月陰の城に到着したのは攫われた日から2日後の宵の口であった。さらに城の地下で1日間監禁された後、はようやくそこから出された。
不気味なほど静かな城内は、古い木の匂いと何かの薬品の臭いで入り混じり、は慣れない臭いに顔を顰めた。
やがて1つの部屋の前に到着すると、仙蔵が無言でをその襖の前に降ろした。驚いただったが、どうにか転ばずに着地する。
の隣にくの一が跪き、『鬼姫様をお連れ致しました』と襖に向かって言う。すると襖の向こうから『入りなさい』という若い男のくぐもった声が聞こえてきた。くの一は襖を音を立てず横に引き、はくの一や6年生たちと一緒に中へ入った。と板張りの広い部屋には蜀台の火が赤々と燃え、唯一分厚い畳が敷いてある上座には声の主である男が座っていた。年齢は二十歳前後といったところだろうか。
男の目を見ては足が止まった。男の目が自分と同じく潜血のような色の目をしていたからだ。
を見た男は真っ赤な扇子をパンと畳んで嬉しそうに目を細めた。

「ようやく、ようやく逢えましたね、十六夜。どれほどこの瞬間を待ち望んでいたことか……」
(この男が……、月陰国を治めている当主?)

いくら端正な顔の男に微笑まれようと、の緊張と警戒は全く解けない。これから自分がどうなってしまうのかを知っているから。
強張った顔のままでいるを不思議そうに、けれども笑顔のまま男は尋ねた。

「どうしました、十六夜?なぜそんなにも厳しい表情でいるのです?」
(この口振りからして、十六夜姫と親しい間柄だったの……?)

は思い切って『あなたは誰ですか?』と問いかけるために口を開いた。が、





お兄様





の意志とは全く関係無しに、言葉が零れ出てしまった。

(な?!口が、勝手に……っ?!)

は思わず口元を両手で覆った。自分じゃない誰かが勝手に動かしたかのような、奇妙な感覚に背筋が冷たくなる。しかも、目の前にいる赤い目の男を見て『兄』と呼んだのである。しかも勝手に涙まで零れてきたではないか。大粒の涙がはらはらと頬を伝い、止まる気配がない。

(どうして?何?私、別に悲しくもなんともないのに……!)

が混乱しながらも必死で涙を袖で拭う。その姿を見て、男はとても満足そうに言った。

「ふふ……、この兄の顔を忘れてしまったのかと思いましたよ。けれどもその涙は、私と再会できた喜びの涙なのですね」
「兄……?私の?」

正確には十六夜の、ということになるのだが、男は嬉しそうに笑う。視界は歪んでしまっているが、口元からはと同じような牙が生えているのがわかる。

「そうですよ、十六夜。私はお前の兄……、そしてこの国を治める月陰の当主、新月丸です」

男―――新月丸は、まるで自分に酔っているかのようにうっとりと言った。
赤い目に鋭い牙を持つ新月丸は間違いなく十六夜と同じ赤眼病患者であり、十六夜の血縁者だ。
光陽国の城を襲わせ、忍術学園までも襲撃させた人間を前に、はキッと睨みつける。

「私を捕らえて、赤眼病の実験に使うつもりなんでしょう?」
「あはは、私はそんなつまらないことにお前を使ったりしませんよ」
「どういう意味?」
「私はね、赤眼病で完全に鬼となった鬼姫のお前が見たい」
「!」

新月丸の目が喜びから別の何かに変化した。それは、欲望と渇望。満たされない欲求に飢える目だ。は思わず身を震わせた。

「そう、鬼姫になったお前の姿を見たい。ただそれだけなのです。ついでにその辺の国を根絶やしにして、私たちを阻む者たちを全て殺したい。ただそれだけなのですよ、十六夜」

諸外国を潰し、人々を殺戮することを口にした新月丸。まるで何でも無いかのように語る姿を見て、は頭のてっぺんからつま先にかけて血がざぁっと引いていくのを感じた。
狂っている。この男は狂っている、と。

「ただ……それだけってそんなこと―――」
「十六夜、心配しないで良いのです。私もまた鬼と成り、共に血を啜り合いましょう。まずは、私たちを引き裂いた光陽国を潰しましょうね。ふふふ……、とても楽しみですよ」

は違う意味で泣きたくなってきた。

(月陰国の当主と話し合いで解決しようと思っていたのに、とてもじゃないけど話なんて出来ない……!)

