は今このときほど自分の世界に帰りたいと思った日は無い。半開きの瞳は完全に放心状態を表している。
「では、その真珠の肌を見せてもらおうか」
「?!」
流石のも不精髭の男に手を伸ばされて焦った。抵抗しようと自由の利かない身体を捻る。ところが、太めの男が自分の着物の前を肌蹴させたのを見て驚愕した。
(ふ、褌?!)
この時代であるならば褌が男性の一般的な下着である。
は今日まで褌をしている人を見たことが無かった。しかもこんなに至近距離なのでまたも身体が石のように固まる。その様子を不精髭の男が見逃すはずがなく、細い肩を掴んで地に押し付けた。うつ伏せの状態では拘束されてしまった。
「う……!」
体勢を変えられた反動で胸を打ち、は両腕を頭の上に投げ出してしまう。
(やっぱり護衛のみんなもふんど―――いやいや、こんなところでカルチャーショックを受けている場合じゃない!この身体は私のものじゃないけれど、これではあまりに十六夜姫が可哀想だ……!!)
死して尚辱めを受ける十六夜のことを想うと、は胸に痛みが走った。
小袖の襟首を掴むと、不精髭の男は一気に引き下げた。は外気に晒される冷たさに鳥肌を立てた。きっと自分の後ろでは、いやらしい視線が浴びせられているのだろう。そう考えると、恥ずかしさよりも怒りが湧きあがって来る。
ところが、この体勢のまま男たちの動きがピタリと止まった。背後から聞こえてくるのは喉の奥が引きつるような声。
「何だこの背中は……ッ?!」
は3人が驚いている隙に渾身の力を込めて身体を捻った。
(背中……?)
後ろを半分振り返るような姿勢になり、目を点にして驚く3人の表情が視界に入って来る。
そして―――
「不破くん?!」
男たちの背後に街で見かけた雷蔵の姿が見えた。
が声を上げた瞬間、足を押さえていた色黒の男が無言で地に突っ伏した。土埃が舞い、視界が悪くなる。
ギュッと瞳を閉じれば、ふわりと身体が宙に持ち上げられる感覚がした。次に目を開けると、そこにはの護衛である竹谷の姿があった。一瞬声をかけようとしたが、竹谷の怒りに満ちた目に怯んだ。まさに鬼のような目である。竹谷の視線の先には倒れた男と、何が起きたのか理解できていない2人の男。
「な、何だお前たちは!?」
太めの男が立ち上がり吠えるように叫んだ。しかしその声色は強い怯えを孕んでいる。
2人の男の後ろに雷蔵に一瞬遅れて三郎が立ち、竹谷の横にはいつの間にか久々知が寸鉄を構えている。狭い小屋が更に狭くなった。
は今の状況が人攫いたち同様に飲み込めていない。ここに雷蔵がいることが特に不思議でならなかったが、この3人の護衛と一緒にいるということは知り合いか仲間なのだろうと思う。
人数が多い割に誰も口を閉ざしたままで、この睨み合いが永遠にも感じてしまう。
痺れを切らした2人の男が懐から小太刀を取り出し、鞘に収めたまま大きく振り回した。咄嗟に雷蔵と三郎が避けると、倒れた男を小屋に置いたまま外へ転がるように飛び出して行く。
「逃がすか!!」
三郎がそう叫ぶと後を追いかけ外へ飛び出して行った。その後をさらに雷蔵が追いかける。小屋の中に残されたはそっと竹谷に降ろされた。
(あんな大声を出す三郎くん……初めて見た)
ぼんやりと、なぜあそこまで怒っているのかを考えた。そして、1つの答えが導き出される。
(あぁ、なんだ、十六夜姫のためか)
という少女のためではない。
一国を背負う、十六夜姫のために。
小袖の襟が大きく肌蹴て細く白い肩や胸元が丸見えになっているのを見ると、久々知は頭に血が上るのを感じた。があの男たちに何をされたのかが瞬時に察する。
久々知は視線を逸らしつつ自分の紺色の上着を脱いでかけてやり、両手首を拘束している荒縄を寸鉄で器用に切った。
久々知も竹谷も、怒り心頭といった表情での荒縄で傷ついた手首を摩った。
「姫、大丈夫……じゃないよな、畜生ッ!」
「下衆共……、オレが不能にしてやるーーッ!!」
「ちょ、八左ヱ門くんも兵助くんも落ち着いて!未遂だし、全然大丈夫だよこのくらい!それよりどうしてここがわかったの?それに何で不破くんが……」
強姦未遂という言葉に落着きを取り戻したのか、久々知はゴシゴシと目元を腕で拭った。
「十六夜姫、団子を落としていったでしょう?その周辺で聞き込みをして、ここに小屋があるとわかったから……」
「雷蔵はオレたちと同じ忍たまで、少し遅れちまったけど姫の護衛なんだ」
「良し、状況整理はこれでおしまい!早く2人を助けに行かないと!」
は久々知の上着を羽織ったまま小屋の外へ飛び出した。
小屋の外は夕闇で真っ赤に染まっていた。そして太めの男が小屋にいる男と同様に倒れている。顔には殴られたような痕があった。そして、小太刀を構えている三郎の前には、丸腰で膝立ちの姿勢で苦しそうに息をしている男。雷蔵は組み立て式の棒を地に刺して立っていた。勝者がいったい誰なのか、火を見るより明らかである。
「小屋の中にいた方が安全だぞ」
にそう声を掛ける三郎だったが、目の前にいる不精髭の男から視線を外さない。男から奪った小太刀の切っ先を向ている。その姿には恐怖を覚えた。恐らく凶器を向けられている男以上の恐怖を。
