久々知編3


勘右衛門が布団を仕舞って朝の支度をしていると、音もなく戸が開いた。眩しい日の光を背に現れたのは、忍務帰りの久々知だった。
勘右衛門は久々知に視線を向ける事も無く、上着に袖を通して準備しておいた水の入った竹筒をポンと投げる。受け取った久々知は、片手でそれを掴み、水を一気に飲み干した。

「おかえり。今日は一段と遅かったね」
「ああ」
「もう寝る?午前中は休み取ってるんでしょ?」
「いや、向こうで休憩してきたから大丈夫だ。あまり授業には遅れたくない」
「とか何とか言って、遅れた試しがないだろー」
「……確かに」
「今更気付いたの?」

久々知は私服を脱いで、さっさと制服に着替えた。
勘右衛門はそんな久々知の様子を窺う。

(兵助は真面目だから無理する事多いんだけど……、確かに今日は疲れていないみたいだな。でも、忍務先で休むなんて珍しい事もあるもんだ)

勘右衛門は久々知がどんな忍務を受けているかを知らないし、知りたいとも思わない。忍者を目指すが故、忍務の話をする事はご法度だからだ。忍務が終わった後の久々知は、大抵学園で休息を取る。特に夜に請け負った忍務は身体への負担が大きい。部屋に戻って死んだように眠るときもある。それは、忍務先が眠るに適さない危険な場所だからだ。
しかし、今日の久々知は違っていた。薄らと出来るはずのクマも無く、特に突かれている様子は見られない。

「何か今日は珍しいね」
「?」
「兵助、とりあえずまだ授業までに時間あるんだから、お風呂入ってきなよ。今日は6年生も夜に実習だったから、きっともう用意されてると思うし」
「ああ、そうする。じゃあまたな、勘右衛門」
「うん」

久々知は手拭いだけを懐に入れて部屋を出た。ひらひらと手を振っていた勘右衛門は、その手をきゅっと握って降ろす。

(最近の兵助はすごく不機嫌な顔をしてたのに、今朝はどういうわけか……機嫌が良いとまではいかないけど、普通に戻った感じすんなぁ)

廊下に出た久々知は、久しぶりに太陽が眩しく無く感じた。
痘痕だらけの大名の息子を見送ったあの日から、久々知はの部屋で眠る事が度々あるようになった。情事の後という事もあり、疲れているという理由もあるが、それだけではない。以前よりも、遊廓という場所に嫌悪感を抱かなくなったのである。それは久々知自身にとって驚くべき変化だった。

(このままオレに情を移させれば良い……。そうすれば、もっと忍務がやり易くなる。ただ、それだけの事だ)

暗殺対象者に情を持たせて殺害の機会を窺う。忍者が暗殺するときに用いる手段の1つだ。久々知はそれを使っているに過ぎない。

(だけど、どうしてだ……?まるで……それを自分に言い聞かせているような気がして―――)
「おい、兵助!」
「!?」

いきなり腕を掴まれて、久々知の身体は大きく傾いた。足を踏ん張り、ハッとして腕を掴んだ相手を見れば、見知った顔があった。竹谷である。その直ぐ後ろには三郎がいた。2人は久々知の驚き様にポカンとしてしまう。

「何ぼけ〜〜っとしてんだよ、らしくない」
「あ、ああ、お前たちか。オレに何か用か?」

三郎が久々知の肩を掴んでからかうように言った。

「ハチが年上の女に贈り物がしたいんだってよ」
「贈り物じゃない、お礼だ!!」
「物で礼をするなら同じことだろう?」
「お前が言うと何か含みがあるように思えてならねぇんだよ」
「八左ヱ門が……?」

意外だった。竹谷が異性に物を贈ろうとするというのは、初めて聞く。
竹谷は三郎にからかわれて怒りを露わにしたが、照れているのか頬が少し赤く染まっている。こんな反応をする竹谷を見るのもまた初めての事だった。

「世話になった人がいるんだよ。だから何かお礼がしたいんだ」

だが、既に久々知の心はそこに無かった。

「年上の……女……」

脳裏に浮かんでくるのは、自分の名前を嬉しそうに呼ぶ女。艶やかな中に純粋さを秘めた女の顔が、久々知の頭の中を塗り替えていく。

(あの人なら、何を貰ったら喜ぶんだろう……?)

