「蜂っ?!」
目の前に迫ってきた大きなスズメバチを追い払うため、は思い切り腕を振り上げた。だが、聞こえてきたのは腕を振りかぶった音ではなく、バサッという衣擦れの音。手元には、美しい刺繍が施された真っ白な布があった。どうやら、それが自分の顔にかけられていたらしい。そして、その布と同じ模様のされた掛け布団が自分の下半身を覆っていた。
自分に襲い掛かってきた蜂はどこにもいなかった。あの独特のブーンという重低音どころか、外を歩く人の声すら聞こえてこなかった。
「何だ……夢か」
目の前まで飛んできた蜂も、夢の中の一コマだったようだ。それにしても、蜂に襲われる夢を見るとはついていない。バクバクと鳴り続ける胸に手を当て、静まるのを待った。しかし、まだ頭は上手く働いていない。低血圧のは起きてから30分経たないとぼんやり感が抜けない。
蜂が夢だったということは理解できた。しかし、まだ理解できないことがある。今の自分の状況だ。の部屋より10倍は広いと思われる畳の部屋。襖には龍や蓮の花が金箔で飾られた襖。それから、自分を囲むように御簾が垂れている。大河ドラマに登場しそうな構造の建物の中に、は寝かされていたのだ。
服装を見てみれば、真っ白な絹の夜着を着ている。このような服は家に無かったはずだ。
(髪……)
は肩を滑る真っ黒な髪に気がついた。自分の髪はここまで長くないし、黒というより薄茶色だ。色素が薄い髪にちょっとしたコンプレックスを持っていた分、黒髪になった自分は少しだけ嬉しさが込み上げる。だが、いったいいつの間にこんな黒髪へ変貌したのかわからなかった。
腕も運動部で焼けた肌ではなく、陶器のような白さと滑らかさ。
(まるで別人にでもなったみたい)
鏡を覗いて見たくなる。本当に別人になっていたら、もっと気が動転するものだ。だが、の寝起きモードが継続しているため、特に慌てる様子はない。
見たことも無い純和風の部屋にポツンと寝かされていた上、別人のように姿が変ってしまっている。1番おかしいのは、わからないことだらけの状況を分析するために1番必要であるはずの最近の記憶が無いという事だ。思い出そうとすると、霞がかかったようにぼやけてしまう。思い出せずとも想像はできる。きっとごく普通に高校へ通っていたはずだ。
記憶が一部消えてしまっているというのは不安を覚える。もしかしたら、ここに連れて来られる途中で頭をぶつけたのかもしれない。だとすれば、これは誘拐事件ではないだろうか?
(お金に困っているような環境とは思えないし……)
こんな屋敷に自分を連れて来るのだから、身代金が目的とは思えない。
では、なぜ?
「?」
ドタドタという騒々しい音が、襖の向こうから聞こえてきた。重い足音が襖の前でピタリと止まり、今度は先ほどとは打って変わって静かに襖が左右に開いた。
これでやっと話ができる人に会える。そう思ったは部屋に入ってきた人物に、今度こそ目が丸くなった。その男はたっぷりとした顎鬚を持ち、額や頬には深い皺が見て取れる。地味な直垂を着ている。が最も注目したのが、男の結っている白髪交じりの髷だった。
現代に髷を結っている人間などどこにもいない。これではまるで自分が過去へ来てしまったように錯覚してしまう。しかし、そんな夢みたいなことが起きるはずがない。
「えーっと、に、日光江戸村?!」
ちょん髷のパフォーマンスといえば、が知っているのは日光江戸村くらいだ。いつの間に自分は栃木県に来てしまったのだろう?今度こそ頭の中はパニック状態だ。
の悲鳴に似た声は全く老人には聞こえていないようで、ただ警戒するを見つめている。視線で穴が開きそうなくらいに。
「十六夜様!!姫様!!」
を見るなりブルブル震えだしたかと思うと、泣き出しそうな声で叫び、勢い良く額を畳みに擦り付けるような土下座をした。つるりと禿げた頭がこちらに向けられる。
(いざよい……?ひめ……?)