「もう良いよ三郎くん、刀を仕舞って。不破くんもこれ以上は―――」
「これだけの忍を従えている赤い目の嬢ちゃん、アンタはこの国の鬼姫だな?」
不精髭の男はに振りかえることなく、荒く息を吐きながら言った。【鬼姫】という単語にはビクッと肩を揺らす。
「へへ……、まさかこんなところで鬼姫様に会えるとはなぁ」
男は勝手に納得しているらしく、もはやが否定したところで無駄だろう。
が姫であることは知られてはいけない。どこから情報が漏れるかわからないこの戦国時代で、身分が明らかになってしまったことは大変な失態だ。
「鬼姫などと呼ぶな、無礼者」
雷蔵がキッと男を睨みつける。
小屋から出てきた久々知と竹谷も、男の言葉には顔を顰めた。
「だったらどうしたって言うんだ?お前には関係のない話だろう」
三郎は小太刀を掲げる。見ているの手に汗がどっと出た。
国の秘密は守らなければならない。小さな綻びから、一国が崩れることもある。
は瞬時に三郎が何を考えているのかがわかり、大きく目を見開いた。
「……姫サン、目を閉じていてくれ」
同時に小太刀の柄を握る三郎の手に力が籠るのが見えた。
は即座に言った。
「嫌」
「「「!」」」
予想しないの返事に4人の護衛は一瞬その意味を理解できなかった。だからもう1度は言う。
「嫌だと言ったの。三郎くん、私が目を閉じたらキミはどうするつもり?」
「…………」
聞かずともにだってわかっているだろう。
少しの沈黙の後、三郎が呆れたような溜め息を吐いた。
「姫サンは甘いな」
スッと構えていた小太刀を下げる。
その様子を見てホッとしたのも束の間だった。
「見苦しくても知らないぞ」
三郎は小太刀を素早く突きの構えに持ち直し、不精髭の男に向かって遠慮の無い突きを繰り出した。
その瞬間、三郎は目の前の光景が信じられなかった。
不精髭の男がいきなり消え、淡い色と紺色が割って入ったのだ。それは間違い無く紺色の上着を羽織ったの姿だった。男はが突き飛ばした勢いで前のめりに倒れる。
一度行動に出てしまえばもう腕の動きは止められない。三郎は苦しい表情に変わった。
久々知と竹谷がに一歩出遅れながら、大きく口を開けて何かを叫んでいる。しかし、三郎の耳には届かない。
森の中。
正面に刃を構えた三郎。
刃を向けられた自分。
(あの夢………?)
ザッ!という切り裂く音と、血の匂いがした。
が目を開けると、誰かの腕に包まれている。それは、三郎の隣に立っていたはずの雷蔵のものだった。
「ふ、わ……くん……ッ」
「大丈夫ですか……?」
雷蔵は殆ど正面から抱きつくような形でを小太刀から庇った。本人が庇われたことに気付いたのは、雷蔵の肩から少し赤が滲んでからだった。
が雷蔵の問いかけにこくこくと頷くと、雷蔵は静かに笑った。
(違う……、夢じゃない。私は死んでない)
自分が三郎の前に出ればどうなるのか、あの瞬間のには判断できなかった。ただ三郎が刃を誰かに向けている事が怖くてたまらなかった。ただそれだけで動いたのである。
ようやく今になって恐怖が湧いてきたのか、はびっしょりと汗を掻いた。心臓がうるさく鳴り、両手が可哀想なくらい震えている。
「十六夜姫!無茶をなさらないでください!!」
「そうだぜ、心の臓が止まるかと思った……!!」
顔面蒼白になった久々知と竹谷が駆け寄り、震えるその小さな手を取った。
「雷蔵、大丈夫か?」
「うん、平気だよ。掠っただけだから」
肩を抑えてしゃがみ込んだ雷蔵はそこまで深い傷ではなかった。
安堵の空気は彼によって破られた。それは友を斬った三郎である。三郎は小太刀をその場に投げるとに駆け寄った。そして肩を押さえる雷蔵と交互に見つめる。三郎の顔に怒りが瞬時に浮きあがってきた。
「バカ野郎!私に雷蔵を斬らせやがって!!いったい何を考えてるんだアンタはッ?!危なくアンタを刺し殺すところだっただろう?!」
厳しい叱咤の声が森に響き、鳥たちが驚き飛んで行く。
こんなに怒鳴った三郎を久々知も竹谷も知らない。青筋が立つ三郎はしゃがみ込んで自分を見上げているをただ怒鳴りつけた。これは三郎が怒るのも無理がない話。危うく護衛対象である姫を斬り捨てるところだったのだから。
を斬らずに済んだものの、その代償として三郎は親友を傷つけてしまった。
けれども、はただ三郎のことを口を開けたままで真っ直ぐに見つめていた。まるで三郎の声は届いていないかのようである。
そして、やっと一言零した。
「よか、った……」
真っ赤なの瞳は大きく見開かれているにも関わらず、心はここに無いようである。
1番彼女が望んでいないことが起きてしまうとろこだった。
(帰りたい……)
けれど帰れない。
表情を崩すことも無く、はただただ同じ言葉を繰り返した。
この言葉には三郎も息を飲む。
「な……、何が―――」
「三郎くんが、誰も殺さなくて……ほんと、に、……良かった……」
三郎たちは知ら無い。
に与えた恐怖が、どれだけのものかを。
に恐怖を与えたのが、自分たちだったということを。
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