そう思った途端、バリンとガラスが割れるような感覚がした。

「兵助?」
「あ……。いや、何でもない。女なら簪でもやれば良いじゃないか」
「何イライラしてんだよ?」

竹谷の言う通り、久々知は自分自身に苛立ちを感じていた。の事を思い出し、胸の内にふわふわとした感情を一瞬でも抱いてしまった事に対し、怒りさえ湧いてくる。

(今のは……?オレは何を考えた?少なくても、暗殺対象に抱く気持ちじゃないだろう……!)

は近い内に死ぬ運命にある。久々知の手で、その命を絶つ。絶たれる。
余計な事を考えてはいけない。

「そんな簡単に言うなって。何かあるだろ?」

久々知の内心に気付かない竹谷は、久々知に再び意見を求めてきた。
とにかく今はここから早く離れ、余計な事を考えたくなかった久々知は、とにかく思いつく意見を口にした。

「……大人の女性なら、香はどうだ?年上の人なら香炉の1つくらい持っているだろう。相手に合うようなのを選んで渡せば良い。……まぁ、相手も竹谷のセンスには諦めているだろうし、大丈夫だ」
「何だよそれ?!」
「あっはっはっはっ!兵助は上手なことを言うな」
「三郎てめぇいい加減にしろよ!」
「おいおい、私が言ったんじゃないぞ?」
「あ、それもそうか……」
「やっぱりバカだな、ハチは」
「よぉし、歯を喰いしばれよ」
「やなこった」

じゃれ合っている三郎と竹谷から離れようとしたとき、竹谷が慌てて呼び止めた。

「ありがとう兵助!香りは梅花にする」
「梅花?少々子供っぽくないか?」

三郎がそう言うと、竹谷は首を横に振って否定する。

「そんなことねぇよ。あの人に良く似合うと思うし」

竹谷の言うあの人が誰なのかはわからない。けれども竹谷はあの人を想っているのか、とても嬉しそうに笑った。目をキラキラと輝かせているその様子では、本当に大切なのだろう。
ふと久々知は思った。
の部屋にも、美しい装飾がされた青磁の香炉があった。香炉からはほんのりと香る程度の香が焚かれていた。ひっそりとであるが、その香りに気付くと癒される。に似た香りだと思った。

(……きっと、菊が似合う)

にはもっと自己主張出来る香りが似合う。けれども派手ではなく、あくまでも品良く香るもの。つんとした後に、すっと馴染む様な優しい菊花が良いと考えた。

「兵助?何だかさっきからお前変だぞ?」

ようやく自分がぼんやりしていたと気付いて、久々知は一瞬焦った。

「いや……、何でもない。オレは次授業だから行く。勘右衛門を待たせたままだ」

そうだ。勘右衛門が待っている。早く風呂に入って間に合わせなければならない。
とにかく早く忘れたくて、長い黒髪を翻して風呂場へと足を運ぶ。

「あ、ああ。またな」

そう背中に投げかけた竹谷に、久々知は嫉妬してしまいそうだった。同時に、自分の気持ちを素直に表現する術を知らない彼にとって、感情を上手く吐露出来る竹谷を羨ましく感じた。





















(―――で、オレが今持っているこの香は何だあああ〜〜……!?)

遊廓の真っ赤な大門の下で、久々知は自分が今手にしている小さな包みに対して自問自答していた。
遊廓の周辺には、天女のご機嫌取りにと贈り物用の見世がずらりと並んでいる。特に花魁たちは目が肥えているため、普通の物では喜ばない。だからこそ、花魁たちにも気に入るような高級品や細かく雅な細工がされた物ばかりが置かれている。

(うっかり見世の前で声を掛けられ、香を買わされてしまっただけだ……。そう、これは別にオレの意思で買ったわけじゃない。成り行きなんだ……!)

確かに見世の前で声を掛けられたまでは合っている。しかし、実際は久々知が自分の鼻で香りを選別した菊花の香である。久々知がイメージしているの香りと同じもの、だ。
自分でも驚くほど自然な流れで買ってしまった。そして買った理由が良くわからない。
久々知はに会う事を迷ったが、ここまで来たのだから結局華屋へ入るしかなかった。
通された部屋は相変わらずで、畳に上質な緋毛氈が敷かれ、椿の透かしが美しい雪洞に柔らかな光りが灯っている。赤い塗り物の上質なお椀には、食堂のおばちゃんにも引けを取らない料理が乗っており、酒も用意されていた。
だが、普段とは違う個所があった。

