桜並木が美しい城の裏手。その中でもさらにひと際大きな桜の木の下に少女はいた。まだ10歳にも満たない小さな愛らしい少女である。
少し離れたところにある堀の中の透き通った水に、桃色の絨毯ができあがっている。その桃色と同じ打ち掛けを纏い、裾が土で汚れることも気に留めていない様子だった。しゃがみ込んでひたすら大粒の涙を零している。
背後から人の足音を感じ取り、少女はビクンと肩を大きく揺らす。それに合わせて、結い上げられた黒髪に飾られている金の簪がシャランと音を立てた。
足音が止み、少女はゆっくりと立ち上がって後ろを振り返った。桜吹雪の中に利発そうな少年が立っている。黒髪の髷を結い、鶯色の直垂は薄紅の蜃気楼に良く映える。腰には業物である刀を差していた。
「十六夜、皆を待たせてしまっています。早く来なさい」
少女―――十六夜は少年の言葉にふるふると横に首を振った。くりっとした大きな瞳からは今にも涙を零れてしまいそうだ。
少年は十六夜に近づき、自分の半分しかない彼女を見下ろした。形の良い眉を少し釣り上げて自分が怒っていることを示す。
「十六夜」
「新月丸兄様……」
少年―――新月丸は必死に涙を堪えている妹を屈んで見つめた。
「国を出る……ということは、まだ十にも満たないあなたにとって辛いかもしれません。けれども、必要なことなのです。理由を言うことはできませんが―――」
「違いますっ!」
「十六夜……?」
十六夜は、誰かが話している最中に声を張り上げるなどという無粋なことは一度もしたことがない。だが、このときばかりは違っていた。
十六夜が大きな目を細めた途端、大粒の涙が零れ落ちた。
「わたくしは、国を背負う一族の者……。国を出ることは以前より覚悟しておりました」
養女という名ばかりの人質。
国のために必要なことであるならば、歳がいくつでも構わない。
「この程度のこと、辛くもなんともありませぬ。ですが……、ですが……」
言葉が喉に詰まり、上手く声を出せない。新月丸は妹が落ち着くのをじっと黙って待った。十六夜は小さな白い両手で頬を伝う滴を拭う。再び顔を上げると、腫れた目をそのままに新月丸を真っ直ぐ見つめた。
「お兄様、何故お父様を殺すのですか?おひとりで、何もなさるおつもりですか?」
「?!……なぜ、そのことを……」
月陰の現当主である父親を暗殺する。
それはまだ誰にも話していない新月丸だけの計画だった。この計画を誰かが知っているはずがない。
「わたくしは……最近夢を視るのです。ただの夢ではございませぬ。目覚めると、夢に視たことが本当に起きてしまうのです……」
「……赤眼病患者の中には、希に異能の力を発すると……。十六夜、あなたは予知の力を持っているのですね」
「予知……?」
十六夜は意味を理解できていないらしく、首を傾げた。
新月丸は十六夜から逸らしていた視線を再び戻すと、細く小さな十六夜の肩に手を置いた。一瞬とても苦しそうな表情を見せると、膝を折って妹を自分の腕に掻き抱いた。いきなりのことで十六夜はバランスを崩し、半ば倒れ込むような格好で新月丸の肩に頬を押し付けた。新月丸の心地良い体温が伝わってくる。
「十六夜……この兄の言葉を良く聞きなさい」
「……はい」
「…………父上は、もうダメです」
「?!」
十六夜の息を飲む声が聞こえてくる。
新月丸の言わんとしていることがわかり、ガタガタと身体が恐怖と絶望で震えている。
「そ、んな……、お父様、が……!?」
「手を尽くしたが、もう病の進行を抑えることはできない。やがては完全に鬼化して、私たちをも躊躇い無く殺すでしょう……」
少しずつではあったが、十六夜も父親の変化に気づいていた。突然暴言を吐き、理由もなく家臣を殴ったという話も聞いている。
そして、目が赤くなったことも。
「そして、検査の結果わかったことがあります」
「わかったこと……?」
「あなたのことです、十六夜」
「え……?わたくし?」
十六夜のまだ何も知らないという問いかけに、新月丸は何もしてやれない悔しさから奥歯を噛んだ。
「十六夜も、もう間もなく鬼化が始まるでしょう」
「わたくし……も…………?!」
「あなたは赤眼病を継いできた者たちの中でも発症が早い。このことが知れれば、実験材料にされてしまいます」
「お兄様、だからわたくしを光陽国に……」
「検査結果はすり替えておきましたが、やがては発覚するでしょう……。しかし、短い間でもあなたが平穏に生きられるのであれば、私はどんなことでもします」
妹の柔らかな頭を抱き、新月丸は目を硬く閉じた。瞼に映るのは十六夜との数々の思い出。どれもこれも優しい気持ちにさせてくれる十六夜の笑顔がそこにはあった。
「父上は正気を失いかけています。このままでは研究続行派の言いなりなってしまうでしょう。そうなるくらいなら、私の手で終わらせるのが筋です。父上の誇りは、私が守らなくてはなりません」
赤眼病の研究を続けることに反対だった父親の意志を継がなくてはならない。
親殺しとなり、手を赤く染め上げても果たさなくてはならない。
「罪で真っ黒に汚れた国……。月陰という名と同じく、この国は暗く混沌としている。いつかは陽を浴びなくてはならない。赤眼病を受け継ぐ者がいなくなれば、この歪んだ国も……遥か昔のように、良い薬師の国になるでしょう」
十六夜は新月丸の腕の中で泣きじゃくった。上質の直垂が濃い涙の染みを増やしていく。
「お兄様はっ、ずるいです……。何もかも……っ、全ておひとりで、なさろうと……してしまいます……っ」
「十六夜」
「なぜですか……?わたくしにはわかりません……!国の跡取りだから……っ、だからですか?」
「十六夜」
「お、にい、さま……わたくしを―――」
ひとりにしないで。
「十六夜、私は国の跡取りだから、こんなことをしようとしているのではありません」
十六夜が顔を上げると、涙で歪んだ視界に微笑みを浮かべている兄が見えた。
「私があなたの兄で、あなたが私の妹だからです」
十六夜の漆黒の瞳が見開かれ、新しい涙の雫が頬を伝い落ちていく。その涙を新月丸は優しく指先で拭う。
「こんなことしか出来ない兄を許してください」
「お兄様……っ」
「例えどんなに離れ離れになったとしても、どんな状況になったとしても……十六夜、私はあなたを愛しています。そのことだけは、忘れないでくださいね」
「おにぃ……さまぁ……!!」
もう年齢相応の態度しかとれなくなった十六夜は、すがりつくように新月丸の胸に額を押し付けた。ぎゅっと着物を掴む小さな手が力を入れ過ぎて白くなっていた。
ひっく……うぅ……っ!!
泣いてはいけないよ、十六夜。これが私たちの使命なのですから。
でも、でもぉ……っ!
大丈夫、またきっと会えますよ。だから、約束して欲しい。
やくそく……?
そうです。次に出会ったそのときは……
共に鬼と成り、共に果てましょう。
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