恐れていたことがついに起きてしまった。
は白髪になった長い髪を振り乱し、鋭く尖った爪を頭に突き立てながら身悶えた。

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!

臓腑の内から絞り出すような声で叫び続ける。口腔からは、発達した犬歯が唾液に濡れて艶やかに光っている。深紅の瞳をこれでもかというほど開き、我を忘れてただ絶望に震えていた。

「姫サン!!」

三郎が大声で呼び掛けるが、全く聞こえていないらしい。傍に近づこうとすると、鋭い爪の手を振り回して近づけないようにする。蒼い痣がくっきりと浮き出た肌は白く、人とは思えない。

「姫!!姫!!しっかりしろ!!」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!
「無駄ですよ。こうなってしまえば、誰も止めることは出来ない。赤眼病を完全に発症させた今、十六夜には何も聞こえないのです」

ただ1人冷静な新月丸は、薄笑いを浮かべている。

「これが……、鬼化……。完全に覚醒してしまえば、誰の声も届かない狂人になってしまう……」

伊作は暗示をかけられている間の記憶があるのか、赤眼病のことも少しは知っているらしい。青ざめた顔で気が狂って震えるをただ茫然と見ているしかできなかった。

「なんて素晴らしい光景なのでしょう……。月光の光を浴びたような色の髪、肌に纏った蒼い刻印、血のように赤い色……とても美しいですよ、十六夜。さぁ、早くお友達をその爪で引き裂いてあげなさい」

は絹を引き裂いたような声を張り上げ、倒れるように膝をつく。畳に爪を立てると、井草がまるで豆腐のように抉られていくではないか。通常なら爪が折れてしまうところだが、鬼化したの握力は人間の域を超えている。
久々知は折られてしまった左腕の痛みと闘いながら、朦朧とする意識の中でを見つめていた。

「い……、ざよ……い……ひめ……っ!」

狂気が満ちた世界。まるで、この部屋だけ世界から切り離されてしまっているようだ。
三郎が苦しげに背中に背負っている刀に手をかけた。

「くそ……!やるしかないのか……ッ?!」

完全に鬼化した人間を止める方法は、ただ1つだけ。
三郎の行動にハッとなった雷蔵が、腹部の痛みを堪えて叫ぶ。押さえている部分からは血が滲んでいた。

「待って三郎!」
「っ!」
「ダメだよ、そんなことしたら彦兵衛さんとの約束が守れない。姫様は僕たちが助けなくちゃ……!」
「ふふふ、ならばどうしようと言うのです?十六夜はもう元には戻らないのですよ?」

雷蔵はうるさいと言わんばかりに新月丸を睨みつけた。

「姫様……」

雷蔵は、スッと縄標の苦無が突き刺さった部分を晒した。その下には、黒々と光る鎖帷子が巻かれていた。苦無の刃先は、この鎖帷子の部分でほとんど止まっている。どうやら刺さったのは苦無の先端部分だけのようだ。

「中在家先輩の縄標は勢いが強いので、その衝撃で呻いてしまいましたが、僕の傷は見ての通り浅いです。それに兵助だって、左腕は折れましたが、まだ右腕が残っています!」
「何だその右が残ってるから良い的な言い方!これでもオレめちゃくちゃ痛いんだぞ!?」
「バカ兵助!こういうときは痛くても痛くないように振る舞うんだよっ!!」

竹谷に怒鳴られた久々知は、ぐっと唇を噛みしめて不満を飲み込んだ。
正直なところ、雷蔵もやけくそだった。鬼姫となったはもう元には戻らない。しかし、半泣き状態だが友人を助けたいという気持ちは強い。
すると、は叫ぶのを止めガバッと顔を上げた。

「本当?!本当に、大丈夫?痛くないの?!」
「「「え?」」」

誰もがの顔を見て固まった。
その表情は普段ので、狂気の欠片も感じられない驚いた表情だった。ひたすら心配そうに雷蔵と久々知に呼びかける。

「血が出てるじゃない!私てっきり雷蔵くんはもう動けないのかとばかり……、でも本当に良かった!」

は赤い目に涙を溜めて笑顔を見せた。ここでようやく、がこの場にいる全員から注目を浴びていることに気づく。そして、自分自身もはたと何かに気づいた。

「あ、あれっ?!私、完全に鬼化したはずなのに……」

そう、は正気に戻っているのだ。先ほどの暴れようが嘘のように静まり、自分の意志をハッキリと持っている。

「え?何がどうなって……?」
「さぁ……、全くわかりません」

伊作も三郎も、刀の柄を握ったままで首を傾げている。

「完全覚醒してないってことなのか?いや……身体の変化はどう見ても鬼だし、意識だけハッキリしているのはおかしくないか……?」
「あ、いや、さっきのは兵助くんも雷蔵くんも殺されてしまうんじゃないかと思って……」