「!」

それは―――

「こんばんは、兵助様。良くお越しくんなました」

すっと金箔模様が美しい襖が開き、鮮血のように鮮やかな唇を弧にしては顔を伏せって挨拶を述べる。

「顔を上げてください」

それが合図となり、は微笑みを湛えて久々知の傍へ座る。絹擦れの音が、妙に際立つ瞬間だ。

「今宵もお会い出来て嬉しいでありんす」

久々知はではなく部屋の隅に視線を移した。そこには青磁の香炉が置かれている。半透明の煙が細く伸びていた。

「…………」
「どうかしたんだすかえ?」
「……いつもと違う香ですね」

珍しく久々知がぶっきらぼうに言うと、パッと花が咲く様には笑った。普段見せる艶っぽいものではなく、久々知と同年代のような無邪気さがそこにある。

「あい。これはお大尽様があちきにとくださった香で、梅花の香でありんすえ。いっそ素敵なんで、ここのとこではこなたの香を焚いているのでござりんす」
「梅花の……」
「あちきに似合うとおっしゃってくださいんした」

普段と違う点。それは、この部屋の香りだった。が言う様に、甘い梅花の香りがふんわりと漂っている。
は大人の色気を感じさせる美女だ。ならば、に似合う香はもっと違う物であるはず。だが、時折は幼子のように笑う事がある。その純粋さを香に詰めたかのように感じられた。

(贈り主は、そんなさんを知っている)





ありがとう兵助!香りは梅花にする。





梅花?少々子供っぽくないか?





そんなことねぇよ。あの人に良く似合うと思うし。






そんな事はありえない。
けれども、久々知の胸は内がざわつく。

さん」
「あい?」

久々知は懐から小さな包みを差し出した。突然の事に戸惑っていると、に包みをずいっと更に差し出す。

「コレにしてください」
「……もしかして、香でありんすか?あちきに?」
「梅花は……好きじゃありませんから」
「けんど、受け取る理由が見つかりんせん」
「……お礼ですよ。部屋で休ませてくれたお礼です。あなたが気にする事ありません」

は久々知の言葉に唖然としていた。黒曜石のような瞳を大きく見開いて瞬かせる。
なかなか受け取ろうとしないを余所に、久々知は青磁の香炉を持ち上げる。我に返ったが久々知を呼び止めた。

「兵助様、あちきはお礼なんて―――」
「っ!この人からの贈り物は受け取って、オレからは受け取ってくれないんですか?」
「?!」

突然久々知が静かに、けれども感情的な事を口走り、の肩がびくりと震える。しまったと思った瞬間、久々知の手から香炉が滑り落ちた。香炉の蓋が外れ、中に入っていた香が床に飛び散って砕けた。濃い香りが一気に部屋に満ちる。
自分の失態に、久々知は声も出なかった。ただ茫然とその様子を見つめて固まっている。

(…………)

思考も完全に停止状態。
だけは普段の様子を崩さず、久々知が落とした包みをすっと拾い上げた。丁寧に包装されたそれを開いて、出て来た香り豊かな菊花に目を細める。
何も言えずにいる久々知の方を向くと、満面の笑顔でこう言った。

「兵助様、良い香りでおす。いっそ気に入りんした。ありがたく頂戴しんす」
「あ……」
「お部屋は変えて頂きんしょう。申し訳ありんせんが、僅かお待ちくんなまし」
「…………」

梅花の香について話したときのは、まるで宝を貰ったかのように喜んでいた。とても大切にしている事がわかる顔だった。
自由が制限されている女郎たちの、ささやかな喜びだったかもしれないというのに。
妙な駄々を捏ねてを困惑させたあげく、その宝台無しにしてしまったというのに、は久々知を責めない。今とても恥ずべき行為をした久々知の顔を、は見ない。

さん」

襖を半分開けたところで、久々知はの名を呼ぶ。格好悪い顔をしていると自覚していたが、久々知はの華奢な背中に向かって口を開いた。

「その、済みませんでした……」

は肩越しに振り返ってにこりと笑う。

「はて……、何の事でございんしょう?」

そう言って、は部屋を出て行った。
残された久々知の足元に転がる香炉と、粉々に割れた香。
香は付けると、自分には香りが分かり難いものだ。だが、この惨事にもう香りを隠す事など出来ない状況だった。
自分にも感じられるほどに香りが充満している。もし隠す手立てがあるとすれば、自ら鼻を摘まんで記憶の隅に追いやる事だけだろう。

(ならば、コレは……どうすれば良い……?)

といると、蓋が出来ない香炉に香を入れてしまったように感じてならない。
いつかあの白い首に手をかけるとき、久々知は梅花を菊花で隠せるのだろうか?
嗅いだ事もない香りが、自分でもわかるくらいに強烈で、どうしようも無かった。