いったい誰と勘違いしているんだろうか?ちょん髷の老人は歓喜に打ち震えているようだ。土下座をしながらむせび泣いている。
「よくぞ……よくぞ、黄泉の淵よりお戻りになられました!この彦兵衛、姫様のことを思うと胸が張り裂ける想いでございました……っ!」
「ええ?!あのー、えっと、私は姫とかそんなものじゃ……」
何だかよくわからないが、この彦兵衛と名乗る老人はと十六夜という姫を勘違いしているらしい。あまりにも喜んでいるようなので、は自分が十六夜とは別の人間である事を説明し難い。けれども、違うものは違うのだ。
「あのですね……、私は十六夜とかいうお姫様じゃないんですよ」
ポリポリと頭を掻きながらは申し出た。そうだ、自分は現代に生きる女子高生なのだ。こんな着物を着せられていたとしても、それは代わりようがない事実。
彦兵衛はパッと顔を上げてまじまじとの顔を見つめたが、安心したように微笑んだ。
「ええ、わかっておりますとも!姫様は最期に『次に目覚めたときは、記憶が混乱していると思います』とおっしゃったではありませんか」
「はぁ……?」
「ご安心ください。わしがわからないことを何でもお教え致します故……!」
「だから、私は姫じゃありません!」
「お可哀想に姫様。まだお心が定かではないのですね。さぁ、鏡をお持ちしましたので、どうぞお顔をご覧になってください」
彦兵衛は枕元に置かれた金と朱色の箱から真っ黒な漆塗りの豪華な鏡を差し出した。は首を傾げながら同じ漆塗りの蓋を取る。その下には、磨きぬかれた月のように美しい鏡があった。
「え……?」
鏡に映ったその姿を見て愕然とする。墨を落としたように黒髪と同じパッチリとした黒い目、陶磁器のように白い肌と桜色の唇をした美少女がいるではないか。
「だ、誰……?」
別人。自分とは全く違う人間になっていた。
学園長の大川平次渦正は、忍務から戻った土井半助から密書を受け取った。土井は部屋から退室しようと立ち上がったのだが、学園長の声によって制された。
「待ちなさい、土井先生」
「学園長先生?」
「恐らくこれは私たち忍者にも大きく関わってくる話じゃよ」
再び膝を折った土井を見ると、学園長は厳重に封をされた箱の紐を解く。少し厚めの折りたたまれた文が入っていた。広げると墨の匂いが漂ってくる。
土井はいつになく神妙な顔で密書に目を通す学園長に緊張した。年長者であっても学園長の気まぐれさに誰も緊張などしない。だが、今回は空気が違っていた。
「ふむ……」
暫くして、学園長は密書に視線を落としながら土井にこう言った。
「近々、大きな戦が起きるやもしれん」
「戦……」
今は戦国の世であり、戦が起きない日は無いと言われている。戦など珍しいものでもなかったが、多くの血が流れるのは目に見えている。その戦を忍者が食い物にしていることも。
相変わらず視線を綴られた文字に向けている学園長は、眉間に皺を寄せた。
「これは、古い知り合いの忍者の弟子が送ってきたものでな。どうやら、あやつの住む地方を統べる2つの国の内の1つで、不穏な動きを見せているようなのじゃ」
「2つの国、と言いますと?」
「【
月陰国】と【
光陽国】」
「そ、それは……?本当ですか?!」
2つの国名を聞いた途端、土井の顔色が変った。土井はこの国々へ行ったことがあるわけじゃない。だが、月陰国と光陽国には有名な神話的伝説が残されているのである。
「そうじゃ。まだ他の国は勘付いておらんようじゃが、時間の問題じゃろう。真に由々しき事態じゃ」
「そうですね……。忍術学園でも警戒に当たらないと」
大きな戦は関係のない国や地方にも飛び火していく。忍術学園もその範囲内に入ると予想されるので、土井は愛する生徒たちのことを想うと胸が痛んだ。
読み終えた学園長は密書を箱に戻した。1つ咳払いをすると、土井を見たままでワントーン明るい声で言った。
「さて、そういうわじゃけから竹谷」
「うげっ?!」
不意を突かれた様な声と同時に、学園長の座る上座の天井板がガタンと揺れた。天井に隠れてこっそり話を盗み聞きしていた竹谷だ。
「あはははは。気づいていたんですが、学園長先生……」
「当たり前じゃ。天井から土の臭いがするわけなかろう」
「あ」
竹谷は先ほどまで生物委員として虫や小動物たちのいる小屋にいたのだ。そのときについた土が、まだ足の裏についていたことをすっかり忘れていた。竹谷は自分の失態を恥じつつも、学園長の鋭さに感心した。
土井も竹谷が隠れていたことは知っていたようだが、いずれ伝わることだと諦めていたようだ。
「竹谷、5年にもなって初歩的なミスをするな!後で校庭を10周してもらうぞ」
「ええ?!そんな……!」
「20周にされたいのか?」