目の前で人が傷つけられるのを間近で見せつけられたは、過去のトラウマと重なってパニックになったらしい。けれども雷蔵の呼びかけには反応できた。

「良いじゃないかそんなのどうでも!!姫が無事ならオレは何でも良い!!本当に良かった……!」

竹谷が、小平太に抑えられたままの姿で笑顔を零す。

「奇跡と捉えても良いのかな……?」

雷蔵も困惑気味だが、が鬼化しないということを知ってホッと胸を撫で下ろした。
しかし、ここに大きな不満を持った男が1人。

「いったい、何が起きたというのです!?完全覚醒した患者が正気に戻るなど、いや、覚醒しない患者など、100年の内1人もいなかったはず……」

妹が鬼化することを前提に作られた計画が、ガラガラと崩れて行くのを感じ、新月丸は尖った親指の爪を噛んだ。端整な顔立ちが、イライラした様子で初めて歪んだのである。
この中で最も赤眼病に詳しいはずの人間にもわからない、の鬼化回避。
だが、はあることに気づいて口元を両手で覆った。





(そうか……。私が十六夜姫じゃなく、だから……!!)





ここにいる十六夜は、身体こそ十六夜であるものの、精神はという全くの別人。赤眼病の遺伝子を継いでいるのは身体だけで、心はまた別なのである。
は、今この瞬間ほど自分が十六夜でないことを感謝したことはない。は思わず涙が出てしまいそうになるのを堪えた。
謎が解けたは勝気な笑みを浮かべて、真っ白な髪を揺らして振り返る。そこには悔しそうにしている新月丸がいた。
は堂々と彼にこう宣言した。

「私が鬼化しない理由は、私だけが知っていれば良いことです。私は、どんなことがあろうとも絶対に鬼化しません。だから、あなたの言うような鬼姫にはなりません!!」
「く……っ、あはははははははははははは!!!」
「な、何がおかしいの?!」

新月丸は突然天に向かって笑い出した。それはとても冷静とは思えない笑い方で、耳の奥が嫌な予感でざわめいた。
笑い声が止むと、しんと静まり返った部屋に新月丸は赤い目を凝らして言った。

「あなたが鬼にならないと言うのであれば、私がなるまでです」

新月丸は懐に手を伸ばし、に飲ませたあの薬を取り出した。今度は三郎がすり替えた偽物ではなく、本物の鬼化を托す薬だ。が何か言う前に、新月丸はそれを大量に飲み乾してしまう。喉が上下に動くのを見た。
新月丸はに近づこうと一歩前に出る。三郎はそれを阻止しようと前に出るが、天井から隠れていた月陰の忍者たちが降りてきた。その数10人以上。三郎が思わず舌打ちをする。これではの元へは行けない。

「姫サンは先に逃げてくれ!!」
「でも―――」

が迫ってくる新月丸と三郎の言葉に揺れている間、突然爆音と爆風がこの部屋を包んだ。耳がキーンと響き、頭が痛くなる。小規模なガス爆発でも起きたかのようだ。久々知と竹谷を取り押さえていた食満と小平太が、2人と一緒に吹っ飛ぶ。ついでに傍にいた伊作は巻き添えになり、床をゴロゴロと転がった。そして、更に2度目の爆発が起き、今度は文次郎と長次が吹っ飛んで襖に背中から叩きつけられた。金箔が美しい国宝級レベルの襖は真っ二つに割れ、ボロクズのように変わり果てた。
左腕を庇いながら上半身を起こした久々知が、火薬の臭いに反応する。

「これは……立花先輩の焙烙火矢!!」
「その通りだ、久々知。私を先に気絶させたのは、こうやって全員を気絶させるときに効率が良いからだろう?」

と言って、先ほどまで気絶していた仙蔵が三郎を見る。三郎は忍者たちを睨みつつも不敵な笑みを浮かべた。それは、質問に対する肯定を意味している。

「立花先輩、暗示が解けたんですね!」
「オレたちも戻ったぜ」

文次郎がゴキゴキと首を回しながら煤だらけの顔を仙蔵に向ける。

「おい仙蔵!もっと優しいやり方はねぇのかよ!」
「あーこれでやっと暴れられる!!」
「あまり……見境なく暴れるなよ………」
「ったく、身体がギスギスするぜ」
「誰か僕のことも忘れないで……」
「はいはい、手ぇ出しな」