終始笑顔を浮かべている新月丸は、冷静に見えてそうじゃない。既に赤眼病の症状の1つである精神崩壊が起きているとしか思えない。
あまりの出来事にはしばし放心してしまった。自分にも何かできると考えていたのに、新月丸の笑顔がそれを簡単に打ち砕いていく。
新月丸は『ああそうでした』と言い、懐から小さな布の袋を取り出した。

「十六夜にはさっそくコレを飲んでもらいましょう」
「それは……?」
「コレはお薬ですよ。鬼化を早めるお薬です。コレを飲めば、明日の朝になる前には鬼化できるでしょう」

反射的にが逃げようと立ち上がる。そんなものを飲まされてしまえば、完全に鬼化してしまう。そうなってしまえば本当に何も打つ手が無くなってしまうではないか。
しかし、の両腕をいとも簡単に捩じ上げた。それは控えていた伊作である。光を宿さない虚ろな目でを見つめていた。

「離して!!そんなもの、死んでも飲むものかッ!!」

必死になって暴れるだったが、伊作の手は緩まない。しっかりとの細い腕を拘束している。
新月丸は小さな子供をあやすように語りかけた。

「ああ、そういえば十六夜は昔から薬を飲むのが苦手でしたね。大丈夫ですよ、錠剤にしてありますからに苦くありません」

そう言いながら錠剤を袋から取り出し、伊作に投げる。伊作は空いている手でそれを受け取ると、の口元に押し込もうとした。けれどもはそうはさせまいと硬く唇を閉じ、歯を食いしばった。

(絶対に飲まない!絶対に飲まない!飲んだら、私が私でなくなってしまう……!!鬼になんてなりたくない!!)

は死に物狂いで拒絶した。すると、伊作はを後ろからではなく正面に向き合う形に体勢を整えた。そして右手での腕を掴んで引き寄せ、もう片方の手での視界を覆った。一瞬真っ暗になったことでの身体に力が抜ける。その瞬間を狙い、伊作はにいきなり口付けた。

「ん!?んぅ……っ!?」

恋人同士がするような甘いものではなく、酷く乱暴なものだった。口付けされて驚いたは口を少し開いてしまう。そこを狙って伊作はさらに深く口付ける。熱い舌がの口腔に入り込み、ぬるりと絡みつく。
逃れようとするが、伊作の胸を叩いたがびくともしない。
の舌が、あの錠剤と思わせる感触を捉えた。このまま押し込んで飲ませようとしているのだ。でも、は伊作の舌を思いきり噛むことは出来た。しかし、相手は友人たちの尊敬する6年生。そんな相手を傷つけることなどには出来なかった。

(それを狙って……ッ!)

酸欠になってきたはついに伊作の舌を許してしまい、錠剤をごくんと飲み込んでしまった。伊作が唇を離し、はその場に崩れ落ちた。はぁはぁと息を乱しながらも、新月丸を睨みつけた。

「嫌々言う子はこれくらいしないと飲みませんからね」
「卑怯者……!卑怯者!」

は悔しくて悔しくて唇を噛み締めた。瞳は潤み、今にもまた零れ落ちそうだ。

「あなただって同じ病気にかかっているじゃない!あなたは自分がおかしくなってしまうことを望んでいるの?」

歪む視界の中、新月丸は笑っていなかった。は、初めて新月丸が笑う以外の真面目な顔を目の当たりにした。に近づき、顎に手をかけて上を向かせる。は新月丸の目を真っ直ぐに睨みつけた。

「私の望み……。私との約束を、忘れたとは言わせませんよ。十六夜、そのためにお前はここに戻ってきたのですから」
「やく、そく……?」
「そうです。そのためならば、私はどんなことでもするんですよ」

再び不気味な笑みを浮かべた新月丸を見た途端、は視界にノイズが入るのを見た。そして瞳が暗い森を映し出し、背後からは誰かが追って来る足音までハッキリと聞こえてきた。
は驚いて首を激しく横に振った。その奇妙な光景を振り払うように。すると再び新月丸と視線が合う。

「どうかしましたか、十六夜?」
「………」

は新月丸を無視して黙る。

(今のは……、予知夢?だけど、予知夢は寝ているときにしか視ないはずなのに……?!)

は先ほどの暗い森を見たことがあった。しかも、何度も何度も夢の中で。あれはを苦しめている死の予言の一部だ。だが、普段は寝ているときにしかそれを視なかったはず。なぜ今ここでそれが視えたのだろう?
ある答えをは導き出した。

(予言が現実になる。それが近いってことなの……?)

確信はまだ無い。けれども今のが想像出来るのは、予言のときが確実に迫って来ているということだけ。

「では、十六夜には地下で少し待っていてもらいましょう。あ、薬を吐き出したりしてはいけませんよ?この子たちに見張らせます。キミたちは、十六夜が万が一吐き出したら即座に死になさい、良いですね」

条件を満たした折には死ねと命令され、6年生たちはそれぞれ頷いた。これもまたに対する脅しである。常に6年生たちの命を握らせる事で、の行動を制限させた。

「それでは十六夜、また会いましょうね」

はくの一に連れられて部屋を無言で後にする。けれども襖が閉じる瞬間、新月丸を殺しかねないほど強い視線を送った。

「ふふ……あの約束、果たしてくださいね」

新月丸の声はをただ不快にさせた。
しかし、この城にいる者たちはまだ知らなかった。既に、ある作戦が開始されていることを。





第十一夜 歪んだ国の狂った男