「まぁまぁ土井先生。それより、竹谷には頼みたいことがあるんじゃ」
「頼みたいことですか?」
天井に隠れていた竹谷がしゅたっと学園長室に降り立つ。手入れのされていないボサボサの髪がその動きに合わせて踊る。そのまま土井に並んで正座をし、学園長の話に耳を傾ける。
「竹谷、お前には光陽国へ行ってもらうぞ」
夜、風呂から上がってサッパリした久々知は自室に戻ってきた。自室である長屋の隅には、膝を抱えて暗いオーラを放つ竹谷がいた。授業後にいなくなったと思ったら、夕食にも顔を出さなかったので気にかけていたところだ。
「八左ヱ門、何隅っこに寄っているんだよ。お前の体育座りキモいんだから止めてくれ」
「酷っ!?それが暗くなってる友にかける言葉か!?」
ガバッと顔を上げて久々知に怒りを露わにする竹谷は、まるで小さな子供のように泣きそうだった。久々知は溜め息を吐きながら、長い髪の水分を手拭いで拭く。そのまま座ると『で?』と声をかけた。
「何があったんだよ?」
「忍務を学園長に言い付かったんだよ」
「オレにそんなこと話しても良いのか?」
忍務といえば極秘が基本。
竹谷は胡坐をかいた。
「いーんだよ。だって相棒には兵助を指名したから」
「はぁ?!オレを巻き込むなよ。忍務くらい、自分でこなせ」
「冷たいこと言うなって!……今回の忍務はなんか特殊っぽい感じがしてさ」
「特殊?」
嫌そうにしていた久々知の興味を引いたようで、目つきが鋭く変った。
「お前、光陽国って知ってるか?」
「ああ。あの鬼を退治したっていう一族が治めてる国だろ?」
【光陽国】とは、遥か昔に鬼が支配していた【月陰国】の鬼を退治したという伝説が残されている国だ。月陰国と同じだけの古い歴史を持ち、あまり国土は大きくないが豊かな自然と土壌がある。
一方、月陰国は、今でも鬼の血を受け継ぐ者が統治していると噂されている。城は鬼が支配していた当時のものだとされており、通称【鬼の城】と呼ばれて人々に恐れられている。
現在も月陰国とは対立関係にあり、その仲が拗れたときにはどちらかの国が子供を養子に出している。事実上の人質というわけだ。
そして現在、光陽国には月陰国からの子供が養子に出されており、姫として迎えられている。その姫も鬼の血を引いているとされ、通称【鬼姫】と呼ばれている。一般的に知られているのはこの程度の事だ。
「で、忍務っていうのはその鬼姫の護衛なんだよ」
「護衛?誰かに命を狙われてるのか?」
「学園長先生によれば、知り合いの忍者の弟子がその2つの国の近くに住んでいるみたいでな。密書によると最近月陰国の動きが怪しいんだと」
「戦が始まるのか?」
「いや、まだそこまでは確信できないらしいぜ。だけど、もし戦が始まるとするなら、切っ掛けが必要になってくる」
「人質、鬼姫の暗殺か……」
「そうなるな。鬼姫が光陽国で殺された事になれば、向こうも動きやすいだろう」
和議の条件として送られた月陰国の姫を光陽国側が殺したと見せかければ、戦を始める好機となるだろう。
「八左ヱ門、護衛なんて前にもやった事あるだろ?何をびびってるんだよ」
「だって鬼だぜ?!あの噂に名高い鬼姫とあっちゃ腰も引けるだろ……。呪いかけられたらどうするんだよ?!本当に鬼みたいな形相してて角が生えてるかも?!」
「アホ!オレたち忍たまは忍術という科学を武器にしてるんだから、そんな迷信を信じるなよ。だいたい、味方であるはずのオレたちに呪いかけてどうするんだよ」
「あ、そうか。……でも!火の無いところに煙は立たない、だろ?」
「…………」
そう言われると久々知も黙ってしまう。噂とは、何割かの真実が混ざって出来るものだ。
久々知はイライラしたように濡れた髪を掻いた。
「わかったよ!行けば良いんだろう?」
「兵ちゃんありがと!!」
「兵ちゃんって呼ぶな鬱陶しい!これじゃ、鬼姫の護衛だか八左ヱ門の護衛だかわからないな……」
嬉々として笑顔になった竹谷を呆れたように見つめた。ふと、いつ出発するのかを聞いていないことに気がつく。
「なぁ、その護衛忍務ってのはいつなんだ?」
「7日後」
「……問題は委員会だよな」
「だなー」
火薬委員会委員長代理である久々知の下には、4年生の斉藤タカ丸がいる。しかし、4年生と言っても編入してきたばかりで忍術にいたっては、1年生にも劣る。正直なところ頼りにはならない。
生物委員会委員長代理である竹谷は1年生が多く、竹谷の直ぐ下は3年生だ。このメンバーで脱走した毒虫共を集めるのは、大変な労力が必要である。
「学園長先生、もうちょっと考えて欲しいもんだな」
「まったくだ!」
2人は、1週間後を想像すると頭がキリキリ痛んだ。
第一夜 目覚めの時が訪れる