メソメソと伊作が嘆いていると、食満が火薬の煤で汚れた手を差し出した。

「これで戦力が増えますね!」
「あー、ボコってごめんなー!」
「久々知、正気じゃなかったとはいえ、本当に悪かった……」
「謝るのは後にしてください!それよりこの場をどうにか突破しないと……!!」

爆発の煙があらかた消えると、目の前には月陰国の忍者が構えている。爆発の隙をみて30人以上に増え、と新月丸に近づけないよう、黒い壁となって立ちはだかっていた。
久々知が忍者の壁の向こうにいるに叫んだ。

「十六夜姫!早くここはオレたちに任せて、早く外へ!!」
「だけど、皆を置いていけないよ!」
「大丈夫です!ここには僕たちと、忍術学園の最上級生である先輩がついています!!だから早く!!」

5年生たちは以前に先輩の話を聞かせてくれた。そのときにも思ったが、よほど頼りになるのだろう。
は浮かんでくる十六夜の記憶を頼りにして、外へと続く通路を探し当てた。通路からは冷たい風が吹き、の蒼い痣の浮かんだ肌を冷やした。

「逃がしませんよ!」

まだ覚醒しきれていない新月丸がの後を追いかけようとすると、シャッと音を立てて手裏剣が飛んできた。忍者の壁の隙間を縫って投げつけたのは、左腕を痛めている久々知だった。激痛を堪えながらも正確に投げる久々知に、小平太がひゅ〜と口笛を吹いた。
新月丸が手裏剣に怯んだ隙には駈け出した。一刻も早くここから離れるために。
















外はもうそろそろ明け方という時刻。城の外へどうにか出ることができたは、真っ暗で良く見えない視界に目を凝らす。
城の裏は木々が多い茂っている森だ。はどこでも良いのでそこから離れることを最優先とし、素足のまま必死で足を動かす。足の裏に小石が何度も柔らかい肉に食い込んだが、は一目散に走り続けた。ざざざざという葉の擦れ合う悲鳴のような音が耳を打つ。
後ろからは1人の足音が聞こえてくる。それは確認するまでもなく新月丸だ。

(私はもう鬼化しないっていうのに、どうして追いかけてくるんだよ!)

は不満を抱きながらも走り続ける。足の裏だけでなく、時折足の甲や脛にも草や枝が当たって細かい傷を作っていく。現代人であるは素足で外を歩くなどまずないため厳しいが、足を止められるわけがない。

(あれ……?)

この光景は、何度も予知夢で見てきた光景そのものだった。するとの視界が何度もフラッシュバックし、眠っていないのに予知夢の光景と目の前の森が重なる。何度もフラッシュを炊く様に、酷い頭痛を感じてクラクラしてしまう。

(ここは……、夢に出てきた森……。私はもう、鬼にならない。鬼にならないということは、三郎くんや雷蔵くんが私を殺さないってことじゃないの…?)

金槌で殴られるような痛みに、の足取りは徐々に遅くなっていく。それでも引きずるようにしながら懸命に足を前へ動かした。
はこれまで何度も自分が夢と同じように殺されてしまう理由を考えてきた。月陰国と光陽国のの関係と赤眼病の秘密を知ったことで、自分が殺されるのは赤眼病で覚醒したときではないかと思った。彼らが自分を殺す理由は、止む負えずというときだけだと。
けれども、今の状況を考えるとはもう鬼になる心配はない。

(予言が、外れる……?)

もしそうなら、予言百発百中の的中率に傷が付く。生き残ることができるならそれで良い。
だが、不安は残る。新月丸の、あの言葉だ。





先ほども言いましたよね。『私には全てわかっていた』と。コレがどういう意味なのか、十六夜…あなたにはわかるでしょう?





十六夜と同じ力を私も数年前に開花させたのです。しかし、絶対にそれは回避できない……。ならばあえて受け入れましょう、この未来を。






(新月丸は、十六夜姫と同じ能力を開花させていた。そして、予言を避けることはできない、だから受け入れたと……。どうして?それならばなぜ私は殺されてしまうの……?!)

わからないことだからけで頭がぼおっとしてしまう。はさらに強い痛みを頭に感じ、木の根に足を取られた。

「うっ!?」

はバランスを崩し、そのまま前のめりに倒れる。直ぐ傍で土の匂いを感じた。

(早く立たなくちゃ!)

腕に力を入れた途端、背後にゾッとするような寒気を感じた。





「もう逃げないのですか?」





ゆっくりと振り返ると、そこには白銀の髪に蒼い痣が禍々しく顔に浮き出た新月丸が、下品な笑みを浮かべている。真っ赤に熟れた果実のような口腔には、鋭く発達した牙が覗いている。真っ赤な瞳は血走り、を獲物として見ているらしい。
コレは人ではない、鬼だ。
は瞬時に立ち上がろうとしたが、背中に鈍器で殴られたような衝撃を受け、そのまま瞳を閉じた。
















暗闇に溶けるように4人は走った。森の中はいくら夜目が利くと言っても先まで見渡すことはできない。目を凝らして小さなの姿を探す。
城の敵は6年生に任せたので、後方は安心できる。

「急がないと姫サンがヤバいな」
「ッ?!止まれ!」

先頭を走っていた竹谷が、右手を広げて止まるよう指示を出した。ザザっと足を止めると、目の前には月陰国の忍者が10人姿を現した。それぞれ手には凶器を持ち、ここは通さないと睨みつけてくる。久々知は舌打ちした。

「ここにもいるとは……!」
「兵助は無理しない方が良い」
「雷蔵、お前こそあまり動くと腹の傷が余計に開くだろ」

4人の内負傷者が2人。1人は添え木で応急処置を施しただけの重傷者だ。こちらが不利なことは目に見えている。しかも全員子供とくれば、月陰国の忍者もニヤニヤといやらしく笑うのはわかる。
だが、4人は震えあがるどころか、逆に余裕の笑みを浮かべているではないか。
忍者の1人が叫ぶ。

「いったい何がおかしい!?」

すると竹谷が胸元から首飾りのようなものを取り出した。それは金属でできた縦3センチほどある筒状のもの。
竹谷はそれを加えると、息を吹き込んだ。笛のようなそれは、何の音もしない。けれどもその音が届いたものたちが森から集まってくる。竹谷の背後から獣の唸り声が聞こえ、ギラっと殺気だった金色の目が闇の中に浮かび上がってきた。それは、竹谷の腰より上もある大きな狼だった。
今にも腕を引き千切ってしまいそうな牙が見えているのだが、狼は大人しく竹谷に撫でられていた。狼はグルグルと唸り声を上げたまま、まっ直ぐに獲物を見つめている。

「よしよし、良く来たな」

優しい声で竹谷は狼たちを迎え入れる。
この場所へ集まって来た狼は20匹を超える。
そして、忍者たちは竹谷の次の言葉により、これから何が起きるのかを理解した。





餌の時間だ、存分に味わえ





背筋に氷を落とされたような感覚が襲う。
本能が、逆らってはいけないと教えている。

「ひいいいいいーーー!?!?!」
「食われる!?!」

忍者たちは竹谷の獣のような殺気を感じて、蜘蛛の子を散らしたように森の中へと消えていった。あっという間の出来事で、4人は呆れた。

「あれでもプロなのか?」

三郎は頭を掻いた。
竹谷は再び笛を加えて吹くと、狼の群れは元来た道を帰っていく。竹谷はそれに手を振り、4人は再び走り出した。

「脅かすだけで済むなら、やっぱりそれが良いな」

以前の竹谷ならば、危険の芽を全て刈り取っていただろう。

「姫様の影響かもしれないね」
「そうだな」

そこから5分ほど駆けたときだった。人の気配を感じて足を止める。そこからは音を立てないよう慎重に進んで行く。鳥の声も聞こえない静かな森の中で、不気味な笑い声が近くなっていった。
少し開けた場所に、背中を向けた男が立っていた。
そのとき、雲で隠れていた月が男の長い白銀の髪を照らし出す。背の高い男はを追いかけて行った新月丸だ。姿を確認すると、4人は男の傍へ駆け寄った。久々知は寸鉄を、竹谷は微塵を、雷蔵と三郎は刀を向けた。

「姫サンはどこだ?」

三郎は静かにその背中へ問いかけを投げた。

「ふふ、ふふふはははははあははははははははははは!!!!!」

髪を振り乱し、勢い良く振りかえった新月丸に4人はハッとなった。

「ここにいますよ、私の可愛い十六夜は」

薬によって、完全なる鬼へと姿を変えた新月丸。
蒼い痣の腕の中には、ぐったりとした様子のが抱かれていた。





第十三夜 穢れを知らない魂